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【中編】 レンズと具現の扉-④

7 踊り場で語らう

 朝九時半。
 二人が扉の中へ入って行くのを見届けた男性は、書庫の入口の戸を内側からノックする音を聞いて振り向いた。戸の前には、身体の輪郭がはっきりと表れる黒い洋服を纏った女性がいた。

 ハイヒールを履いた色白い脚を交差させて立ち、入口の戸に腕を組んで凭れ、微笑んでいた。

「やあ。前回は散々だったね」男性は立ち上がった。「まさか、紅茶を淹れてすぐに戻ってくるとは思わなかったよ」

 女性は、男性が近づくと同時に立ち直り、扉の取っ手に手を掛けた。

「仕方ないわ。短編だとは誰も思わないじゃない」戸を開いた。「たまには踊り場で話さない? 紅茶もいいけど、今日は前回の分も兼ねて、お話しましょ」

 女性は戸を開いて男性へ先に出るよう促したが、男性は戸を押さえ、先に女性が出るように左手で、お先にどうぞ。と語るように示した。

 女性は頭を軽く下げ、優雅に踊場へ出た。

 男性が女性に好意を示している。どこが一番と言われると、それは断定できない。理由として好きな所が複数あるからである。

 その一つが歩く仕草。一歩一歩歩くとき、左足が右足の前へ少し立ち、右足も同様に少し立つ。舞台女優が富豪の女性を真似、左を右の前へ、右を左の前へ踏み出す、極端な美しさを前面に押し出した振る舞いを見せるのではない。
 控えめで、それでいて自然な歩き方。極端に腰が振られることも無く、手も、指先まで気を使っているかと思えるほどに、指の揃い具合、力の抜け具合から形作られる素振り。それが男性を魅了させた。

 動き、振る舞い、女性としての身体の輪郭、顔立ち。外見による彼女の特徴も気に入っているが、彼女との会話は特に気に入っている。

 屋敷の外で日頃生活を送っていると当然、我が物顔でずんずんと、足を前へだして歩く女性。所構わず大声で、声を静めて、悪口や情報交換などの会話をする。顔もその雰囲気に見合っているのか、目が細かったり、大きく開いているが人相から、笑顔がわざとらしいと伺える女性が多い。

 男性は、女性の人相を見る事に長けている。けしてその道の学問に励んでいるのではないが、何故か何ともない日常の人相から第一印象を決め、後は一つ一つの行動の際に表れる人相変化でその女性の全容を決めてしまう。
 これは、彼の特異体質ともいうべき才能ではあるが、本人は生まれついてこの体質になったのではない。ガサツな女性の多い空間での生活が続いた時期があり、その時にその才能が開花した。

 一部の知人からはこの才能を頼られたりするが、ただ偏見で物事を観ているとさえ思われることもよくある。

 男性が女性と出会ったのは偶然であった。

 元々幽霊が出現する噂のあった屋敷にある、具現の扉の管理を任されることとなった。
 それは地域生活における役目の一つであった。
 管理は簡単な掃除と、時折必要とされる方々への対応。その他、細かな雑用を済ませる。
 計一時間程度で済む役目を、期間にして一年。前回の担当者から譲り受けた。

 前任者が怠けていたのか、殆どの人が怠けている習慣が続いたのか、男性が掃除に来た初日、うんざりするほどに汚れに塗れていた。
 始めは男性も怠けようとしていたが、扉のある部屋だけでもと、掃除に励んだ。

 そうこうしている内に、初の具現の扉を求める女性が現れた。その対応を済ませ、扉に入るのを確認した。
 実は男性も扉を見た時、中身が気になって開けようとしたが、壁に埋まっているかのようにびくともしなかった。だから最初の女性が難なく開けた時には、驚いて傍観していた。

 一人目の女性が入り終わると、踊り場から足音が聞え、再び客が来たものと思い踊り場へ向かった。そして男性は女性と対面を迎え、その容姿、顔立ち、自然な微笑みに一目見た時から魅かれ、言葉を失うという事を初めて経験した。
 女性に声をかけられて、初めて自分が一目惚れをしていた事に気づき、訳も分からず、しどろもどろに対応した。

「ここへ来るといつも外を見るけど、同じ所からだけど何かあるのかい?」

 今では女性に見合うように、出来うる限り紳士的に振る舞えるようになった。

「いつも同じじゃないわ? 前回は確か春の終わり。その前は雪積もる冬。今は……秋と言うには残暑がまだ残ってる。葉もそれ程枯れてないわね」
「季節の移り変わりを愉しんでいる。と?」

 日差しは逆方向から射しているため、窓際の風景は日陰の中からの光景。
 窓から陽光は注がないが、日陰の中から外を眺める女性の、色白い肌に、みずみずしくも思える、透き通ってしまいそうな印象を与えた。

「貴方から見て、私はどの季節が似合いそう?」
 男性は考える素振りを露わにせず即答した。
「個人的には秋が断然似合う。なんていうかな……君の容姿と肌は落ち着いた光景が一番似合ってる。落葉する林の中を歩く姿なんか、想像するだけで魅力的だ」
「そう……。不思議ね、他人から見て似合う季節と、私が好む季節は全く別なのね。私は夏が好き。でも日差しが照り付ける浜辺とかじゃないの」
「意外だな。では、夏のどういった所が好きなんだい?」
「好きなのは、嵐の前の、曇天漂い風が吹く時」
「それって、夏じゃなくても、他の季節でもありえそうだけど」
「だけど夏。一番は夏の終わりの、季節風が関連した嵐が一番心地いい」

 変わったところにも、男性は魅力を抱き、衣服を靡かせるほどの風が吹いている曇天の浜辺、丘の上に立っている女性の姿を想像すると、秋の風景同様、似合っている姿を描ける。

 男性の、彼女に抱いた恋心は、一種の病気に近いものとなっている。

「ところで、今回はどうやら長編の様だけど、扉での話が長くなると、その人の終わりが近くなるわ。そうなった場合、貴方はどうするの?」
「勿論、次の人が訪れるまで待つよ」

 女性は物悲しそうに外を眺め、一つ瞬きをゆっくりすると、同時に顔を男性へ向け、男性と目を合わせた。

「今のトルノスでそんなことをしていたら近い将来、貴方は私を待つだけの御爺さんになってしまう」
「しかし、君と会えるのはここだけだ。しかも、具現の扉に誰かが入った時だけとなる」

 とはいえ、そんな僅かな間だけ待たれても、普通の人間である男性が彼女に人生を費やすには、あまりにも若すぎる。

「貴方、もしかして私を幽霊か何かと誤解してる?」

 男性は、初めて一時を過ごした際に実感した。彼女は幽霊の類であると。

「今から話す事を覚えていて」

 女性は、男性へ今後の事を語り、最後の他愛ない会話の最中、突如として消えた。

8 街中の影

 バルドが踊り場の窓際に立つ男性の傍に寄ると、男性は別の事に気を取られたかのように窓から外を眺めていた。
 バルドに気づくと、おかえり。と一言述べ、ふと刑事の存在がいない事に気づいたが、何かしらの経緯で彼だけ崩壊に巻き込まれたのだと察した。
 当然、男性も具現の扉から帰らない者は、誰であろうと崩壊に巻き込まれた事が原因だと知っている。それは、扉の向こうで人が死ぬことは無く、自殺も踏まえて命を失う事が出来ない場所でもあるからであった。

 バルドは休憩することなく次の世界へ行くことにした。例え刑事がいなかろうと、もう自分でこうなった原因を突き止めなければならない一心が、身体を扉の中へ向かわせた。

 既に小説の世界へ行くことにも馴れ、暗闇から世界への移り変わりにも動揺する事も無くなった。

 次に到着した先は、外壁の色が黄色や白色の土壁の家。赤褐色の煉瓦で造った家。中には石を積み上げて造った円柱の壁に、屋根が円錐の家らしき建物。
 そんな様々な家屋が密集する街へと降り立った。

 家屋と家屋の間を通る道は全てが石畳であり、時間帯は空の色、日の差し具合から昼だと思われるが、今までは感じなかった筈の事を実感した。それはこの世界では夏日のように暑く、蝉の声も聞こえる。

 現実世界では秋口であった為、布は薄い長袖の上着を羽織っていることもあって、この世界では暑くて半袖シャツ姿になり、上着は手で持つことも面倒で、長袖の部分を腰巻の様に撒いて結んだ。

 さて。と、何が起こるか構えてはみたものの、奇妙な動きをする人間も、鍛錬に励む道化師も現れない。それどころか、人っ子一人おらず、バルドの背丈から覗ける民家の部屋の中には人もいなければ、生活をしている音も聞こえない。しかし所々で見られる食卓には、食事が備えられ、後は家主家族が揃えば食事風景が完成する。

 額にも、汗が滲み、シャツも濡れて肌に張り付く。
 それ程歩き回っても誰にも会わない。
 何より奇妙な現象一つ遭遇しない。

 疲れたバルドは街の広場の、家屋の影の罹る生垣に腰掛け休憩した。
 ただひたすら蝉の声に、鬱蒼とした纏わりつくような暑さ。それは歩いた体温か、気温か。どちらにしろ、暫くは歩く気になれない。

 広場を見渡すと、やはり統一しない家屋が、まばらに建っている光景がどうも違和感を抱いてしまう。
 バルドの知っている街の住居区の家屋は、木造なら木造。土壁なら土壁。など、大体が同じ材質を元に建設されている事が多く、たまに異種の材質で立てた家屋が密集する街もあるが、それでも直線の通路沿いに並び、等間隔の敷地の余白が施され、庭として機能している。

 この街は家屋の向きがまばらで、石畳の通路も曲がり道が多い。
 一体、この小説はどのような世界観で、どんな筋書の物語なのか。
 とりあえず分かる事は、普通の物語ではなく、奇妙な街へ辿り着き、何かしら可笑しな事件に遭遇し、解決し、旅立つ。
 バルドはそんな想像をしつつ、周囲の変化した所を探した。すると、ある一画の壁に、明らかに人影と思しき黒い物が、さっと壁を伝って建物の奥へ隠れるように消えた。

 不気味な人間。謎の道化師。色々恐ろしい事は体験している。
 いまさら影に怯えるわけにはいかない。何よりこんな晴れ晴れとした夏の昼間に、何を恐れる道理があるか。

 改めて意気込み、バルドは影を見失わないよう、走って追いかけた。
 影が入って行った家屋同士の間を目指すと、影の姿は無かったが、そこからは曲道だが一直線である為、その道を走った。
 突き当りに到達すると、左の家屋の壁にあの人影が現れ、それを追いかけた。

 何度も曲がり角や、別れ道に差し掛かると、まるで追いかけてほしいと言わんばかりに影が現れ、走って逃げる。
 やがて影の現れる周期が頻繁となり、やがてバルドは街を抜けた。

 抜けた先、行き着いた場所は、円形の土台に作り上げた石畳の床が、街の出口から床が割れ、遠景の部分が海の中へ浸かった場所であった。
 変わった建て方をした家屋の次は、突然の海。
 砂は無いが、石畳の床の浜。柔らかに聞こえる小波。
 不自然で、不思議ではあるが、何処か心地よくなる風景である。

 影は波打ち際に立っており、服装、背格好から、十代前半の少女の様に見受けられた。
「君は一体何者だ?」
 訊くと、影は頭の頂点を左手で撫でた。
「何者? まあ、そう訊かれても、私はこれと言った存在ではありませんよ」
 影から声がしようとも、口の部分は真っ黒い影のままである。

 こういった存在? 自身が影で存在している事を指しているのか?

「君もレンズによって出来た存在か?」
 今度は、左手を顎に当て、考え込む姿を見せている。
「ああ~。そこまでは知ってるんですよね。けどね、私が出来ることは、貴方の抱えている謎の解決に至る情報を教える事が出来ないのですよ」
「どうして……。だって、前の人は、淡々と語っていた。君もレンズに関係する存在なら、あの人のように何かを教えてくれるんじゃないのか? 何より、君は影のままなのか?」
「あ、まずそこですね」
 影は、足元から風が煙を払っていくように、黒い靄のように揺らめく影を飛ばした。
「この年齢層で見合った脇役を起用しましたが、中々の少女でしょ?」
 現れたのは、程よく焼けた肌に明るい表情の、元気が売りと言わんばかりの印象を与える見た目の少女である。

「脇役を起用?」
「そうですよ。小説世界でレンズが干渉するには、その世界の主人公か脇役を用いなければ、姿を現せることが出来ないのですよ。この小説には、影で魅せる部分がありますので、貴方の前に現れるのに、影を使用させて頂きました。……趣向としては面白かったでしょ?」

 夏の海沿い、陽の光が波に反射し、輝きが彼女に当たっている。加えて夏らしい姿に若くて綺麗な少女。
 やっている事、言っている事、素振りから伺えるのは、可愛らしい悪戯の告白にしか思えなかった。

「さて、本題に入らせて頂きますと、私が話せるのは、謎の解明ではなく、貴方の考察のお手伝いくらいですよ」
「手伝い?」
「ええ。推理小説で言うところの、主人公の側近の脇役。小出しに推理の糸口となる発言を繰り出す補助役重要人物です」

 よく自分でここまで自分の存在を語れるものだ。と、感服しつつも同時に、ここまで意味が無いように思える戯言を語れる彼女に呆れた。

「では、時間も限られてますので、サクサク話を進めましょう」と言った後、その前に。と、自身が切り出した話を、自身が無理矢理一時中断させた。

 現状、彼女には、騒がしい印象しかない。

「早く話を進めたいんだけど……」バルドは暑さと、彼女の雰囲気に気疲れがした。
「まあまあ。こんな暑い所で謎解決なんてできませんよ」そう言ってしゃがみ、右手で地面を押した。「出演者も滅入ってしまいますし、映画なら、視聴者の方々は、こんな夏真っ盛りと言わんばかりの、清々しいまでに夏の恋の物語や、ひと夏の冒険譚が合いそうな、こんな浜辺で、辛気臭い謎解きなんて望みませんよ」

 本当に無駄な言葉が多い。思いながら呆れていると、彼女の手が押さえた地面を中心に、あっという間に風景が壮大な浜辺から、丸太を積み上げた家屋の中へと変貌した。

 部屋は、天井、壁、床。全て木材を使用しており、壁が丸太で、床と天井は木の板を敷き詰めて出来ている。
 窓は開いており、外は森林風景。家具も全て木製品で、彼女とバルドの間には、四角い机が設けられ、背凭れの無い、丸太を座りやすい高さに切り取った椅子。
 森の中の小屋と思しき場所へ場面が変わった。

「森の小屋の場面ですね。これで謎解きの雰囲気と暑さ対策は万全です。更に感謝してください。入口は具現の扉仕様です」
 これは、喜ぶべきかどうか、早く話を進めてほしいところである。
「随分用意周到なことで……」もう、彼女の雰囲気に流されていた。いや、完全に呑まれてしまっている。
「当然、有能な脇役は空気も読め、求めるものを準備し、気持ちよく解決へ導くのが当たり前ですよ」
 そうですか……。もう、バルドも声に出すのも面倒になっていた。

「では、本題に入ります」彼女は、真剣な顔つきで、椅子に腰かけた。「今、貴方が判明している事は、我々の存在。この世界が小説の世界。崩壊に巻き込まれても死ぬことは無い。ぐらいですか?」
「ああ。殆どは謎のままだけど、その辺は、君の様なレンズの化身。……で、いいかな。その人物に教えてもらい、何一つ自分で謎を解いてない状態だ」
「そうですね。貴方は謎を解くというより、とりあえず謎として疑問を曖昧に括り、本格的には謎と向き合えていないのでしょう」
「謎と向き合う?」
「では、一つ一つ向き合っていきましょう」
 バルドは、さっきまでと雰囲気の違う彼女に気圧された。

「まず、具現の扉。これについて考えていきましょう」
 とはいえ、具現の扉は、小説の中へ入る扉であり、扉事態はトルノスの職人が造った扉である。今更何を考える事があるのかと思いきや、御尤もな質問を投げかけられた。

「具現の扉。その中の世界は、何をするための世界ですか?」

 まさにその通りだ。
 確かにこの奇天烈怪奇な現象を引き起こしている時点で、この世界が何をしたいのか、意図が見えない。
 変わった世界を体験し、死ぬかと思えば死なない。目的も不明。
 そんな世界にバルドは今回で四回目。
 なぜここへ来るのか。思い返せば、なぜこの扉を求めてあの屋敷へ来たのか。何一つ不明のままであった。

「バルドさんは知らないようですが、この世界は入った人間が、何かを見つけるために入れる世界なんですよ。あ、私に貴方の求めるものが何かは分かりませんよ」
「でもそれじゃあ、僕は何を求めたのかを見つけなければならない。けど、未だその原因となるものは……」思い当たる節が一つだけあった。
「何かありますよね。その顔は」
 つくづく読まれやすいと、思い直した。

「初めてこの世界へ来た時、綺麗な女性と出会ったんだ。結局は、その女性に逃げられたのだけど、追いかけてる途中、何度も振り向かれ、僕を待っているようだった」
「それは奇妙ですね。逃げてるのに待つ。そして追いつけない。……何より、その女性について思い当たる節はないのですか?」
 まるで尋問の様である。
「無い。綺麗だと思ったし、話をしたいと思った。こんな世界で出会った初めての人間だ。まあ、今にして思えば、あの人もレンズの化身か何かのように思える」

 彼女は、バルドのある一点の情報不足に気づいた。

「バルドさんは、そうですね、話していて気づいたのですが、この世界でのレンズの化身とも言うべき人達の事をあまり理解されていないのではないですか?」
「理解? とは言っても明確な理解が出来るほど、この世界に頻繁に訪れていないからね。理解をする云々の前に、全てが発見の連続で、そこまで至っていない」

 彼女は、合点がいった。

「どうりで……。宜しいですか? この小説の世界における人間の特徴は、大きく分けて三つあります。この際、具現の扉を通ったバルドさんのような人間はカウントしませよ」
 この補足説明は、気遣いだろうか、バルドが揚げ足取りの様な事を言うとでも思われているのだろうか。
 そう思いつつ、彼女の話を聞いた。
「一つは、小説の登場人物を使用しています。今現在この世界では、小説内でも無人の変わった街の場面が存在しますので、無人となっていましたが、それ以外の世界では、どのような形、役割であれ、人間に出くわしませんでしたか?」

 思い返せば、二つ目の世界の、奇妙に踊る者達も、前の世界の道化師も、その世界での役割を果たそうとする脇役の人間達だとすれば、バルドへの干渉があまりに乏しすぎる事にも理解が出来る。なら、どうして話の主体となる人物達がいないのだろうか……。

「あ、今、話の主体となる人たちがどうしていないのだろうか。とか思いませんでした?」

 不敵な笑みをほんのり浮かべ、またもや心を読まれた。

「先刻、具現の扉を通る人たちは、何かを見つけるために訪れると言いましたよね。だから、この世界の中では必要な場面だけが起用され、物語等はどうでもよくなりますので、主体となる人物も、その世界内での物語も発生しません。しかし、これも例外がありまして、訪れた人物が追っている何かが、具現の扉内の世界、もしくは描かれた小説の世界と密接に関係しているのでしたら、その世界の物語を体験する可能性もあります。ですが、バルドさんは、複数回訪れて、その場面を一度も体験されていないのですから、純粋に何かを追っているってことですね」
「でも確か前の話で、レンズの化身である君たちが人の形をしているのは、物語の人物の身体を借りているとかどうとか……」
「その通りです。我々は、入って来た者の追っている何かに反応し、用意された世界に関し、登場人物達の姿形に身体を変化され、その時々で、入って来た人物の何かに関係して捜している者、追っている何かを発見させる手がかりを、決められた時間内で与えなければならないのです。そして、先ほど話していた、この世界で現れる人間の二つ目は、我々レンズの化身なのです」

 では三つ目は? この流れで、当然その質問が出る事は分かり切っており、彼女もバルドが訊きかえす前に、その本題を通した。

「では、三つ目ですが、それは訪れた人間に関する何かです」

 今まで、現れた人物達とは会話をしているが、それぞれがレンズの化身。自分達の役割を果たそうと会話をしていたが、あの女性だけは、何一つ語らなかった。それはつまり……。

「あの人が、僕の追い求めている何かってことか?」
「明確な事は断言できません。三つ目が来訪者の関係する人物であって、一つではない。いくつかあるのですよ。そして、我々レンズの化身のような、役割が判明していて、それを全うしている事に反し、三つ目の人物達は、何をしようとしているのかがまるで不明。その人物達の行動と、あとは来訪者自身が何かに気づかなければならない。さらに三つ目の人物達は、主体となる目的を象った者達だけでなく、それ以外の人物として現れる事もある」

「どういう事だ? 追っている何かに関する人物だけでないってことか?」
「例えて言いますよ。バルドさんが来訪者として訪れた。その目的が、亡くなった恋人の事を想い、もう一度会いたい一心だとしましょう。そこで、具現の扉を通って捜しているのでしょうが、その恋人が亡くなった原因が、バルドさんの知人の誰かだとしましょう。そうすると、具現の扉が描いた世界で現れるのは、会いたい恋人だけではなく、亡くなった真相に至る経緯を望む人物も現れてしまいます。そうなると、その真相を暴き、その人物の心の悩みも見つけ、ようやく恋人の思っていた事、亡くなった経緯を理解する」

「つまり、追い求めている何かが主体となる物語で、それを彩る、付属の物語も暴かなければならないってことか?」
「推理小説で言うところの、犯人とアリバイと動機が判明しても、殺された人物の本音と、共犯者やら、登場人物達の想いまで見つけなければならない。そんな所です。味気ない短編推理小説で終わるか、長編の密度の濃い群像劇を加えるかのようなものです。ただ、一つ問題があります」

「問題?」
「バルドさんはその女性を見た時、綺麗だ。とか、話をしたい。とか以外、何か思いませんでしたか?」
「いや、展開が急すぎたからか、それ以外は何か思ったかもしれないけど、それ以外は特に思ったことは無いと思う」
「つまり、恋人とかなら直感で、どこかで会ったことがある。とか、微かに覚えていてもいいのですが、バルドさんはそれが無かった。いや、そう思うまでの時間が足りなかったのかもしれませんが……」

「それは、あの人が、僕の恋人ではないという事かい?」
「そう結論付けるのは早計です。実際、恋人かご家族か、はたまた先祖の誰か。など、色々考えられます。ここで問題なのは、バルドさんがその女性を見た時に、男性が綺麗な女性を見た時に抱く好意以外に、直感的に何かを感じなかったことが問題なのです」

「どうしてだ? それって、つまりあの人が僕の追い求める何かではないという事だろ?」
「一概にはそうとも取れます。何かに関する存在であって、後々、あの女性はそのために現れたのだ。とか、伏線のような存在だったのかもしれません。しかし、それ以外にもう一つ。その人物が、求めている何か。その本質がバルドさんが求めるものと同じであった場合、もしくは本質に至る重要な存在だったならどうでしょう。その女性を見て何も感じなかったとしたら、それは即ち、バルドさんが、重症者だという事です」

 重症? その言葉を聞いた時、自分は何かの病気を患っているのかと誤解した。
 何かを求める来訪者が、なぜ病気もちでこんな所を訪れるのだろうか。
 思い返すが、扉の向こうでも、自分は何一つ病気を患っていない。むしろ、外で水浴びをし、野営で夜を越し、再び小説の世界へ訪れた。

 よく舌の回る少女だと思うが、重症者と決めつけるのは、健常者で重症者扱いは、さすがに物狂いの類しか考えられなかった。

「重症って、ちょっとそれは言いすぎじゃないか? まるで物狂いか、下手すりゃ異常者か依存症者扱いだ」
「そうですよ」
 即答された時、遠くの方で何かが崩れる音。崩壊の始まる音が始まった。

「バルドさん。この世界へ訪れる者達は、一貫して依存症の方々が多いのですよ」

 沈黙が続いた。ただ、そのせいで、崩壊の音がやけに大きく聞こえた。いや、全身に感じるほど、音が響いたと言い換えても過言では無かった。
 彼女は放心するバルドを他所に、立ち上がり、扉前まで足を運んだ。

「さてさて」真剣な眼差しも消え、気楽な口調へ戻った。「語りが過ぎたせいでしょうか。長編の舞台であるにも関わらず、時間が来てしまいました。今回はここまでとして、バルドさんの中で、何か重要な手がかりとなる物を掴めたのなら、私の役目は上々だったと言えるのですが……。どうですか?」

 混乱の最中、そんなことを訊かれても、今のバルドにはまともな思考が働かない。
 とりあえずと言わんばかりに、崩壊音。彼女の手引き。から、元の世界へ帰る事だけは判明しており、身体が自然と扉まで向かった。

「その御様子だと、やっぱり何か影響を与えることぐらいは出来たという事ですね」

 影響どころか、衝撃的真相を突きつけられた次第だ。
 彼女の言葉を引用する訳ではないが、推理小説における、探偵に犯人だと当てられたぐらいの激震が、未だ余韻として残っている。

「良かったです。私の存在は無駄ではなかった。ですがバルドさん。一つ理解していてください」
 思考が虚ろな頭を動かし、彼女を見た。
「人間全てが何かの依存者であって、特別変わった病気ではありませんよ。そして人間の八割は、何かに依存する重症者。特にレンズに関係する者達は、幻想を求める冒険家程、心の支え、自分の生きがいの本質と言わんばかりです。今こうしてバルドさんが、健常者と比較される立場に立たされている為、混乱しているとは思いますが、健常者の普通の基準。依存者達の普通の基準。我々から見れば、今のバルドさんの混乱が、馬鹿らしく思えるほど、呆れた基準なのですよ」

 面倒な慰め。そうとらえてよいのだろうか。
 少しの混乱が加えられた様である。

「バルドさんの悩みの解決までは、もうすぐそこまで来ています。頑張ってくださいね」

 急に扉が開き、今まで無いように、吸い込まれるように、奥の暗闇の中へ引っ張られた。

 扉は、残された彼女が、自らの手で閉めた。

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