【長編】奇しき世界・四話 気忙しい十月(3/3)

1 迫る黒いモノ

 『社会人になってこんなに走った事は無い』”黒い何か”に追われながらも、不意に夏澄は思った。

 以前、”黒い何か”が変わった行動に出た場合の避難先を聞いて以降、休日は千堂家から駅の間を大まかな活動範囲と決めて行動していた。
 最初に遭遇してからというもの、何度も”黒い何か”の分かりやすいストーカー行為に呆れつつも苛立ち、いつまで続くのかと不満を抱いていた。一応、年明けまでは覚悟していたが、まさかこんなに早く向こうが行動に出ると思わなかった。

 一心不乱に逃げていたが、途中、何度も立ち止まって呼吸を整えた。運よく、相手の速度が遅くて助かった。しかし、そんな幸運を喜ぶ余裕は夏澄にはない。
(なんで千堂家からかなり離れたコンビニで異変起こすかなぁ!)などと心で愚痴る始末であった。

 十五分程走り、ようやく千堂家へ続く一本道へ到着した。
 激しく息を切らせながらも、ようやくあと少し。と、安心した夏澄が振り返って相手の距離を測った時、予想だにしない事態に息が詰まる思いであった。

 ”黒い何か”は、蜘蛛のような姿勢となった。顔の部分には真っ白い顔面が張り付き、ジッと夏澄を見据えている。もう、黒い怪物だ。

(――うそ! やばい!)

 直感で危険度が増したと悟り、迫る速度が増した事で夏澄の恐怖指数は、さらに跳ね上がった。激しい呼吸も、ヒーヒーと音が鳴る程逼迫している。
 二分程して、ようやく夏澄は千堂家へ到着し、何度もインターホンを鳴らした。

(早く早く早く――!! 誰か)
 振り向き距離を見測ると、黒い怪物は約百メートル先にいる。速度も上がっているから恐怖と焦りが同時に増した。
「もぉぉぉ――。早くしてぇぇ!」
 インターホンを鳴らし続けている最中、扉の入り口が開いた。
「はーい。どな――」
 耀壱が開ける途中の扉を強引に夏澄は開いた。
「――うおっ! え?」
「ちょ、入れて!」
 説明する間も、斐斗の在住確認をとる余裕もない。
「夏澄ちゃん!?」

 耀壱を他所に、夏澄は扉を閉めて鍵をかけた途端、
 ドンドンドンドンドン―――――!!!!!
 扉を激しく揺れた。間一髪であった。

「え! なに?!」
「話あと! 家!」
 夏澄は耀壱を引っ張って家へと向かった。


 玄関の鍵をかけると、怪物が追っかけてこない事に安堵し、上り框に腰かけて呼吸を整えた。
「はぁはぁはぁ――……。あー、疲れたぁぁ」
「夏澄ちゃん。今の何?」
「分かんない。前に千堂さんに説明した私のストーカー。異変が起きたらここへ来いって言われたから来たの。千堂さん、いる?」
「いや、斐斗兄は別件で不在。でもどうして……?」

 入口に目を向けた夏澄が恐怖の表情に変わり、そのまま固まるのを見て、耀壱も恐る恐る入り口を見た。すると、入り口のガラス戸に、大の字で張り付いた黒い人のようなモノが、目を見開いて満面の笑みを浮かべているように見えた。

「きゃあああああああ――――!!!!!」
「わあああああああ―――――!!!!!」
 夏澄と耀壱は叫び、その場から離れ、耀壱に引っ張られるように和室へと連れていかれた。

「いちにいちゃん?」
「あ、かすみおねえちゃんだー」
 和室の広間では、真鳳と凰太郎が玩具を散らかして遊んでいた。丁度積み木で遊んでいたと見られる。
「ちょ、五十嵐君! 信じらんない。真鳳ちゃんと凰太郎君巻き込むの!?」
「いや、そうじゃないんだって」
「何がどう違うの? ヤバいのがすぐ追っかけて――」

 徐々に庭へ出る硝子窓から差す陽光が陰っていくのが分かり、それが頭の中で原因となるものが何か理解している夏澄は、耀壱の服を握りながら恐る恐る目を向けた。
 二度目だが、その姿と様子が恐怖の感情を飛躍的に上げるには申し分なかった。
 先ほど同様、大の字で窓に張り付いている化け物を見た夏澄は、涙目で叫び、耀壱にしがみついた。

「大丈夫、大丈夫」
 耀壱が声を震わせながら宥める意図が、今の夏澄にはまるで理解できなかった。
 恐怖する夏澄と、怯え震える耀壱に対し、真鳳と凰太郎は硝子窓の化物をじっと見つめ、持っている積み木を手放して立ち上がった。
 黒い怪物も何か異変を感じたのか、視線を夏澄から双子へと向け、首を傾げた。
 真鳳と凰太郎は、ジッと化け物を見据えながら互いの手を握った。

「……――え、なに?」
 突然、空気が張り詰めた。

 怖ろしい存在を前にした圧迫感、鳥肌が立つほどの寒気、息苦しさ。次第に耳鳴りまで起きた。

「五十嵐君、これって」
 耀壱は人差指を自身の唇に当て、黙るよう指示した。
 二人は感じていないが、黒い怪物と双子の間には空気の振動が生じ、双子から発生する衝撃波が、心臓の鼓動のように一定の間隔で波打った。
 黒い怪物は次第に目の焦点が合わずにあちこち動かし、ゆっくりと硝子窓から剝がれだした。そんな相手に向かって双子は、握っていない手をそれぞれ向けた。

「あ、そ、ぼ」
 二人の声とは違う。大人の声を機械で低音にまで下げたような声。それを合図のように怪物は窓から飛び退いてどこかへ消え去った。
 しばらくして、元に戻った双子は、何が起きたか分からず、次第に怖くなって泣き出した。

「わぁぁぁ。いちにいちゃーん」
「おねえちゃーん」
 真鳳は夏澄に、凰太郎は耀壱にしがみ付いた。
「おー、泣くな泣くな。どうした?」
「わかんなーい」
 二人揃って何が起きたか分かっていない。ただ、耀壱と夏澄は助けられ、二人を抱き上げて背中を摩り、宥めた。

 間もなくして、真鳳と凰太郎は何かに気付いたかのように走り出し、和室を出て玄関へと向かった。

 耀壱と夏澄は、何が起きたか分かっていないが、外には黒い怪物がいると判断し、双子を止めに追いかけた。

2 大がかりな奇跡

  陽葵は入室の了承を得ると靴を脱ぎ、部屋を見回しながら窓際まで向かった。

「耀壱君の言った通り、本当に一人暮らし始めたんですね」
 耀壱から事情を聞いて訪れたと推測できる。ただ、どこか陽葵と雰囲気が違う事にも斐斗は気付いた。
 とはいえ、全てを否定して疑った所で、もし眼前の女性が陽葵本人だとすれば、それはそれで面倒だとも思えた。

「耀壱にどう聞いたか知らないが、一応、仕事の一環だ」
 とにかく、会話で正体を探るほかない。
「珍しいな、この前会ったばっかりだろ」
「本当は来る予定は無かったんですけどね、前日に友達が仕事で悩んでいたからその子の家へ一泊して、今帰り。耀壱君には昨晩連絡があったの。前に斐斗君と再会する作戦の共犯だからね」

 おかしい所はどこもない。ただ偶然で何もかもを片付けていいか迷うだけだ。
 さらに、斐斗が陽葵との再会が耀壱の仕業と暴いた後だから、この発言もまかり通っておかしくはない。

「けど何もないぞ。素泊まり程度しか考えてないから、飲み物ぐらいしか」
「いいですよ。起きなければそれまでで。私も奇跡を見たいから」
 斐斗はこうも早くに確信を得れることに安堵した。眼前の女性が陽葵か偽物かの。
「……奇跡不干渉体質って知ってるか?」
「何ですか? 新しい奇跡か何か?」
「読んで字のごとく。奇跡そのものが影響を及ぼせない体質の事だ。この名称もここ数年前に組合で決まった程珍しい体質だとか」
 陽葵は穏やかな笑顔を崩さないまま、斐斗を見た。
「陽葵は奇跡不干渉体質だ。本人も知ってる」

 斐斗は一定の距離を置いて向かい合った。

「お前は陽葵ではない。言動、仕草、雰囲気。全てが疑いようのない程に真似ているが、彼女は奇跡が起こす現象を見たいと思っているが自身の体質を理解している。よって、今の会話は彼女らしくない」
 リバースライターを構えたが、相手は動じず、笑んで返す程にゆとりを感じる。
「……参りました」
 まるで陽葵が言うように、穏やかな降参の言葉が漏れた。
「さすがですね。私が偽物だと分かったのは、さっきの奇跡不干渉体質の話?」
「正直運が良かったとしか。その話をしなければ偽物と決定付ける材料が無いままだ」

 今でも偽陽葵が本物のように思えて仕方ない。

「残念ですね。貴方の中にいる多くの思念が、この関係を強める事を優先してたから。けど、この女性の形で現れたのは間違いね。情報が歪でしたから。どうりで読みにくいと思いました。今言った体質が原因なんですね」
「君はこの部屋を借りた者の思念を読むのか?」
「詳細の殆どは貴方が推理してくれた通り。居住者を前向きに進める手助けを。正確にはその人の『運命の試練』に誘導する手助け……かな」
「運命の試練?」
「人には数多くの運命の道があります。質問風に言うなら、『貴方はA、B、C、三つの道があります。貴方が願っているのはAの道ですが、日頃の行いや人徳や縁はBに向かっています。貴方がAに進むには相応の選択と困難を乗り越えなければならず、怠けると容易にCへ行ってしまいます』こんな感じかな。斐斗君、貴方は自分の人生においてBからAへ向かうための試練を自力で確信を持って見つける事が出来ますか?」

 どう考えても無理だ。“人が自分で切り開くものだ”と、誰かが言ったような事しか言えないのが本音である。

「成程、本来なら正解かどうかも分からん選択や切っ掛けを、君が分かりやすく見せるという事か」
「ええ。私が変えようとする人の思考や思念、生きてきた歴史の人々に触れ、その人の”臨む希望に迎える”手助けをするの。夢を操り、部屋内できっかけとなる現象を起こしたり、こんな風に人に姿を変えてもね」
「見返りとかはないのか?」
「見返り……というのでしょうか……。対象者に触れるとほぼすべての人には素敵な世界があります。それは今まで見て来た風景でも、妄想で描いた風景でもそうですが。『幸福を感じる記憶』、私はそれに触れるだけで維持できる奇跡なんです。関わり合うだけで私が維持できると言い変えた方が正しいのかもしれません」

 つまり、荒沢雄三にしか見えなかった小窓鏡の風景は、彼女が取り入れた風景の残像である。

「なぜ荒沢さんにしか君の起こす風景が見えないんだ?」
「見える条件はこのアパートの大家さんだからかな。けど、見えたのが最近というのは、少し込み入った事情が関係してるわね」
「込み入った?」
「ええ。斐斗君達の言葉で言うなら、大がかりな……”奇跡”、ですかね。それが関係してます。それが始まったから荒沢さんは少しですが私と干渉しました。そして、この大がかりな奇跡は、斐斗君、貴方の周りで大きく動いてますよ」

 なぜ自分の周りで? と、疑問が生まれた。

3 男の力を喰らうモノ

 都内某所のマンションに、不思議な力に目覚めた男が住んでいた。名は芳賀木對馬(はがきとうま)三十一歳独身、名前は両親が格好いいとの理由でこの字を選ばれた。力に目覚めたのはここ数か月前の事。

 初めは夢だと思っていた。しかしその夢が普通ではないと気付いたのは、何度も都内の光景ばかりである事、自分の意志で動ける事、最大速度は限りがあるものの速度調節が出来る事。

 對馬はこの夢を利用し、自らの卑猥で邪な欲望を満たすために利用した。
 知りたい情報のある場所へ堂々と入っては観察し、観たい映画は無料で観覧し、異姓の更衣室や風呂場に行っては堂々と傍観した。
 『盗み見るのに適した力』を對馬は思う存分、自分が満足いくまで際限なく利用した。

 力の使用に慣れた頃、對馬の職場が倒産し、無職生活に突入した。
 力は寝なくても、目を閉じて強く念じると使用できるまで使い慣れ、この余りある時間を食事と睡眠時以外、延々と使い続けた。
 いつしか力も進化を遂げ、相手に触れられるようになった。触れられるだけであって力で押す事や握って痛める事は出来ない。

 しかし進化と同時に短所も増え、追跡の標的と決めた相手には見えてしまうようになってしまった。

 對馬は新たに増えた短所すらも、ものともしなかった。
 好みの女性を見つけると後を付け、相手が怖がって逃げる様、怯える様、恐怖に困惑する様。その全てに興奮と快楽を得たのだった。そして、最後に触れれるようになり、存分に障り終えると、次の標的を探しまわった。
 對馬は『法で裁けない性犯罪者』となってしまった。

 この夏で、既に五人の女性を堪能し、更に三人の女性をかけ持って追いかけた。
 九月の終わり頃、一人の女性を標的に選び、手慣れた追跡を試みた。しかし彼女はどういう訳か、力が作用しにくい程に近寄りがたく、触れる機会を逃し続けてしまった。
 その謎めいた反作用は、對馬の欲望を掻き立てる始末となり、女性への興味と興奮が理性を支配した。

 對馬はかけ持つ標的を彼女一人に絞ってストーカー行為に及んだ。

 ある日、彼女を執拗なまでに追いかけた力は更なる進化を遂げた。
 ホラー映画に登場しそうな、手足を蜘蛛のように動かして進めるようになり、体中で大気、匂い、雰囲気も味わえるようになった。その進化が理性を支配し、草食動物を狙う肉食動物の如く、女性を犯したい一心で追いかけた。

 女性の実家だろうと思われる立派な日本家屋へ到着すると、いつもならどの家にも通り抜けて入れるのに、その家には入れなかった。
 對馬は壁伝いに這いずり回り、和室が一望できる硝子窓まで辿り着いた。そこには女性の家族と思われる旦那と双子がいた。人妻を襲える事が對馬の欲求と興奮をさらに高めた。

 對馬の本体は涎を垂らし、鼻息を荒く、身悶える程だ。興奮が黒い怪物の力を強めるも部屋には入れず、強硬手段で硝子を割ろうとした時であった。

 双子がジッと見つめてきた事に気付いた。
 對馬は双子に目を向けると、今まで感じた事の無い、真冬の外に濡れたまま放り出される程の寒さが全身を駆け巡った。
 身の危険を感じて逃げようにも、体が硬直して動けない。さらに全身にタイヤでもぶつけられたような衝撃の波が押し寄せてくる。
 やがて興奮も欲求も完全に冷め、言い知れぬ恐怖が支配した。とにかく逃げたい。双子から離れたい。その一心でしかない。

 双子がそれぞれの手を男に向け、何かされると感じた。
『あ、そ、ぼ』
 ホラー特番で流されるような低音の男性の声が四方八方から響いて聞こえる。

 對馬は逃げたい衝動ががむしゃらに働き、強引にその場を離れる事に成功した。


 どうにかこうにか家の外まで逃れると、まるで長距離でも走ったかのように息が切れた。それは本体にも同様の変化を及ぼした。
 對馬は家の入り口から表札を見て誰の家かを確認しようとした時、今まで標的にしていた女性よりも大人びた、それでいて綺麗な女性が目に止まった。
 對馬の性根は腐り切っているのだろうか、次の標的に決めた途端、発散できなかった思いをその女性で晴らそうと試み、恐怖を与える間もなく、無我夢中で襲い迫った。

「――え?」
 女性と目が合うと、正面の顔がなんとも美しく、張り裂けんばかりの猛る思いで飛びかかった。

 刹那、怪物の体に黒い蔓のような、蛇のようなモノが絡まり、更に蜘蛛の手足のような触手が怪物本体を包み込んだ。
 何かよからぬものに捕まった對馬は、思考が完全に停止し、ただただ女性の顔だけしか映らなかった。背景も次第に暗くなり、逃げようにも体を動かし方が忘れたように何も出来ない。

 女性の両目が紫色に光り、小首を傾げて微笑むと、纏わりつくモノが力を増し、息苦しくもある。
 次第に締め付けが強まると、女性は手を伸ばして對馬の頬に触れた。

「あなた、どんな味かしら?」
 その声は、頭の中に直接響き、脳に言葉が綴られているかの如く、例え難いが言葉が植え付けられたようであった。
 次第に体から感覚が消えていき、最後まで女性を見ていた顔が、黒い何かに食われるように徐々に削られ、やがて暗闇が覆った。


 翌朝、目覚めた對馬は、何が起きたかまるで思い出せず、力の安否を確認するように作動した。しかしどれだけ念じても黒い怪物が作動しなかった。

 對馬は普通の人間に戻った。

 悔みつつ、かつての快楽に満ちた日々を思い出そうとすると、黒い何かに纏わりつかれ啄ばまれる恐怖が鮮明に蘇ってしまった。

 對馬は快楽に喜ぶ日々を無理やりにでも忘れようと励み、就職活動に専念し始めた。

 その日、広沢美野里は帰宅してすぐ、”人面蜘蛛”と言えそうな怪物と遭遇した。
 美野里が恐怖することなく茫然と怪物を眺めていると、怪物は襲いかかって来た。

 すぐそこまでの距離に迫ると、美野里の全身から黒い蛇のような触手が伸び、相手を団子状態になるまで絡みついた。触手の形状は様々で、タコ足だったり、蜘蛛の手足だったり、綱状だったり。

 美野里が怪物を見つめると、次第に怪物が甘美であると思考が働き、人面部分の頬に触れると、ついつい言葉に思いが零れてしまった。
 美野里の感情に呼応するかの如く、体から黒く大きな鳥の頭みたいなものが出現し、団子を食らうかのように啄ばんだ。

 やがて怪物を食らいつくすと、千堂家の正門が開き、中から真鳳と凰太郎が「おかーさーん」と泣き叫んで飛びついて来た。
「……――あらあら、どうしたの二人共」
 正気に戻った美野里には、先程の出来事は記憶に無かった。
 双子に続いて、二人の後を追って来た耀壱と夏澄が現れた。

「あれ、あいつは?」夏澄の心配はそこであった。
 美野里は何の事か分からなかったが、とにかく、双子を宥める事と、客人である夏澄が来ているのでお茶を淹れる事に思考が働いた。
「えっと、とりあえず中でお茶でもしませんか?」
 消えた怪物を探そうとしても無駄でしかなく、追跡を諦めた夏澄は、美野里の言葉に甘えて千堂家へと戻った。

4 何もしない

 大いなる奇跡が何かを、斐斗は思考を働かせて考えた。しかし、自分の周りには数多くの奇跡に纏わる案件が寄ってくるため、『大いなる奇跡』というものがどういった奇跡か、しっくりこない。
 “大いなる”という形容動詞を用いるのだから、土着型奇跡が絡んでいると思われるが、斐斗の身近でそれ程の奇跡が関係しているというなら、広沢一家に関する事しか思いつかない。

「まったく分からん。俺の周りで動いてるとは、俺の実家内での事か、ここ最近頻発する奇跡の事か」
「一応、貴方の周りだから、どちらかと選択するものでもないかな。”全て”というのが正しいけど、まあ後者でしょうね。でもまだこれらは些細な出来事。もう少しすると色々巻き込む奇跡が起きる。解決には特別な方法を用いる訳じゃないけど、結構難解だと思いますよ」
「君は予言も出来る奇跡なのか?」

 偽陽葵は頭を小さく左右に振った。

「貴方に関する情報に触れて気付いた。私が大家さんに気付いてもらえたのも、色んな経緯で貴方に会えて話せてるのも、大いなる奇跡が近付いていると報せるための運命です」
「俺が君とこうして話すのも既に決まっていたというのか?」
「少し解釈が違うわね。人間って、結果論なのに運命って言葉を絡めてしまって、運命を定義の一つと考えてしまう。認めたくない人間には反発心も生まれるけど、そこまで複雑に考えるものじゃない。運命を大がかりにしすぎです。端的に言えば一つの着地点かな」
「着地点?」
「ええ。『私と斐斗君がこうして話す』『大いなる奇跡の情報を報せる』といった、条件だけが点在しているの。私達はそこに辿り着こうと思考し、行動し、間違え、修正し、紆余曲折を経てその到達点に辿り着く。たどり着けずに通り過ぎるかもしれないけど。今回は互いが到達出来たみたい」
「それこそ結果論で良いように言葉を繕っているだけだ。運命どうこうの問題じゃない」
「そうね。これは奇跡として存在する私の、”触れて””考えて””辿り着いた”解釈。貴方は貴方の運命論があって、他の人には他の人の理論がある。これ以上は語り合っても分からない領域よ。そもそも、運命事態に実態が無いのに考察を巡らせる魔力が備わってるのだから、区切りをもって話を切らせないとしんどいだけだものね」

 いきなり運命論へと切り替わり、何の話をしていたか分からなくなる。

「何の話をしてた? 大いなる奇跡とやらを、君の予言かどうか……だったぞ」
「そこからね。予言じゃないけど、大きなうねりが生じ始めてるのを感じるの。今から伝える事は単なる忠告よ。受け入れるか受け入れないかは斐斗君が決めてね」
 何か途轍もない不幸の予言が発せられると腹を括った。
「貴方達が定義する奇跡の分類。それが型を成さなくなるケースが相次ぎます。むやみやたら定義づけると、下手をすれば取り返しのつかない事態に陥ってしまう」
「それは、もっと柔軟に考えろ……と?」
「そうね。固執した考えは命取りになる。そして、奇跡が貴方を救う手助けにもなる。貴方のリバースライターはそういった味方となる可能性も消してしまうから、使用は気を付けてね」
「なぜ奇跡が俺を救うと?」
「あら、これは貴方も知ってるんじゃないですか? 奇跡には、存在すれば必ず天敵のような存在も現れる。そして、人間に害を成す奇跡も、それを消して流れを整えようとする貴方達も、双方共に生き残れる偶然が数多く存在するって。斐斗君の味方となる奇跡も、これから姿を現してきますよ」

 まるで自分を消してほしくない言い訳のようにも捉えれる。
 斐斗は偽陽葵に向かって手を構え、じっと見つめた。
 偽陽葵はリバースライターを発動されると分かっていながらも、笑みを崩さず、抗おうとしなかった。

 十秒程、互いが見つめ合った。

「……あれ? 使わないんですか?」
 偽陽葵は帰宅しようとカバンを持つ斐斗に訊いた。
「理由は二つ。一つは君がとりあえず害のない奇跡だと分かったから。もう一つは……君に呪いをかけられたからこの場は保留」

 これは負け惜しみだとは言いたくなかった。さらに、今の今まで陽葵の話し方、仕草を押し通され、使いづらいのも理由である。

「ひどい言い草ですね。けど、今日の話で私達の関係は近づいたと思わせてもらいますよ」
「好きにしろ。まあ、まだ部屋は借りてるから、何かあったらまた来る。その時はその時で色々聞かせてもらうぞ」
「ええ。毎日でも構いませんよ。貴方との話は楽しいですから」

 一方的に喋っておいて、何が楽しいのかと、斐斗は呆れた。

「ああ、次は陽葵以外の姿にしてくれ。俺の思考が読めるなら、誰が良いか分かるんじゃないか?」
「姿変化は斐斗君の思考を読むのではなく、波長の問題ですよ。次に合う姿が斐斗君のお気に召すことを願います」
 偽陽葵は笑みを浮かべ、ゆっくりと姿を消した。

 まるで幽霊が消えるような別れだが、これほど不思議だと、相手が奇跡関連の存在だと安心して思える。

 斐斗はどこか安堵した気持ちで部屋を出た。

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