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拝啓、剪定お疲れ様です。

今回は「剪定」について。

冬の間のメインの仕事「梨の剪定・棚付」作業がぼちぼち終盤だ。とはいっても、これは自園分の話で、この後に毎年アルバイトで作業を請け負っている畑もあるので、これからもまだしばらくは僕の仕事としては続くのだけど、数ヶ月間ずっと取り組んできた作業がとりあえずはひと段落するのは少し嬉しい。

簡単にいうと、「剪定」とは、不要な枝や古くなった枝を切り落とす作業。そして「棚付」とは、枝を棚線に紐などで固定する作業。そこには話すと長くなるような複雑な要素が実はかなりたくさんある。どの枝を切るか、どの枝を残すのか、どう切るのか、どう残すのか、棚にどう固定するのか、その手法や考え方はとても奥が深く、そこがまた面白くもある。

就農8年目なので、剪定作業も今シーズンで8回目。となると、それなりの知識と経験で日々の作業を行ってはいるが、1年目の剪定は本当に途方に暮れた。地元の講習会に参加して基礎を教えてもらい、本も読んで勉強もしたし、祖父祖母によるレクチャーも受けながら剪定に挑んだにもかかわらず、今でも思い出す。「わけわかめ」。この一言に尽きる。あの時はその「わけわかめ」という言葉が、頭の中で何度繰り返されたことか…。講習会も本も、「こういう枝を、こう切ります」と教えてはくれる。それは「なるほどなるほど」とその場ではなる。ただし、それじゃあ目の前にある自分の畑のこの木の場合はどこをどう切ればいいのかが、当時は全然分からなかった。講習会で切った木は、その講習会をやった畑の木で、うちの畑の木じゃない。本の説明文も挿絵も同じこと。講習会や本が教えてくれるものを実践することは、とても難しかった。

それでも何とかかんとか剪定してみた後の、次の秋。それなりに実は生った。ただし、その年の剪定でまた訪れる「わけわかめ」さん。これを繰り返していくうちに、少しずつ、本当に少しずつだけど、「わけわかめ」さんの登場回数は減ってくる。ほかの人の畑の木での切り方や、本に載っている切り方を、自分の畑の木に置き換えてみることが、だんだんと出来るようになってくる。この感覚はとても不思議だけど面白い。「基本と応用」の関係であるようにも思えるし、そして、実際に自分で切った木が、翌年どうなったかが分かると、そこでまた実感が湧く。これは、やってみる→どうだったか確かめる→またやってみる、という、いわゆる「トライアンドエラー」というやつでサラリーマン時代にも聞いたことがあるような気がする(正しくは「トライアルアンドエラー」というようだけどつまりはそういうようなこと。詳しいことは各自Weで!)。農業でもなんでも、やはりやってみることが一番大事なんだなとつくづく思う。

このときに重要なのは、やはり『美味しい梨を収穫する』が最大の目的であることを忘れないこと。決して「きれいな形の木」を作り上げたいわけではない。樹形を整えた方が、やはり木の生育もスムーズになるから、いい枝が出て、いい芽が着いて、いい花、いい実になる。そういう、いいサイクルが生まれる。ただし、だからといって、木のバランスは格好悪くても、美味しい梨は採れないこともない。それは、現に我が家でも祖父や父が実証済みだ。剪定以外の要素もかなり大きいのも事実。ただ、その時は梨が実っても、また剪定するときに同じような問題にもぶち当たる。悩み、迷い、そしてまたもや「わけわかめ」さんの到来。これが悪いサイクル。結局、「樹形を整える」と「収穫する」をいかにバランスよく実践していくかがポイント。その規則に沿わない枝を片っ端から一気に切り落としてしまうと、実が生るはずだった枝が全然残らない、つまりそれは梨が収穫できないということ。さらに剪定によって木が弱ってダメになってしまうこともある。これでは本末転倒。その辺を見極めながらやっていくのが腕の見せ所なわけだ。

「剪定」のセオリーは意外とシンプル。そこに、品種、気象条件、土壌条件、樹齢、樹勢(成長する力みたいなもの)が複雑に絡み合うので、正解は必ずしも一つではない。農家は皆そこに四苦八苦しながら試行錯誤してやっている。ただ、そのセオリーに基づいて、自分の畑の木や自分の作り方に応じた手法を、それぞれのロジックから編み出してやってる人が結構多いと思う。それを人に伝えられるか、伝えられないかの違いだけで、正攻法か、とんでもない悪手か、メジャーか、マイナーか、何かしらを誰もがそれぞれが隠し持っているはずだ。そういう話をいろいろ聞き出すのも結構面白いので、梨農家同士は往々にして剪定談義に花が咲く。

僕も僕なりのロジックを積み重ねつつあって、それを毎年書き足したり、書き直したりしていってるつもり。これについて書き始めると長くなるので、一つ例を挙げるとしたら「剪定・棚付」は「パズル」。平面の棚線に、与えられたピース(枝)をいかにきれいに据えるか。もちろん、適度な間隔を空けつつ、重ねたりしないように。余ったピースは切り落とす。数ある農家の仕事の中で、ゲーム感覚がある楽しい作業だと思う。その考え方は変わってはいないが、そこに一つ新たに今年加わった概念がある。「剪定・棚付」は、「手紙」でもある。ちょっとカッコつけたような言い回しになったけど、今シーズンの剪定作業をしながらふと思った。一年前の自分からの手紙を受け取り、一年後の自分への手紙を書いているような、そんな感じ。

作業をしていると、「あぁ去年はこの木のここの枝を切ったんだっけな」「そしのこの木のこの枝がこんなに伸びたんだな」という気付きが、あちこちである。いちいちメモを取ったりすることはないので、あくまで自分の記憶だけが頼りなんだけど、そういう一年前の剪定で自分が意図したものがそこにはあって、「ということは、今年はこっちの枝を切ればいいんだな」「こっちの枝で梨を採ろう」「今年はこの枝を伸ばして来年使えばいいね」という会話が自分のなかで成り立つことがよくある。そして、それはそのまま来年の剪定の時へと引き継がれる。もちろん、上手くいくことばかりではない。「この木を伸ばしたかったんだろうけど、全然伸びてないな」「いい花芽が少ないぞ!」「何でこんな風に切ったんだ?去年の自分よ!」と、一年前の自分への返事をしていることも多々。思い通りばかりではないけど、そこにも確実に去年の自分の影というか声というか、そういうものが残っている。それを受け取って苦笑いしながら、「さすがに今年はこの枝は要らないから切るよ」や「この枝は来年は切っちゃってくれよな」「ここは新しく枝が出てくるだろうからそれ使って棚を埋めてくれよなー」と、また新たに来年の自分へのメッセージも残しながら作業している。

そして、このメッセージは、「剪定・誘引」作業だけでは完結しない。春先に余計な芽や花を除去する作業、夏場の新しい枝を整理する作業、収穫までに着果数を調整する作業などなど、いろんなものを経て、ようやく届く。どんなに上手いこと剪定をし、明確なメッセージを残しても、その年の他の作業次第だったり、はたまた日照や気温、降水量などの気象条件に振り回されて、滅茶苦茶になってしまうこともある。今年で言ったらすでにこんなに暖かい2月…果たしてこれがどう影響してくるのか、戦々恐々としている。それでも、また今年の秋の実りをイメージしながら、今は黙々と剪定する日々。いまだに「わけわかめ」さんがふいに訪れることも正直ある。そして、一年前の自分に返事をしたり、一年後の自分に手紙を書いたりしつつ。それはもちろん心の中で。時折、実際に声になって出ていることが、無いことも無いけども。自ずと、あの名曲がどこからともなく流れ出す。

拝啓 この手紙読んでるあなたは 多分また剪定しているのだろう

三十九の僕は 誰もいない梨畑で 独り言つぶやいたりしているのです

拝啓 この手紙読んでるあなたが いい梨育てている事を願います

こんなことを考えながらも、剪定はまだ、もう少し続く。頑張れ自分!とりあえず今回はこの辺で。またそのうちに。

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