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今日のしらぬひ、明日のデコポン。

日常を徒然に綴るシリーズ。今回は「3.11」について。

震災から8年が経った。当時はまだ市内に勤務するサラリーマンで、職場のビルは揺れに揺れ、完全にマヒしていた交通網の中を職場の車に乗り合わせてすり抜け自宅まで帰り、近所の避難所で家族と合流し、そのままそこで眠れぬ夜を過ごした。あの日の大災害から受けた影響は自分にとってももちろん大きくて、3.11は自分の意識や価値観にもかなり変化をもたらした。

例えば、もっと前の阪神淡路の震災。当時は中学生で、朝練に行く準備をしていた時にテレビのニュースで知った。その後にも、大学生の時、見ていたテレビが突然切り替わって、アメリカの高層ビルから煙が立ち上っている映像が流れた。どちらもその瞬間はもちろん画面に釘付けになってしまったけど、後々状況を知っていっても、現実とは分かってはいるものの、どこか遠い、知らない世界の出来事のようで、あまり実感が沸いていなかったように思う。

それが、3.11で実際に被災して不自由な生活を強いられ、停電の影響もあり数日後のテレビで沿岸部の深刻な状況を、それからしばらくして仕事の要件で訪れた被災地を実際に目の当たりにして、これでもかと、見せつけられ、思い知らされた。そこでようやく、災害や事件は本当に起きているんだと、気付けたように思う。まさに「今日は人の上、明日は我が身」。そしてあの日に「今日の我が身」になった。

3.11以降の8年間にも、色んなことが起こった。全国各地での地震や台風の被害、嫌な事件も多くあった。最近はそれらに、息苦しさや痛みのような感覚を持ってしまう。年のせいか、家族が増えたせいか。そんなことお構いなしに、被災地は増え続け、被害者も減ることはない。そう考えると、やるせない気持ちがどんどん膨らんでいく。とはいえ、田舎の農家になった自分にできることと言えば、無いことも無いけど、まぁ多くはない。どうせ出来ることしか出来ないし、見えるとこ行けるとこもたかが知れてる。だからできることを、たくさん楽しくやっていきたい、という実感も強く持つようになった。

ガソリンは満タンにした。カップラーメンを買い置きした(決して朝ドラの影響ではなく)。雨で剪定のバイトに行けなかった。こないだ播いた種に水をやった。やたらと韻を踏んでちょっとふざけたような歌詞を考えた。メトローノームに合わせてギターを弾く練習をした。相変わらずandymoriとスガシカオを聞いた。「しらぬひ」食べた。

これが今日。こんな今日が明日は送れなくなるかもしれない。可能性は十分にあるわけで、そう考えると「しらぬひ」の味わいも増したような気もするし、いつかはブランドの「デコポン」も食べてみたい。世紀の名曲になるかもしれない歌詞が未完成なままではまずい気もしてきた。読みかけの本も気になるし、「まんぷく」最終回も「ひよっこ2」だって見たいし…とりあえずバイトだけは早めに終わらせないと。明日からまたラジオや音楽聞きながら頑張ろう。
と、やっぱり明日のことを考えてしまう自分がいる。想像する明日の我が身は、なかなか忙しそうだけど、まぁ楽しそうでもある。そんな日が続いていきますように、続けていけますようにと、ただ祈るばかり。そんな2019.3.11のよしなしごとでした。

今回はこの辺で。またそのうちに。

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