大学入試

今日から、国公立大学前期日程試験が始まりました。みんな頑張っただろうから、みんな合格すればいいのにと思いますが、振り分けのための試験ですから全員が合格を勝ち取ることは出来ないのです。でもすべての受験生に春が訪れることを心から願っています。

最近の大学入試では、考える力を試したい、と改革を行おうとしています。

考える力とは何でしょう?

考える力とは既存の知識を組み合わせて、それまで気づかなかったものを生み出す力でしょうか?ということはそれを試験で測るのは実際可能なのでしょうか?小論文ならば可能なような気がしますが、科目試験だと、答えがある時点で、気づかなかったものを生み出しているわけではないような気がします。問題を作成する側の作った答えに気づけるかどうかを測るだけであって、今の大学入試は、人の考える能力を測っているのではなく、持っている知識を応用できるかどうかを測っているのでしょう。

これからの世の中で考える力が必要だということはもちろん理解しています。理解はしていますが、それを試験で試すということがよくわかりません。従来各大学が行って来た試験では不十分なのでしょうか?共通テストは、その大学を受験するための基準が備わっているかどうかを測るだけであって、その大学の合否を決めるものではないと思うのです。もちろん各大学の判断として、共通テストの結果のみで合否を判断することを否定するものではありません。

考えるということはあくまでも自発的なことであり、強制されるものではありません。にもかかわらず、試験で考える力を試していると言ってしまうとこれで考える力が身についていて、考える力で合格点をもらったということになって、本当の考えるということが、本当ではない考えるということになってしまい、余計に考えるという力が養われないといった、本末転倒なことにならないでしょうか?

米国の統一試験は、知識を問うものです。で、実際の大学入試では、統一試験の結果、高校までの成績と、出願時にレポートを書いて提出します。最後のレポートは、明らかに考える力があるかどうかを試しているものです。

考える力は、教えられて身につくものではないし、あらかじめ答えがあるものを答え、それが正しいからと言って考える力があるとは言えません。

ほんとうに考える力があるかどうかを見極めるには、小論文と面接式の試験を行うしかないと思います。で、それを持って合否を判断する人は、ほんとうに考える力がある人でないとダメでしょう。

人間にとって大切なことは、知識を有すること、それを応用できること、考えるということ、対話すること、だと思います。

唯一考えるということは、教えられないことだと思うのは筆者だけでしょうか?

大多数の人は学生時代には、考えるということを行っていません。自分で進路を決めた人だけが唯一考えたと言えるかもしれません。

社会に出ても考える人と、考えるという行為を行わない人がいます。でもそれは勉強して教えられるわけでも何でもなくて、その立場に立つか立たないかの違いのような気がします。

これから先、過去に比べればそういう機会が増えてくるのかもしれません。そんな時に、困らないように、入試を改革して、そういう能力を持った人を育てましょうということなのでしょう。

でも、それを普通の科目試験で行うのは難しいということだと思います。


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