見出し画像

秋への扉

小説を読み、登場人物に自分が重なる、というのは良くあることだと思う。なんなら、登場する彼ら彼女らに対して能動的に自分をフィットさせにいくことすらある。大学生の時は、理工系の学生が活躍する森博嗣の小説にありたい姿を模索したし、朝井リョウの小説を読んではどうしようも無い自意識に意識が他界した。年齢的な近さを感じるもの対しては容易く同調出来ることが、この種の物語を選んできた要因にあると思う。
一方で最近、はやみねかおるの中学生が活躍する小説を読んで全く違う感慨があった。それは、昔の自分への出会い。彼の見た景色が私の中に入ってきた。

彼は、木に登るのが好きだった。
家には裏山があった。棚田の名残が残っていて大きな階段のようになったそれには、段に応じて持ち主が決められている。家に近い2段は何をしても良い場所だったからずっとそこで走り回っていた。その山は、基本は竹やぶだったけど、広葉樹もいくつか植わっていて、クヌギやミズナラ、あとカキなんかがあったな。秋にはアケビとか椎の実を摘んで口に放り込んでた。そういえば、1度、椎の実を鼻の穴に入れたら取れなくなっちゃったことがある。夜寝る前に、親に「はなに椎の実いれたらとれなくなった」って報告したら、花って変換されて全然わかってくれなくてさ。それが悲しくて思わず泣きだしたら鼻水と一緒に出てきたよ。汚いって?うるさいなぁ。

小学校の夏休みは、いくらでも走り回れるだけの時間に満ちている。初夏に見つけた崖に張り出す大きなクヌギは、秘密の遊び場にちょうど良かった。けれども、何度も登るには快適といえない形の幹だったから、ハシゴを作る必要性に駆られた。手頃な杉の丸太を鉈で縦方向に4分割して三角柱にし、それを長い丸釘で打ち付けて、足場を作る。つまり、クヌギの幹そのものをハシゴにしたんだ。不格好だけど登るには十分だったから、なんだか美しかったな。機能に美が宿っていた。3メートルくらい登ると横に枝分かれした大きな枝があったから、なんとなくそこに縄を2本括り付けてブランコにした。

彼は、こうやって遊んでいたんだ。
別にブランコが欲しいわけでもなくて、ただ、自分の周りの世界が拡張されていくのが楽しかったんだ。自分の作ったブランコで遊んだ記憶はあんまりないけど、それを作るまでになにかをつくっていく過程は、キラキラした思い出だったからちゃんと覚えてる。

でも、1番の思い出は、別に自分が作ったものじゃなかった。夏休みが終わる頃にはそのクヌギの木への理解が深まっていたから、てっぺんまで登ることにした。
木登りの技術も習熟していたけど、それでも難しいのと怖いのとで、少し涼しくなってきた割には汗をしっかりかいてしまったな。茶色く汚れたTシャツが身体にぺちってへばりついていたけど、なんでか全く気にならなかった。

そのクヌギの木の1番上まで登った時だ。葉っぱの隙間から、遠くの景色が見えた。その時の彼の視界に写ったものは枝葉に縁取られた扉のようで、つよい風が吹けばその形がサラサラと動いた。
その扉からは見知った山が姿を見せていた。杉の木がめいいっぱい植えられていて人工と自然のちょうど真ん中くらいのそんな山。1部分だけ禿げていたけど、それもステゴサウルスの形をしていたから自然物みたいだった。山の中腹には小さな滝が走っていて、白い線が太陽の光を反射して輝いていた。
あと数週間も経てば葉っぱが落ちて、扉を開けた先の景色は様変わりするんだようなと思うと、なんだかもったいない気持ちになったから、日が傾くまでその木の上でゆらゆらと風に体を揺らした。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?