アフターサンという呪い。あるいは祝福。
私の家族は、写真を撮らない人たちだった。
だから、幼い私を写真で見たことはないし、アルバムなんていうものもどこか遠い国の一家庭にしかないものだと思っていた。
こんな書き出しだけれども、小さい頃の自分が記録として残っていないことを、卑下するつもりがあるわけじゃない。ただ、両親の若い頃の記録を見て育っていないというのは、もしかしたら少し悲しいことなのかもしれない。そう思ってはいないけれども、客観的には。ね。
アフターサンを観た。
余白を魅せる最高の映画だと思う。
見終わってから数時間して、何かが自分の中で木の芽みたいに弾けてしまった。堪えられなくなってしまい、家で一人涙を流す。そんな経験、初めてだったから、メタに自分を認知してまた驚いた。
この映画ではずっとすれ違いが描かれている。
もちろん、11歳の女の子と31歳を目前に控えた父親なんだから、すれ違いがあって当然なんだけれど。
父親のカラムは生きることに興味を持てないでいる。生き続けることに、といった方が正しいかもしれない。そんな様子が、ライセンスなしのダイビングや、バスに轢かれそうになっても気にしない様子より緻密に描かれている。
人生がいつ終わってもいいと思っているし、いつまで続いてもいいと思っている。今後の人生の予定について考えもするし、ふとした瞬間に生を止めようとしてしまう。これらは矛盾しない。
だからこそ、ソフィは父親のその状況に余計に気がつけないでいる。だって、人間ってもっと単純なもののはずでしょう?少なくとも11歳にとっては。
「空を見上げて太陽が見えたら、パパも同じ空を見てると思える。 同じ場所にいないし離ればなれだけど、そばにいるのと同じ」
離れていても同じそらを見ていられる、と少女は言う。そこにはずっと一緒にいられることを信じて疑わない子供ながらの無邪気さがある。永遠を信じるという無邪気さが。
少女は知らない。
そんな使い古された常套句が叶わないことを。何を言ってもダメだったであろうことを。
人生には、そういう瞬間が何回もあると思う。どういう言葉を紡ぐにせよ、どういう行動を起こすにせよ、自分の力では動かせないものがあるという場面が。
カラムだって、本当は父親らしく振る舞いたかった。
娘の好意をありのままに受け止めて応答できる父親でありたかった。でも、それをするには目の前に見えない石があって邪魔をしてしまう。その石でできた壁は、これまで生きてきた中で少しずつ大きくなってきたから、どうやっても崩せない。なりたい人間に至るまでの一本道が塞がれていた。
だから、ソフィに誘われたカラオケでも人前で歌えないし、誕生日に貰ったたくさんの人からの歌に耐えられなくなってしまう。
そんな石が積み重なって、崩れ落ちる。
そうして、ふっと、カラムは生を辞める方向に舵を切る。その瞬間、道を塞いでいた石も消えた。
だから、ラストシーンで踊るカラムはとても幸せそうだ。今までの重圧から解放され、ただ踊る。安らかに、楽しそうに、カラフルに。娘への愛を全身で表現しながら。
このシーンを最初に見た時は、娘への呪いだと思っていた。
ただ、何回も見返してやっと今は、ほんの少し祝福だと思える。
大人になったソフィも、そう思えてくれたら、嬉しい。
最後に、Brief-Takeによるインタビュー動画の中で印象的な応答があったので、それを抜粋させていただく。