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戦前政党政治の功罪⑨ 第3次護憲運動を起せず陸軍の横暴に沈黙した政党人

 昭和11(1936)年2月26日、陸軍の青年将校が1400人もの兵士を率いて東京の中心部を占拠しました。この一団は首相官邸、警視庁などを襲撃し、高橋是清蔵相、斎藤実内大臣(前首相)、渡辺錠太郎陸軍教育総監らを殺害する大規模なテロを起こしました。2.26事件です。
 事件そのものは、昭和天皇の「反乱軍討伐」の強い意向により、数日で鎮圧されました。岡田啓介首相の生死が長期間にわたって不明だったため、内閣総辞職が取りざたされましたが、天皇はそれを許しませんでした。もしも内閣総辞職になれば、陸軍による新政権が発足したことは聞違いなく、そのまま反乱軍が目指したような国家体割に移行したことも考えられます。ここで総辞職を許さなかったのは、昭和天皇の隠れた功績です。
 さて、義弟の松田伝蔵大佐が間違って殺され、女中部屋にかくまわれて九死に一生を得た岡田首相は間もなく内閣を総辞職しました。後継首班には、近衛文麿が指名されましたが、表向きは健康上の理由で(実際は反乱軍の青年将校に共鳴していたため)固辞し、代わりに広田弘毅外相を推薦しました。
 広田は斎藤内閣の途中から外相を務め、日中国交調整に尽力してきたキャリア外交官、つまり官僚です。犬養毅内閣以来、長らく政党内閣が生まれておらず、もしも国民がそれを期待し、政党にその気があったならば、ここで「第三次護憲運動」が起こっていたはずです。しかし、国民はテロを起こした陸軍に対して眉をひそめ、思わぬ総理の座が転がり込んできた広田に対して「ひろった内閣」と揶揄しながら、冷静に政局の推移を見つめていました。政党内閣を期待する声が響くことなどありませんでした。
 政党自身も、その意志を失ってしまったかのように黙り込んでいました。血盟団事件、5.15事件、2.26事件の標的は現状勢力、とりわけ政党でした。政党人にはそれに立ち向かい、命をかけて自由と議会政治を守るという気概に欠けていたのです。
 さて、広田内閣は、祖閣の時点から陸軍の圧力に悩まされました。広田は、旧知の吉田茂をいち早く外相候補とし、吉田を組閣参謀に閣僚の人選に取りかかりましたが、陸相候補の寺内寿一が組閣本部に乗り込んできて、閣僚の人選にいちいち注文をづけました。
 「この非常時に、自由主義者・牧野伸顕の女婿である吉田や、政党人、財界からの入閣はまかりならん」。
 非常時を現出したのは軍部だったはずですが、いつの間にか主客は転倒していました。広田は政権を投げ出すことさえも考えましたが、結局、自分が貧乏くじを引くことにしました。「粛軍」を目的に復活した軍部大臣現役武官制は、政党政治復活に事実上ピリオドを打ちました。なぜなら、政党人が首相になって、政党内閣を作ろうにも、陸軍が大臣を推薦したとは思えないからです。また、馬場鍈一蔵相による軍主導の予算編成(いわゆる馬場財政)は、すでに統帥権問題で明らかになったように、予算という、政府が軍をコントロールする上での重要な「武器」を手放すことを意味していました。
 しかし、それでも第3次護憲運動は起こらなかったのです。一人、浜田国松代議士が、寺内陸相との「腹切り問答」で気を吐きましたが、政党の反発もそこまででした。
 広田内閣は、軍主導の政策への端緒をつけたといわれますが、国民にも、それに対する反発はありませんでした。政党に政治を任せるよりましだと、多くの国民はそう考え、政党政治に見切りをつけてしまったのです。

連載第136回/平成13年1月24日掲載


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