見出し画像

スポーツ日本史④ 日本のお家芸誕生秘話~三段跳び

 わが国初の陸上競技大会は、明治7(1874)年に海軍兵学寮で行われた競争遊戯会です。明治11年には、あのウィリアム・スミス・クラーク博士の指導の下、札幌農学校でも競技会が行われました。国内で国際的な競技規則が正式に採用されたのは、大正12(1923)年の東京大学運動会からのことです。
 さて、わが国は大正元年の第5回オリンピック・ストックホルム大会から選手団を派遣していましたが、大正13年の第8回パリ大会で、19歳の織田幹雄が三段跳びで6位入賞を果たしたことで、特にこの競技に注目が集まるようになりました。
 実は、そのころはまだ「三段跳び」という名称はありませんでした。英語の「ホップ・ステップ・アンド・ジャンプ」(競技名としては「トリプルジャンプ」)か、それを省略して「ホ・ス・ジャンプ」と称していました。昭和2(1927)年夏、早稲田大学に進学し、関東学生陸上連盟の技術委員となっていた織田に、この競技の日本名を考える仕事が舞い込んできました。
 まず織田は、各国での呼び方を調べました。ドイツでは「トライ」、フィンランドでは「コメル」など、いずれも「3」を意味する言葉を使っていました。そこで日本語でもこれに倣って、「三段跳び」と名づけました。競技の第一人者である織田が命名したということもあって、間もなくこの名称が定着しました。
 昭和3年に行われた第9回アムステルダム大会では、織田と南郁忠平が三段跳びに出場しました。前年、世界新記録にあと5㎜に迫る記録を残していた織田に金メダルの期待がかかっていました。予選当日はあいにくの雨でしたが、織田と南部は予選1、2位で決勝に駒を進めました。
 決勝では、2回目のジャンプで15.12mを跳んだ織田がトップに立ちました。ライバルのレヴィ・ケーシー(アメリカ)、ヴィレ・ツーロス(フィンランド)は試技を重ねるたびに調子をこげ、織田を脅かしましたが、結 局、ライバルの最終ジャンプは4㎜届かず、織田は日本人初の金メダルに輝きました。南部も4位に入賞しました。
 国歌演奏と国旗の掲揚。音楽隊の準備不足のせいか、国歌は「千代に八千代に」から始まり、あっという間に終わりました。一方、掲揚された国旗は、通常のものの何倍もある超特大の旗でした。カメラマンに囲まれても、織田はなかなか優勝の実感が湧いてきませんでした。しかし、「巨大な日の丸がメインポールに掲げられたとき、涙があふれてきた」と回想しています。
 次の第10回ロサンゼルス大会では、南部が再び三段跳びに挑みました。南部は当時、走り幅跳びの世界記録保持者だったということもあり、そちらに大きな期待がかかったのですが、結果は3位に終わりました。
 三段跳びにエントリーはしていたものの、南部は明らかに練習不足でした。ほとんどぷっつけ本番で出場した結果は、15.82mの記録で金メダル。織田に続いて日本人選手が連覇を達成しました。また、大島鎌吉も銅メダルに輝きました。
 こうして三段跳びは「日本のお家芸」と言われるようになりました。子供たちの間では、日本中に感動を与えた三段跳びの選手のマネをして、校庭や砂場で三段跳びを競うことが流行したと言います。

連載第76回/平成11 年10月13日掲載

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?