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教科書が教えない軍人伝⑤ 寺内正毅(1852~1919年)

 「ビリケン」というあだ名の軍人政治家がいました。桂太郎の次に登場する悪役・寺内正毅です。「ビリケン」はアメリカ生まれの「福の神」で、通天閣にも祭られています。見た目が、その福の神に似ているということと、
「非立憲」の意味を込めて、寺内は「ビリケン」と呼ばれました。
 寺内は嘉永5(1852)年、長州藩に生まれました。長州征伐の戦いに従軍したのを手始めに、戊辰戦争では、北海道の箱館(函館)、松前の戦いにも従軍しています。その後大坂兵学寮を経て、明治4(1871)年に少尉に任官されました。
 明治10 年2月、寺内は西南戦争に従軍し、有名な田原坂の戦いで負傷して、右手の自由を失いました。以後、寺内の活躍の場は戦場ではなく、専ら軍政の場においてでした。日清戦争では運輸通信長官としてその責任を全うし、その後は初代教育総監、陸軍大学校長を歴任し、陸軍教育のトップとして、その強化に尽力しました。
 明治35年に寺内は、第1次桂太郎内閣に、児玉源太郎の後を受けて陸軍大臣として入閣し、日露戦争中は、日清戦争時の経験を生かして、総合的な戦争指導に尽力しました。
 教科書に登場するのは、その後の寺内です。
 明治42年にテロリストに伊藤博文が暗殺された後、寺内は第3代目の朝鮮統監となり、明治44年の日韓併合後は、そのまま初代朝鮮総督になりました。
 教科書が寺内を悪役にする理由は、後に「非立憲」内閣を組織したことよりも、初代総督として朝鮮の恨みを買った、という伝説に起因していると思われます。寺内総督は、朝鮮教育令の発布、交通機関や金融制度の整備、度量衡の統一など、朝鮮開発の土台づくりと近代化を推進しました。「武断政治」と呼ばれる上からの改革です。中でも、土地調査事業は、「朝鮮人の土地を収奪した」として、歴史的事実無視した教科書などでは批判の的になっています。しかし、土地調査事業は朝鮮人の福利にとって必要不可欠なものでした。日韓併合以前、土地の権利関係は、李朝政府のずさんな管理体制により、非常に混乱した状態にありました。土地調査はそれを是正するために行われました。土地の所有関係を確定するため、地主に申告させ、紛争に関しては異議申し立ても受け付、処理しました。この結果、李王朝の旧直営地や私有地であることが証明できなかった土地などが接収されました。これは当然の措置ですが、その土地の払い下げを受けた多くが日本人であったこと、係争地を日本人が裁いたことなどが、「日本人に土地を奪われた」という伝説になった訳です。
 さて、大正5(1916 )年、国民に人気のあった第2次大隈重信内閣が総辞職すると、寺内が大命を受けて組閣しました。「非立憲」内閣の誕生です。
 大隈内閣の与党であった立憲同志会の反発に対して、寺内は議会解散で臨みました。同志会のライバルだった立憲政友会(あの陸軍2個師団増設問題で陸軍と対立したのはつい数年前のことです)は寺内内閣を支持し、総選挙でも政友会が勝利したので、寺内内閣を「非立憲」と呼んでしまうのも、少し問題があります。
 実際、米騒動の後、重病にかかっていた寺内は、藩閥政治家にではなく、政友会総裁・原敬への禅譲を申し出ています。寺内内閣は、決して強面のビリケンではなく、憲政常道への橋渡しをした福の神だったとも言えるのではないでしょうか。

連載第67回/平成11年8月11日掲載

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