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スポーツ日本史⑤ バロン・西の栄光と最期

 馬術は、沈静、従順、柔軟性をもった馬を育てるということがそもそもの目的ですが、訓練を通じて、馬に乗る人間との信頼感を醸成し、「人馬一体」となることが大切な競技です。
 わが国にも伝統的な馬術はありましたが、明治維新後、近代的な軍隊制度を整備する過程で、洋式馬術が採用され、明治21(1888)年には陸軍乗馬学校が設立されました。
 一方、自ら馬術を愛好された明治天皇は、その奨励のために資金を下賜されたり、天覧馬術大会を行われたりしています。そして明治10年には、天皇の肝いりで学習院に馬術部がつくられ、その後、各大学にも広がって、学生スポーツとして盛んになりました。
 こうして馬術は、騎兵訓練と学生スポーツの二本立てで発展することになりました。大正11(1922)年には、オリンピックヘの参加を目指して日本馬術協会が発足し、第9回アムステルダム大会から選手を派遣しました。
 西竹一騎兵中尉がわが国に馬術史上唯一の金メダルをもたらしたのは、昭和7(1932)年の第10回ロサンゼルス大会でした。
 この大会で、日本選手団は水泳5種目と三段跳びで金メダルを獲得し、ようやく我が国がスポーツでも大国の仲間入りをした記念すべき大会でしたが、その反面、選手団にとっては、反日感情が高まる中、精神的に辛い試合が多かったと言います。
 8月14日、閉会式に先だって、メインスタジアムで「馬術大賞典障害飛び越え個人」という競技が行われました。これに、日本からは今村安少佐と西の2人が出場しました。
 18の難しい障害物が配置されたこの競技では失格者が統出しました。3人目の今村まで全員失格でした。9番目に出場した優勝候補のヘリ―・チェンバーレーン(アメリカ)がまずまずの成績をあげると、誰もがその勝利を確信しました。
 しかし、次に登場した西の華麗な手綱さばきに観衆はどよめきました。まさに愛馬ウラヌスと一体化した西は、障害を巧みにかわし、見事に逆転優勝したのです。ちなみに、完走できたのは、西を含めて5人だけでした。優勝が決まった直後、記者に囲まれた西は “We won!” (我等勝てり)と自分とともにウラヌスの健闘をも讃えたのでした。
 男爵(バロン)の爵位をもつ西は、カメラ(当時カメラは高価で、家1軒を買える価格だったと言います)、車の運転など多彩な趣味をもち、語学にも堪能で、ウラヌスもイタリアから自費で購入したという、当時には珍しく国際感覚にあふれる人物でした。西はアメリカ滞在中も積極的に交友関係を広めていました。現地マスコミは前日までの反日報道が墟のように「バロン・ニシ」の優勝を、驚きと共に大きく伝えました。
 昭和20年2月、その栄光の瞬間から12年半の歳月が流れ、西は戦車隊長として激戦地の硫黄島(東京都)にいました。
 猛攻撃を防戦している日本軍守備隊の中にバロン・ニシがいることを知ったアメリカ軍は、「降伏は恥辱ではない。我々は勇戦したあなたを、尊敬をもって迎え入れるであろう」と呼びかけました。
 その声が、ウラヌスのたてがみを身につけて応戦していた西の耳に聞こえたかどうかはわかりません。それから間もなくアメリカ軍を苦しませた激戦の中、西は戦死しました。享年42歳。
 最期の地とされる硫黄島の海岸には、西を記念する碑が建立されています。

連載第77回/平成11 年10月20日掲載

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