教科書が教えない軍人伝③ 桂太郎(1847~1913年)
教科書に登場する軍人の中でも、山県有朋と並んで、超悪役として描かれている人物が、桂太郎です。
弘化4(1847)年、桂は長州藩士の息子として生まれました。17歳の時から藩兵となり、幕府による長州征伐の戦い、戊辰戦争に従軍しました。そして維新後も陸軍軍人としての道を歩みました。明治3(1870)年には、ドイツに留学し、時代の最先端をゆく、政治制度や軍事制度を学びました。
陸軍次官時代に桂は、それまでのフランス式からドイツ式へ兵制の改革に着手しました。特筆すべきは、「鎮台」の廃止です。わが国の陸軍は明治4 年に4個鎮台、兵力15,000 人で出発しました。鎮台は、西南の役のような国内における争乱を想定したもので、有事の際、外国に出兵して戦うという体制にはなっていませんでした。そこで桂は、近代的な軍隊制度を確立するために鎮台に代えて「師団」を設置したのです。これは近代国家形成の上で当然の措置でしたが、「桂は大陸侵略の装置を作った」という難癖をつける書物も多いようです。国防を世界標準にすれば侵略になるという歪んだものの見方にはあきれてしまいます。
さて日清戦争に従軍した後、桂は、明治31年に第3次伊藤博文内閣で陸軍大臣となります。そして、第1次大隈重信、第2次山県有朋、第4次伊藤内閣と留任し、陸軍のドン・山県の庇護の下、その勢力伸張に努めました。明治34 年には大命を拝受して内閣を組織し、祖国防衛戦争としての日露戦争を遂行しました。
ニコっと笑って、ポンと相手の肩をたたく。そうして政治を進めてゆく桂は「ニコポン宰相」のあだ名で呼ばれました。当時唯一の実力派政党であった立憲政友会(政友会)とは、幹部の原敬を介して、気脈を通じていました。第1次西園寺公望政友会内閣を挟んで、第2次内閣の時には、大逆事件をきっかけに、反日的社会主義運動を壊滅させました。一方、今も各地の病院に名を残す「済生会」を設立し、工場法を公布するなど、ビスマルク流の社会政策への布石も行っていました。
政友会との「情意投合」を宣言した桂は、明治44年、再び西園寺に政権をゆずり、明治天皇崩御後は政界から退いて、内大臣兼侍従長として新帝の側近となりました。
さて、山県=桂の影響を嫌い 、海軍の山本権兵衛に接近していた西園寺は、陸軍の2個師団増設要求を拒否しました。これを見た上原勇作陸相が単独辞職し、陸軍が後任を推薦しなかったため内閣は瓦解しました。後継首班指名は困難を極めました。キングメーカーの山県は「かくなる上は、自分か、桂か」と他の元老に図りました。老齢の山県に出馬させるわけにもいか
ず、結局大正天皇のご沙汰をいただいて、桂を宮中から呼び戻すことになりました。
反陸軍の嵐が渦巻く中、桂は矢面に立たされました。護憲運動に対抗して新党計画を発表し政党人を動揺させましたが、天皇のご沙汰を乱発する手法が裏目に出て、結局辞職のやむなきに至りました。
退陣後、新党・立憲同志会の結成準備中に桂は死去し、文官出身の加藤高明にその遺志は継がれました。この加藤の活躍により、大正期の民主化はピークを迎えることになるのです。
連載第65回/平成11年7月28 日掲載