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教科書が教えない軍人伝⑦ 斎藤実(1858~1936年)

 岩手県水沢市は、日本史上に名前を残す人物を数多く輩出しています。幕末の蘭学者・高野長英、東京市長などを歴任した後藤新平、戦後、日韓国交樹立に尽力した椎名悦三郎、そして、海軍出身の政治家として活躍した斎藤実がいます。
 斎藤は安政5(1857)年、藩士の家に生まれ、自ら私塾を開いていた教育熱心な父の下で斎藤は成長しました。1歳年上の後藤とは幼なじみでした。                              
明治6(1873)年、海軍兵学寮(後の海軍兵学校))予科に合格し、海軍軍人としての道を歩み始めた斎藤は、明治10年、初代アメリカ公使館付武官を皮切りに、4 年に及ぶ海外在勤生活を経験しました。その間、薩長藩閥政治家と交流を深め、その資質を見いだされました。
 日清戦争時に広島におかれた大本営で、侍従武官として明治天皇にお仕えした斎藤は、大佐になって間もない明治31年に、40歳の若さで山本権兵衛海軍大臣の下、次官に大抜擢されました。その後は7年以上の長期にわたってその職を全うし、日露戦争を舞台裏から支えました。
 明治39年、第1次西園寺公望内閣が成立すると、斎藤は海相として入閣しました。今度は8年以上もの間、5つの内閣で大臣を務めました。斎藤の実力もさることながら、その信頼される人柄が、長期にわたって海軍のトップに立つことができた理由でしょう。しかし、大正3(1914) 年、海軍高官の汚職事件(シーメンス事件)の余波を受けて、斎藤は予備役に編入されてしまいました。
 大正8年3月1日、2日後に行われる最後の大韓帝国皇帝高宗の国葬のために、朝鮮各地から多くの人が京城(現在のソウル)に集まっていました。このタイミングを狙って、キリスト教、天道教(東学党の流れを汲む宗教結社) などの代表者が独立宣言を発表し、これが朝鮮全域に広がって、民族主義的な暴動となりました。いわゆる三一運動(万歳事件)です。その直後の困難な時期に、朝鮮総督に就任したのが斎藤でした。彼は寺内正毅初代総督以来の、いわゆる武断政治を文治政治に転換したのですが、この大功績は教科書には殆ど登場しません。
 斎藤は、警察制度を憲兵警察から文民警察に改め、非常に制限された範囲ではありましたが、選挙で地方議会議員を選ぶ制度を創設しました。また、朝鮮教育令を改正して、第6番目の帝国大学、京城帝国大学を設立しました。これは、大阪帝国大学、名古屋帝国大学よりも早い設立でした。
 昭和 6(1931)年に朝鮮総督を辞任した斎藤は、翌年、5.15 事件で倒れた犬養毅内閣の後を受けて、挙国一致内閣を組織しました。国民やマスコミが政党内閣よりも、彼を大歓迎したことを、やはり教科書は無視しています。国民は政党政治に完全に嫌気がさしていたのです。満州事変の後始末に奔走した斎藤でしたが、「帝人事件」のために辞職しました。この事件は「斎藤降ろし」の陰謀だという説もあります。
 その後昭和8年12 月には、内大臣に任命された斎藤でしたが、翌年に起こった2.26事件で反乱軍の将校に殺害されました。「革新政治」を目指した青年将校にとって、国民に人気のある穏健思想の持ち主は、最も邪魔な存在だったということでしょう。

連載第69回/平成11年8月25日掲載

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