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スポーツ日本史⑨ プロ野球の黎明~関東大震災に潰された最初の球団

 昭和10(1935)年2月9日、愛知県鳴海町(現在の名古屋市緑区)にあった鳴海球場で、歴史的な「プレイボール」の声が響きました。
 この日、前年に誕生していた東京巨人軍のアメリカ遠征壮行試合が行われたのです。対戦相手は、名古屋新聞社を母体とする金鯱軍。これが現在の日本野球機構(NBP)に連なる本格的なプロ野球チーム同士の初の試合でした。当時は職業野球と呼ばれました。
 しかし、実は最初のプロ野球チームとされる巨人軍の結成以前にもプロ野球チームはあったのです。それは大正10(1911)年に、早稲田大学野球部OBの押川清、河野安通志、橋戸信らを中心に結成された日本運動協会(芝捕協会)です。彼らの目標は、メジャー・リーグのチームと対等に試合をするという、当時としては壮大なものでした。選手はテストで公募し、結成後は満州や朝鮮でノンプロチームなどに試合を挑みました。間もなく、芝浦協会は当時日本最強と言われた早稲田大に善戦して注目を集めました。
 一方大正12年、奇術師の松旭斎天勝が「天勝野球団」というプロチームを結成しました。そしてその年の6月、京城(現在のソウル)で、芝捕協会と天勝野球団の試合が行われました。正確にいえば、これが日本で最初のプロ野球チーム同士の対戦なのです。
 ところが、9月1日に発生した関束大震災によって、生まれたばかりのプロ野球球団は大きな痛手を負いました。天勝野球団は解散に追い込まれ、芝浦協会も経営不振に陥りました。これを救ったのが、関西の実業家・小林一三でした。芝浦協会を引き取り、会社が経営する宝塚球場の専属球団「宝塚運動協会」として再出発させました。相手となるプロチームはありませんでしたが、宝塚協会はクラブチームの大阪毎日、神戸ダイアモンドクラブ、神戸スタークラブと関西4球団野球連盟を結成し、定期戦を行いました。しかし、昭和4年の対満鉄クラプ戦を最後に、この宝塚協会も解散となりました。
 昭和9年、ライバル紙が中等野球(現在の高校野球)や都市対抗野球で拡販するのを見て、本格的なプロチームの設立を考えていた読売新聞の正力松太郎は、招聘したメジャー・リーグ選抜チームと対戦させるため、全日本軍を結成し、それを母体に読売巨人軍を誕生させました。契約選手第1号は、後に名監督と詠われる三原脩でした。
 正力はプロ野球をビジネスとして定着させるために、各方面にチーム結成を呼びかけました。これに呼応して、大阪タイガース、阪急軍、東京セネタース、名古屋軍、名古屋金鯱軍、大東京軍が集まり、東京巨人軍と共に昭和11年2月に日本職業野球連盟が結成され、リーグ戦がスタートしました。
 現在のセントラル、パシフィックの2リーグに分裂したのは、昭和24年オフのことでした。新球団毎日オリオンズの加盟をめぐって、球界は真っ二つに分かれ、日本職業野球連盟は解散となりました。加盟賛成派の南海ホークス、阪急ブレーブス、東急フライヤーズ、大映スターズは、新たに毎日、近鉄パールズ、西鉄ライオンズを加えてパシフィック・リーグを、反対派の読売ジャイアンツ、中日ドラゴンズ、大洋ホエールズ、そして巨人戦に固執した賛成派の大阪タイガースが、新たに松竹ロビンス、広島カープ、西日本クリッパーズ、国鉄スワローズを加えてセントラル・リーグを結成しました。
 連盟解散時に不正な選手の引き抜きはしないとの覚書があったのですが、それは無視され、阪神からは毎日へ、大映からは松竹へ、主力選手が多数移籍し、両球団を困惑させました。そして翌年、両リーグ初のペナントを握ったのは、この毎日と松竹でした。
 近年はサッカーなど、他のプロスポーツに押され気味のプロ野球ですが、今年(令和3年)は最初のプロチームができて90年の節目の年です。国民的スポーツとしてのさらなる飛躍を期待したいものです。

連載第81回/平成11年12月1日掲載

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