見出し画像

なにわの企業奮戦記⑤ 株式会社大林組

 大阪のど真ん中・天神橋にそびえ立つ北浜 NEXU BUILD。昭和48(1973)年に竣工されたこのビルはかつて大阪大林ビルと呼ばれた、西日本初の高層建築です、今も、周りの現代建築に見劣りしない摩天楼ですが、これを建設し、本店を構えていたが株式会社大林組です。
 創業者の大林芳五郎は、20歳の時に土木請負業を開業し、8年後の明治25(1892)年に大阪市西区に「大林店」を創設しました。株式会社になったのは大正7(1918)年のことです。まさに近代化のエンジンがかかる頃。工場、鉄道、学校、銀行などの新設は後を絶たず、同社は少しずつ業績を伸ばしていきました。
 大林の名を全国に知らしめたのは、この連載でもすでに紹介した、大阪築港の工事と、近代大阪最初のビッグイベント、第5回内国勧業博覧会においてでした。
 大阪港は慶応4(1868)年に開港されましたが、もともと浅かった川口の波止場は、川砂によりさらに浅くなり、大型の外国船は接岸できず、近接の神戸港ばかりがにぎわっていました。この状態にピリオドを打つため、大阪市は、明治31年から8ヶ年継続事業で築港に着手しました。これを受注したのが新進気鋭の大林店でした。

大林組1

 大阪築港は安治川、木津川の河口から2本の防波堤を築き、それに囲まれた518万㎡余りを浚渫。その土砂を利用して埋め立て地を造成し、港の諸設備を建築するという壮大な工事でした。上の写真は、大阪築港ブロックヤード工事の様子です。
 地盤が軟弱なため工事は困難を極め、工期は当初予定の4倍の31年を費やし、完成したのは大正3年のことでした。
 一方。明治36年3月から5ヶ月にわたって、現在の天王寺公園を中心とした第1会場と、堺市大浜の第2会場で行われた第5回内国勧業博覧会は、過去4回とは違って海外からの出品もあり、その成果は大阪の商工業の発展に大きく寄与したのですが、この会場建設を一手に請け負い、15ヶ月の突貫工事で、 20棟に及ぶ展示館を完成させたのが大林店でした。
 前回の17万点を大きく越える27万点もの展示品もさることながら、同社が設置したイルミネーションの美しさ、正門近くにそびえる、高さ75mの噴水塔、45mの木造の望遠楼は、来場者を別世界に誘いました。

大林組2

 館内でウォーターシュートと人気を二分した望遠楼は、大阪で初めてエレベーターが設置された高層建築でした。「大林高搭」と呼ばれて親しまれたこの塔は、第1会場跡に作られた新世界ルナパークの中央に建設された初代通天閣のプロトタイプになりました。そして、閉会後に大阪のシンボルとなるその通天閣も、同社の手によるものでした。
 その後も同社は、建築を通じて、商都大阪の発展に寄与してきました。大阪近郊に現存する建築物を挙げただけでも、大ビル、阪神甲子園球場、大阪城天守閣、大阪株式取引所(当時)、伏見桃山御陵、新歌舞伎座(初代)などなど。数え上げればきりがないほどです。東京に目を転じてみれば、あの煉瓦づくりの初代東京駅舎や吹上御所も、そして筆者が東南アジア取材の際に訪れたジャカルタの「ホテル・インドネシア」(日本と関係が深かったスカルノ初代大統領の肝煎りで作られた5つ星ホテル)もやはり大林組が建設したものです。
 大林組は、大阪の、そして我が国の近代化の歴史と共に歩んできたと言っても過言ではないでしょう。

※写真はいずれも株式会社大林組提供。『大阪新聞』掲載時、旧サイトアップロード時に同社より使用許可を得ています。
第107回/平成12年6月28日掲載

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?