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鉄道の歴史(戦前編)⑥ 広軌化論争1435 vs 1067

 鉄道は、ゲージ(軌間)によって分類されます。世界「標準軌」は、1,435 ミリゲージです。これは古代ローマの2頭立て戦車の車輪間隔に由来するそうです。ヨーロッパ中を縦横無尽に快走する列車が、国境を越えてもスムーズに走ることができるのは、各国の軌間が共通だからです。我が国では新幹線(一部を除く)がこれを採用しています。関西の大手私鉄では、阪急、京阪、阪神、そして近鉄の大部分が標準軌です。
 一方、最初に官営鉄道が採用したことで、JRの在来線は全て1,067 ミリゲージの「狭軌」を採用しています。それゆえに、我が国では1,435 ミリゲージを「広軌」と呼んでいます。関西の大手私鉄では、南海と近鉄南大阪線、
吉野線がJRと同じです。一般的に言って、狭軌よりも広軌の方が、輸送力やスピードに勝るのは言うまでもありません。
 余談ですが、かつては、これよりも狭いゲージを採用した軽便鉄道がありました。夏目漱石の『坊ちゃん』に登場する「マッチ箱のような汽車」は、当時762ミリゲージだった伊予鉄道(愛媛県)がモデルです。今もこの可愛らしい汽車は松山市内に静態保存されています。戦前の沖縄県営鉄道もこの軽便鉄道でした。
 さて、狭軌による鉄道輸送には限界があるので、幹線鉄道は広軌に改軌すべきだという主張が、すでに鉄道国有化の直後からありました。
 明治40(1907)年、逓信大臣として第2次桂太郎内閣に入閣した後藤新平は、間もなく鉄道院総裁を兼任しました。後藤は、南満州鉄道総裁時代の経験をもとに、広軌化推進を図り、具体的な調査に乗り出して、改軌計画を公表しました。しかし、次の第2次西園寺公望内閣は、日露戦争後の財政難を理由にこの計画は中止になりました。
 その後大正3(1914)年に成立した第2次大隈重信内閣で鉄道院総裁となった仙石貢は、再び広軌化に乗り出しました。輸送力の増強というメリットを考えれば、費用面の問題もクリアできるという主張でした。次の寺内正毅内閣では、後藤が再び鉄道院総裁となり、広軌化論に拍車がかかりました。
 大正6年には、横浜鉄道(現JR横浜線)原町田-橋本間で、広軌列車の実験運転も行われました。これは、改軌作業も念頭に行われた本格的なものです。この時車両技術の専門家として島安次郎が実験に参加していました。
 島は、私鉄の寄せ集めであった鉄道院が所有する50,000 両もの車両の連結器を、列車を運休させずに、たった1日で取り替えるという神業を行い、「車両の神様」と呼ばれた鉄道技師です。ちなみに、彼の息子が、新幹線の
生みの親となる島秀夫です。島親子はエンジニアの立場から広軌化を主張していました。
 しかし、在来線広軌化への流れはここまででした。
 大正7年に成立した原敬内閣は、鉄道院を鉄道省に昇格させ、積極的な鉄道路線拡張政策に乗り出しました。そして大正8年、初代鉄道大臣・床次竹次郎は、新鋭の18900 型機関車(後のC51型)が広軌並みの輸送力を発揮し
たことを見て、広軌化計画に事実上ピリオドを打ちました。
 その後も島親子は広軌化の重要性を唱え続けていましたが、その主張が実るのは、昭和39(1964)年の東海道新幹線開業を待たねばなりませんでした。

連載第88回/平成12 年1月26 日掲載

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