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「偽南京事件の被害者は日本の子供たち」の巻

■補習校でも自虐史観
 筆者は当地の補習校で高校生に教えている。ただし国語だ。残念ながら、本校の高校生のカリキュラムには地歴・公民がなく、また高校での教育経験があるのは小生くらいなので、中学社会にはまわしてもらえそうにない。 
因みに、生徒指導をめぐって、現在校長とは冷戦状態だ。
 ある日、小論文の練習として、かつて『大阪新聞』に連載していた東南アジアに関する拙稿を文章要約の題材にした。その際、日米ハーフのA君が、「日本が感謝されているという話を読んでホッとした」と感想を述べてくれた。この補習校で中学時代に教えられた歴史は、例によって日本の悪行三昧を並べ立てるモノのようで、ウンザリしていたらしい。

■偽南京事件は日本人への差別ネタ
 さて先日、国語の授業中にふと、「南京大虐殺なんて本当はなかったんだよ」と口を滑らせてしまった。A君が「ええっ!」と大げさな声を出したので、「中国人は30万人殺されたって言っているけど、当時の南京の人口は20万人。そこからしておかしいじゃないか」と言うと、クラス全員(といっても、5人だが)が一様に驚いた。「何それ!」。怒りにも似た驚きだ。暫く脱線を元に戻すのは不可能だった。筆者が偽南京の話を続けたからではなく、生徒が自分の差別経験を語りだしたからだ。
 A君は、白人の友人から「頼むから俺のことは殺さないでくれよ。何せ日本人は南京で何十万人も殺しているから恐ろしいよ」とからかわれたという。
 Bさんは父が白人、母が日米ハーフの優等生。日ごろ韓国人の反日的な言動に胸を痛めていた彼女はある日、現地校で韓国系の女生徒にこう尋ねた。「あなたたちは、日本人が嫌いだって言っているけど、実は私は4分の1だけ日本人なのよ。じゃぁ、私のことはどう思うの」。これに対してその生徒は、「じゃぁ、あなたの4分の1は嫌いね」と平然と言い放った。
 別のクラスのCさんは、同じく学校で、「あなたたち(日本人)はバナナ。外(肌)は黄色いけど、中身は白(白人)だよね」と言われたという。実際これは、日系人に対して白人がよく使うフレーズだ。
 余談だが、ブログを通じて知り合ったDさんは、孫たちが反日的なことを口にするので、それは日本人に対する差別だと嗜めたところ、逆に「おばあちゃんは中国人や韓国人を差別している」と言われてしょげてしまったという。
 しかし筆者の教え子が経験したことが、日本人に対する差別でないというなら、いったい何が差別なのだろう。

■「歴史の常識」としての偽南京事件
 A君の経験でもわかるように、アメリカでは偽南京事件は、すでに「史実」となってしまっている。人気クイズ番組に、「日本軍が1937年に30万人を殺害した支那の都市は」といった出題があったことは、既に報告したところだ。
 ただ、反日支那人や韓国人以外は、A君をからかった友人のように、それを重く捉えているわけではない。昔の話だし、今の日本人がその責任を継承しているとも思ってはいない(日本人が反省しているということが前提条件だが)。
 かつてスペイン人は、中南米で酷いことをした。しかしそれを今のスペイン人に対して糾弾する人はいまい。それと同じなのだ。ただ、スペイン人がやったといわれることの多くは英国のプロパガンダだったというではないか。だがもはや、スペイン人の名誉回復はほとんど不可能だ。ただ、年月と良識がスペイン人に対する糾弾をやめさせているだけなのだ。
 「歴史にすること」は人類の知恵だ。そうでないと、欧米諸国はすべて、旧植民地や旧敵国からの訴訟を起こされるか、テロでリベンジされているはずだ。しかし、日本関連のことだけが、その例外になっている。そして自らもすねに傷を持つアメリカも、「歴史にすること」で処理したいはずなのに、日本人だけを責める矛盾については黙殺し、反論を封殺している。それが、偽南京事件が日本人への人種差別たる所以なのだ。

■被差別感度が鈍い日本人・日系人
 自分しか見えないアメリカには頼るまい。だが、偽南京事件が反日支那人や韓国人が日本人を差別することへ免罪符となったままなのに、多くの日本人が、A君のように史実を知らされず、その差別を甘んじて受け流していることを見過ごしてはいけない。偽南京事件による差別をなくすためには、外国人である日本人が外から言うよりも、アメリカ人である日系人が言うほうが百倍も効果があるのに、彼らは日本人への差別は、全く他人ごとだ。差別に敏感なハズのこの国で、日系人は鈍感なバナナになった。
 その日系人の中でも、一般にハワイの人々は、例外的に日本に対する祖国愛が強いという。南米の日系人もそうだと聞いたことがある。これは、純粋に出稼ぎに来て土着した日系人と、それ以外の目的でやって来た日系人との違いではないかと、筆者は個人的には考えている。
 戦略的に言えば、まずは親日的な日系人に対して、偽南京事件はプロパガンダであり、日本人・日系人への差別の温床だと自覚させるようなプログラムを構築することが必要だ。自覚がなければ、どんな差別も差別ではなくなってしまう。アメリカ流の民主主義の下では、声が大きい者が勝つ、ということを、我々は経験的に知っているはずではないか。

『歴史と教育』2008年1月号掲載の「咲都からのサイト」に加筆修正した。

【カバー写真】
 某補習校の入学式。日米国旗の掲揚は勿論、日本国歌も斉唱される。これに反対する教職員はいない。経験的に言って、補習校教育には問題点が非常に多いのだが、こういった点では、日本の教育界よりははるかに常識がある。(撮影:筆者)

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