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鉄道の歴史(戦前編)①~ジョン万次郎、火車に驚く

 世界で最初の営業用鉄道は、1825 年に英国のダーリントン-ストックトン間に開通したものでした。我が国に初の鉄道が開通するのは、それから半世紀たってからのことです。
 ご存じの通り、江戸幕府は、統制貿易と海禁政策を行っていました。いわゆる鎖国です。しかし、この間欧米との交渉が全くなくなったわけではなく、長崎の出島を窓口にして、オランダとは関係を継続していました。オランダ商館長(カピタン)は、幕府に対して世界情勢を報告するニュースレターを定期的に提出していました。これを『風説書』と言います。実は、日本人は、この『風説書』によって、鉄道というものを最初に知った可能性が高いのです。
 弘化3(1846)年に提出された『別段(増刊の意)風説書』に、フランスによるパナマ地峡での鉄道敷設計画の記事があります。これが今日わが国で確認できる、鉄道に関する最も古い記録です。その後も『風説書』には鉄道に関する記事が散見され、幕府は鉄道に関する知識をおぼろげながら得ていたと思われます。
 では、最初に鉄道に乗った日本人は誰でしょうか。
 それは、有名な中浜(ジョン)万次郎だと思われます。天保12(1841)年、土佐の漁師であった万次郎は、漂流しているところをアメリカの捕鯨船に救助されます。彼はそのままアメリカに渡り、滞在中の弘化2(1845)年頃に、初めて鉄道に乗ったようです。帰国後、万次郎が幕府に出した報告書に、「遠出をするときには、レイロウ(レイル・ロード=鉄道)という『火
車』に乗ります。形は舟のようで、大きな釜に湯を沸かして、その勢いで一日に300里も走ります。屋形(客室)から外輪を見ましたところ、飛鳥のようで、目にも止まりませんでした」と書きました。ちなみに万次郎は汽車を「火車」を書いていますが、漢語では実際に汽車のことを「火車」と書きます。
 また、万次郎と同じく漂流中に救われてアメリカに渡った浜田彦蔵(ジョセフ・ヒコ)も1850 年代に鉄道を利用しています。彼もまた著書の中で汽車のことを、「飛鳥のようだ」と表現しています。当時の人々にとって鉄道は、信じられないような高速の乗り物だったのです。
 嘉永 6(1853)年7月、アメリカのマシュー・ペリー提督に遅れること1 ヶ月、ロシアのエフィーミー  ・ヴァシーリエヴィチ・プチャーチンが軍艦4隻を率いて長崎港に入港しました。この時、応接係をしていた佐賀藩士・中村奇輔たちが、蒸気機関車の模型を見ています。これが、国内で日本人が鉄道にふれた最初の記録です。また、ペリー一行も模型を持参しており、翌年の再来航の時には、鉄道模型を幕府にプレゼントしています。その試運転会は好評を博しました。乗組員の日記には「日本人は何よりもこの品を喜んだ」と書かれています。
 さて、最初に鉄道模型を見た中村は、進取の気性に富む人物でした。彼は蒸気機関車の仕組みに興味を抱き、同僚の田中儀右衛門(からくり儀右衛門の異名で有名です)、石黒寛二と協力して、間もなく汽車と汽船の模型を作りあげています。
 一方、筑前黒田藩でも同様の試みが成功しており、このエピソードは、鎖国の中でも日本人の技術力が、決して停滞していなかったということを示しています。
 世界一の技術を誇る日本の鉄道は、この模型から始まったのです。


連載第83回/平成11年12月22日掲載

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