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明治憲法の素顔 Part 1 ②「明治憲法と統帥権」

 我が国の平和と安全を守る自衛隊の「最高司令官」は、内閣総理大臣です。総理大臣は、衆議院議員から選ばれます。そして現職の自衛官は議員にはなれません。よって、自衛隊は文民によって統制されていることになります。この文民統制( シビリアン・コントロール)の仕組みは、現代民主国家では常識に属することがらです。
 しかし、明治憲法下では、軍人が軍を直接コントロールできる仕組み、言い換えれば、文民が軍の命令系統に口出しできない仕組みがありました。いわゆる統帥権の独立です。
 統帥権独立の仕組みは、憲法成立以前からありました。軍の命令系統のトップは、形式的には天皇にあり、その下に陸軍には参謀本部が、海軍には軍令部がありました。慣例でそれぞれの総長には皇族が就任していたので、事実上の長は各次長で、彼らは陸軍大臣、海軍大臣と同じくらいの力を持っていました。
 明治憲法がそれなりに民主的に機能していたときには、統帥権は問題になりませんでした。なぜなら、それは軍の特権ではなく、形式的には天皇大権だったからです。
 しかしこれは、内閣総理大臣の地位の不安定さと共に、明治憲法のウィークポイントのひとつでした。きっかけが与えられれば、軍主導の政治が展開される恐れを秘めていたのです。
 大正10(1921)年、ワシントンで開かれていた軍縮会議で、加藤友三郎( 海軍大臣)全権が、主力艦等の軍縮に応じたことに対して、外交調査委員会で、「訓令の範囲を超えた越権行為で、統帥権干犯である」という意見が出ました。しかし、この時は常識が通用しました。全権が調印しても、天皇の批准が必要であり、憲法13条にも「天皇ハ諸般ノ条約ヲ締結ス」とあるのは
その意味である。つまり「条約調印の時点では統帥権を干犯しようがない」、というのが当たり前の憲法解釈でした。第12 条には「天皇ハ陸海軍ノ
編成及ビ常備兵額ヲ定ム」ともありますが、予算が絡む編成の責任は、天皇が親任している政府にあるのは自明のことだったのです。
 ちなみに加藤海相が出張する際に、原敬首相が大臣のハンコを預かっています。これに対して田中義一陸相が猛反発しました。原はこうやって前例を作り、シビリアンコントロールへの布石を行おうとしていたのでした。
 ところが、 昭和 5(1930)年のロンドン海軍軍縮条約の締結時には、この常識が通用しなくなっていました。しかもそれは、軍部ではなく、政党による攻撃でした。
 立憲民政党の浜口雄幸首相が派した首席全権は、同党の若槻礼次郎前首相でした。補助艦の比率について若槻は、軍令部の要求(対米7割)をほぼ満たす、対米6割9分7厘5毛で調印しました。これに対して野党・立憲政友会の犬養毅、鳩山一郎らは、軍令部の一部が不満に思っていることをタテに、「国防上の欠陥」として政府に対する攻撃を始めました。よりによって、野党とはいえ憲政を守るべき立場の政友会が、統帥権を政争の具にしてしまったのです。統帥権の問題は、明治憲法の「パンドラの箱」でした。こともあろうに、それを開いてしまったのが、政党政治家だったというのがその後の悲劇の始まりだったのです。
 近現代史を語る人々の間では、昭和戦前期の政治を軍の責任に矮小化したがります。しかし、実際には憲法運用の妙を壊してしまった、政党人の責任
も大きかったのです。

連載第12 回/平成10 年7月4日掲載

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