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スポーツ日本史⑦ フジヤマのトビウオ躍動す~古橋広之進の幻の金メダル

 昭和3(1928)年の第9回オリンピック・アムステルダム大会において、鶴田義行が200m平泳ぎで水泳初の金メダルを獲得して以来、わが国は水泳で数多くのメダルに輝き、「世界の覇者」となっていました。しかし、戦争によるオリンピックの中断と我が国の敗北は、その栄光にピリオドを打ったかに見えました。
 戦後初のオリンピック、昭和23年の第14回ロンドン大会にわが国は招待されませんでした。スポーツ関係者は皆一様に失望しました。日本水泳連盟会長であった田畑政治は最後の最後まで、選手派遣のために奔走しました。当時、古橋広之進、橋爪四郎(いずれも日本大学)が、泳ぐたびに世界記録を更新するという状態だったので、何とか彼らを国際舞台に立たせたいと頑張りましたが、かないませんでした。
 そこで田畑は、ロンドン大会の水泳競技が行われる日に、全日本水泳選手権大会を開催することにしました。日本の実力が世界一であることを世界に知らせたいという田畑の信念でした。
 昭和23年8月5日、東京・神宮プールで大会は行われました。8日に古橋が400m自由形準決勝で世界新記録をマークしたこともあって、9日の決勝戦には1万5千人の観衆がつめかけました。
 スタートから飛ばした古橋は2位以下に大きく差をつけ、ぶっちぎりで優勝を飾りました。記録は4分33秒4。ロンドン大会の覇者のビル・スミス(アメリカ)の記録を7秒上6回る世界新記録。また1500m自由形でも、優勝した古橋が18分37秒0、橋爪が18分37秒8で、ともに世界記録を上回る記録でした。これは、ロンドン大会で優勝したジェームズ・マクレーン(アメリカ)に40秒以上もの差をつけていたことになります。
 しかし、我が国は国際水泳連盟に加盟していなかったため、「金メダル」に値するこの記録は公認されませんでした。反日的なアメリカのマスコミは、「日本のプールは短い」「時計がゆっくり動いている」などと中傷し、この記録を信じようとはしませんでした。
 昭和24年6月、日本は連盟への復帰が認められ、8月にロサンゼルスで行われる全米野外選手権に、古橋、橋爪ら6人の選手が招待されました。連合国との間にまだ講和条約も結ばれておらず、まだまだ反日感情が高かったことから、選手団は外務省の役人から「生命の保障はできない」とまで言われました。しかし、昭和天皇やダグラス・マッカーサー元帥からも激励を受けた選手団は、戦後初の海外遠征に燃えていました。普段はすいとん、豆粕、トウモロコシなど、栄養が十分でないものばかりを食べていた日本選手でしたが、コースに出ると別人のようなストロークで、アメリカ人を驚かせました。
 大会初日の1500mは、予選A組で橋爪が18分25秒7の世界新記録を出すと、B組の古橋が18分19秒0をマーク。2位との差は180mもありました。アメリカ人の計測係は時計が狂っていると思ったそうです。古橋は400m自由形4分33秒3、800m自由形でも9分33秒5の世界新記録を樹立し、新聞に ”The Flying Fish of Fujiyama”と報じられるなど、現地のメディアは突然日本選手団に好意的になりました。ロサンゼルス市長は、日本国内でさえ掲げることさえ禁しられていた日本国旗を掲げたパレードをしてほしいとまで言ってきたのです。
 古橋の大活躍は、敗戦で落ち込んでいた日本人に希望を与えるとともに、一足早くわが国の国際社会への復帰を実現したのでした。
 2021年東京五輪の競泳日本代表の愛称「トビウオ・ジャパン」は、もちろん、大先輩古橋にあやかったものです。

連載第79回/平成11 年11月10日掲載

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