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外交家列伝② 青木周藏(1844~1914年)

 明治政府の「宿題」であった条約改正に奔走した青木周蔵は、長門国厚狭郡生田村(現在の山口県山陽小野田市)に、医師三浦玄仲の長男として生まれました。22歳の時に、青木家の養子となり、周藏と改名しました。
 藩校明倫館で学んだ後、長崎留学を経て、明治元(1868)年に長州藩の留学生として、医学を学ぶためにドイツへ渡りました。ところが青木はドイツ滞在中に、専攻を医学から政治、経済学に無断で変更してしまいました。当時ドイツにいた留学生は殆どが軍事学、医学を学んでいたのですが、青木は他の留学生にも幅広く専門分野を選択することを勧めました。日本の近代化のためには、そうすることが正しいと青木は信じていました。その結果、青木の勧めに応じて近代化に必要な様々な産業の基礎を学ぶ人が増え、帰国後実業界で活躍する人が多く誕生しました。
 岩倉遣外使節団がドイツにやってきたとき、木戸孝允と知り合ったことがきっかけで、明治6年に青木は外務省へ入省し、翌年には駐独公使となりました。その後短期間の帰国を除いて長らくドイツに駐在し、伊藤博文が明治15年に憲法調査に来た時には、その手助けをしています。明治19年に帰国し、伊藤が日本最初の内閣を組閣すると、井上馨外相の下で次官となりました。そして井上を助けて条約改正交渉に奔走することになります。
 井上外相の欧化政策は鹿鳴館に象徴されるように、単なる欧米の真似ごとをしていたかのように教科書には書かれていますが、重要なのは万国戦時公約や赤十字などの国際組織のメンバーになったことでした。日本政府は治外法権と関税自主権の一部の回復の為に、外国人判事の任用、内地での外国人の雑居を認めるなどの案を提示して交渉を行っていましたが、交渉の中身が漏洩すると、外国人判事の任用案に内外から激しい非難を浴び、谷干城農商務相らも反対したので、井上は交渉の無期限延期を通告し、辞職しました。
 青木は次の黒田清隆内閣にも留任しました、外相は大隈重信でした。大隈外相は、外国人判事については、大審院に限り任用することを容認する案を持っていました。ところが明治22年4月、『ロンドンタイムズ』に条約案の内容が暴露されると、外国人判事採用を違憲とする声が激しくなり、大隈は10月、玄洋社の来島恒喜による爆弾テロで重傷を負い、辞職に追い込まれました。青木はその後を継いで、第1次山縣有朋内閣の外務大臣に就任しました。
 治外法権回復と関税協定制の案でイギリスとの条約改正交渉をみずから進め、成立寸前までこぎつけたところで、大きな国際問題が発生します。明治24年5月11日、滋賀県大津を訪問中のロシア皇太子アレクサンドロヴィッチ・ニコライ(後のニコライ2世、日露戦争、ロシア革命時の皇帝)を、警備中の津田三蔵巡査(不平等条約問題に憤慨していたと言います)が切りつけ、重傷を負わせるという事件が発生したのです。大津事件です。
 その結果青木は西郷従道内相と共に引責辞任し、再び駐独公使に転じました。青木の交渉を受け継ぐことになった第2次伊藤内閣の陸奥宗光外相は、青木に駐英公使を兼任させて条約改正交渉を再開させ、領事裁判権の撤廃、関税自主権の一部の回復、相互最恵国待遇を内容とする日英通商航海条約の改正に成功しました。
 青木が教科書で言及されるのはここまでですが、青木は明治31年に第2次山県内閣で外相に再任され、明治33年の義和団の乱に際しては、英国などからの要請に応じる形で出兵を行いました。日本軍の活躍もさることながら、日本軍の占領地域だけでは略奪が起こらなかったことなどから、この出兵は国際社会から高い評価を受けることになります。
 その後枢密顧問官となった青木は爵位(子爵)を賜り、明治39年に今度は初代駐米大使として赴任し、当時日米間の懸案となってた移民問題の解決につとめたのでした。

この原稿はnoteのための書き下ろしです。

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