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大正時代を知っていますか?③ なぜ教科書は原敬を評価しないのか

 西園寺公望の後を受けて第3代立憲政友会総裁となった原敬は、大正7(1918)年に「本格的な政党内閣」を組織した人物として教科書に登場します。陸軍、海軍、外務以外の全ての閣僚を与党から選んだからですが、彼が
その当時、性急な普通選挙に反対したからか、その評価は極めて低いものになっています。
 原はかねてから、選挙権拡張を訴えていました。普通選挙についても、「選挙権拡張の延長」だと考えていたのですが、その時点では「時期尚早」だと判断したのです。普選を実施する際には、女性参政権も同時に認めるつもりでもあったようです。「平民宰相」を歓迎したマスコミや大衆はそんなことは知る由もなく、次第に原への批判を強めてゆきます。しかし、原に「普通選挙をしなかった平民宰相」というレッテルを貼ることで、その功績を無にしてしまうのは余りにも乱暴すぎると思われます。
 例えば、原には、学校教育を拡充したという大きな功績があります。大学令を制定し、それまでは帝国大学にしか認められなかった大学という呼称を、私立や公立の学校にも認めました。また、すでに小学校への就学率は100%に近かったので、小学校卒業生の補習授業などを行う実業補習学校の増設を行い、中学校や高等女学校などの中等教育機関も大いに充実させまし
た。原の教育政策は、単にエリートを増やしたのではなく、彼が「師範大学」の設置を考えていたことでもわかるように、国民全体の知的レベルを
アップさせ、本格的な大衆時代を現出させようとしたのです。
 知識を得た大衆が参政権を要求するようになるのは時間の問題です。もしも原が普通選挙否定論者であれば、そのような教育政策は行わなかったでしょう。原は、大衆の政治能力の向上を待って、普通選挙を実施しようと考えたということなのです。
 今日、日本の津々浦々に鉄道網が広がっていますが、その計画を具体的かつ現実的なものにしたのは原内閣の時でした。明治時代の有権者(その多くは、地方在住の地主でした)が政治家に望んだのは、主に地租の軽減でした。それが実現してからは、鉄道の敷設を求めるようになっていました。原は、そういった地方の要求の変化を巧みにキャッチし、大々的な鉄道拡張政策に乗り出したのです。
 戦後の鉄道政治は、地方への利権誘導の最たるもので、中には採算を度外視して強引に建設したものもありましたが、原が計画した路線には幹線になったものも多くあり、ローカル線でも、国鉄、JR が手放した後も、第3セクター鉄道として、地域住民の重要な足となっているものが多くあります。今日と違って、道路交通の発達していなかった当時は、鉄道の持つ威力は絶大
でした。鉄道は人と物を運ぶのみならず、情報を伝え、中央と地方の均質化を促進します。ここでもやはり原は大衆化を戦略としていたことを見ることができます。
 こうしてみると、原は漸進的に政治を大衆のものにしようとしていたと言えるでしょう。志半ばでテロリストに暗殺された原への評価は、大衆政治への流れを作ったという点に、しっかりと見い出されるべきなのです。

連載第18 回/平成10 年8月15 日掲載

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