知識だけでは肉にならない
お肉の画像お借りしました。
人のお金で食べたいものベスト3常連、肉。
胃腸が弱くなったので、良いものを少しずつ食べたい、肉。
そんな肉のお話では、ない。(ないんかい)
よく本を読む人、勉強熱心な人は様々な分野の知識を手に入れることが出来るし、このご時世ちょちょいとSiriやGoogle先生に聞けばある程度のことはわかってしまう、情報の坩堝ですね。
話が前後しますが、プロフに書いてある通りぼくは今、うつ病で通院・療養中です。
診断がついた頃だったか、もしくはその前の「なんかよくわからんけどめちゃくちゃしんどい」「意味がわからんけど辛すぎて死んだ方がましな気がするからとりあえず死んで楽になりたい」と思っていた頃に助けを求めるが如く色んな本を読みました。
ちょうど田中圭一先生の『うつヌケ』が流行っていた頃です。
自分のしんどさの原因が自分の怠惰や性格にあると思っていたぼくは、「皆そんなに病んでるんかいな」と思いながらその本を売っていました。
他にもこう、「生きづらい人のための」とか「人間関係が楽になる」とか銘打ったやつもたくさん読みました。あと、これTwitterでも何回か言ってるけど櫻日和鮎実先生の『パニくる?!』も読みました。無知は罪、知識は武器だと思っているので。
「なるほどうつ病ってこういう感じの症状がこういうきっかけで出て、この人はこういう経験をして治らはったのね」
「なるほどこういう物の考え方をすればいいのね、こういう物言いをすればいいのね」
「なるほど病院に行くのは早い方がいいのね」
経験者の言葉は何よりも説得力があり、なるほどなるほどと思わされることばかり。
でも、対人関係改善のための知識を手に入れてもちっとも気持ちが楽にならん。
ノウハウとして本に書かれていたことを試すものの、何も解決しない(そもそも問題点が違っていたので本のせいではない)。
自分の意思を曲げてノウハウで行動するのでしんどさに拍車がかかる。
でもこれが正しいって書いてあったし、上手くいかないならぼくが悪いんやろうと思ってバカクソ真面目にやり続けました。
ライフハックが全面的正解と思い込んだ人間の末路です。
そしたらなんか、これは今から思えばなんですけど、めちゃくちゃ自分の性格が悪くなっていく。
無理して問題を解決しようと四苦八苦しているもんだから、苦しさのあまりだんだん思考が「なんでぼくがこんなに苦しい思いして頑張ってるのに周りは理解して手伝ったりしてくれないのか」というようになっていくわけです。自分は正しいやり方をきちっと守って行動していると思ってるから、「こんなこともちゃんと出来ないなんてお前ら人間のクズなのでは?」くらいに内心毒づくことも多くなりました。
今思うと、ぼくはぼく、周りは周り、別個体なのでぼくがやらんとしていることをそのまま周りが全く同じにしてくれるなんてこと有り得ないんですが、もうだいぶやばいことになってたんでしょうね、その時は本気で自分以外の人間にキレたおしておりました。あくまで内心でですが、顔にも態度にも出てたと思います。誰もぼくに無理しろとか苦しめと言ってないのに最終的に人のせい。最悪ですね。
けどもよくよく考えてみると『うつヌケ』にも同じように、頑張りがおかしい方向へ行って周りにめちゃくちゃに当ってしまう人のエピソードがいくつも出てたんですよね。何故読んでたはずなのに、気付けなかったんでしょう。
考えてみると人間は何故過ちを犯すのか的な話になり、間違いを間違いだと理解しているのに幾度も間違ってしまうのは何故なのかということに行き着いた。人間は罪深い。
で、最近医療機関の相談員さんと話してて気付いたのが、
「知識や先達の経験則はあくまで骨組みである」ということ。
そこに自分の体験や経験で肉を付けていかないと身にならぬのではないかと。
勿論知ってて損はない。でも病状であったり環境であったりは千差万別、物事ひとつにとっても感じ取り方受け取り方の方向やでかさまで個々それぞれ。
こういう時はこうしたらいいよ、が必ずしも当てはまらないってことは当たり前に存在しうるわけで、例えるならチョコレートうめぇ…明治が一番うめぇって思っても別の誰かは森永派かもしれないしCOOPのPBのやつが好きな人もいるしハワイのやつがいい人もいるしベルギー至上主義だっているわけで。
全てに当てはまらない以上、いっぺんやってみるしかなく、合わんかったら別の方法を取るしかないわけで。
そんなこともずっとわかってないまま、自分のことを信用していないあまり、人様の言うことこそが世界の真実であると信じやってきたけどしんどいだけで何も解決せん、世界が俺を裏切った!世界が俺を拒絶しているもう死ぬしかねぇ!……というところまで行ってもうたわけですね。
そのように気付いてからも、自分のことを信用していないあまり、他者を基準にしてしまい勝手に1人で息苦しくなって地上で溺れ死ぬ仮面ライダーアギト劇場版みたいなことに、気を抜いたらいつでもなります。
多分、色んなジャンルの骨ばっかり集めてこれらの骨の形が正しいのだと思い込んでいたので圧倒的に肉が足りないということなのだと思います。
人間、骨だけでは立って歩きもできませんもんね。異世界では知らんけど。
というわけで肉です。
必要なのは今ある骨に定着させる血の通った肉。
つまりそれは経験であり体験であり、身銭を切ることであり体当たりをすることであり。
これからも痛かったり死ぬほどしんどかったり腹立ったりするんだろう、肉のために。
それが人生だよ的なことを、きっと誰かが世界のどこかで言い残しているに違いないので。
知識や経験則が骨なのは、せめてこの骨を使って手遅れになる前に気付いてくれ、という先人たちのメッセージなんだと思う。
万人に寄り添えるものなどありゃしないけれど、似たようなことから応用してもらえたらいいな、という優しさだ。
必要以上に長く苦しむことはないよ、という。
なのでぼくも骨につけられる軟骨成分くらいは誰かのために残したいものである。
肉をつけます。
色んな意味で(去年からえぐいくらい痩せて入滅直前の釈迦じみているので)。
とりあえず肉食べます。
おにくおいしい。
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