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古事記(ふることふみ)

『ふることふひと』 マッグガーデン刊

風越洞先生✕壱村仁先生タッグの新作を読んだ。推してぇーーーー積みてぇーーー!!!一番目立つ話題書コーナーに50冊積みてぇー!!版元さーん!!って気持ちになった。尚店舗がないので脳内でフェアをするしかない。史さまと阿禮さまの等身大パネルを置いて、この美麗な表紙イラストが使われた販促ポスターを天井から提げたい。POPもいっぱい描きたい。

まだ、書店員の本能が生きている。しぶとく、未来ではなく過去に生きている。

さて。

藤原氏大好きというわけではないけど、集英社刊の『あをによし、それもよし』の不比等様とは全然違うイメージの、「偉大な父と比べられる訳あり没落貴族のおぼっちゃま」な史さま。見目麗しく、一度見聞きした文面を覚えてしまう特性を持つなんとも羨ましい逸材。

正直日本人ってこの辺りの時代に一番馴染みがないというか、親しみが湧きづらいというかイメージしにくいというか、大河ドラマには取り上げられねぇだろうなって感じの印象がありますね。私は小学館刊の『天智と天武』を大河ドラマにしてくれと死ぬほどTwitterで叫んでいるのですが皆さんどうですか。未読なら読んで。昼ドラや火サスもかくやとばかりのドラマティック兄弟愛憎喧嘩。愛と憎しみと渇望は同義。オタク丸出しで平たく言ってしまえばめっちゃホモ。異父兄弟ホモ最高。

話を元に戻します。

「中臣鎌足の息子」ではない「自分」を確立したい、けれどそれは出世して名を上げたいという欲求とは違う、「己の力で何かを成す」という、いわばキャリアとは別の気持ちをもって、大王(おおきみ)からの密命である『古事記(ふることふみ)』の編纂に携わることになるんですが、

何故か女装をすることに。(何故かは読んで確かめて!ってやつです)

Twitterにも書いたのですが、「正しき」史書を残すのが何故必要なのか、ほぼ漢語でやり取りや記録が行われていたこの時世にそれを「やまとことば」で記す必要とは何なのか、そもそも「やまとことば」ってなんじゃらほい、という

国を形成する一端がゆるやかに伝わる、優しい仕様なのにすごく勉強になります。

で。

ほーがちゃん思い出したんですよ。大学でそういや、古事記の講義あったべや、と。

教科書は捨ててない、とハッハが言っていたので探しましたらありました。それが写真の下にある青い表紙の本です。

開いてみると、

なんじゃこりゃ全然読めん。わからん。

ほんのりと線が引いてあったり、己の字でなにやら数字がうってあったり言葉を丸で囲んであったりするんですが、それが何を表すのかさっぱりわからんちんなのです。

ハハーーーーーンそうかこいつ(自分)、まともに講義聞いてなかったな……?!

我ながらなんちゅう勿体ないことを。自分ひとりで学ぶにはかなりハードルの高いこの時代の史書について、専門にされている先生から教えてもらえるっちゅうのに、ひとっっっつも思い出せねぇ。お前は親に金を出してもらっておいて、まじで何をしていたのか。

親に抱きついて謝りました(事実)

あっ、でも伊邪那岐命が伊邪那美命を黄泉へ迎えに行ったけど黄泉を出るまで振り返るなよって言われたのに振り返ったから奥さんブチ切れてめちゃくちゃ追いかけてきて大変やったエピソード(お前、神代の話をエピソードて)とか、天照大御神がお隠れになった話とか、ギリシャ神話にも似た話あったなって思って、

それを「人間の根本に同じ物語があるのでは」って仮説を立ててレポート書いた記憶はある。

今考えたら、卒論で使ったユングの元型論に繋がるような気がするから、うん、無駄ではなかった。古事記は一切読めないけど。

本は「まじで使ってなかったんだなこいつ」と丸わかりなくらい綺麗な状態なので、これを機に少しずつ、勉強してみようかなと思いました。

不思議なもので、学べる機会に恵まれている時はさっぱり興味がわかなかったのに、

それがとっくに過ぎ去った頃、あの時もっとちゃんとしとけば良かったと後悔する。

だから大人は、自分より若い世代にちゃんと勉強しときなさいよって言うのかもしれない。

本人が必要だと思った時に一生懸命学べる環境があるのが一番理想なんだけども、そんなうまくはいかんよね。

誰になんて言われても、自分で気付かないと意味がないとも言うしな。うん。

というわけで、古事記は読めなくても楽しい『ふることふひと』、お手元にいかがですか?

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