ありのままのレリゴーではいられない(夢見る少女じゃいられないみたいに)

こんばんは、ぼくです。(誰だよ、となるかもしれないがなんかこの出だしを言ってみたかった)
ゴリゴリのACでズブズブの共依存、絶賛鬱治療ニート歴2年目突入のしがない生き物です(書いててしにたくなってきたな)

いきなり始めますが、12のステップやアドラー心理学で、「承認欲求」を持つことをやめる(承認されたいという思いから解放される)という言葉が出てくるのだけれど、

えっ、承認欲求って持ってたらあかんの……?

と思った自己肯定感底辺絶賛生きる意味なぞ見い出せない皆さん、皆さんは間違っていません。故にぼくも間違ってはいない。

褒められたい、認められたい、ここに居てもいいと言われたい、君のことが必要だと名指しされたい。

そう思って生きることは悪ではない。
とでも思わないとやってらんねぇ(本音)

初めてアドラー心理学関連の本を読んだ時に、あまりの言葉の強さに「このアドラーっちゅう人はメンタル弱者にトドメを刺すために心理学者になったんか?鬼か?」と思ったものです。

思い返してみると最初の鬱治療3ヶ月で「もう薬なくても大丈夫です」とお医者に言われて、そうかお医者がそう言うならまだしんどいと思うのは気のせいで、己の気の持ちようとか認知の歪みを修正すりゃなんとかなるのねなんとかするしかねぇのね、となっていた頃でして

少なくとも当時のぼくにとってはそれくらいの劇薬で痛みを伴うものだったので、摂取する際はまじで気を付けないといけないと思う。取り扱い注意の貼り紙しといてくれ(無茶)

話は急に変わるが、ぼくは長女である。
長女も長女、長子の長女である。
ほんとうに痛い時もずっと我慢をし、次女だったら我慢出来なかったであろう事象にも耐え、
刀を構え敵を見据え己を鼓舞する運命の生き物であるがんばれほーがちゃんがんばれ(そんな運命の鎖はない)。

そんなテンプレート長女ぼくは、大家族密着取材番組が死ぬほど苦手である。
見たら絶対、長女や長男について「絶対弟妹たちのために親の代わりをさせられているんだ」と思って勝手に彼らの心中をお察し申し上げ勝手に苦しくなってしまうからだ。
勿論、自主的にきょうだいの面倒を見て親御さんのサポートをして頼りにされているケースも多いだろうけれど、

どうしても、

それはほんとうに自主的なんだろうか
それはほんとうに彼ら自身が確立した意志の元に行っているのだろうか

(同じ内容を文面を変えて書くのは無意味なのでやめましょうと学生時代レポート添削で先生に言われたこと忘れたのか?と思う文章でしにたくなってきた これはレポートじゃないから別に構わないはずだが)

と思ってしまうのだ。
偏見ですか?
偏見です。

恐らくぼくが「自主的にそうしていたと思っていたけれど、よくよく考えたらそうではなかった部分もある」と気付いてしまった故の、「他の長子もそうに違いない」という偏見である。

これは恨み言ではないのだけれど、

家の中で親から

「お姉ちゃんは頼りになるわ」
「お姉ちゃんがいるから大丈夫やな」
「お姉ちゃんおらんかったら困るわ」

ってなことを言われて頼りにされたことがある長女(あるいは長男)はいるだろうか。

これは褒め言葉だと思うだろうか。
頼りにされて嬉しいと思うだろうか。

家で親からも「お姉ちゃん」と呼ばれ続けるのって、ずっと気づかなかったけど結構きついものがある。
だってぼくたち長女(あるいは長男)は親の姉や兄ではないのだから。

一度親に言ったことがある。
私は父さん母さんの姉ではない、と。

返ってきた言葉が以下である。

「じゃあなんて呼んだらいいの?」

じゃあぼくの名前はなんですか???????

別に家で名前を呼ばれなかったから自己が確立しなかったとか「姉」という属性でしか扱われなかったとまでは言わないが、

こんなに侘しいきもちになることってあるだろうか。

それでも「姉」で居れば、姉の行動をとっていれば、褒めてもらえるし認めてもらえるし、姉であることに変わりはないので、昔のぼくは別段何も思わず過ごしていた。

そして先日も母親に言われたのだ。

「姉ちゃんおらんかったらお母さんなんも出来へんわ」

母親からしたら、これは多分「ありがとう」と「頼りにしてる」の意味なのだろうけれど

そうだろうそうだろう、とぼくの中の「姉」がドヤる反面、

これはある種呪いではなかったかと思ってしまった。

頼られないと、役に立たないと、自分に価値がないここに居てはいけないと無意識に他人様の顔色を伺い、頼まれもしないのに境界線を越えて世話を焼き、自分の範疇以上のことをして疲弊する割に自分へ還元されてくるものの小ささに不満を抱き、

けれど不満などと言ってはいけない、見返りを求めるなんて恥ずかしいことだと尚も世話を焼く。余計なお節介を繰り返して人の領域に踏み込んで人の分まで背負いこんで。

ぼくにとっての「承認欲求」が連れてきたものはこんな感じのものだった。

自己肯定感というものは、何をするしないに関わらずありのままの自分を肯定することらしい。レリゴーである。

でもアナ雪で「ありのままの姿見せるのよ」「これでいいの」と歌っていたエルサに違和感しか覚えなかったぼくは、ジココウテイカンというものが全くレリゴーではないと思ってしまった。
ありのままの自分では駄目だったじゃないか。

でもエルサにはアナが居た。
アナを肯定しアナに肯定されることでエルサは自己を確立し安定したとぼくは解釈した。

そしてぼくにとってのアナはどこにいるのだろう(まさかのエルサ気取りである)。

自己肯定、という言葉の響きがしっくりきてないのか、ぼくは「ここに居てもいいと自分で思えること」という方がストンとくる。
コウペンちゃんのように自分を「すごーい!えらーい!」と言うことではなくて、特別何かを拾い上げなくてもここに存在することを許せるし許されていると信じられること。

自己肯定感底辺のぼくたち(勝手に複数形にして主語をクソデカにする手法)は、心にコウペンちゃんを住まわせて自分を褒めることすら上手く出来ない。

あれをやったからえらい、
これができたからすごい、
君は優しいからここに居てもいい、
君は頼りになるからここに居てほしい、

それではぼくたちは何も助からないと最近ようやく気づいた。
何も助からない上に自分では作ることもできず、どうしようもなくそれを他人に求めてしまう、それが「承認欲求」の正体のひとつなのだと。

気づいたところで解決するとは言っていない。
解決には時間が掛かるし、多分一人ではできないと思う。
結局のところぼくたちエルサには、アナが必要なのだ。

話が二転三転して結局何が言いたいのかわからなくなってきた。

結局のところ、「ここに居てもいい」と思えることが自己肯定感であり、それは承認欲求と似ているが全然違うものだと最近理解できた。
アドラー先生、死神呼ばわりしてごめんなさい。

かといって、自己肯定感を上げるとか自己肯定感を持つとか言葉で理解できてもなかなか上手くいかんものだ。持つぞー!と思って持てるなら誰も苦労してない。むしろ売ってくれよ自己肯定感。ハンズとかで。

Twitterでも言ったかもしれないが、ぼくは自分を唯一無二の存在だなんて思えないし、いなかったらいなかったで別の歯車で世界はしれっと回ると思っている。
ただシンプルに「ここに居てもいいんだ」となかなか信じられず、今日も「そうか、ぼくが居ないとハッハやチッチは困るのだな」と承認欲求をくすぐられて生きている。

アドラー先生から見たらこれは不健康なのかもしれないが、理論を理解しても、

なかなかこの不健康からは、脱却できそうにない。

求められているというのは、どうにもここちよいものだから。

ひとまず自分を削らない程度まで、抑える練習からしてみようと思う。

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