俺は観光客じゃない『Shenmue the Animation』第6話「凜乎」

『Shenmue the Animation』第六話「凜乎」の感想を書く。

https://www.nicovideo.jp/watch/so40427850

今回から横須賀より舞台を移し香港編の物語が始まる。
ゲームでは『シェンムーⅡ』にあたる部分で、物語もより大きく動いていく。

これまでのあらすじ
マッドエンジェルスを倒し、人質となった原崎を救出した涼。香港行きのめども立ち、彼は横須賀を離れる決意を固める。陳大人は香港行きの船を手配し、現地で「桃李少」という人物を頼るよう涼に紹介状を渡す。その時、蚩尤門の刺客・チャイが涼たちを襲撃。涼はチャイを撃退するも、旅の供となるはずだった貴章は重傷を負ってしまう。横須賀に残ることとなった貴章と陳大人に見送られ、涼はひとり香港へと旅立つ。

香港の洗礼

長い船旅を終え香港に到着した涼の目に映るのは、香港の賑やかで雑多な様子だ。到着早々バイクを乗り回す少女・ジョイに轢かれそうになったり、地元のギャングにバッグを盗まれたりと、見知らぬ土地の洗礼に「香港、か…。」と涼は独り言ちる。原作となる『シェンムーⅡ』も流れはほぼ同様で、『シェンムー 一章 横須賀』からよりエンターテイメント性が強められ、イベント数も多く派手なものになっている。アニメ版とゲームの違いとしてわかりやすいのが、プレイヤーに対するアトラクション要素が削ぎ落とされたことだ。ゲームではジョイと出会うまでに、露店の売り子や簡易宿泊所、占い、アームレスリングといったイベントが配置され、道すがら必ず出くわすように作られていた。これらはいわばゲーム内でどういった体験ができるのかの顔見せであり、香港がどういう街なのかを説明する役割があった。また、より本筋のストーリーに関わり合いがある部分として盗まれた荷物の中身が変わったことが挙げられる。アニメでは鳳凰鏡をはじめ貴重品や所持金だけは盗まれておらず、持ち物全部を盗まれていたゲームとは異なっている。ゲームでは荷物を探すという目的がメインストーリーとして存在し、所持金を失うことで副次的にお金を稼ぐ手段をプレイヤーに考えさせるという効果を持っていた。こうした部分はアニメでは省略され、涼が荷物を取り返すモチベーションにも変化が生じている。ゲームでは貴重品を取り返すことは何よりも重要なことだったが、アニメでは今回の話を通じ、最後に自身の積んだ功夫(クンフー)の成果が発揮される場として荷物の奪還が描かれている。

観光客

横須賀ではメモなど持ち歩いていない様子だった涼だが、香港ではメモを常に携帯している。ゲームにおける涼は船の中で広東語をマスターしていたが、アニメではメモを参照しながらでないと会話がおぼつかない。
日本人が発する「外人」というフレーズは日本国外の人にとって印象に残るものだというが、それと同様に香港では「観光客」というフレーズが涼によく投げかけられる。
この言葉は、日本から来た自分が現地の人々にとってよそ者であること、そして観光を目的に旅をしているわけではないことを涼に再確認させる言葉だ。だからこそ涼は横須賀にいた時以上に焦りに駆られた心境に陥る。そんな時に公園で太極拳の功夫を積む老爺・建民と出会う。一刻も早く桃李少に会おうとする涼に、建民は太極拳の技「小禽打」を木に打ち込み、その落ち葉で地面を覆い尽くせれば桃李少についてヒントを与えると言う。
ストーリーの展開がゲーム版の間を取り去りテンポがよくなっている一方で、この修行にまつわる部分は一話全体を使いじっくりと進行する。はじめは「悠長なことはやってられない」とでも言いたげな涼だったが、建民の挑発めいた言葉に思うところがあり、黙々と木に小禽打を打ち込み始める。ゲームでの建民は飄々とした好々爺といった感じだったが、アニメでは涼を奮い立たせる為にあえて苦言を呈するような側面が加えられている。小禽打の修行は今回のストーリーの後半に関わり、ゲームでは直接繋がりのなかった涼のバッグの奪還がこの修行の重要なトピックとなる。

返還前の香港

本作の舞台は1987年頃の香港で、当時はまだイギリス領だった。
英中共同声明が英中間で1984年に署名され、中国返還を1997年に控えた、香港が歴史の転換点を迎えつつあった時期だ。ゲームをプレイしていた時にそうした雰囲気を感じることはほとんどなかったが、アニメではそれらが強調して描かれている。
涼が荷物を盗られて駆け込んだ警察署にはユニオンジャックが掲げられており、先の見えない香港の現状についてジョイが語るシーンでは、過渡期にある香港で人々が混迷しつつ目の前の生活を送っていることがわかる。ジョイ自身についても、これまでの香港の歴史が彼女の身分に関わっているような、ジョイの内面が垣間見えるカットが一瞬入ったりと、香港とそこで暮らす人々がどういう経緯を経てきたのかが明示される。
涼からバッグを奪った少年・ウォンは水上生活者として暮らす孤児で、彼もまたこの混迷の世の中で盗みをしなければ生活できない弱者だとジョイは言う。だからこそ強者である涼に、ウォンたちの居場所を教えることを拒んでいる。
建民との修行の中「拳法は相手を傷つける為にあるのではない」ことを知った涼は、バッグさえ取り返せればウォンたちは傷つけないとジョイに約束し、彼らの居場所を聞き出す。涼に見つかったウォンたちは破れかぶれに襲ってくるが、これまで功夫を積んできた小禽打を用い、相手に打撃を当てずに彼らを怯ませ、バッグを取り返すことに成功する。この実戦をきっかけに小禽打の極意を身に付けた涼は、建民の出した難題にも応える。建民が言う桃李少についてのヒントとは、常に怠ることなく日々修練を積み重ねていくことを意味する武徳の「功」、つまりこの修行そのものが桃李少へ繋がるヒントであり、これを会得した涼であれば桃李少は会ってくれるだろうというものだった。
ゲームでは関りの無かった小禽打の修行と鞄の奪還が、アニメではひとつに繋がっている。武徳を得る流れも大幅に異なっており、ゲームでは4つの武徳を得れば桃李少は会ってくれるだろうと進言され、それをもとに涼が行動する展開になっていた。対してアニメでは、武徳自体を知らない涼が修練を受けるうちにそのひとつを得ていた、というものに変化しており、4つの武徳の収集というゲーム的な部分は取り除かれている。
桃李少の正体とは涼が文武廟で出会った女性、紅秀瑛である。ゲームでは彼女の正体が明かされるまで先述の武徳集めなどで随分と苦労させられたが、アニメではこの第6話のエンディングで明かされる。香港到着から桃李少との出会いを一話にまとめてしまったアニメ版は、『シェンムーⅡ』のプレイヤーである自分からすると驚きを覚えるものだった。

ゲームとしてのシェンムーの物語は、横須賀で父の仇打ちに燃えていた涼が、旅の中で人々と出会い武術を学ぶうちに、仇打ちとは別の目的を獲得していくものだと思っている。これまで『Shenmue the Animation』を観てきたが、アニメの涼は仇打ちよりも父そのものを知ろうする面が強く、視聴者としては安心して見ていた部分があった。しかしこの第6話では彼の中の信念が仇打ちに傾いているように思える。
観光客でないならなぜ香港に来たのかを問うジョイに対し、涼は「真実を知るために。やられても黙って受け入れるしかないのがここの掟なら、俺はその掟を破ってでも目的を果たす。そのために香港に来たんだ。」と返す。
この台詞を聞いて、自分は彼の中にまだ危うさが残っていることを感じた。
自分はゲーム版のプレイヤーなので、この先のストーリーがどのようなものか知っている。しかし涼の中にある危うさのバランス感覚が傾く瞬間はゲームと異なり、自分は知らない。涼個人がこれから何を思っていくのか、想像を膨らませながらエンドロールを観ていると、最後に新たな登場人物「レン」が登場し、「面白くなりそうだ。」と呟く。

自分としても全くその通りだと思っている。


・公式サイト
https://shenmue-anime.jp/

第五話感想はこちら。


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