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手が止まらなくて何が悪い

私のような制作の仕方(※1)をする作家を皆一括りにして、

「自分の中にある問題の解決から逃げている」
「根本的なものを直そう(治そう)としていない」

と簡単に言ってしまう人間がいる。
各々の事情を知り尽しているわけでもないのに。


私も過去に自分自身のことをそう思っていた。自分を矯正しようとした時期がたしかにあった。

「普通」が何かを考え、それを軸に(おそらく)外野から見て不要(あるいは不快)だと思われるような感情や拘りなどを徹底的に隠し、殺そうとした。

絵を描く時には様々な色を使ってみたり、描くモチーフの意味やそこに込めた思いなどからはなるべく距離を置くようにしたりもした。
わかりやすく素材を変えることや、わざと視点をずらすことにも手を出した。
これらは「実験として」決して無駄なことではなかった。良い経験だった。

しかし、作品自体はどんどんサイズが小さくなり、保守的なものばかりとなっていった。
言い方を変えれば、つまらなくなっていった。周囲にどう見えていたかはまた別だけれど、作り手である私にとっては間違い無くそうだった。


結局、自分やどこかの誰かの思い込みによる「普通」が前提のことなんて、所詮は全て幻想なのだと理解した。


手が止まらなくて何が悪い。
絵に力を込めて何が悪い。
たった一人の誰かの心を守りたくて、
怒り狂って涙を流して、
それを絵にして何が悪い。

誰もが抱えうる何らかの「問題」は、少し視点を変えれば、創造するための「力」と捉えることができる。
それならその能力を存分に使えばいいじゃないか。


それをも「言い訳だ」という奴がいるなら、
おしえてやろう。
ありもしない「普通」という偶像を崇拝し、
「普通」に縋ること自体がそもそも言い訳なのだよ、と。


(※1:私は、感情の大きな揺らぎを持っており、それに乗りながら、時に逆らいながら制作を行なっている作家の一人です。特に「怒り」は、起爆剤になりうる感情の一つです)

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