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「水道橋博士のメルマ旬報」第十一回

天狗が好きだ。どこが好きかというと見た目だ。自信に満ち溢れた表情と山伏のような衣装が良い。僕にとっては、勇気とやる気を起こさせてくれる存在だ。世間一般的には妖怪や魔物ということで、印象はあまり良くないと思うのだが、僕が思う天狗は人間が天狗のお面を被っている天狗だ。つまりは、どこにでもいる人。羽も、リュックサックのように背負うタイプのものだ。

天狗は架空の生き物だけど、もしも僕が天狗のお面を被り、山伏の格好をして、羽を背負って、下駄を履いて、人里離れた山奥でずっと一人で2、30年間も過ごせば、その姿を何かの拍子で目撃した人は、僕を天狗と見間違える可能性があると思っている。ただ、家にいるときは不便なので、もちろん天狗のお面は外すし、羽も背負わないし、下駄も脱ぐ。スウェットなどの部屋着に着替えて、快適に過ごす。

偽物の天狗が本物の天狗になれるとしたら、時間はかかるが、このやり方以外にはないような気がする。そこで思うのは、そもそも本物の天狗なんていないのだということだ。きっと、偽物だった人が、天狗の格好でずっと忍耐強く生活して、天狗に間違われた。ただそれだけなのではないだろうか。

どんな人でも、最初は何者でもなかったはずだ。何かを続けた結果、何者かになる。周りからそう思われる。それだけなのではないのだろうか。ただ、その期間は、ある程度の月日が必要で、途中で投げ出して辞めてしまうから、みんながみんな、天狗になれるわけではない。

僕はその天狗化計画の天狗の部分を画家に変えてやっている。大事なことは自ら画家と名乗るのではなく、誰かが僕のことを画家と間違えるということだ。

僕は絵を初めてまだ1年と8ヶ月ぐらいだが、この先もずっと続けて、あと20年ぐらい続けたら、きっと誰か一人は僕のことを画家だと勘違いするだろう。というか、20年も絵を描き続けて、定期的に展示会もやり絵が売れたら、画家と言ってもいいかもしれない。

その壮大な画家になる計画の一端である、初めての展示会が2月5日〜26日の期間でパリの画廊でいよいよ開催される。自分のことなのだが、何か他人事のような感じがするのは、僕には画家という自覚が、ほとんどないからだ。実際、料理人として仕事する傍らで絵を描いているという意識である。事実としてそうなのだが、そう思うことが良いことなのか悪いことなのかは分からない。

しかし、今回の展示会で僕の絵を見た人が、どう感じてどう思うか、ということにはとても興味がある。日々描いている絵をSNSに投稿して、みんなに見てもらっているが、画廊で実際に原画を直接見てもらえる機会は、この先きっと、そうあることではないだろう。


僕は間もなく、人生で初めての経験をする。そして、その経験は、また絵にも反映されていくだろうし、僕の画家化計画の「画家」としての説得力も増していくことだろう。

初めての経験を前に、僕には期待と期待だけしかない。つまり不安はない。これは年齢的なものなのか、絵で失敗しても誰にも迷惑がかからないと思えるようになったからなのか、楽しみしかない。

いつか天狗になれると良いなあ。

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