1.教師生活1年目

   僕の生まれ育った家庭は5人家族で、父は医者、母は専業主婦です。暮らしぶりは豊かで、両親はとくに何不自由なく3人の男兄弟を育ててくれました。兄弟の仲は基本的には良く、ケンカも数度しか記憶にありません。大学生や高校生になっても、3人揃えば近くの公園でサッカーをしていました。僕は兄弟に恵まれていたと今でも思っています。弟2人はどちらもサッカーが好きで、とくに仲が良かったと思います。僕は高校から家を出て寮生活を始めたため、それ以降は物理的にも精神的にも2人と距離ができてしまいました。弟との思い出はそれ以前のものがほとんどです。今も心に残っているのは一緒にゲームをしたり、漫画を読んだり、風呂に入ったり、野山を走ったり、おそらくほとんどの兄弟が持っている、ありふれた幼い時のキラキラした記憶です。


 2010年4月、大学を卒業した僕は、非常勤講師として実家の隣のF県F市の私立高校で1年間働くことになります。かなり規模の大きな学校でいろんな生徒がいて、いろんな経験をさせていただきました。1年目でしたが、希望が叶って男子バレーボール部の顧問になることができ、部活をとても楽しみにしていました。スポーツにも力を入れている学校でしたが、担当になった男子バレー部は弱く、それに対して隣で練習している女子バレー部や女子バスケ部は、いつも激しい練習をしていました。まずはこの男子バレー部での思い出からお話を始めたいと思います。


 僕は中学校から大学までおよそ10年間、バレーボールに打ち込んできました。大好きなバレーに部活でも関われることになりましたが、はじめは生徒の様子を見ながら和気藹々と楽しいだけのチームでいいかな、と思っていました。生徒も、手を抜いているわけではありませんが、それほど熱心に練習に打ち込んでいるようにも見えない、そんなチームでした。1ヶ月ほど経ったある日、ヘラヘラ筋トレをしている生徒に対して、僕がゆるく指示を出していたところ、同じバレー部の先生に生徒と一緒に叱られてしまいました。失礼ながら話の詳細までは思い出せませんが、10年経った今もその気まずい雰囲気はしっかり記憶に残っています。新米とはいえ一人の顧問です。自分の責任でした。
   その後、生徒に頭を下げました。そして、生徒と話をして何を目指してどういうチームにしていくか、自分の考えと気持ちを伝えました。調子のいい先生と思われたでしょうが、強いチームを目指さないか、と。生徒たちももともとスポーツマン気質ではあり、隣でがんばる女子たちに負けたくないという気持ちはやはりあったようです。雰囲気を変えることに対して抵抗はそれほどなかったように見えました。この後もつまらんことでのお説教も含めて色々ありましたが、少なくとも練習に取り組む眼差しは、少しずつ変わっていってくれたと思っています。
 この年の7月に3人の3年生が引退し、初心者2人を含む7人の新チームがスタートしました。2人の初心者の運動神経がかなり良かったので、僕はそれほど不安は感じていませんでした。練習メニューを見直して、練習中もきびきび行動、気持ちを込めてボールを触ることを口酸っぱく語り、皆かなり上達したと思います。やはり隣のコートで、一生懸命声を出して練習している女子チームの姿がいい刺激になりました。僕も女子チームの監督に負けないように厳しく、練習に臨みました。相方の先輩はあの「一喝」のあとも、練習時間やメニューなど全てを僕に任せてくれました。僕の相談にはしっかり応えてくれましたが、基本的には静かに見守っていてくれて、安心して生徒に対して厳しい言葉もかけることができました。未だに僕には真似できない、信頼できる姿でした。チームと自分の成長を実感しながら時を過ごし、今思えば教師として本当に恵まれた環境にいたとつくづく思います。
 ついでながら同じ頃、別の先輩からもう一つ大切な言葉をいただきました。「生徒が先に命を落とす場面が、いつか必ず来ると覚悟して生徒に接しなさい」という言葉です。幸い僕にはいまだそんな場面は訪れていません。初めて聞いた時には、その覚悟なしにこの仕事を選んだ自分を強く恥じました。自分の行動や発言が生徒にどんな影響を与えるか、彼らがどんなことを感じ、考えるのか、もっと深く知りたいと思うようになりました。


 もともと1年契約の非常勤講師としての社会人1年目でした。夏からは新しい職場を探し始め、予定通り実家のある隣県の、中高一貫の私立校の採用試験に応募しました。旅の2校目として地元を選んだ訳です。筆記試験と面接、模擬授業の採用試験を受けて、採用が秋には決まりました。バレー部の生徒たちには早めに異動を伝えました。1年間は最後まで真剣に練習に取り組み、できるだけ沢山のものを残そうとしたつもりです。
 最後の練習は近くの高校との練習試合でした。その時は自分の人生を優先することに抵抗はなかったのですが、やはり生徒たちを最後まで責任持って見守り、一緒に成長する機会を自ら手放しました。申し訳ないことをしたという気持ちは年々強くなっていきます。

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