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<槍ヶ岳>最後の梯子を登った先に見た剥き出しの大地

この目の前の梯子を上れば登頂達成だ。見上げる梯子の角度は、ほぼ垂直といってもいい。梯子の上にはだだっ広い青空が広がっている。最後の梯子の数は31段。登ろうと決めてから読んだガイドブックに書いてあった。たったなのか、そんなになのか、登る前は、前者であったが、今見上げると後者の気持ちだ。とてつもなく高く、長く見える。

槍ヶ岳の標高は3,180m。日が昇る前にふもとを出発し、すでに6時間以上歩き続けている。酸素の薄さもあり、一歩一歩の足取りは重たくなっていた。

槍ヶ岳、最終地点。その名前が現すように、山頂部分は槍のように鋭角になって、空に突き出していた。その一際目立つ山容は登山者の多くを魅了してやまない。この尖がった部分が最後の一番の難所といえ、ごつごつした岩場が登る者を威圧し、覚悟を問うてくる。

目線を上に向けたまま、ここを登るのかと思うと、心臓が高鳴り緊張が増してきた。だが、登頂はもう目の前。あと少しの頑張りであそこに立つことができる。「集中だ、集中」大きく深呼吸をした。前を登る登山者との間隔が十分開いているのを確認して、梯子に手を伸ばす。

梯子を掴むと手が汗ばんでいるのに気づいた。一度離してズボンに手のひらをこすりつけた。

もう一度掴む。ひんやりとした冷たさと鉄のざらりとした感触が手のひらに伝わってきた。右手も同じように梯子を掴む。そして地面から左足を離して、静かに梯子にのせた。大きく息を吐く。3点支持を忘れない、絶対に下を向いてはいけない、その2つを自分に言い聞かせた。上に目を向け「行くぞ」と静かに声を出す。慎重に手足を確実に移動させていく。「そうだ、それでいい。そうやって少しづつ上にあがっていくだけだ。」

一段一段登っていくうちに、果たしてどれくらいの高さに今いるのか気になってしまい、思わず下を覗き見てしまった。見てしまったことを即座に後悔する。心臓が速いペースで高鳴るのが、手に汗が滲んでくるのが分かる。下に落ちれば崖下に真っ逆さまだ。命の保障はない。

反射的に上を見る。前を行く登山者は登りきったようで、もう見えない。しかし、まだやっと半分の距離を過ぎたあたりだ。「なんでこんなとこ登っているだよ」。全く理不尽な言葉が湧きおこってくる。登ると決めたのは紛れもなく自分自身なのに。「もう見るんじゃないぞ、とにかく進まないといけない」。

早く登ってこの恐怖から解放されたい。僕はもう必死だ。呼吸が荒くなっているのを感じ、落ち着けようとするも身体は正直だ、恐怖は居座り続けている。

それでも、一段、そしてまた一段と確実に梯子を掴んでいく。息は荒い。「少しでも気を抜いたら、それが命取りになってしまうぞ。登ることだけに集中だ」。全神経を研ぎ澄ます。

ようやく最後の梯子を掴み、窮屈な姿勢になりながらも力一杯身体を岩にこすりつけるように引き上げ頂上に到着した。やっと着いたという安堵感。それとほぼ同時に嬉しさがこみ上げてきた。

頂上部は思っていた以上に狭かった。ここは槍の先端、周囲はスパッと切り落としたかのような崖だ。少しの間、膝をついたまま呼吸を落ち着ける。恐怖を感じつつも、足に力を込めて立ち上がった。

頂には冷たい風が強く吹きつけていた。吹き飛ばされないように僕は足を踏ん張る。視線を上げてみると、目の前に広がる光景は恐怖や疲労、擦りむいた手の甲の痛みなど、何もかもを吹き飛ばすには十分な程圧巻だった。360度眼下に広がる山々が、3000メートルを超える高さに自分がいることを示していた。

人間が立ち入ることはできない荒ぶる山の連なり。人間の力など到底及ばない自然の秩序。人間に何らの幻想さえ抱かせない荘厳さ。
「ああ、全てが剥き出しだ、剥き出しの大地が果てしなく広がっている」。手つかずの大自然をまざまざと見せつけられ、僕は圧倒された。穂先の先端に立つ僕。この広大な自然にとって、僕自身は本当に小さな小さな点でしかないと思った。

風は依然として強い。着ているジャンパーをばたばたとはためかせ、雲は次々と形を変えていく。風の音だけが耳に響き、いつまでも風は止みそうになかった。

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