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20240519学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第29章-2 ソヴェト政府の活動

20240519

[ソヴェト政府の活動]


1917年11月8日、第2会ロシア・ソヴェト大会は、交戦諸国に即時休戦を要求する「平和に関する布告」を採決した。また同日の夜、「地主の土地所有はなんらの賠償なしに即時に廃止される」という「土地に関する布告」を採決した。それに伴い、地主の土地、皇室領及び修道院の土地4億エーカーを、農民に譲り渡すこととなった。

 さらに1918年1月に開かれた第3回ロシア・ソヴェト大会では、全ての工場、鉱山・運輸機関などを国有化した。8時間労働の確立、社会保障制度も打ち立てられた。

 このように、共産党は権力を握ってから次々と党の綱領を実行に移していった。第2インタナショナルの右翼指導者たちから、セクト主義、空想的観念論者など、長い間非難されてきたボリシェヴィキが、実は最も果敢な実行者であったのである。

 ところが、イギリス、フランス、アメリカは、ソヴェト政府の休戦提案に同意しなかった。そのためソヴェト政府は、1917年12月3日、ブレスト=リトフスクにおいてドイツと単独講和交渉を開始した。代表団は、トロツキーを長とし、ジノヴィエフ、ラデックらを随員とした。交渉は、ドイツの苛烈な条件のため決裂。するとドイツはロシアへの進軍を再開し、広大な領土を占領した。ロシア軍はこれに効果的な抵抗ができなかった。このためレーニンはドイツの苛烈な条件を飲み、講和は実現された。この時のレーニンの見解は、「革命に一息入れるいとまを与えなければならぬ。さもなければ革命が潰れてしまう」というものであった。トロツキーやその他の左翼主義者たちと激しい党内闘争はあったが、レーニンは自分の主張を押し通し、革命の生命を救ったのである。このことに対して、世界中のブルジョア戦争屋とその手先である社会民主主義者は、自分たちの神聖な(帝国主義の)戦争目的を裏切ったとして、ボリシェヴィキに激しい怒号を浴びせた。


 「土地に関する布告」という政策は、農民に土地を与えることにより農民大衆を革命の味方に獲得することとなった。レーニンにとって偉大な成果である。党の左翼主義者は、農民の土地所有の強化はボリシェヴィキが社会主義に対抗するための防壁を築くことに他ならないと述べたが、レーニンは、やがて貧農大衆を社会主義の味方にすることができると確信していた。レーニンは、「現在の社会主義建設期には、富農と戦い、中農を中立化し、広範な貧農大衆を同盟軍に育てあげなければならない」と言った。これこそ、革命的マルクス主義の創造的発展であり、革命の成功を決める土台の一つであった。

 ソヴェトの政策でもう一つ重要なものは、ロシアを構成するあらゆる民族の政治的平等と自決権を確立したことであった。これによりソヴェト政府は、それまでひどい抑圧を受けていた弱小民族の支持を獲得した。このとき、ドイツやイギリスの反革命援助を受けたフィンランド、エストニア、ラトヴィア、リトアニアは、認められた分離権を行使し、自ら孤立していった。


 1918年1月18日に開くことになっていた憲法制定議会は、代議員の多数派であるエス・エル(社会革命党)とメンシェヴィキが占めていたので大問題だった。レーニンは、革命の結果、支配機関はソヴェトになったのであり、憲法制定議会の権力はなくなったのだとして、「我々は、憲法制定議会とソヴェトとの争いのなかに、二つの革命、すなわちブルジョア革命と社会主義革命との間の歴史的論争をみる。憲法制定議会の選挙(11月革命前につくられた選挙人名簿に基づいた)は、2月(3月)の最初のブルジョア革命を反映したものではあるが、絶対に人民の社会主義革命を反映したものではない」と述べた。ローゼンベルグはレーニンの演説に同意し、「もしレーニンが新たに選挙の実施を指令したとしたら、ソヴェト政府が投票で圧倒的多数を得たことは間違いない」と述べた。1918年1月20日、憲法制定議会はソヴェト政府を国家権力とする決議案を否定し、憲法制定議会は解散せざるを得なかった。


 共産党とソヴェト政府は様々な革命的政策を進めたが、それは、トロツキー、ジノヴィエフ、ラデック、ブハーリン、カーメネフ、ピャタコフ、その他に対する深刻な党内闘争を伴うものだった。ブルジョア世界の左翼の間でも、革命的政策には懐疑的であり、ローザ・ルクセンブルグのような左翼の指導者でさえ、一冊のパンフレットを書いて厳しく批判した。レーニンの最も忠実な支持者はスターリンであった。



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