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20240707学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第31章-1 ドイツにおけるソヴェト

20240707
第31章 ドイツとハンガリアの革命(1918〜1919年)

 第一次世界大戦によって、ロシア、ドイツ、オーストリア=ハンガリア、トルコ(オットマン王朝)が崩壊した。そして、ロシアのツァーリ、ドイツのカイザル、オーストリアの皇帝、トルコのサルタンが倒れ、王室体制が崩壊した。ロシアでは資本主義体制が打ち壊された。
 レーニンは、これらの革命的動乱をずっと前から予言していた、戦後の反封建、反資本主義、反帝国主義、社会主義の運動の思想的指導者であった。この闘争全体を導いていたのは共産党を先頭とするロシア人民であった。
 レーニンの影響の大きさは、次の3つに表れている。
 第一に、「この広大な闘争全体は、帝国主義戦争をば、この恐ろしい虐殺に責任のある反動政府に対する革命闘争に転化せよ」という、レーニンが前から主張していた政策とぴったり一致するものであった。もちろんこの大革命の諸局面が全ての国で同じ時に起こったわけではないし、また革命の政治的内容をどこまでも全く同じだったわけではない。しかし、運動全体の質が根本的に同じだったことは間違いなく、さらにそれがレーニン主義に一致するものだったことも否定できない。
 第二に、四大帝国の打倒ということのなかに、強大な民族的革命力がはっきりと姿を現した。この闘争で、さまざまな条件のもとに、多数の新しい民族がかたまって、「独立」国となった。すなわちフィンランド、ポーランド、チェコスロヴァキア、ユーゴスラヴィア、エストニア、ラトヴィア、リトワニア。こうした事態の発展も、ロシア共産党の綱領とレーニンの教えと全く一致するものであった。ウィルスン(アメリカ)大統領が「14カ条」(1918年、ウィルスンが講和の基礎として提案。民族自決主義、国際連盟の設立などをふくむ)をまだ夢にも考えつかないうちから、レーニンは多年、熱心に諸民族の自決の原則を主張していた。それは右翼社会民主主義者、さらには多数の左翼の人々からさえ極めて強い反対を受けたが、当のそれぞれの民族の希望とぴったり合致するものであった。
 第三に、前記四帝国の大革命的動乱には、強大な反資本主義の社会主義的要素が働いていた。この要素は、もちろん、間違いなくレーニン主義的なものであった。それは、ブルジョア革命をプロレタリア革命に発展させるという考えである。この考えが一番完全に実現したのは、運動全体の政治的指導者であるロシアにおいてだった。運動に巻き込まれた地域のうち、全てではないにしても大抵のところで、社会主義が勝利を収められなかったのは、ひとえに社会民主主義者の裏切りのためであった。
 こうした事態の発展は、共産主義の歴史的使命と完全に一致していた。共産主義は、国際資本主義の腐敗と衰退が進めば進むほど、全世界に建設的指導権を持つようになるのだ。

[ドイツにおけるソヴェト(評議会)]

 戦争が長く続くことによって、ドイツの労働者も他のヨーロッパの国々の労働者と同じように反抗的となっていった。具体的には次のようなことである。
 1918年初めにドイツの広範な地域でストライキ運動が起こり、100万の労働者が参加した。強大な職場代表委員制度の運動がベルリンなどで発展した。ブレスト=リトフスク条約の過酷な条件に反対する強大な抗議集会。パンを求める暴動。軍隊内の反抗。ドイツ皇帝の威信も1918年初秋には失われつつあった。
すぐ隣ではロシア革命が勝利を収めていた。この素晴らしい模範は、ドイツ労働者階級にとって大きなな励ましの力となり、彼らを目覚めさせることになったのである。

 戦争中、ドイツ社会民主党(PSD)は三つに分裂していた。
 左翼(指導者はルクセンブルグ、リープクネヒト、メーリング、ツェトキン、ヨギッシェス、ピークなど)は、比較的小さな組織であり、1916年初めにインテルナツィオナーレ派(インタナショナル派)すなわちスパルタクス団を結成した。1918年12月には、このスパルタクス派を主力とするドイツ共産党が結成された。
 中間派(指導者はカウツキー、ハーゼ、レーデブール、バルト、ディットマンなど)は、言葉は革命的であったが、行動は保守的であった。1915年12月、社会民主労働団体ができ、1917年4月にドイツ独立社会民主党(USPD)ができた。
 右翼(指導者はエーベルト、ノスケ、シャイデマン、レギエン、ウェルズなど)は、うるさい修正主義の一派である。以前の党名である「ドイツ社会民主党」とその機関を使い、党の機関紙、組織、党員の大部分を握っていた。また、労働組合を支配していた。組合員数は200万に減っていたが、1918年には猛烈な勢いで伸び、1920年には800万になった。

 1918年11月、キール(軍港)で水兵の反乱が起こった。水兵たちは、艦隊とともに「名誉の戦死」を遂げることを拒否し出港命令に従わなかった。反乱はドイツ中に広がり、陸海軍の兵士や労働者たちは、国内の主な都市と軍事中心地にソヴェト(評議会)を打ち立てた。労働者=兵士評議会である。11月7日にはバイエルンでクルト・アイスナーを頭首とするソヴェトが権力を掌握した。11月9日にはドイツ政府が倒れ、皇帝(カイゼル)はオランダに亡命した。

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