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短編小説【秋の来る頃】(3497文字 無料)

 日曜日の夕方。居間を横切るとき胸の辺りがちくちくと痛んだ。
 二三日前から始まった痛みが、次第に大きくなっていた。そろそろ今日あたりか。
 とりあえず、僕は自分の部屋へ行き、勉強机の上にある鉛筆立てをひっくり返して中身を全部出して台所に行って水を注ぐ。居間に戻ると飾ってある花を花瓶から取り出して鉛筆立てに入れて自室へ持っていった。花瓶は元に戻しておく。
 三十分後、机に向かっていると母の悲鳴が聞こえた。
 掃除をしていて花瓶を割ってしまったのだという。数年前の母の誕生日に父と相談して贈ったものだった。
 水も花も入ってなかったので、被害は最小限。
 僕は美術の宿題で花をスケッチするために抜いておいたのだと言い訳をした。水が入ってなかったのは不幸中の幸いだと母が言った。
 本当は違うんだけどね。
 
 僕は、ものが壊れることを事前に察知できる。
 多分、とても特殊な力だ。
 だけど、さほど有益なことではない。身の回りにあるもの、という限定された条件だ。
 気がついたのは中学の頃。そのしばらく前に、体育の授業で溺れかけたことがあった。この能力が身についた契機として思いつくのはそれぐらいだ。確信はもてない。
 まあ、そんなわけで使っているコンポとか、テレビとか、そういうものに対して意識を向けたときに胸がちくちくと痛むと、いままで役に立ってくれてありがとうと心の中で別れを告げ、さて次はどれにしようかと電気屋の広告を注意深く見たりする。
 その程度だ。
 いつか部屋に飾ってあったちょっと高価な戦車のプラモデルにちくちくしたので、これが壊れてはかなわんと丈夫そうな海苔の空き缶に入れて、近くに置いておくと引っかけたり何かを上に落としたりして危険だろうと、庭の物置に隠しておいたところ、しばらくして父が何を思ったか長年放っておいた物置の整理をして、要らんものは全部捨てたぞと得意げに言うので慌てて見に行ったら箱ごとなくなっていた。
 何度かそういうことを繰り返して、運命には逆らえないということも知った。予感は必ず当たるのだ。
 飼っている金魚が死んだときにはなにも感じなかったので、なんとなく理解していたけど、顔見知りの近所のおばさんが交通事故で亡くなったという報せを聞いた時には密かに安堵していた。前日に学校の帰り道でそのおばさんに会って挨拶したけど、特にこれといって変わった感覚はなかった。つまり、人や生き物の生死はわからないということだ。死は『壊れる』という概念に当てはまらないのだろうか、と疑問も湧いたけど。あえて追求はしないことにした。
 もしも、そんなことを知ってしまったら、心穏やかでいられなくなるであろうことは容易に想像がつくから、この力にそういう制限があるのはありがたいことだった。
 
 あまり役に立たないこの能力のおかげで、ある種の諦観を抱くようになっていた。
 自分が所有しているものなど、所詮いつかは無くなってしまうのだ。まあ、きっとこういう力がなくても、いつかどこかでそんなことに気が付くと思うけど。
 もちろん、肉親を含め、他の人には絶対に秘密だった。
 明かしたところで得るものはなにもないだろう。
 自分が腕の骨を折ったときに、それがあらかじめわかったというのは、少し新しい発見だった。確かに『壊れた』ことになる。少し心配だったけど、大人しくギプスをしていたら元に戻った。
 
 高校で僕は部活にも所属せず、放課後になると真っ先に帰宅していた。時々図書室に本を借りに行くこともあったけど、とにかく一人でいることが多かった。
 人とは違っているということを自覚するというのは、客観的に考えてみると辛いことなのかな、と思うときもあったけど、それほど気にはならなかった。
 クラスの中にもそれほど親しい人間はいなかった。
 
 いつものように夏が訪れ、一人の夏休みがゆるゆると過ぎていった。
 そして、一人の二学期が始まる。
 
 ある日の放課後、僕は風間さんに声を掛けた。
 日頃からあまりクラスメートと口をきかない質なので、目立たないようにと思っていたのだけど、そういうわけにはいかなかった。もっとうまい機会を待ちたかったけど、そんな時間もない。
「なに?」
 いや、なにと言われても。
「あのー」
 いろいろ考えてきたのになあ。しどろもどろしていると「外に行こっか」と言ってくれてとても助かった。さすがだなあ。
 教室に残っていた他の生徒が興味深そうに見てたのだけど、特に冷やかす者もいなかった。きっと僕というキャラクタに対してどのような態度で臨むべきか判断がつきかねているんだろうなあ。僕だって自分がどう行動するべきか、いま一つ把握しかねているぐらいだ。
 気まずい雰囲気を引きずって渡り廊下へ。
「ちょっと話を聞いて欲しいんだけど」
 緊張で少し声が震えた。
「いままでわたしと話したことあったっけ」
「いや、ないけど」
「そうだよね。いきなりだなあ」
 階段を降りて下駄箱の方へ向かう。
「怒らせたのなら謝るよ」
「まだ決めてないけど。まあ、用件にもよるかな」
「ちょっと一緒に来て欲しいところがあるんだけど」
「どこ?」
「その……そこの山なんだけど」
「え?」
 そりゃびっくりするだろうなあ。僕だって無茶だと思うよ。だって、どう考えても怪しいもの。
「無理は承知だけど……うーん、特に悪いこととか企んでいないんで……とか言っても説得力ないけど」
「ますます怪しいなあ。どうしようかなあ」
「やっぱりだめかな」
「……紘一君って、確か本をよく読んでいたでしょ」
「うん」
「いままでに読んだ本で一番好きなのは?」
 なんだそりゃ。ちょっと考える。
「アーサー・ランサムかなあ」
「ふーん。じゃあ、ツバメ号に免じてついてってあげる」
 こんな素敵な言葉を、僕はこの先、聞くことがあるだろうか。
 南門を出て学校のフェンス沿いに西の方へ。そこからすぐに山へと続く細い道になる。左手に神社。毎年やぶ蚊が大量に発生する。もうピークは過ぎたけど、ここを歩くときには注意した方がいい、などとどうでもよい話を一方的にする。
 もうじき本格的に紅葉の季節を迎えるところで、いまはまだいくつかの木々が遠慮がちに黄色や紅をまとっているだけだ。それでも十分に綺麗な光景で、山の景色は僕を落ち着かせる。
「ねえ、そんな話じゃなかったら恥ずかしいけど、念のために言っとくと、わたし、いまつきあっている人がいるよ」
「うん。知ってる。まあ、そんな話じゃないわけでもないけど、でもいいんだ」
 僕は歩きながら大きく一つ深呼吸をして、それから自分に備わっている奇妙な能力について初めて人にうち明けた。最初は胸が痛くなるのは病気だと思って悩んでいたこととか、次第にその意味がわかるようになって、やがて確信に変わったときの驚きとか。でもやっぱりたいして役には立たない力だと分かったので、嬉しいような残念なような気がしていることなど。
 一気に話した。ちょっと泣きそうになったけど、堪えることができた。
 そして、彼女をここに呼んだ理由も。
 風間さんは終始無言だった。
 奇妙なヤツだと思われているんだろうなあ。それも覚悟の上なんだけど、このまま彼女が逃げてしまっても、それはしょうがないだろう。
 十分ほどで少し開けた場所に来た。木々の間から校舎の一部が見える。閉まっているシャッターの多い商店街、国立病院の建物の灯り。紫色に染まりながら暮れていく空。沈んでいく太陽が鈍く橙色の固まりになって、遠くの山並みに消えようとしている。
「お気に入りの場所」
 そう言うと、彼女がとまどったような表情をした。
「ちょっといまの話、にわかには信じがたいけど……」
「それはしょうがないや。ただ、信頼してここに来てもらえただけでも満足してる。だから、もう帰りたいのなら……」
「いいよ。せっかくここまで来たんだし。それに、それってすごく光栄なことにも思えるから……でも、本当なの?」
 僕はうなずいた。
 風間さんが手を後ろに組んでそこに立っていた。
 少し下がって、空と夕日と山の木々と彼女が見える一番いい場所を選ぶ。もう、ここだと決めていた。
 右目の眼帯を取る。ゆっくりと世界にピントが合う。
 冷たい風が染みる。胸がちくちくと痛んだ。あの感覚だ。
 左目を閉じる。右目の景色。ありきたりの夕景だ。何度も見た美しさ。
 オレンジ色の空を背景に、彼女が記念写真みたいなVサインを出した。
 
 もったいないくらいに素敵な笑顔だった。
 いままで頑張ってくれた僕の右目に感謝しよう。
 これが最後の光景だ。
「ありがとう」
 また眼帯をした。
 少し手が震えていた。

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