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短編小説【花囲み】(4287文字 無料)

「ニキ、嵐が来そうだよ。早く帰ってきなよ」
 母はそう言ったが、彼女は盆を抱えて簾を開けて家を出た。まるでテントのような彼女の家は、ヒズリという植物の丈夫な茎でできていた。近所の家に比べてもかなり強固な造りであるという父の言葉を信じれば、多少の嵐にはびくともしないはずだ。
 空を見上げる。
 確かに、花囲みには向かない天気になりそうだった。
 それでも、彼女は広場へ向かった。
 盆の上に並んだ赤、群青、藍色、白、黄色の花びらを見ていると少しだけ心が和んだ。夏のある期間、満月を挟んだ半月の間に乾燥させた花弁で円形の模様を描き、香を焚いて先祖の霊が神に召されるように祈る。それが花囲みといわれる、彼女の部族に昔から伝わる儀式で、花の紋を作るのは女だけに許された仕事だった。
 美しい模様を描くことができた女には幸運が訪れるという。生娘には幸せな結婚を。結婚した女性には丈夫な子供を。年老いた女には神の英知を。
 幼い頃は母の手から零(こぼ)れ落ちるたくさんの花びらが、やがて一つの紋となる過程を飽かず眺めていたものだ。色とりどりの破片を集め、幾何学的な模様を描き出すその様(さま)が面白いと彼女は感じていた。最後に完成した紋の上で、作った者は祈りの文句を唱える。別にそんな儀式の意味や意義はかまわなかった。去年までは。
 今年、十四になったということで一人前と認められ、花囲みは家の中で彼女の仕事ということになった。
 広場の一画に赤茶けた砂がならされた部分がある。皆がそこで紋を描くはずだったが、天候を心配してか、まだ誰もいなかった。それどころか、一つの紋もまだない。彼女がここへ花紋を描きにきた最初の人間のようだ。
 広場に描かれる紋は、最終的に火をつけられる運命にある。それぞれの花びらの上で小さな焚き火を行って、作り上げた模様を天へと届ける、ということになっているのだ。静かに燃えるたくさんの火は厳かであり、かつ幻想的でもあった。それもまた、彼女の楽しみの一つだった。終わった後の灰は、各家庭の畑にまかれる。
 まだ送り火まで二週間以上も残っており、花はそれまでに並べればよい。万が一、途中で乱れるようなことがあると、験(げん)がよくないと言われているし、作りなおさなければならない。皆はいまのところ、いつもより少し長引いた嵐の季節が終わるのを待っているのだろう。
 しかし、彼女は花紋を作ろうとしていた。
 一番いいと思われる中心を選ぶと、持ってきた袋から白砂を取り出し、赤い砂の上に円を描き、綺麗にならして下地を作り上げた。
 下地が整うと、その円に沿って右手を三回まわす。一回目は大地の精霊のため。二回目は祖先の霊を含む天の精霊のため。そして三回目は自分達のため。その三つの調和をこの小さな円の中に描き、花で祝福する、というのが花囲みの本来の意味なのだ。
 綺麗に均された白砂の上。まず黄色い花びらを外周に沿って並べる。次に青い花びらを摘むと、乾燥したそれを指先で細かく砕いて黄色い花びらの内側へゆっくりと落とし始める。小さな波を描きながら円を描く。彼女の頭の中にある設計図の中では一番難しい場所だった。紋が美しい図形であればあるほど効き目があるという。
 彼女は自分の作り出す模様が効力を持つように丹念に仕事をした。
「あれ、早いじゃない」
 聞き覚えのあるその声に彼女は手を止めた。顔を上げる。
 ソーイがそこにいた。
 彼女は慌てて地に視線を戻す。自分の着ている服を見る。青と緑のジグザグが入ったお気に入りのスカートを選んだのは、それが自分に力をくれるような気がしたからだったが、とりあえず安心した。髪をちゃんと結っているのも花紋を描くためだった。
「こんにちは」
 自分の装いが整っていることを確かめて、ようやく彼女は口をきくことができた。
「嵐が来るって話だぜ。なんで今から花を並べてるんだ? まだ先でいいだろ」
「いいでしょ、別に。あたしが今年は花紋を描くんだから、あたしの勝手よ」
「なんだよ、人が注意してやってんのにさ」
「ほっといてよ」
 ソーイは手の中で銀色のライターをもてあそんでいた。火をつける道具を持っていることは成人の証で、彼は去年ようやく携帯することを許された。綺麗な彫金で竜の絵が彫ってある自慢の品なのだ。見せたくてしょうがないのだろう。もう何度も見せてもらったというのに。
「家の人、文句言わなかったのかよ」
 母には花囲みの練習だと言ってあった。
「長老とかに見つかったらうるさいぜ。年寄りって『昔と同じ』ってことに生きがいを感じているからな。まあ、墓穴に入りかけた生きがいだけどな」
「長老って、戻ってるの?」
 彼女は少し辺りを気にした。広場には誰もいない。村を取り囲んでいる森。その厚い緑の層の上に鈍色の空が覆っている。密度の濃い雲がゆっくりとうねっている。
「え? ああ、そうか。今は隣の村に行ってるんだっけ。帰ってくるのは明後日か」
 それを聞いて安心した。その様子を見てソーイは訝しげに訊ねる。
「お前、なんでそんなこと気にするの?」
「別に。ここで本番の練習してるのよ」
「嵐が来るってのに? それに、ここでやったら練習じゃなくなるだろ。本番以外は使っちゃいけないって、常識じゃねえの」
 それを無視して彼女は花びらを散らす作業を再開した。ソーイに立ち去ってほしかった。
「はいはい、俺が邪魔なんだな。でも、いくらやったって今夜にも風で吹き飛ばされちまうぞ。俺だってヒルの店で縄を買ってこいって親父に言われてるんだ。嵐に備えて小屋の戸を縛りつけるんだよ」
「じゃあ、早く行きなさいよ」
 彼女は口に出してから、その言葉が冷たい響きを持っているのに自分でも驚いた。思わず見上げてしまう。
「なんだよ。機嫌悪いな」
 ソーイはちょっとすねたように口を尖らせた。
「ごめんなさい」
 あわてて謝る。しかし、ソーイはそれに応えない。
「俺、行くわ。じゃあな」
 後姿を見送る。小さくなっていく背中。不意に風が砂を運んできた。目を閉じると頬がぬれた。花を見ると少し乱れている。
 彼女は慌てて形を整える。
 
 
 空はますます暗くなりつつあった。風も少しだけ強くなっている。
 急がないと、完成させることができなくなってしまう。しかし、丁寧に並べないと、花囲みは意味を成さなくなってしまう。焦燥感が募る。残りは花の中心だけだ。
「まだやってんのかよ。練習熱心だな」
 またソーイの声がした。見ると束ねた縄を首にぶら下げている。
「もうヤバイんじゃない? そろそろ風が来るぜ。雨も降りそうじゃん」
「だったら、あなたも早く帰ったほうがいいんじゃない。嵐に備えるための縄でしょ」
 彼女は自分の声が震えていないことを願った。
「あーあ。注意のしがいがないなあ」
 立ち去ってくれることを願ったが、ソーイはまだそこにいる。
 危険だが、彼女は中止するわけにはいかなかった。口を開かないことにした。
 最後の仕上げにとりかかる。ソーイが傍にいると都合が悪い。花の盆を移動させ、自分の体を動かし、花紋が彼から見えないように背中を向ける。
『ソーイが気がつきませんように』
 あと少しの時間が必要だ。
 自分のポケットに手を忍ばせる。震える。
 ソーイの声がそれを遮った。
「黒檀の炭を撒くのか? 呪いの仕上げに」
 呼吸が止まるかと思った。
 振り返って見上げるとソーイが困ったように笑っている。
「中心に黒の飾りを乗せるのは、自分の幸せの全てと引き換えに死者を地の底へ引きずり落とすため。黒の花紋だったっけ。それこそ年寄り連中の戯言だよ。やめときな」
「なぜわかったの?」
 彼女はそれしか言えなかった。
「花囲みで先祖の霊を慰め、好きな人と結ばれようと思ったら、家紋を『濡らすなかれ』『乱すなかれ』『緋を忘れるなかれ』って原則だろ。そのうち二つを破ろうとしている人間が三つ目を守るとは思えないからな。それを全て破ることで黒の花紋の呪法が有効になる、って昔に聞いたことがあった。村長からね」
 彼女はソーイを見た。森を見た。暗い空を見た。
「あんたが花囲みで送らなければならない人って、今年の初めに死んだじいさんだな」
 額に冷たいものがあたる。
 雨が降り出した。花紋が濡れていく。
 彼女は涙を拭った。ソーイがそれ以上説明を求めないのがせめてもの救いだった。
 時間は過ぎていく。現在も未来も、こうしている間に形を変えていく。変わらないのは過去だけ。それを封印するために彼女は黒の花紋を完成させようとしていたのだ。
 ソーイはしゃがみこんだ。
「まあ、女じゃなきゃいけないってことらしいけど、大目にみてもらうか」
 盆の上の赤い花びらを摘んで、紋の中心に添えた。
「はい、できました」
 そして彼女の手を引いた。無理やり隣に座らせる。
「手を出して」
 半ば放心していた彼女の手にソーイの手が添えられ、紋の上で三回、縁を撫でるように回された。ソーイは勝手に呪文を唱える。
「祝福されし者が集まるところ、平穏を得た魂の集まるところ、地の精霊を呼び集め、この紋を求めし魂を偉大なるものの御許へ導き給え。そして、地上に残されたはかなき生命に道を授け給え」
 息を止めた。二人は一瞬黙り込んだ。やがて、ソーイが手を離した。
 雨が、次第に頬や首筋に落ちてくるようになった。これでは花囲みの呪文も無効になってしまうに違いない。彼女は結局思い通りにならなかった花を見下ろした。
「濡れちまうな」
 ソーイは首に掛けていた縄を花紋の上に置いた。腰にぶら下げていた竹筒の栓を抜くと中味をかけ始めた。
「油」
 そして、いつも自慢していたライターの火を灯すと、縄に近づけた。
 ゆっくりと、炎が踊る。
「まあ、掟破りでこんなに早い花囲みだけど、神様もそんなケチなこと言わないだろ」
 彼女はその様子を見ていた。いつもいつも、せっかく綺麗に並べた花を灰にしてしまうのがもったいないと思っていた。今も、そう感じていた。美しいものをその場で葬ってしまう。
 それがこの行事なのだ。
 少しずつ、灰が炎の風にのって空へ舞い上がる。封じ込めた願いが天空へ向かう。
 ソーイは彼女の耳元で囁いた。
「ニキ、名前を言うんだ。本名を」
 それで花囲みは完了する。彼女は一瞬ためらった。今までは名前の一部を愛称として使ってきた。祈るときには自分の本当の名前を告げる。大人になった証拠。
 ソーイの顔を見て、そして、空を見上げる。
「ニキタ・エレグラフ」
 胸の前でお祈りの動作をする。その横でソーイが跪(ひざまず)いた。
「君に長(とこ)しえの祝福のあらんことを」

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