コロナ禍で存在を消された私たち 記録作成にあたって

■当事者研究という考え方

先に述べたように、私たちはコロナ禍において社会制度や構造からこぼれ落ちた存在であり、陽性者というラベリングのない私たちが、周囲に自らのことを話す時、困難が生じる。
それは陽性であれば、コロナに感染していたということを容易に一言で語れることに対し、私たちは感染したかもしれないという経緯、症状、闘病生活についてゼロから説明しなければならない。また語ったところで、それを信じてもらえるかどうかは、相手に委ねられる。医療にかかるときもその説明が必要とされるが、医師から症状すらも認められず軽くあしらわれて終わることが多い。

私たちは、語ったとしても感染証明をすることはできないし、語らずに沈黙した場合は、2020年に自分たちの身に降りかかったことや私たちの存在すらもなかったことになってしまう。
そういう意味でも、陽性者とは、また別の社会的心理的困難が生じている。(陽性や偽陽性になられた方も、社会からの差別等を受けた困難もあったかと思うが、ここではその議論については避ける。)

この私たちが置かれている状況を明らかにする上で、私たちは「当事者研究」という用語に着目した。『当事者研究の研究』の編著者の石原孝二氏は、当事者研究について次のように述べている。

"苦悩を抱える当事者が苦悩や問題に対して「研究」という態度において向き合うことを意味している。苦悩を自らのものとして引き受ける限りにおいて、人は誰もが当事者であり、当事者研究の可能性は誰に対しても開かれている"(*1)

と。また、社会学者である上野千鶴子氏によると、当事者とは「ニーズの主人公」(*2)であるとし、そのニーズを解明する為にも「研究」を必要とすると説いた。当事者研究の研究という概念については、当事者研究の研究者である熊谷晋一郎氏によると、

"当事者研究は、少数派同士が、自分の体験の中で繰り返されていたり、互いの体験の中で繰り返されたりしているパターンを発見し、そこに新しい言葉をあてはめていくこと"(*3)

だとしている。
私たちはTwitterという場を使って、新型コロナに感染したかもしれない自らの身体を実験材料にし、日々の闘病や対策、体調不良の原因を考察し、周囲との認識のズレなどを共有してきた。つまり、私たちは知らず知らずのうちに「新型コロナ症状」をめぐって身体と社会を領域とした研究をし、私たちが直面している問題を認識しお互いに議論していたことになる。
まずは、具体的な個々の記録を示し、この当事者研究を視座にして本書を綴ることで、私たちの存在を「可視化」させたいと考えている。
私たちが抱えていた苦悩や問題を研究し、自ら社会を観る側の立場となることで、私たちが求めていた、または今も求めているニーズを提示したい。そして、本書が政府政策や社会構造を再構築していく為の一つの資料として頂きたい。これが、「新型コロナ症状当事者研究会」という名称の経緯である。

私たちはジャーナリストでもなければ、学者でもない。同時期に同じ状況に置かれたという共通項を持つだけの素人集団である。しかも当事者側がこのように発することによって、客観性や中立性が保たれるのかという事は、本書を読み進める読者にとって最も懸念する材料の一つかもしれない。
もしあなたが、本書を読んだ後に、「客観性、中立性」もしくは「エビデンス」に欠けていると思うなら、あなたは既に多数派側の罠に嵌まっているのかもしれない。第5章に詳しく記載するが、歴史的に不可視化の対象とされてきた人たちも、彼らの声は少数派として世の中から消されてきた事実がある。
世間で言う客観性や中立性とは誰にとっての視点からなのか、その科学的見地とは誰が作るのかを考えてほしい。そこには、被害を少なく見せたい、補償問題に発展するのを回避したい等の思惑を加味して多数派側が作った偽物の客観性により、少数派側の多くの生の声がかき消されてきたという歴史がある。その歴史が示しているのは、真の客観性や中立性というものが、現場の一つひとつの声という「質」に耳を傾けることでしか、真実の「量」的なデータに近づくことはできないという証拠でもある。

私たちも自らの身体を使い、後遺症の最先端を患いながら、その実践知を積み重ねてきたという自負がある。2020年では医師に症状を訴えても、「エビデンスがない」とされ門前払いされてきた多くの症状が、2022年の今では、後遺症の症状として認知され公式に発表されている。エビデンスと言われるものがどれだけ脆く、移ろいやすく、常に更新されるものであるのかということを考えれば、本書があなたにとって信じがたいと思うことであったとしても、明日には、その概念は覆される可能性もある。
少数派の声を頭ごなしに否定したり疑ったりするのではなく、まずはその生の声を聞き、データを集め、日々研究し、情報を更新していく柔軟性と積極性という姿勢が、より早く真の「エビデンス」に迫れる方法であり、それが未知なるものとの戦いでは必要だと考えられる。

■本書の構成

本書の構成は、第2章では、2020年1月から5月までに発症された方々の具体的な記録を記す。記録者を発症月別ごとに分け、各自の記録の冒頭に検査難民か偽陰性組かを表示した。海外の論文によると鼻腔PCR検査の陽性割合は発症日で94.39%、発症10日後では67.15%、発症31日後では2.38%との報告があるように、時間の経過とともに陽性率が下がることが分かる。厚生労働省のホームページ(令和2年6月公示)によると、PCR検査は「発症から9日以内であれば、両者で良好な一致率が認められるとの研究結果が示され」ており、「症状発症から9日以内の者については唾液PCR検査を可能」としている。
これからのことから、2020年前半当時は鼻腔PCR検査が主流であったため、当noteでは発症10日以内にPCR検査を受けられたが陰性となった者を偽陰性組とし、11日目以降の検査で陰性、もしくは検査自体を受ける機会を得られなかった者を検査難民とする。
記録を記す上で強調しておきたい前提は、私たちが本当に新型コロナに感染していたか否かという事には焦点を置かない。新型コロナ感染疑いがあり長引く症状を訴えるにも関わらず、なぜ周囲との認識にズレが生じたのかという、新型コロナを社会的、政治的な病いとして捉え直し、それを記録として綴ることに重きを置いた。また、綴れる方は闘病生活中に何がきっかけで前を向けたのか、闘病経験から得られたことや気づきなども記してもらった。現在闘病生活を続ける方にとって、前を向くきっかけのヒントや少しでも共感を得られると幸いである。
第3章では、各自の記録の総括として、医療の対応、社会の対応、周囲の対応等について考察することと、医療の限界を感じた私たちが自身の治療のために選んだ方法を紹介する。
第4章では、メディアとTwitterとの認知の差を年表で示し、海外で発信されるコロナ後遺症と同義語であるLongCOVID情報や、Twitterで戦ってきた私たちの活動について記す。
第5章では、国の当時のコロナ政策について改めて簡潔に述べ、過去の歴史を紐解き、私たちと同じ様に不可視化された人たちの例を挙げながら、政府が定める認定基準や診断基準から漏れた方々と私たちとの類似点について見い出したい。
第6章では、全体の総括として、今日のコロナ禍においてまた新たに「不可視化」されつつある存在についての言及と、闘病経験により得られた気づき、そして未来への提言を記す。

■発症期間の設定について

記録収集において、発症期間を2020年1月から5月までと設定させて頂いた理由を述べておきたい。通常の風邪とは異なる症状の自覚がありながら、検査を受けられなかった方、検査しても偽陰性だった方は、2020年から2022年1月現在にかけて数多く存在しており、私たちの記録はその一部に過ぎない。
特に、2020年前半はまだ公に記された感染者数も少ない上に、「未知のウィルス」とされ解明されていなかったことも多く、自身の体感と周囲の認識との違いがどの程度あったかを示しやすいだろうと推測し、記録収集の対象を2020年1月から5月までと勝手ながら設定させて頂いた。2020年6月以降に発症したからといって、2020年5月までに発症した方との間に症状の差異があるなどの統計は一切なく、6月以降の検査難民、偽陰性組の方々も皆同じように戦っている。その方たちを排除した意味合いはないことをご留意頂きたい。

■記録募集方法、形式、匿名性について

記録を綴ってくれたメンバーは、2020年から新型コロナ感染疑いとしてTwitterを通して繋がり、闘病生活を励まし合い戦い抜いた同志たちである。記録収集にあたり、まずは交流のあった方から一人ひとりに連絡し、記録収集協力のお声かけをさせて頂いた。交流はあったが既にTwitterを卒業されている方々、ご協力をお願いしたが体調不良や生活面の問題により記録を書けなかった方々、声掛けの時間的な限りにより連絡が間に合わなかった方々に対しても、何か排除した意味合いは一切なく、皆、当時の苦しみを共有した同志だという認識に変わりはないことは強調しておきたい。そして、作成者には、できるだけ自由に率直に綴るようお願いした。記録作成を自由形式にした理由は、記録者が当時のことをより思い出しやすくする為である。何かの形式に囚われることなく、自由に記録を書くことによって、記録者自身の記憶の整理と、当時は問題として認識していなかったことを浮き上がらせる為でもある。一部固有名詞などの削除や仮称に変更した以外は、表記方法を含め、できるかぎり記録者本人が記したままを掲載することにする。

なお、私たちの声が「匿名」であることをお許し頂きたい。いわゆる自然災害などの目に見える災害とは違い、私たちは、目に見えないウィルスに侵されたことに加え、社会的に証明ができないというハンディキャップがある。当時から今現在も周囲から奇異な目で見られ続け、表立って声を挙げにくい、語りにくいという状況下に置かれている。
匿名ではあるが、去年からの出来事や感じたことについて、未だ体調も芳しくない中、嘘偽りなく、勇気を持って真摯に綴って頂いた。その理由は、私たちが経験したことを後世に伝え、社会をより良くしたいというひとえに社会的責務によるものである。

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