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「半自伝的エッセイ(19)」保険とステルスメイト

チェス喫茶「R」には豊川さんという常連がいた。歳は四十代ぐらいに見えた。平日でも昼間から来たりしていたから割と時間の融通が効く仕事をしていたのだろう。

その豊川さんとは時折、盤を挟むことがあった。豊川さんの棋風は徹頭徹尾攻め将棋的であり、攻めが切れて自分のキングが危なくなるとただ逃げるというワンパターンだったのだが、逃げ方が上手くてなかなかキングが捕まらないという独特の指し回しが特徴だった。

ある時、豊川さんと盤を挟んで何気ない話をしていたのだが、豊川さんが保険マニアであることがわかった。話を聞くと、加入できるありとあらゆる保険に入っているらしく、保険料の支払いだけで月に二十万近くになるという。

「そんなに保険に入る必要があるのですか?」と私は尋ねた。
「だって、人間いつなにがあるかわからないじゃない。女房も子供もいるし」と豊川さんは言った。ひと月に二十万円近くも保険に支払うなら、毎月その全額とはいわないまでもその一部を奥さんと子供に使えばいいのではと私はふと思ったが言わないでおいた。不思議だったのは、そんなに保険を掛けている豊川さんがチェスではまったく保険(受け)を軽視するような指し方をすることだった。
「でも、豊川さんはチェスを指している時には保険を掛けないじゃないですか」と私は訊いてみた。
「そんなことはないよ」
「いや、受けの手をほとんど指さないじゃないですか」
「そうか?」と豊川さんは言って、盤上の駒をひとつ動かした。
その手を見て、私は考え込まざるを得なかった。豊川さんのキングはすでに3ランクに上ずって逃げており、私の側からすれば後はどうメイトするかという局面に見えていた。しかしである、豊川さんのキングにチェック以外のアプローチをするとおそらく数手後にはステルスメイトになってしまう。かといってチェックを掛け続けてメイトする手筋はまだなかった。

私はなんだか笑いたくなった。そういえば豊川さんとの対局ではドローが多かった。もっと思い返せば、確かにステルスメイトに持ち込まれたことが何度もあった。そうか、不利になったら豊川さんはステルスメイトを目指して指していたのか。そんな人がいるとはその時まだ露も考えたことがなかったので蒙を啓かれた気がした。要は私がステルスメイトを阻止するような指し回しをしていなかったのか悪かったのである。

それから私はステルスメイトの研究を始めた。しかしである、これがかなりの難題で、人はそう簡単にはステルスメイトに持ち込むことができない。将棋だと入玉がそれに近いのではと思ってそれも研究してみたが、どうも違った。コツらしきものはわかったのだが、ステルスメイトの条件を満たすのは、メイトの手筋を読むより難解だった。

とはいえ、豊川さんのお陰で私はかなりステルスメイトに詳しくなったと思う。今もオンラインで対局している際など、もう勝ちがないだろうがまだ投げるには早いという時には、逆転を狙いながらも念の為にステルスメイトに持ち込む駒組みを目指していたりする。

ステルスメイトというのは不思議なもので、相手に成立されてしまうと大きな徒労感しか残らないが、その裏返しだろうが、自分が達成すると妙な高揚感みたいなものを感じないわけでもない。ステルスメイトは狙ってできるものではなかなかないが(というか一手目からそれを狙う人はたぶんいないだろう)、それだけになんというかメイトよりも貴重なものに思えたりすることも時にはある。

(文中に登場する人物等は全て仮名です)

ステルスメイトについては「チェスのレシピ(38)」で一回だけご紹介したことがあります。


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