マガジンのカバー画像

アレクサンドル・セルゲーヴィチ・プーシキン 作家の伝記

64
ユーリ・ミハイロヴィチ・ロトマンによるプーシキンの伝記を少しずつ訳したものをまとめました。序章から第9章まであります。
運営しているクリエイター

#ロトマン

プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824㉔

 この時期に詩人が作った政治的な抒情詩は、デカブリストのサークルにおける彼の特別な立場を…

レーチカ
13日前

プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824㉓

 特筆すべきは、オルロフの家でプーシキンが永久平和について説いていたまさにこの日々に、彼…

レーチカ
3週間前
2

プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824㉒

オルロフの妻、エカテリーナ・ニコラエヴナは1821年11月23日、弟А.Н.ラエーフスキイに書いて…

レーチカ
2か月前
3

プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824㉑

オルロフは、デカブリストから成るロシア騎士団 ― 決断力ある行動戦術を目標とした組織の参…

レーチカ
2か月前
5

プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑳

まさにこれらの出来事が、おそらく、ぺステリがキシニョフにやって来た理由であった。プーシキ…

レーチカ
2か月前
2

プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑲

 プーシキンがキシニョフでおかれた状況は、何よりもまず活動状況がペテルブルクとは違ってい…

レーチカ
3か月前
5

プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑱

しかしながら極めて巨額の売上金からプーシキンはほとんどなにも受け取れなかった。過分な分け前は出版者のН.И.グネージチの手に渡ったのだ。一部の研究者はグネージチを非良心的であると非難する向きがある¹。しかしその時代の認識では、グネージチは非難に値するようなことはしていなかった。文学の所有権という概念は、当時は存在しなかった、またあらゆる詩選集の出版者は、死んでいる詩人の詩だけではなく生きている詩人の詩に対する売上金も、平然とポケットにしまっていた。出版の仕事は《卑しい》ので、

プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑰

 しかし詩人の文学との関係はまた、ロマン主義の理想と要求とは強烈に対象をなしている、もう…

レーチカ
3か月前
9

プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑯

 しかしさらに多くの疑問がのちに生じている:プーシキンはこの女性の一つの思いを全読書界の…

レーチカ
3か月前
6

プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑮

1821年から1823年におけるプーシキンは、このテーマに対して皮肉な態度を取ることなど毛頭なか…

レーチカ
4か月前
6

プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑭

 プーシキンはキシニョフに疲れた。オルロフとВ.Ф.ラエーフスキイのサークルの崩壊の後、キ…

レーチカ
5か月前
4

プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑬

 追放された脱走者という人物像は別の心理的資質と関連していた:ここでは《早すぎる魂の老い…

レーチカ
6か月前
5

プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑫

 バイロンの《チャイルド‐ハロルドの旅》の後、詩人-逃亡者の人物像が、ヨーロッパにおける…

レーチカ
6か月前
2

プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑪

 プーシキンは世間から離れたところに建つインゾフの家の、一階の部屋に住みついた。地震の影響で家が半壊し、インゾフが家を捨てたときでも、彼はその家に残った。プーシキンは廃墟で生活することが気に入っていた。家のまわりを取り囲む荒れ地や葡萄畑とともにいることは、《荒野》に生きる《逃亡者》としての自分自身のイメージと調和していた。彼は騒がしいキシニョフと名づけた。(町はここ数年で非常に人口過密となった:実際のところ、それほど大きくない入植地であったが、そこにロシアの行政機関の官吏たち