トイレですらアピールしている。
あなたがトイレだとしよう。
ここでいうトイレというのは、便器が並ぶ場所ではなく、便器そのもののことだ。
限界寸前の膀胱や直腸に苦しむ人に、排泄という安らぎを与えることに喜ぶトイレだ。
自分を使ってくれなくてもいいけど、尿意や便意を我慢する人が解放されることを願っている、優しいトイレだ。
はたしてあなたは、
扉の奥で待っているだけで良いのだろうか。
私はここにいるよ、
と伝えなくて良いのだろうか。
treeさんがサポートマークについて紹介してくれた。
このサポートマークはAmazonでお安く買える。
1個でも2個でも少しだけ送料がかかるので、せっかく注文するなら幾つか買って、誰かにプレゼントするのも良い。
日本サポートマーク普及協会に寄付することで貰えるサポートマーク®️もあるのだけど、ちょっと小さくて意味も伝わりにくそうなので、個人的にはAmazonの安いのがオススメ。
※ クリームソーダや天狗でおなじみの彼女も身につけているそう。
サポートマークの意味するところは、
上記の説明でなんとなく分かると思うが、
あえて僕の言葉でも表現してみる。
サポートマークとは、
トイレのピクトグラムみたいなものだ。
「あー、困った。漏れそうだ。」
と直腸か膀胱かが悲鳴をあげたとき、
キョロキョロと辺りを見回す僕たちは、
実はトイレそのものを探してはいない。
トイレのピクトグラムを探している。
トイレは見える場所にドーンと構えておらず、
扉の向こうにひっそりと置いてあるからだ。
トイレのピクトグラムが無ければ、
どちらに歩けばトイレがあるか分からないし、
どの扉を開ければトイレがあるのか分からない。
サポートを必要とする人も同じだ。
「あー、困った。誰かの手を借りたい。」
と思った時に、まわりには何人かの人がいる。
誰に声をかければいいのだろう。
トイレの扉であれば、一つ一つ開いていけばトイレを見つけられるかもしれない。
こっちは会議室、
こっちは給湯室、
こっちには鍵が掛かっていて、
ここがトイレだ。助かった。
サポートを求めるのトイレではなく、他人だ。
ピクトグラムの無いトイレよりもタチが悪い。
一人一人に声をかけようにも、
誰がどんな人なのか、検討もつかない。
無視されるかもしれない。
予定があって急いでいるのかもしれない。
実は病気で身体が弱っている人かもしれない。
助けてくれるが、舌打ちされるかもしれない。
助けてくれるが、鬱陶しく身体のことをあれこれと聞かれるかもしれない。
トイレが必要な人のための表示はあるのに、
サポートが必要な人のための表示は稀だ。
もっと、あたりまえになればいいと思う。
トイレのピクトグラムに感謝を忘れるくらい、
あたりまえの風景になればいいと思う。
サポートマークが浸透すると、
それ以外の人に頼みにくくなるのでは?
という意見もあるかもしれない。
そんなマークがなくても、
誰にでも声をかけられる社会を目指すべき。
という意見もあるかもしれない。
しかし、
どの扉の先にもトイレというのが難しいように、
誰に声をかけても良いというのは難しい。
実際、声をかけられてもサポートできない、という人もいるだろう。
時間的な理由とか、身体的な理由とか。
サポートしたいのに断る、というのは苦しい。
声をかけた側も、断る側も本当に苦しい。
このマークに頼ることは
理想的ではないかもしれないが、
現実的だと思う。
「どこにでもサポートマークを付けている人が何人かはいる」くらいに、なればいい。
どこにでも丁度よくトイレがあって、
さりげなくピクトグラムが示してくれるように。
あまりまえの世の中を目指すために、
トイレを作ってまわるような苦労は不要だ。
誰かをサポートする気持ちがあればいい。
300円で買って身につけるだけでいい。
これなぁに?という友人に伝えるだけでいい。