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フロランタン

「チョコ貰えるかなぁ」
なんてことはこの歳になると考えなくなる。

学生時代ならばバレンタインデーに満を持して想いを伝える、みたいな大層なイベントは物珍しいものではなかったし、自分がその当事者となることに一抹の、いや莫大な期待を持っていた。

(ついぞ叶うことは無かったが。)

しかしアラサーにもなってそんな博打みたいな恋愛の仕方をする人はいないし、もし僕に想いを寄せる人がいたのならとっくのとうに何かしらのアプローチがあって然るべきである。

(今のところ何ひとつ無いわけだが。)



義理チョコだって頂けるのならありがたいことは間違いは無い。

しかしだ。

職場によく手作りパンを焼いて持ってきてくださるおばさまや、「頂き物だけど家で食べないから」と言ってちょっと良い乾麺をくれるおばちゃんがいるが、当然いくつ貰ったかなど数えちゃいない。

なのにバレンタインだからといって、その日貰った物を特別有難がって数など数えるのは何か違うように思う。

もし貰った数でその人のモテ度なり人望なりを計ろうと言うのなら、俺には普段のパンや乾麺の数も勘定させてくれ。それだって人望等々を計るには十分足り得るだろう?

なんならバレンタインデーのみチョコを貰うより、継続的に何かもらえている方が価値のあることなのではないか、とすら思えてくる。



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以上のことは、モテないが故にバレンタインデーに縁のないアラサー男の僻みである。

冒頭で「この歳になると」と前置きしたが、歳のせいなどではない、僕自身がただモテていないだけ。それに尽きる。

流石に学生時代から肩透かしを食らい続ければ、「バレンタインデーの奇跡」なんてものが自分の人生には無縁だというのは嫌でも理解できてしまうから、自然と「チョコ貰えるかなぁ」などとは思わなくなる。

「お前チョコいくつ貰った?」
なんてくだらない話をできる友人が今の交友関係の中にはまるでいないのも理由のひとつだろう。



僕が毎年バレンタインに思うことがあるとすれば、

「君が作ってくれたちょっと変わった名前のお菓子、あれなんていったっけ」

ってことくらいだ。





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