そりゃ生きることは難解なもんよ
一昨日の夕方、映画『PLAN75』をアマプラでうっかり見てしまった。
この手の映画は、絶対に覚悟をして見るべきだったと後悔している。
うっかり身につまされてしまった。失敗失敗。
で、昨日は天気が良かったので、気心の知れた親友夫妻と海沿いを犬達と散歩して、おまけにキレイな富士山も見えて、重くなった気持ちが解消されたので、ちゃんと書いておこうと思う。
『PLAN75』は「満75歳から“死を選べる”社会になった日本」を描く物語。
第75回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門に出品されて、カメラドールのスペシャルメンション(次点)に選ばれただけあって、映像美と、観る側へ問いを投げかけるような間の使い方が絶妙で、いい映画だった。
中学生の頃に、森鴎外の『高瀬舟』を読んで読書感想文を書く事があり、思春期の私は安楽死について、それはそれはいっぱい考えた。
『高瀬舟』は、流刑に処された罪人を乗せて高瀬川を渡る舟。罪人・喜助は、貧しさ故に病気を苦に自殺をはかったが死にきれず苦しみもがく弟を楽にしてやるために手を貸し、そのせいで人殺しの罪で流刑となった。その喜助と護送人のやりとりを描いている。しかも罪人である喜助の顔には安堵の表情が。それは「これで生活の苦労がなくなる」という安堵だった。
そんな『高瀬舟』を読んで、その瞬間に痛み苦しんでいる人を楽にしてあげる事は、許されるべきだと中学生の私は思ったし、今でもそう思う。
でも、この『PLAN75』の安楽死は違う。
仮想未来の少子高齢化で財政危機を抱えた国で、75歳以上の高齢者が「生きてて、金かかってすみません」って、お国のための政策を選択する話だ。
だから、身につまされている場合ではないのだ。
そんな未来を招かないよう、政治や行政を変えていく必要がある。
だけど、私が好きな【歴史を面白く学ぶ『コテンラジオ』】の、『福祉の歴史』の回で語られていたけど、「歴史的に見て、福祉の制度が改正されるのは、戦争だの大災害だのと生存の危機に瀕するような大きな出来事が起こって初めて、変えていこうという話が出るのであって、未来予測ではなかなか変えていけていないというのが過去からのデータ」で、そして現実的にそうなんだろうなと思う。
それでも、やっぱりちゃんと向き合っていこうよ!と観る側に思わせるのが、エンタメの力だなぁと感じた。
他の方々の映画のレビューも見たけど、この映画を観た多くの人が、本当に将来的に起きそうで怖いと感じていた。
賛否の評価が大きく分かれるのは、怖さゆえでもあるなと思った。
そして映画のクライマックスへの評価も極端に分かれているのが面白い。
「生きる希望」を見出す人もいれば、「それでどんな意味があるというのか?」という人。
「生きる希望」を感じるのは自分自身に老いを感じている年代に多く、「どんな意味があるというのか?」と感じるのは、まだ老いが遠い未来だと感じる世代に多かったのが興味深かった。
「死」が身近になった世代は「希望」を感じるし、「死」がまだ身近じゃない世代は、つい「生きる意味」なんて事を考えちゃう。
75歳という未来が13年後の私は、希望も生きる意味も感じなかった。
「希望」なんて言葉は非日常的な感じで馴染めないし、生きる事の意味なんて考えて生きたくないといった感じ。
そしてこの映画は、それぞれの年代の、それぞれの立場の登場人物が、その行動で、その表情と間で、観る側へ、答えの出ない問いを投げかけてくる。
その台詞のない【間】を、生産性とか合理性という言葉をよく使いそうな働き盛りの男性は、「長い」とか「待ち時間」とレビューしている。
きっとビジネス書や自己啓発本しか読まず、学生の頃の国語の授業で言われた「物語の行間を読む」というのが、苦手なんだろうなと思う。
絶対に友人にはなれないタイプだ。
それでも、そんな生産性高く生きているであろう彼らのレビューのタイトルだけは、共感できた。
『極めて難解』
そうそう!生きることは難解なもんよ。
とにかく、賛否両論が分かれるのも話題性があるということだし!
私は身につまされたけど、いい映画だと思った。
そして、そこには好き嫌いは介在しない。
では、また。
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