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『八月の狂詩曲』黒澤明全作レビュー&イラスト(29)

みなさんお疲れ様ですvintageです
ラストのおばあさんは最高ですが、、、、う~ん

ストーリーはこんな感じ

長崎に住むかねばあさんにハワイに移住した兄から手紙が届く。ハワイに来ないかというもの。そのうち兄の息子クラークが長崎に遊びにやってきた。4人の孫たちとクラークの交流、そして原爆のことについてクラークとばあさんの会話。クラーク帰国後ばあさんは1945年の被爆体験を思い出し、、、

う~ん、ピンとこない。
クライマックスは、アメリカ人クラークが被爆者のばあさんに謝罪をするというところになると思いますが各設定に違和感があり、違和感がぬぐえないまま映画が進んでしまいます。
まずクラークはばあさんの兄がハワイでアメリカ人と結婚してできた息子なので、ハーフの日系人だとおもいますがどうみてもアメリカ人。まあそれは外見のことなのでそういう人もいるだろうでいいとしても、ばあさんの息子たちや孫がクラークさんを”アメリカ人”として認識しているのが違和感です。ここは大事なところであり、クラークに原爆投下の原罪を負わせるにはミスマッチなんですね。むしろクラークさんは被爆者の息子=被爆二世なわけですから。

この設定の状態でクラークさんがばあさんに原爆のことを”謝罪”するシーンになるので、ますますそれが意味不明になってしまいます。
問題はこの”謝罪”です。

クラークはたどたどしい日本語で「すみませんでした」とばあさんに言いますが。確かに謝罪と聞こえます。
映画内の文脈的には、「親族の被爆の事実を知らなかったこと」に対する謝罪でありますが、明らかにアメリカ人が日本人に原爆投下を謝罪するということを観客に想起させるつくりになっています。
ただ日本語のできないリチャード・ギアにはどんな英文の注釈のスクリプトが渡されていたのでしょうか。それは知る由もないのですが、I'm sorryかapologizeかで大きく意味が異なってきます。I'm sorryであれば謝罪というよりは、ご愁傷様ですになります。被爆したばあさんの親族にお悔やみを述べていることになります。一方でapologizeであればストレートに謝罪になります。
英語版の字幕でどう書かれているのか興味深いですが、調べてもわかりませんでした。個人的には、リチャード・ギアは演技プランとしてはI'm sorry=お悔やみの直訳で”すみませんでした”と言ったのではないかと思います。なぜなら被ばく二世である自分がアメリカ人を代表し謝罪するのは論理的におかしいからです。
それに、「親族の被爆の事実を知らなかったこと」について叔母さんに謝罪するというのもおかしな話であり、やはりそれは大変でしたね、、、という意味をこめたお悔やみだとおもいます。

この仮説が正しいとすると、続けてばあさんが「これで良か、センキューベリマッチ」というのは、ばあさんは勘違いしたまま和解したことになります。

この認識のズレが黒澤さんが意図して描写したのか演出上のエラーなのかわからないです。「親族の被爆の事実を知らなかったこと」について謝罪をアメリカの原爆投下への謝罪とダブルミーニングで誤読させるような仕掛けなのかもしれません。
ただこれまでの黒澤映画では演出上の意図は極めて明確であって、観客は一切迷うことはありません、それだけに名作が生み出されたわけですので今作でモヤモヤが残るというのは残念です。

ちなみに原作の村田 喜代子『鍋の中』は、原爆のエピソードは全然でてこなくて、ハワイと日本の異文化の交流がメインになっているので、黒澤さんはなんらかの意図をもってこの設定を追加したのですね。

アメリカ国内では原爆投下は戦争終結を早めたとして正当化されています。現職の大統領が広島を訪問するのはやっと2016年のオバマが初なんですね。しかも公式に謝罪はありませんでした。それだけ微妙なイシューについて映画にしたのはさすが黒澤さんと思いますが、微妙なだけに明確に描いてほしかった。かつて『生き物の記録』という大傑作を世に出したわけですから。

と、、モヤモヤしたまま映画がおわると思いきやラストの暴風雨の中を傘を折りながら歩くばあさんのシーンは黒澤的な圧倒的スペクタクルを感じます。
もうこれで細かいことはどうでもよくなり、ただただこのばあさんのシーンが目に焼き付いて離れません。やっぱ黒澤さん雨風描写はすごいなあ

ではでは


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