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薄曇りの日の支援職(8):日本のカイシャの特殊性その2、『訂正可能性の哲学』を参考に

前回の日本の企業メンバーシップに対し、欧米の企業横断型職業メンバーシップの話をしました。よくある論調で企業メンバーシップは日本的で時代に合わない制度であり、これからは個人が自律し主体的なキャリア形成をしなければならないという言説があります。確かに欧米の方が労働者は自律しているようにも見えますが、彼らは彼らなりのメンバーシップに入っているのですね。それが企業横断型職業メンバーシップです。

人は完全なる自律、どこにも属さず生きていくのは難しいものなのだと思います。それが企業内に閉じるのか、企業横断の職業組合なのかの違いはあれど人はどこかに属している

ちょっとここで回り道をして思想家、東浩紀の『訂正可能性の哲学』を参考にこの問題を考えてみたい

東さんの本では共産主義が家族を否定していた事例を引きつつ、古くはプラトンが家族を否定していたと書いている。家族こそが私的所有であり公共に反するというわけだ。
そしてカール・ポパーが登場します、『開かれた社会とその敵』での論は「閉ざされた社会」vs「開かれた社会」という軸で展開されるものです。ポパーは「開かれた社会」を理想とした上で、プラトンを閉ざされた社会=部族社会、の中にいると批判していますが東によればプラトンはむしろ閉ざされた世界から出ようとしたのであり、ポパーには錯誤があると言います。このことから

家族の外にも家族しかなかったという逆説

をポパーは呼び起こしてしまっているのではないか。
またエマニュエル・トッドの家族社会学について一通り触れている。トッドは共産主義や議会制民主主義が各国や地域の家族制度の表れであると家族人類学の立場で言っています。その理論を根拠に考えるとポパーのいう開かれた社会も所詮は一つの部族社会であり、家族形態に過ぎないのではないかと言います。

以上の箇所は、僕らの企業メンバーシップ論にもつながる視点をもたらしてくれます。
日本的企業メンバーシップは、家族的とも言われることが多い。会社は労働者にとって家であり、社員は家族のようなものである。もしポパー先生が見たらこれぞ悪しき部族的社会制度であると批判したでしょう。そして企業メンバーシップから脱却し、開かれた雇用制度を目指さねばならないと。
しかし、東さんの議論を踏まえると確かに企業メンバーシップは家族的であるがでも欧米の職業メンバーシップもまた家族的ではないだろうか。つまり、

家族の外にも家族しかなかったという逆説

がここでも成り立つもではないか、、と考えられます。
一部のハードランディング論は日本の企業にも解雇の自由を認めるべきだと言います。しかしながらそれは出口を塞ぎつつ水責めをしているようなものです。ハードランディング論は欧米では企業横断的職業メンバーシップがセーフティーネットであると同時に、労働市場の流動化を支えている機能を見ていない。

厚生労働省のキャリア自律論についても、ソフトな表現ではありますが出口を考えていないのです。実は我々キャリコンもキャリア自律を後押ししているので加担しているのですが、一方でキャリコンの役割には環境への介入もあります。キャリコンとして個人のキャリア自律の必要性は認めた上で、別な”家族”である、企業横断的なしくみの構築を考えるべき地点に来ているのではないでしょうか。

その萌芽は少しずつ見えています。社外副業、越境学習、DAO、社内ベンチャー制度、プロボノなど。一つの企業に閉じることのない開かれた組織概念が出てきている。私見ですが欧米のような職業別メンバーシップは長い歴史があり今更同じ仕組みを日本に入れることは難しいでしょう。労働組合の在り方を企業別組合から職業別組合に変えるというのも全く現実的ではない。

まだもわっとしたイメージですが、ネット時代に相応しい緩やかな企業横断型のプラットフォームというものが可能になるのではないかと夢想しています。そこではリスキリングが実行され、スキルの認証・見える化がされている。企業に対する人材の供給源にもなっている。人々はそのプラットフォーム上にアイデンティファイされており、”たまたま”今はA社に勤めているというキャリア観を持つ。

そんな仕組みを作る仕事を考えていきたいです






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