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『蜘蛛巣城』黒澤明全作レビュー&イラスト(16)

お疲れさまですvintageです。またまた名作です、この時期の黒澤さん名作だらけでして神がかってます。
本物の矢を使った撮影で、びっくりした三船敏郎

おれを殺す気か!と監督に激怒したやつです。それにしても役者根性、恐怖の表情が最高ですね

ストーリーはこんな感じ(ネタバレあり)


■藤巻の謀反を鎮圧した鷲津武時(三船敏郎)と三木義明(千秋 1実)は主君・都築国春に呼ばれ蜘蛛巣城に向かう。
途中森で迷ってしまうと、物の怪の妖婆(浪花千栄子)がいた。そのものが言うには鷲津武時は北の館の主にその後蜘蛛巣城の城主になる。三木義明は一の砦の大将になる、息子は武時の次に蜘蛛巣城の城主になる。
物の怪は消えてしまう。二人はそんなことがあるもんかと笑い合う
■主君は武勲のあった鷲津武時を北の館の主に、三木義明は一の砦の大将にした。予言が当たったのだ。武時は妻の浅茅(山田五十鈴)に不思議な予言の話をすると、義明が主君にそれを伝えればきっと都築国春は武時を殺しにくるに違いない。先に都築国春を殺すべきだ
■妻の言う通り主君を殺す。武時も妻も手には血がべったり。
首謀者は小田倉則保(志村喬)であるという疑いがかけられ、三木義明は則保を蜘蛛巣城に入れず弓矢で追い返す。義明の推挙で蜘蛛巣城の城主となった武時。妻の浅茅はさらに三木義明親子を殺せという、そうしなければ予言通りになってしまう。親友を殺すなんてできないと拒否する武時だったが
妻が懐妊したということで決心、結局刺客を送る。
■宴の席で武時は三木義明の霊を見る、錯乱する武時、刺客からの報告で、義明の首は持ち帰ったが息子は重症は負わすが逃げられた。
■妻は死産であった
■その頃城を国丸、則安、義照の軍勢が取り囲む。老婆が現れ「森が城に寄せて来ぬ限り、貴方様は戦に敗れることはない」と告げる
■武時はこの言葉で自陣を鼓舞するが、則保が兵力を大きく見せるため兵に木を持たせたことで森が進軍してきたように見えた。
これに武時は恐怖し精神的な恐慌状態。妻は錯乱し死んだ。
味方も都築殺しの首謀者である武時を見限り、武時に向けて弓をひく。何本もの弓を体に受けて死ぬ。


ここからレビューです、、、

三船敏郎の素の演技もすごいけど、山田五十鈴妖怪チックな妻もすごいですね。千秋実、志村喬と東宝の黒澤映画常連がでる安定感。
原作はシェイクスピア『マクベス』です。舞台は戦国時代の日本にしてますが、かなり原作に忠実です。
これとても面白い話ですよね、老婆の予言に対して最初はそんなことありえないわ、、と笑っていた鷲津武時(三船敏郎)と三木義明(千秋実)
結局予言通りになるのですが、どう解釈すればいいのでしょうか?

A)老婆の予言が当たった
B)老婆の予言を聞いたことで人々が動き、結果的に予言通りになるように行動し予言が実現した。

個人的にはB)かなと思います。

[予言の自己成就]
会社の事例でいうと、君の将来には期待しているよと言われるともともと能力は大したことなくてもモチベーションがあがって本当に業績が良くなるとかありますよね。予言に引っ張られて本当に実力があがるのですね。これを予言の自己成就などといいます。これはポジティブな例ですが、『マクベス』=『蜘蛛巣城』ではネガティブな例をみることができます。

武時と義明は無二の親友であり互いを殺そうなどとは考えもしないのですが、予言を聞いてしまったために相手が主君にチクるのではないかと疑心暗鬼が発生し、では先回りして主君を殺すしかないと悲劇が起きます。さらに義明を殺さないと自分が殺されると第二の疑心暗鬼が発生し悲劇の連鎖が起きてしまいます。

[選好のパラドックス]
山田五十鈴演じる妻の浅茅はその怪演もあってなんとなく悪妻の代表みたいな感じで受け止められますが、予言通りにならないように回避行動に出ている点は合理的な判断だと思います。個々の判断は合理的なのに全体としては不合理になるというなんとも救いのないパラドックスです。人間ってこんな愚かもんなんですよ~というシェイクスピアの洞察はすごい。
現代では社会的選好のパラドックスとして、経済学者のアマルティア・セン『合理的な愚か者』という本で述べていますが合理的な効用を求めて行動すると結果としては効用を失うということ。まさに妻の浅茅は”合理的な愚か者”なのですね。
『マクベス』=『蜘蛛巣城』は魔女とか物の怪のイメージから一見すると超常現象的な印象を受けるかもしれないのですが、実際によく見ると超常現象は一切でてこないのです。すべて人々の効用を最大化する合理的選好の結果悲劇が起きるというメカニズムを描いています。という点では現代にも通じるテーマでもあります。

ラストで森が動くかどうかという話もシェイクスピアの時代であれば超常現象的に森を動かす描写などもありだったとおもいますが、それは一切やらないです。フェイクの森が動いたように見せるだけです、それを武時は超常現象だと勘違いし結局殺されます。つまりシェイクスピアにとっては怖いのは超常現象ではなく、人間の合理的選好メカニズムそのものだということなのです。これを16世紀に考えていたのはすごいことですね。アマルティア・センの数百年前ですから。

[映画とはフェイクである] 
さらにフェイクについて映画というものを考えてみましょう。映画とはウソの絵をさもホントらしく見せる技法のことです。放水車の水を観客は雨とみているわけです。中には「どうせ偽の雨でしょ」と訳知り顔の人もいるとは思いますがそれは知識で補完しているだけで実際に画面からみる生理的体験としては雨に見えているのだと思います。
その意味では『マクベス』=『蜘蛛巣城』のクライマックスでフェイクの森を動かす場面はまさに映画の本質をついているように思えます。

マクベス=武時は悲劇的に死んでいきますが、救われる映画もたくさんありますよね。フェイクが人を助けることもあると思うんです

何度も見返したい大傑作

ではでは

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