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ALL HAPPINESSの旗を掲げて 第5章 ~母への恩返し~

― 母 ―

全ての人の、かけがえのない大切な命を、この世界へ生み出してくれた存在。

母がいたから、今、自分はここにいる。


ちょうど20年前の秋、肺炎で入院した僕の母は、医師から余命2ヶ月の肺がんの宣告をされた。当時、塾で小学生の子どもたちに勉強を教えながらシンガーソングライターの夢を目指していた僕は、母が銀座で経営していた小さな飲食店を急きょ継ぐことにした。紆余曲折を経て、母の店と、隣の空いていた店を繋げて、アコースティックライブバーMiiya Cafeを2002年7月7日にオープンさせることになる。思えば女手一つで食べ盛りの男の子3人を育てるのは並大抵なことではなかっただろう。愛情豊かに、何一つ不自由なく育ててくれた母には、感謝してもしきれない想いがある。

そんな母との一番古い想い出は、自分が0歳の時まで遡る。当時、父方の実家である千葉県の小湊に家族みんなで住んでいた。この地は日蓮上人の生誕地であり、日蓮が生まれた時、大量の鯛が飛び跳ね、蓮の花が咲き乱れた言い伝えから地元民はこの海域を「鯛の浦」(地名は妙の浦)と名付けて漁を禁じたことに由来するそうだ。
その鯛の浦の浜辺を、生まれて間もなかった僕を抱いて母が歩いていたことがある。そのとき母とふたりで見た海は、まるで一枚の日本画のように、静かでとても美しく、今も心に鮮やかに残っている。僕の"原風景"といえるものだろう。

やがて、まだ赤ん坊だった僕が、1歳を過ぎた頃、母方の実家である東京都築地へ転居することになる。

その後、三人の息子たちを何不自由なく育ててくれた母だが、様々な苦労の時代があったはずだ。
毎朝子どもたちへ朝食とお昼のお弁当を作り、日中の仕事を終えると、夕方一度帰宅して子どもたちの夕食を支度。そして、また夜中まで仕事。そんな過酷な日々を送っていた母。生きていくために働くことの大切さを、僕は母の背中を見ながら学んだ。小学校5・6年の夏休み、そして中学校の3年間、新聞配達をしていたのも良い想い出になっている。生まれて初めて自分の稼いだお金でラテカセ(ラジオとテレビとカセットレコーダーが1つになった製品)を買ったときの喜びはとても大きかった。

母は、いつも人の為に動くような人だった。夕飯に作った食べ物を、ご近所にお裾分けしたり、身近に困った人がいれば、その人の元へ飛んでいって様々な知恵を使って助けてあげたり、強くてとても優しい人だった。
僕の友人たちが家に遊びにくれば、これでもかというくらいに、次から次へと食べ物が出てきて、友人たちが嬉しそうに笑いながら驚いていたり(笑)、今となってはとても楽しい想い出になっている。

母について語り出すと、本当に語り尽くせないほど沢山のエピソードがあるので、それらは別の機会に譲るとして、今、改めて自分の人生を振り返ると、あらゆる面で母の影響をとても受けてきたのだなぁとしみじみ感じる。
そして、それは、自分がこの人生をより良く生きていくうえで、母から貰った何物にも代え難い、とても大切な"心の財産"になっている。

母の深い恩を返すことは到底出来ないが、どんなときも人のために尽くしてきた母の"温かい心"を大切に受け継ぎ、次の世代へ繋いでいくことこそ、自分に出来る唯一の親孝行なのかも知れない。

追伸 奇跡的に生還した母は今も元気です♪

文&ロゴデザイン:
アコースティックライブハウス銀座Miiya Cafe
シンガーソングマスター Miiya
https://twitter.com/Miiya_Happiness/

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