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【SP】あわせみ

私が2019年9月に執筆・公開していた小説『あわせみ』を、期間限定で再掲することにしました!

横書き原稿をそのままNOTEに貼り付けたので、読みづらい部分があるかもしれません。また、約20万字と長めです。お時間あるときにどうぞm(__)m

本作はフィクションです。実在の人物や場所、団体等とは一切関係ありません。REASNOTが2019年3月~9月までに取材したアーティストの方々や、お世話になったライブハウス様が登場しますが、「パラレルワールドでのお話」だと思っていただけますと幸いです。

また、本作の著作権は私(紅葉)に帰属します。無断複写・複製・転載・生成AIへの利用等、権利を侵害する全ての行為を禁じます。

それでは、お楽しみください。

あらすじ

大学1年生の鈴木佳奈(すずき・かな)には、かつて、 3年間だけ弟がいた。母親の再婚相手の連れ子だった冷泉院柊羽(れいぜいいん・しゅう)だ。彼と過ごした日々は、宝物のような思い出だった。

その話を聞いた佳奈の彼氏、黒田拓海(くろだ・たくみ)は、インターネットで柊羽の近況を調べる。高校生になった柊羽は、ドラマーとして多数の『演奏してみた』動画をネットに公開しており、メジャーデビューを目指してバンド活動をしていた。

柊羽の動画に感動し、バンドのライブに足を運ぶ拓海。過去は過去として胸にしまい、今を生きようとする佳奈。メジャーデビューを賭けたライブバトルコンテストにエントリーする柊羽。

阿波踊りのぞめきと蝉の声に導かれ、それぞれの想いが交差した先に、辿り着く場所とは?


Contents

0.00 epilogue

 少年は、宵闇に紛れるようにして立ち尽くしていた。
 ともに遊んだ友人たちの姿は、とうの昔に消えている。それぞれ親が迎えに来たり、電話で呼ばれたりして帰っていった。
 街にはカラフルな商品を揃えた露店が並び、お囃子が溢れ、蝉もジーワ、ジーワとうるさく鳴いている。
 一人きりの少年にとっては、何もかもが遠かった。薄汚れた壁に貼られたポスターに写るメタリックブルーの車が、やけに格好よく見えた。
「しゅうちゃん、おまたせ!」
 角を曲がって駆けてきたのは、編み笠をかぶった少女だ。
 浴衣をからげて桜色のすそよけを見せた姿は一人前の女踊りだが、丸顔に浮かべた笑みは幼い。
「…なんで、かなが来るんだよ」
「ママたちを探したんやけど、まだ演舞場におるんやって。
 ほなけん一緒に行こ」
 差し出された左手を無言で見つめる少年。少女はすぐに焦れて、強引に彼の手をとって歩きだした。
「いける? しんどくない?」
「全然へいき」
「演舞場はすぐそこやけんな。あ、おんぶしたげよか?」
「子ども扱いすんな」
 少年は口をへの字に曲げたが、右手は少女に預けたままだ。
「えへへ。さっきの踊り、めっちゃ可愛かったよ。頑張っとったなあ。ほうじゃ。お姉ちゃんが、わたあめ買ったげようか」
「いらねーよ。ってか俺、かなのこと、姉ちゃんだと思ったことねーし」
「ががーん! ほんなん言われたら、お姉ちゃん悲しい……」
 少女は、さめざめと泣く振りをした。
 少年は溜め息をつき、足を止める。
「どしたん、しゅうちゃん」
 彼は浴衣のたもとに手を突っ込み、小さな包みを引っ張り出した。
「やる」
「え? うちに?」
「うん」
 驚きながら、少女はそれを受け取った。早速包みを開けると、
「紐……やのうて、ミサンガやなっ」
 薄暗いのではっきりしないが、黄色とオレンジと黒の糸を編んでいるようだ。
「これ、どないしたん?」
「俺が作った」
「ほんまに?」
「嘘ついてどうすんだよ。じいちゃんに作り方教わったんだよ。……しょぼいけど、誕生日プレゼントだよ。13歳おめでとう」
 少年は再び口をへの字に曲げて、アスファルトの地面を睨んだ。
「嬉しいっ! ありがとぉ!」
 頬を上気させた少女は、彼に飛びついた。
「ば、ばか。離せよっ」
 13歳の少女は、11歳の少年より、一回り以上身体が大きい。暴れる彼を包み込むようにして、心ゆくまで抱きしめる。
「しゅうちゃんが祝ってくれるや思わんかった。お姉ちゃんむっちゃ幸せっ」
「苦しい。暑い。いい加減にしろっ」
 もがく少年に構わず、ますます頬をよせる。
 お湯を沸かしてカップラーメンに注いで麺がふにゃふにゃになる程度の時間が経つころ、ようやく満足して腕をほどいた。
 もらったミサンガを空に掲げる。
「えへへ。どうしょうかな。どこに飾ろうかな」
「いや、結べよ。ミサンガだぜ。手首でも足首でもいいからさ」
「え? あ、そうか。うーん……ほなまず、願い事を決めななあ」
 少女は一瞬だけ神妙な顔をして、
「決めたっ。来年も、再来年も、そのまた次も、しゅうちゃんと一緒に阿波踊りへ来れますように!」
 空に浮かんだ月へミサンガを掲げ、柏手を打った。
 少年は、ぽかんと口を開けて見守っていた。
「本気かよ?」
「あったりまえやん!」
「俺たち子どもだろ。これからまだまだ色々あるだろ。
 友達とか、彼氏とか、旦那とか、大切な人が増えていくだろ。
 一生ずっと永遠に、俺と阿波踊りに行く気かよ」
「あかんの?」
「いや……まあ……ちょっと頭おかしいと思う」
「ええっ」
 少女は大仰な仕草でのけぞったあと、勢いよく姿勢を戻して、少年に迫った。
「そんなおかしいかなぁ。
 しゅうちゃんは、うちと阿波踊り行くん、イヤ?」
「……別に、そんなことは言ってない」
「よかった!」
 笑顔を取り戻した少女は、右の手首にミサンガを結んだ。
「うちは今日、むっちゃ楽しかったよ。サプライズでプレゼントも貰えて、最高の誕生日やわ。しゅうちゃんがおってくれたら、うちはきっと、ずーっと幸せやよ!」
 困った顔をしていた少年は、ついに諦めたように笑い返した。
「わかったよ。約束だ」
 少年と少女は再び手を繋ぎ、宵闇の中を歩き出した。
 どこまでも、どこまでも。
 明るい提灯が照らす広場を目指して。

1.00 佳奈 note.1

「鈴木さんが好きです。付き合ってください」
 大学からの帰り道、仲のいい男子と一緒に歩いていたら、突然告白された。彼の名は黒田拓海(くろだ・たくみ)。必修科目である英語の講義でのクラスメイトだ。授業開始初日に、隣の席に座っていたことがきっかけで仲良くなった。
 私こと鈴木佳奈(すずき・かな)も、拓海も、一年浪人していた。さらに中高の部活はテニス部で、生徒会で書記を務めたことがあって、音楽の趣味が似通っていた。先週行われたクラスの懇親会では、ずっと二人で盛り上がっていた。今日も教室で語り合っていたら止まらず、喋りながら一緒に帰ることにしたのだ。
 拓海は東京生まれ東京育ちで、世田谷区の一軒家に住んでいる四人家族の長男。ふたご座のA型、右利き。ちょっと色白の塩顔で、身長は176㎝。ソフトなツーブロックの前下がりマッシュヘアは流行に乗っている。ホリゾンタルカラーのシャツも、黒のパンツも、無難に爽やかだ。
「ありがとう! 私でよければ、よろしくお願いします」
 佳奈が微笑むと、拓海は声を弾ませた。
「本当?!」
「うん。私も、拓海のこといいなって思ってた」
「うわー。凄く嬉しい!」
 なんだか子犬のようで愛らしい。
「あはは、よろしくね。拓海って呼んでいい? 私のことは佳奈でいいよ」
「うん、もちろん!」
 大学進学のために上京して約1ヶ月。一人暮らしにはまだ慣れないが、授業のペースは掴んできたし、そこそこ仲のいい友達もできたし、彼氏もできたし、なかなか順調な滑り出しだ。
 佳奈は、鼻歌を歌い出したいような気分だった。
 白いクラッチバッグを持ち替え、右手を空ける。意図を察した拓海が、はにかみながらその手をとる。佳奈はCECIL McBEEの花柄ワンピースの裾を揺らして、一歩彼に近寄る。
「なんで、このタイミングで告白してくれたの?」
「明後日からゴールデンウィークだから。振られても来週は会わなくて良いし、上手くいったらデートに誘えるなと思って。あ……もしかして、実家に帰ったりする?」
「ううん。飛行機代バカにならないもん」
 佳奈が首を横に振ると、拓海はホッとした様子だった。
「そうだよね。実家、徳島だっけ?」
「うん。遠いんだよ。往復で2万円以上かかっちゃう。夏休みには帰省したいし、バイト探そっかな。拓海は実家暮らしでいいなぁ」
「よくないよ。俺も一人暮らしがしたい。気が済むまでダラダラしたい!」
「あははっ。料理とか掃除とか、結構大変だよー」
 男の子らしいゴツゴツした手の感触も、他愛ない会話も心地よい。前の彼氏とは高校を卒業してすぐ別れたから、こういうのは約1年ぶりだ。
 純粋に楽しいと思った。
「佳奈は、このあと忙しい? カフェでお茶でもしようよ」
「いいね! デートの計画立てなくちゃ」
 拓海いわく、大学からJRの駅へと続く坂路の途中に、小洒落たカフェがあるらしい。目印は、白とペールブルーを基調とした壁に、空飛ぶツバメを意匠化したロゴマーク。落ち着いた雰囲気と、抜群に美味しいティーオレが有名だという。徒歩圏内に住んでいるとはいえ、まだ周辺に詳しくない佳奈は、大人しく彼についていくことにした。
 4限目が終わったばかりの時間帯だから、周囲を歩く学生は少ない。5限目や6限目終わりとなると、帰宅や飲み会のために駅方面へ向かう学生で埋め尽くされるのだが。
「何の話をしてたんだっけ。あ、chil*chilの『Goldfish』か」
「そう! めっちゃ良い曲だよね。先週、YouTubeでMVが公開されて以来、もう100回は見てるよ。サビに金魚のパクパク音を使うって発想が凄すぎ。ちっとも飽きないもん」
 佳奈は声を弾ませた。推しのミュージシャン、chil*chilの話なら、何時間でも語れる。拓海も佳奈ほどではないが、流行りの音楽には詳しかった。
「ボーカロイドを使った『歌詞有シリーズ』とはまた違う良さがあるよね」
「『BOTANISTA』のシャンプーのネットCMにも起用されてて、ほんと嬉しい。私、子どものころからBOTANISTAを愛用してるんだ。雰囲気ピッタリ合ってるよねっ。他の動画を再生してるときにあのCMがきたら、絶対スキップせずに見ちゃうよ」
「うん、分かる。地上波でも放映されたらいいのにな」
「ほんとそう! chil*chilって、インターネット上でしか活動してないよね」
「きっと、地上波を避けてるんじゃないかな。そうでもなければ、これだけ人気あるんだし、もっと色んな企業のCMとか、ドラマの主題歌とかに起用されてると思う」
「どうしてかなぁ。10年来のファンとしては、もっと有名になって欲しいんだけどなぁ」
「佳奈はニコニコ動画に『Star』が投稿される前、まだ『メロディメーカーP』って呼ばれる前から聴いてるんだっけ。最古参だよね」
「えへへ。chil*chilがYouTubeに活動の軸を移した後、『fragrant olives』が100万再生達成したぐらいからファンになった人には負けませんよぅ」
 ちょっとした推し活自慢をしているうちに、目指していたカフェへ到着した。聞いていた通り素敵な店で、窓際のソファ席は座り心地も抜群だ。メニューに載っていた写真に惹かれ、チーズケーキとティーオレを注文する。
「さて、初デートだけど、行きたい場所はある?」
「いっぱいあるよ! ディズニーでしょ、東京タワーでしょ、スカイツリーでしょ」
「あはは。本当にいっぱいだね。そっか、佳奈は東京の観光もしたいよね」
「拓海はどう?」
「そうだなぁ。実はまだ、スカイツリーに上ったことないんだよね」
「じゃ、一緒に行こ! 何日が空いてる?」
 待ち合わせ日時を決め、ランチをする店を調べ、ついでに水族館も行くことにする。そうこうするうちに運ばれてきたティーラテは素晴らしい香りで、ふんわりした白い泡にち描かれた熊の絵が可愛らしかった。チーズケーキを乗せた皿の柄もセンスが良い。
「やーん、美味しそう! 映えまくるー!」
 思わず黄色い声を出した佳奈は、スマートフォンで写真を撮った。
 もし地元の大学へ進学していたら、こんなに気の利いた彼氏と、こんなに素敵なカフェでデートをする機会は一生なかっただろう。これだけでも、一浪して東京の大学を受けた甲斐があるというものだ。
 感慨にふけりつつティーオレを飲もうとした佳奈は、何気なく自分の右手首を見た。
 愕然として息が止まる。
「あれっ? うそ!」
 慌てて足元を見る。フローリングはぴかぴかに磨かれており、チリ一つ落ちていない。
「どうしたの?」
「ミサンガがない」
 自分の顔から血の気が引いていくのが分かる。
 拓海は何気ない調子で、
「ああ、いつもつけているやつ? 英語の講義の最初からしてなかったよ」
「うそ。どこで落としたんだろ。今日、何の講義があったっけ……」
 必死に記憶を辿る。1限目は体育館でトランポリンがあって、2限目は8号館で副専攻の法律の講義を受けた。昼休みは友達と待ち合わせて売店でパンを買い、中庭で食べた。3限目は14号館で基礎演習の講義に出席し、4限目の英語の講義は11号館で行われた。
「……ダメだ。移動が多すぎる。今から探しても、見つかりっこないよね」
 佳奈は頭を抱えた。さっきまでの浮かれ気分が嘘のようだ。
 拓海は、きょとんとした顔をしている。
「なんでそんなに凹んでるの? よかったじゃん。あれ、ミサンガでしょ?
 ミサンガが切れたってことは、願いが叶うってわけで……」
「よくないよ! あれはしゅうちゃんがくれた、最初で最後のプレゼントだもん」
 つい感情的に口に出してしまってから、ハッとする。
 案の定、机に頬杖をついた拓海は、顔色を変えていた。
「しゅうちゃんって誰? まさか、元彼?」
「ち、ちがうよ。しゅうちゃんは、その……弟なの」
 もごもごと答えると、
「え? 佳奈は一人っ子って言ってなかった?」
 そうなのだ。まだ彼に、この話はしていなかった。佳奈は逡巡したが、誤解を与えるわけにもいかない。正直に話すことにした。
「少し複雑なんだけど、飽きずに聞いてね。私のママはバツ2なの。1回目の結婚相手が私の本当のパパで、8歳の時に離婚したの」
「それは……大変だったね」
「うん、まあ、色々あったよ。最初の離婚から3年後、私が11歳の春に、ママは2回目の結婚をしたわ。再婚相手もバツ1で、前の奥さんとの間に9歳の男の子がいたの。いわゆる連れ子ね。それが、しゅうちゃん。
 2人が離婚するまでの3年間だけ、私が13歳の冬まで、弟だったの」
 拓海は戸惑いつつも、納得してくれたようだ。
 細面に分かりやすい同情を浮かべて、
「そんな事情だったんだ。話してくれてありがとう」
「ううん。分かってもらえてよかった」
 意識して口角を引き上げ、笑顔を作る。
 地元では有名な話だ。田舎の人間関係は狭くて濃い。おまけに柊羽の祖父は県内に多くの土地と不動産を持つ名士で、父親も日本有数の起業家だ。派手な一族だったのだ。
 一方、佳奈の母親は、県庁に勤める地味な地方公務員である。誰もがゴシップ的な目線で佳奈たちを見たし、口さがない噂が多く立てられた。
 佳奈が進学先に東京の大学を選んだのは、それらから逃れるためでもあった。新しく出会う人々には、過去のことは何も言うまいと思っていた。
「最近は結婚しても、3人に1人が離婚するっていうもんなぁ。振り回される子どもは大変だよね。同じ経験をしていない俺には、上手く言えないけど」
 拓海の声も、顔も、さっぱりしていた。佳奈への同情はあるが、それ以上でも以下でもなさそうだ。
 これが東京の人の感覚だろうか。佳奈は、急に気が楽になった。
「ほんとね。私のママはわがままで、困った人なのよ。あはは」
 自然に笑うことができた。話してよかったと思った。
「ところで、しゅうちゃんは、今どこで何してるの?」
 拓海の質問に、心臓がどきりと跳ねる。
「それは……知らないよ。離婚してすぐ神奈川へ引っ越したのは知ってるけど、それっきり会ってないもん。連絡先も何も知らない。だから、ミサンガを大事にしてたの」
 何故だろう。不意に鼻の奥がツンとして、視界が歪んだ。
 着物の裾にまとわりつく風。屋台から漂ってくる美味しそうな匂い。宵闇を橙に照らす提灯と、ぶっきらぼうながら優しい弟の声と、柔らかい手のぬくもり。遠い夏の夜のことが、ありありと思い出された。
 彼と手を繋いで、広場まで歩いた十数分間は、佳奈の人生で一番幸せな時間だった。
 慌ててハンカチを出して目を押さえると、拓海もあたふたしていた。
「ご、ごめん。軽いノリで聞いちゃって」
「ううん、拓海は悪くない。私のママがバカなのと、今日の私が不注意だったせいだから」
 俯いてティーオレを啜ると、コンクリートみたいな味がした。
 拓海はおずおずと、
「ミサンガ、何年付けてたの?」
「7年」
「ながっ」
「家では外して専用の飾り皿に入れてた」
 拓海は感心したように唸り、優しい声で言った。
「凄いなぁ。うん。それだけ大事にしていたミサンガが切れたなら、絶対に願い事が叶うと思うよ。失くしちゃったのは悲しいけど、信じようよ」
 佳奈は小さくつぶやいた。
「……もう無理だもん」
「なんで?」
 答えようがなくなって、佳奈は目を伏せた。
 拓海は何かを察したようだ。おもむろにスマートフォンを取り出し、
「よし、質問を変えよう。しゅうちゃんの本名は? 生年月日は?」
「どうしてそんなこと聞くの」
「TwitterとかFacebookとか、何かやってるかもしれないじゃん。調べたことある?」
「ううん」
「どうして?」
「だって、迷惑っていうか悪いっていうか……ちょっと怖いし」
 自分のスマートフォンを買い与えられたとき、友人に誘われてSNSに登録したとき、彼を探そうと思わなかったと言えば嘘になる。名前や写真を見ればすぐに判別できる自信はあった。
 だが、もはや他人でしかない彼を、そこまで追っていいのか分からなかった。佳奈の大好きな彼は過去の存在で、もうどこにもいないと思い知らされることも怖かった。
 佳奈にとって柊羽は血を分けた親よりも近しく、心から『家族』だと思えた唯一の相手だった。自分のアイデンティティの3分の1くらいは彼に貰ったもので構成されていると思う。これはもう永遠に変わらない、大切なものだ。
 それが崩れるくらいなら、今の彼なんて知りたくない。過去の彼に貰ったものを大切にして生きていくだけでいい。
「でも、会えるなら会いたいでしょ?」
 ぐっと言葉に詰まった佳奈を見て、拓海は声を和らげる。
「俺も姉ちゃんがいるけど、もし何かあって生き別れになったら、探すと思う」
 佳奈は、また泣きそうになった。拓海はなんて優しいのだろう。今まで誰にも言えなかった話を、こんなに真っすぐ受け止めてもらえるとは思わなかった。
 東京の大学を受験することを決めた時、柊羽のことを考えなかったといえば、嘘になる。彼は今も関東にいるはずだ。どこかですれ違って、物語のように再会できたら嬉しい。そんな奇跡が起きたなら、神様からの『会っていい。会うべきだ』というお告げだと思った。
 だが、そんなのは妄想だ。現実を生きていく上では全く関係ない、オプション的な希望。儚い「あったらいいな」だ。
 大丈夫、分かっている。自分は冷静に判断ができる。
 ――今、自分が大切にするべきは、目の前にいる拓海だ。
 高校生のころの佳奈は、地元にうんざりしていた。もっと大きくて広い世界を見たいと思った。よりよい人生を掴むために、浪人して、上京することを目指した。頑張って勉強して合格した大学で知り合って、自然に意気投合して、佳奈を好きだと言って、柊羽を探そうと言ってくれる人がいる。これこそ奇跡だろう。
 柊羽どうこうは関係なく、ただ、拓海の好意を無下にしたくなかった。
「……他の人には言わないでね。
 れいぜいいん、しゅう。冷たい泉の院に、ヒイラギの羽って書くの」
 その名を口に出すと、一気に体温が上昇するのを感じたが、無視する。
 見つかるかもしれない。見つからないかもしれない。彼は、佳奈が大好きだった彼と変わっているかもしれない。変わっていないかもしれない。会えるかもしれないし、会えないかもしれない。会えたら嬉しいかもしれない。悲しいかもしれない。
 そんなことは関係ない、と自分に言い聞かせる。
 ただ目の前にいる、できたての彼氏に対して誠実であるべきだ。
「冷泉院柊羽? すげえ名前。本名なの? 芸能人みたいだね」
 拓海は目を丸くしている。
「ほんとだよね。しゅうちゃんのお父さんも、お祖父ちゃんも、カッコいい名前なんだよ」
 名前だけではない。彼らは容姿や立ち居振る舞いも洗練されていて、頭が良くて、様々な技芸に秀でていた。何もかも平凡な自分や母が、彼らと家族であったという事実は、何度思い返しても不思議だ。あの3年間は夢か幻だったのではないかとも思う。
 佳奈が感傷に浸っている間に、拓海はスマートフォンに文字を入力していく。その手が、ぴたっと止まった。
「Wikipediaがあるじゃん、この人」

1.01 拓海 note.1

「えっ、Wikipedia?」
 佳奈は、ぱっちりした目をさらに大きく見開いている。それはそうだろう。拓海だって、姉と生き別れになって数年後、彼女のWikipediaを見つけたら驚く。
 本人だろうか。半ば信じられない気持ちで、拓海は画面上のデータを読み上げた。
「2002年4月11日生まれ。神奈川県逗子市出身。合ってる?」
「う、うん」
 偶然がここまで揃うこともないだろう。拓海は概要を目で追った。
 *
 冷泉院柊羽(SHU REIZEIIN)は、日本のプロドラマー。ドラマーネームは「SHU」。タテノ・エンターテインメント所属。
 2014年7月20日からほぼ毎日、YouTubeへ『~を叩いてみた』シリーズを投稿。リスナーからのリクエストに積極的に応える姿勢と、動画のクオリティの高さが評判となる。
 16年4月、インターネットTV番組・Next Generationの『ロックバンド結成オーディション』でグランプリを受賞するとともに、タテノ・エンターテインメントへ所属。ニューヨークへドラム留学をするが、在米中にバンドメンバーの薬物使用が発覚。企画は中止となり、バンドは解散、番組自体も年末の改編期にて終了となった。(注:当時の警察の調べやマスコミの報道で、SHU本人は一切薬物に関わっていないと明らかにされている。)
 17年3月には、インターネットTV番組・うたレボにて、バックバンドのドラマーとして採用される。しかしトークタイムでの粗暴な言動のため人気を得られず、17年9月に降板。以降はスタジオミュージシャンとして、様々なバンドのレコーディングやライブのサポートを行う。
 天才的なリズム感覚、多彩なビートを叩きわけるテクニック、チャーリー・ワッツを彷彿とさせるジャジーなグルーヴが持ち味。
 *
「プロドラマーかぁ。すごいね」
 拓海は率直な感想を述べた。経歴を見る限り、立派な芸能人の端くれである。2歳年下の高校生だと考えると、感嘆の思いはいよいよ増した。名前負けしていない人物だ。
 佳奈にスマートフォンを渡す。
 だが、Wikipediaを読み進めるうち、彼女の表情はどんどん曇っていった。
「えー……。こんなのおかしいよ。人違いだよ。だってしゅうちゃんは恥ずかしがり屋で、人前に出たり、注目されたりするのは大嫌いだもん。阿波踊りの時も、本当は締太鼓がやりたかったのに『目立つのが嫌だから』って言って、みんなと同じ踊り手になったんだよ。自分の演奏を録画して、インターネットに上げるなんて、ありえないよ」
「ふうん、太鼓が好きだったんだ。それがドラマーになったきっかけかもしれないね」
「えっ。いや、でも、そんなバカな」
 ぶつぶつと呟いている佳奈からスマートフォンを返してもらい、画像検索に切り替える。ずらりと表示された画像は、薄暗くて顔がよく見えなかったり、ピントがぼけたりしているものがほとんどだった。
 拓海はしばらくスクロールして、タテノ・エンターテインメントの公式ページに載っているアーティスト写真を見つけた。
 暗めのゴールドに染めたアップバングショートヘアが印象的な青年だ。長身痩躯でスタイルが良い。切れ長の目と尖った顎。きゅっと唇を引き結んだ顔つきは、一度見たら二度と忘れられなくなるオーラを放っていた。
「これが最新の写真みたいだ。イケメンだね」
 もう一度スマートフォンを渡すと、佳奈は目を白黒させた。
「誰、これ。……絶対に人違いだよ。しゅうちゃんの面影ゼロだもん。しゅうちゃんは黒髪だし、丸顔だし、私より背が小さいし、カッコいい系じゃなくて可愛い系なんだよ」
「佳奈が知ってるのは小学生のころでしょ? もう高校3年生になってるんだから、変わっててもおかしくないよ。背が伸びて、お洒落にも目覚めたんじゃない?」
 フォローしてみたが、彼女は納得できないようだ。
「うーん。ううーん。……ごめん。やっぱり、この人がしゅうちゃんだとは思えないや。でも、調べてくれてありがとう」
 さんざん唸った後で、佳奈は拓海にスマートフォンを返した。
「まあ、しゅうちゃんのことは、もういいよ。そもそも、私がミサンガの話なんかするからいけなかったんだよね。ごめん。
 ねえ、デートの予定の続きを考えない?」
 佳奈は強引に話題を変えた。拓海は釈然としないものがあったが、彼女は『柊羽の話は終わりだ』というメッセージを、全身から発している。
「そう……だね。じゃあ5月3日の日曜、11時に押上駅の改札前で待ち合わせて―…」
 デートについて話し始める。佳奈は何事もなかったかのように笑っていた。きゃぴきゃぴした話し方も、ところどころイントネーションが訛っているところも可愛い。話しているうちに拓海も楽しくなってきた。やっぱり、佳奈とはノリが合う。
 ランチの店を予約し、展望台と水族館のチケットを購入する。時間があれば立ち寄りたいカフェや雑貨店の場所も確認した。
 そのあと、2時間ほど雑談したあと、佳奈を家まで送った。カフェから歩いて10分ほどのところにある、8階建ての小綺麗なマンションだった。『一人暮らしの彼女の家』という言葉には甘い響きがあったが、流石に、付き合った当日に家に上がるほどの度胸はなかった。
「送ってくれてありがとう。じゃあ、また日曜にね!」
「うん。LINE送るよ」
 マンションの入り口で手を振って別れ、拓海は一人で駅へ戻った。
 時刻は18時をまわり、講義終わりの学生や仕事帰りのサラリーマンの姿がちらほらしている。電車は混んでいたが、運よく座ることができた。ほっと息を吐いた拓海が退屈しのぎにスマートフォンを取り出すと、画面には『冷泉院柊羽』の検索履歴が表示されたままだった。
 なんとなく、再びWikipediaを読む。
 ――『トークタイムでの粗暴な言動』って、どんなんだろ。
 興味本位で柊羽の名前と歌番組の名前を検索すると、すぐに幾つかの動画が見つかった。ポケットからイヤフォンを取り出し、耳にねじ込んでから再生ボタンをタップする。
 クリーム色を基調とした舞台セットの左手に、まあまあ有名なお笑い芸人が立っていた。彼がこの番組の司会者らしい。フリップボードをめくりながら、右手のひな壇に座っている8人の男女の会話を仕切っている。前列の4人は揃いの衣装を身に着けていた。会話の内容からすると、今日のゲストとして呼ばれたバンドだろう。
 柊羽は後列の右端にいた。ぶすっとした表情で、いかにもやる気がなさそうに背を丸めて座っている。たまに話を振られると『死ね、バカ』『俺には関係ないだろ』『うぜーんだよ、クソババア』などと発言していた。
 これはひどい。拓海は苦笑したが、彼に悪意はないだろうと思った。ごくありふれた、反抗期の少年特有の態度だ。自分も身に覚えがある。これが映像として残ってしまっているのは不幸としか言いようがない。周囲の大人は注意しなかったのだろうか。ロックアーティストとして、こういうキャラクターで売り出すつもりだったのかもしれないが、今のご時世では人気が出ないだろう。なんだか急に、柊羽への親しみの気持ちがわいてきた。
 電車を乗り継ぎ、最寄り駅で下りて、家まで歩く間、動画の続きを視聴した。司会のお笑い芸人の力量もあって、トークはそこそこ面白かった。ただ、番組の目玉とおぼしき楽曲演奏パートは、全てカットされている。権利関係で問題があったのかもしれない。
 家に着き、玄関の扉を開けると、ごま油のいいにおいが漂っていた。
「おかえり! 拓海よね? ご飯までもう少し時間かかるから、先にお風呂はいっちゃって」
「んー」
 リビングから大声を出す母に生返事をして、階段を上がる。
 拓海の部屋は二階の南東の端にある。物心ついたころからずっと根城にしている、八畳の洋間だ。めぼしい家具は、年季の入ったベッドと机と本棚、従姉に貰ったテレビ、大学入学に合わせて新調したノートパソコンくらいか。本棚の脇には読みかけの漫画とお気に入りのゲームが積み上げられていて、今にも崩れそうで崩れないバランスを保っていた。
 拓海は床に鞄を投げ出し、ベッドに転がった。
 きりのいいところまで動画を見たかったのだが、
「拓海! 返事は?!」
「……わかったよ」
 階下から追いかけてきた母の声には逆らえず、しぶしぶ停止ボタンを押した。
 風呂から上がるころに姉が帰ってきた。最近は就活に励んでいて、毎日黒いリクルートスーツを着ている。
 彼女が今日の面接の様子を母親に話すのを聞くともなく聞きながら、テレビのバラエティ番組を見つつ、夕食の用意をする。
 拓海の母は専業主婦で、料理が得意だ。温野菜のサラダも、トマトとたまごの中華スープも美味しかった。
 主菜をつついていたら、急に話の矛先がこちらへ向いた。
「拓海は最近どうなの? 大学には慣れた?」
「まあ、ぼちぼち。楽しいよ」
「ふーん。サークルには入らないの?」
「どうしようかな。先にバイト探そうかと思って」
「え? いつものアイス屋、辞めちゃうの?」
「時給安いんだよ。せっかく大学生になったし、塾講師しよっかなって」
「やめときなよ。子どもの相手はしんどいし、地味にスケジュール縛られて大変だから。給料以外に不満がないなら、アイス屋に時給アップの交渉した方が絶対いいよ」
「そういうもんかな」
「姉の言うことを信じなさい」
「そうよ拓海、お姉ちゃんは賢いんだから。ところでゴールデンウィークは予定あるの?」
「彼女とデート」
「マジ?! やるじゃん! どんな子? 美人?」
「美人っていうより可愛い系」
「へー。拓海に彼女がねぇ。今度、家に連れておいでよ」
「そのうちね」
 勢いよく白飯をかっこむ。母と姉は、再び就活の話に戻った。
 拓海が食事を終え、皿を洗っていると、父が帰ってきた。彼はスーツの上着を投げ捨てるようにして、テレビの前のソファに座った。
「おかえりなさい。ご飯は?」
「食べてきた。ビールくれ」
「はいはい」
 母が冷蔵庫を開ける。姉はそそくさと父の隣に座り、
「ねえ、お父さん。明日、令和証券の面接なんだけど、良いアドバイスない?」
「あの会社は落ち目だぞ。そもそも、お前はずぼらなんだから、証券業界はやめておけ」
 大手の銀行に勤めている父は、したり顔で業界について語り始めた。拓海はまだ、就活の話に興味はない。さっさと自分の部屋へ戻った。
 ベッドに転がり、スマートフォンを手に取る。通知が点灯しているアプリを開くと、佳奈からLINEが来ていた。
『今日はありがとう! 3日、楽しみだね! おやすみ~』
 ゆるいタッチで描かれた犬のスタンプが続いている。
『こちらこそありがとう! これからよろしく。おやすみなさい』
 メッセージを送信したあと、どんなスタンプを返すべきだろうかと悩む。インターネットを検索すると『モテるスタンプ・モテないスタンプ10選』『付き合いたての彼女に送るメッセージの注意点まとめ』『長文メッセージやスタンプ連投を避けるべき3つの理由』など、大量のまとめサイトがヒットした。それらを熟読した結果、何も送らないことに決める。
「佳奈の好みが分かるまでは、絵文字だけのほうが無難だな」
 高校生のころは、毎日部活に明け暮れていた。去年は浪人生として勉強漬けの日々だった。「大学生になったら可愛い彼女を作って遊ぶぞ!」と、ずっと思っていたのだ。せっかく告白に成功したのだから、こんなところで失敗したくはなかった。
 そうだ、メッセージの送り方を調べるだけでは足りない。初デートに向けて準備をしなければ。どんな服を着て、どんな靴を履いて、どんな会話をするべきか調べておこう。
 拓海は、恋愛ハウツー系のまとめサイトを巡回しはじめた。
 どれくらい時間が経っただろうか。
「拓海ー! 賞味期限が切れそうなプリン、食べちゃってくれない?」
 階下から姉の声がする。甘い物に目がない拓海は、慌てて身体を起こした。リビングへ戻り、既にプリンを食べ始めている姉から、自分の分を受け取る。テーブルでアイロンをかけている母も、一息してデザートタイムを楽しんでいる。父はテレビの前で酒盛りをしていた。
「寝る前に、ちゃんと歯を磨きなさいね」
「はいはい」
 何気ない日常、いつも通りの会話だ。あとは寝るだけである。
 部屋に戻り、再びスマートフォンを手に取る。不要なアプリを閉じていると、柊羽の動画が出てきた。そういえば途中で止めていたのだった。
 続きを見ようかと考えたが、なんだか気が進まなかった。
 彼の拙いトークには、もう十分笑わせてもらった。柊羽の本職はドラマーだ。演奏が聴いてみたいな、と思った。
 再び『冷泉院柊羽』というキーワードで検索すると、彼のYouTubeチャンネルはすぐ見つかった。これまでに投稿された動画の本数が目に入る。
「うわ……。2114本もあるんだ」
 6年前からほぼ毎日投稿しているという話だから当然かもしれないが、改めて目にするとすさまじい。チャンネル登録者数は18万人、視聴回数の合計は960万回となっている。これらの数字がプロドラマーとして凄いのか、凄くないのかは、よく分からない。
 拓海は動画リストを古い順に並び替えた。柊羽が最初に投稿した動画のタイトルは『chil*chilの「Star」を叩いてみた』だった。
「『Star』か。やっぱ姉弟だと、音楽の好みも似るんだろうな」
 自分も子どものころは、姉が好きだったバンドのCDをよく聴いていたなぁ。そんな感傷に浸りつつ動画を開くと、何の変哲もないTシャツと短パンを履いた少年が画面に現れた。黒い髪はぼさぼさで、顔の輪郭は丸い。小柄で手足が細く、背も低くて、巨大なドラムセットに埋もれている。佳奈の言っていた通り『恥ずかしがり屋で、人前に出たり、注目されたりするのは大嫌い』な子どもに見えた。
 しかしスティックを構えたとたん、彼の目つきが変わった。
 カン、カン、カン、カン、とスティックを打ち鳴らしたかと思うと、バスドラのダブルアクションを決める。ライドシンバルを叩き、タムでリズムを刻んでいく。生き生きした表情でスティックを操る柊羽は、ドラムセットの上を軽快に跳ねまわるウサギのようで、拓海の目は釘付けになった。
 拓海は音楽が好きだ。テレビやインターネットで音楽番組を見たり、MVを見ることも多い。しかし大抵の場合、メインとして映るのはボーカリストややギタリストだ。一曲を通してドラマーだけを眺めるというのは、初めての体験だった。
「……元気だなぁ」
 『Star』は何度も聴いたことのある楽曲だ。今を時めく作曲家・chil*chilの実質的なデビュー作として有名だし、他のアーティストがカバーした動画も人気を博している。拓海も、佳奈が一番好きな曲だと知ってからは、いつかカラオケで歌ってみせようと思って、密かに練習していた。柊羽のドラムは、そんな慣れ親しんだ音源に重ねて収録されている。
 しかし、それは今、まるで違う楽曲に聴こえた。
 chil*chilが打ち込みで作ったドラム音と、柊羽が叩く生のドラムでは、後者の方が圧倒的に強かった。厚みがあった。時折、二つのリズムがズレることもあったが、まったく気にならない。迫力と熱量があった。
「カッコいいなぁ……」
 ぼうっとしているうちに『Star』の演奏が終わった。拓海は、次の動画へ遷移していくのを止めなかった。今度は洋楽のスタンダード・ナンバーだ。柊羽の服装はほぼ同じだが、手に持つスティックの形が変わっている。リズムの刻み方も、動きも、先ほどとは全く違った。
 その楽曲が終わったら、次へ。また次へ。
 拓海はどんどん動画を視聴していった。飛ぶように時間が流れ、夜は深まっていくが、ちっとも眠くならない。
「やばいな。俺、ハマったらとことんハマるタイプなんだよな」
 もはや拓海は、自分で自分を止められなくなっていた。
 一本の動画の再生時間を約5分として、柊羽のチャンネルに登録されている全てを見るには10,570分、約175時間かかる計算だ。このままでは、柊羽の動画を見るだけでゴールデンウィークが終わってしまう。分かっているのに、どうしても次が見たくなる。
 ドラムがこんなに面白い楽器だとは知らなかった。
 いつの間にか部屋の中が明るくなって、カーテンの隙間から、ちらちらと朝陽が漏れ出ている。流石に目が疲れてきた。まばたきをすると、タイミングを合わせたかのように腹の虫が鳴った。昨夜の夕食もプリンも消化され切ったようだ。
「……よし。なんか食べよ」
 拓海は欠伸をしながら起き上がった。同じ姿勢で固まっていたので、身体の節々が痛い。
 家族を起こさないよう、そっと階段を降り、リビングへ向かう。コーヒーを淹れ、食パンをトーストする。ぼんやりした頭で、立て続けに見た柊羽の動画の数々を振り返る。
 柊羽のドラムが上手いのか下手なのか、素人の拓海には分からない。ただ、古今東西の様々なジャンルの楽曲を一つ一つ丁寧に演奏し、色んな魅せ方をしていて飽きなかった。
 投稿を重ねるごとに、視聴者からのコメントの数は、着実に増えていた。
『小学生にしては上手いね。次はデヴィッド・ボウイの「Modern Love」をやってよ』
『ファンになりました。ニクハルPの「My Dearest」が聴いてみたいです』
 柊羽は、視聴者からリクエストされた楽曲を、必ずといっていいほど演奏していた。コメントがついた3日後に投稿しているときもあれば、2週間後のときもある。もしかすると、このまま動画を追いかけて行けば、全てのリクエストに応えるところが見られるのかもしれない。
 彼にも苦手なジャンルや、嫌いな楽曲があるはずだ。あらゆる方向から飛んでくる、顔も名前も知らない誰かの要望すべてに応えるなんて、正気の沙汰ではない。
「プロ根性ってやつなのかな」
 どんな楽曲も真剣に叩き続ける彼の姿に、正直、感動していた。
 小腹を満たして部屋に戻る。ベッドに転がると、さすがに眠気が訪れた。柊羽のドラムを脳裏でリピートしながら、拓海は瞼を閉じた。
 そのまま、永遠に眠れるような気がしていたのに。
「拓海! いつまで寝てるの? お昼ご飯食べるんでしょ?」
 母の声が廊下から響く。薄目を開けると、乱暴にノックする音とともに扉が開き、顔をのぞかせた母と目が合った。
「あー…うん……」
「もう。私とお姉ちゃんは買い物に出かけるからね。自分で用意して、片付けもよろしくね」
「はいはい……」
 溜息をついてスマホを見ると、5時間くらいしか寝ていなかった。
「休みなんだから、ほっといてくれればいいのに」
 ぶつぶつ文句をいいながら、眠い目をこする。いつもの習慣で、スマホの通知を上から順にチェックしていく。
「お?」
 昨夜登録したばかりの柊羽のチャンネルが更新されていた。新しい動画が投稿されたようだ。すぐにタップしてリンクを開く。
 画面に現れたのは、アップバングショートヘアの青年だった。明け方まで見ていた動画の姿と比べると、急に大人になっていてびっくりするが、たしかに面影はあった。健康的に日焼けしていて、肩幅は広く、腕も足もしっかり筋肉がついているが、スティックの構え方は同じだ。もうドラムセットに埋もれてはいない。
 彼はいつもの部屋で、おなじみの角度からカメラに語り掛けてきた。
『おはようございます。柊羽です。いつも動画を見ていただき、ありがとうございます』
 想像していたより低く、エッジのきいた声だ。
『皆さんにお知らせがあります。今日、俺が所属しているタテノ・エンターテインメントのアーティストたちで組んだ新しいバンド、『六度目のゼロ』のメンバーになりました。まずはメジャーデビュー目指して頑張るんで、応援よろしくお願いします。いきなりですが、MVを見てください』
 柊羽が右手を振ると同時に、PCの画面が真っ黒に染まった。かと思うと、画面の真ん中に白い光が明滅した。『2020年5月1日。六度目のゼロ、結成!』という文章が浮かび上がる。続いて、5人の若者が映し出された。
 中央に立っているのは、弾けるような笑顔を浮かべた美女だ。くっきりした二重瞼に、オレンジ系のチークとリップ。明るい茶色に染めたセミロングの髪。マイクスタンドに両手をかけてポーズを決めている。白抜きの文字で表示された名前は『vocal.ELISA』。
 その右側には、悪い意味で対照的な人物がいた。第一印象は『エレキギターを抱えたワカメのお化け』。ドラクエにこんな感じのモンスターがいた気がする。背が高くてスレンダーで、真っ黒な前髪を長く伸ばしていて、後ろ髪も腰に届くほど長い。俯いているため顔は見えない。スカートを履いているので、おそらく女性だ。名前は『guitar.MICHIRU』。
 ボーカルの左側に立っているのは『bass.AKIMASA』。中性的な雰囲気を漂わせた男性だ。色白かつ華奢で、少女のように赤い唇が目を引く。ふわっとしたミディアムウルフの髪型も可愛らしい。そのくせ、やけにゴツいベースを慣れた手つきで構えているところが、妙な色気を醸し出している。端的に言えば、めちゃくちゃモテそうな青年だった。
 画面左奥では、真っ黒なスーツを着た男性が鍵盤に手を置いている。これまたイケメンっぽいのだが、闇に溶けるような佇まいで目立たない。『producer&piano.TAKAHIRO』という文字も、心なしか控えめだ。
 その反対側、右奥にいるのが『drums.SHU』こと柊羽だった。キーボードと対になるように置かれたドラムセットに座り、醒めた目でこちらを見ている。引き込まれそうな暗い瞳だ。
 と、思った瞬間、彼は逞しい腕でハイハットを刻んだ。
 全員が動き出す。再びテロップが明滅する。
 『First Original Song / “六度目のゼロ”』
 ボーカルが歌い出す。軽やかで耳触りがよいけれど、芯が一本通った、本格派の歌声だ。キーボードは複雑なコードを鳴らし、ベースが重低音を響かせ、エレキギターがメロディを奏でる。未だかつて聴いたことのない鋭さで、心に突き刺さる旋律だった。

  *
 生まれ変わる日なんて待たない
 僕らは刻む 六度目のゼロを

 1.「平凡な人生」は嫌だった
 「他人とは違う自分」になりたかった
 そんな人間 腐るほどいる、なんて
 想像してなかったんだ

 特別を目指す ありふれたコンテスト
 世界は違っても 変わらない社会の構造

 それでも 僕は僕であることを選ぶよ

 生まれ変わる日なんて待たない
 この自分で 辿り着きたい場所がある
 いつか夢を見た 優しく微笑む君
 駆け寄って 手を取りあって
 僕らは刻む 六度目のゼロを

 2.「あたりまえの幸せ」が欲しかった
 「みんなと笑い合える自分」になりたかった
 憧れに追いつかない 現実から
 ただ逃げ出したんだ

 仮想の世界で 気ままに遊ぶ僕を
 顔も 声も 知らないみんなが許してくれた

 それでも 僕は僕の名前を叫びたくて

 君が好きだと言った僕のことを
 素直に信じられたらよかったのかなぁ
 いつか君のため 歌えた幸せを
 踏みつけて 泥を塗った
 無様な僕を 僕らの手で救おう

 3.あの日 本当に贈りたかったものは
 たった一つの真心
 君が望むこと全て 僕が叶えてあげたかった
 甘くて 弱くて 何もできなくて ごめん
 せめて君の心を照らす光になれるように
 奏でるから どうか 気づいて

 生まれ変わる日なんて待たない
 この自分で 辿り着きたい場所がある
 いつか夢を見た 優しく微笑む君
 駆け寄って 手を取り合って
 僕らは刻む 六度目のゼロを

 もう一度 何度でも刻む 僕らだけのゼロを
  *

1.02 佳奈 note.2

 小学生のころ、家に帰るのが嫌いだった。
 ――また明日ね!
 ――……うん、またね。
 学校の授業が終わり、放課後の楽しい時間も終わり、友達と別れたあとは憂鬱だった。真っ暗な家に帰って、冷蔵庫から夕飯を取り出して、レンジでチンして、誰もいない部屋で食べる。絶望的に退屈な世界が広がっていた。
 たまに母が早く帰ってきている日も、大して変わりはしなかった。
 ――おかえり。今日はどうやった?
 ――あのね、体育の授業でかけっこして、うちは一番だったんよ!
 ――あらそう。よかったなぁ。
 ――ただ、がんばりすぎて、体操服が破れてしもうた。
 ――あらまあ、大変。買い替えんとね。
 母は佳奈の話を聞いて笑うでもなく、怒るでもなく、常に淡々としていた。全てのコミュニケーションが無味乾燥だった。彼女は『母っぽい会話』や『ちゃんとした家庭』を実施しようとしているだけで、佳奈自身に興味を持っていないのが明白だった。
 母はいつもどこか遠くを見ていて、何を考えているのか分からない人だった。佳奈が物心ついた時からずっとそうだった。だから、父が外に恋人を作って出て行ったのも、仕方のないことだと思っている。
 母の笑顔をはじめて見たのは10歳のときだ。
 ――佳奈、紹介するわ。冷泉院葵(あおい)くん。ママが高校生だったころの友達なんよ。こっちは、息子さんの柊羽ちゃん。佳奈の2歳下で、小学2年生。
 母が珍しく「近所のファミレスで昼ご飯を食べよう」と言い、連れていかれた先に待っていた葵という男性は、ドラマや映画の世界から抜け出てきたようにカッコよかった。彼に相対した母は、きらきらと瞳を輝かせていて、「ママもこんな顔をするんだ」と思った。
 一方、佳奈より頭一つ小さい柊羽という男の子は、どこにでもいる普通の子に見えた。彼は佳奈の顔をじっと見つめて動かず、手にはニンテンドーDSを握りしめていた。
 ――しゅうちゃん、はじめまして。ゲームが好きなん?
 ――うん。今は、これやってる。
 彼が見せてくれたのは、ポケットモンスターのソウルシルバーだった。佳奈もハートゴールドを持っていたので、ファミレスのボックス席に隣同士で座り、交換や対戦をして遊んだ。あのとき何を食べたのか、親同士が何を話していたのか、まったく覚えていない。
 翌週、学校へ行く準備をしていたら、母が言った。
 ――佳奈、お願いがあるんよ。
 人生初の出来事だった。
 ――今日、学校が終わったら、柊羽ちゃんと一緒に帰ってきて。葵くん、急な香川出張で帰りが遅くなるんやけど、お祖父ちゃんは旅行中なんと。
 詳しい事情は分からなかったが、その日は授業が終わってすぐ、2年生の教室へ柊羽を迎えに行った。彼も父親に何か言われていたようで、大人しく佳奈についてきた。
 ――おじゃまします。
 家に友達が来たのははじめてだった。佳奈ははしゃいだ。おやつやジュースを出して、ゲームをして、漫画を読んで、ごっこ遊びをした。母が帰ってくるまでの時間が、あっという間に感じられた。
 ――ただいま。仲良くしとった?
 ――うん!!
 柊羽と声を揃えて返事をすると、母は柔らかく微笑んだ。
 佳奈たちは遊びの趣味が似通っていた。鬼ごっこよりかくれんぼが好きだし、お絵描きより工作の方が好きだし、踊るより歌う方が好きだった。学校でも、それ以外でも、2人で一緒にいることが増えた。
 柊羽と家に帰るのは大好きだった。2人でふざけながらご飯を食べて、気の向くままに遊んで、声が枯れるまで笑った。
 ――佳奈。ママが再婚するって言うたら、どうする?
 冬の足音が聞こえるころ、母は少女のように頬を染めて、もじもじしながら切り出した。
 ――相手は葵くんで、ほなけん、柊羽ちゃんが佳奈の弟になるんよ。
 その話を聞いた瞬間、ぱっと脳裏にビジョンが浮かんだ。
 明るく光に満ちた家で、俳優のようにカッコいい義父がいて、彼に寄り添う母はニコニコしていて、佳奈と柊羽は楽しく遊んでいる。絵に描いたように美しい光景だった。
 ――わぁ、嬉しい!!
 佳奈は勢いよく母に抱きついた。記憶がある限り、最初で最後のことだ。
「……ふぁ」
 良い夢を見ていたような気がする。
 六畳一間のワンルームマンションで目覚めた佳奈は、とても穏やかな気持ちだった。ゆっくりベッドから下りて、伸びをする。レモンイエローのカーテンを引くと、爽やかな朝の陽ざしが全身を包んだ。
 東京の朝は、徳島より早い。東へ来たんだなぁと実感する。
 顔を洗い、食パンをトーストに放り込む。紅茶の用意をしながら、なにげなく洋服ダンスの上の飾り皿に手を伸ばした。
「……あ、そっか」
 そこに入れていたミサンガは、もうない。
「やっぱり身に着けないで、飾っておけばよかったな」
 何度もそうしようとしたのだ。
 しかし、そのたびに、彼の声が脳裏に蘇った。
 ――いや、結べよ。ミサンガだぜ。手首でも足首でもいいから。
「結んでたら失くしちゃったよ、しゅうちゃん」
 ため息をついて、佳奈は朝食を摂りはじめた。
 佳奈たちは良い家族だったと思う。母たちが結婚していた3年間、出会ってから数えれば約4年間、特にトラブルもなく楽しく過ごした。そういえば一度だけ、再婚してすぐのころに母が入院したが、葵も柊羽も彼の祖父も親切で「家族っていいな」と佳奈は思ったものだ。
 どうしてそれが壊れたのか分からない。
 ミサンガをもらった夏が終わるころ、葵ははしゃいでいた。
 ――株式を買い戻せた! 来春から会社に戻れるぞ!
 よく分からないが、彼が創業した会社の権利を取り戻したとのことで、とても嬉しそうだった。家族全員で祝福した。
 ――どうしようか。春に向けてみんなで引っ越すか、俺だけ単身赴任するか。
 秋のあいだ、母と葵は相談していた。冬になったら、何故か、彼らは離婚することになっていた。その先のことはよく覚えていない。泣いてわめいて暴れる佳奈を、柊羽と彼の祖父がなだめてくれた。葵は終始困った顔をしていた。母はかつての無表情に戻った。
 次の春が来て、柊羽たちは関東に去った。
 佳奈には、帰りたくもない家だけが残った。
「……なんで朝からこんな暗いこと思い出してなきゃいけないの。テンションあげてこ。今日は拓海と初デートだよ、佳奈!」
 鏡に向かい、両頬をぺちんと叩く。
 こんな時は音楽だ。スマートフォンを手に取り、ニコニコ動画のアプリを起動した。chil*chilはYouTubeにも『*Birdcage*』というチャンネルを持っているが、佳奈はニコニコ動画の方が好きだった。昔から使っているし、コメントが流れていくのを見るのが面白いからだ。
 フォローしているユーザーの一覧から、水色のギターのアイコンを選ぶ。約300本の投稿動画は『歌詞あり・あかるめ』『歌詞あり・れんあい』『歌詞なし・しずか』など種類別のマイリストにまとめられている。ざっとスクロールし、『歌詞なし・げんき』を選択。連続再生のボタンをタップし、シャッフルにチェックを入れてスタートする。
 弾けるようなギターの音が部屋いっぱいにあふれた。
「うん! いいかんじ!!」
 陽気なメロディに合わせて体を揺らしながら、今日着ていく服を考える。買ったばかりのワンピースにしよう。合わせてカバンと靴も決めた。
 メイクをして、髪を梳き、ポニーテールにまとめる。ちょっとスカスカしている右手首には、お気に入りの髪留めをつけてみた。重さや感覚はこれで誤魔化せそうだ。うん、大丈夫。
 準備はばっちり。気分も上々だ。
「よし! 行ってきまーす!」
 佳奈は元気よく家を出た。イヤフォンを忘れたので音楽は止めてしまったが、続きは鼻歌でうたえばいい。chil*chilの曲ならほぼ全て頭に入っている。
 メトロの複雑な乗り換えも、とんでもない人混みにも、大分慣れた。押上駅の待ち合わせ場所へ行くと、既に拓海は待っていた。
「佳奈、おはよう」
「おはよう、拓海! ごめんね。待たせちゃった?」
「ううん。俺も今来たとこ」
 2人はまず展望台へ向かった。拓海は天望デッキと天望回廊のセット券を予約してくれていたので、スムーズに入場することができた。
「わぁぁぁ。すっごい景色だね」
「高いなー」
 初めて見下ろす東京の街並みは、おもちゃのジオラマのようだった。
 ソラカラポイントでツーショット写真を撮って、地上が透けて見えるガラス床ではしゃぐ。回廊を歩きながら、東京タワー、六本木ヒルズ、ディズニーランド、レインボーブリッジの位置を教えてもらう。漫画やアニメやドラマでしか知らない場所ばかりだ。
 東京に来たんだなぁ、としみじみする。
「楽しかった! ありがとう」
「こちらこそ。やっぱり一度は上っておくべきだよなぁ」
 ソラマチに移動して、イタリアンのランチビュッフェの店に入った。メインのパスタを選んだあと、前菜、スープ、ピザを取りに行く。どれもこれも美味しそうで目移りするが、食べきれないほど取ってしまうと、お店の人に申し訳ない。佳奈は慎重に料理を選び、綺麗に皿へ盛りつけた。一方の拓海は、手当たり次第に料理を取っている。
「たくさん食べるんだね」
「いやぁ、どれも美味しそうだから、つい」
 彼が照れ笑いをしたとき、メインの料理が来た。
 ランチのあとは水族館に行く予定だった。
「徳島って、動物園とかうみがめ博物館はあるんだけど、水族館らしい水族館はないんだよ」
「えっ。ほんとに? じゃあ、県外まで行かなきゃいけないの?」
「うん、中学1年生のゴールデンウィークに、家族で海遊館に行ったのが最初で最後かな」
 当時を思い出し、佳奈は目を伏せた。
 柊羽の祖父を留守番に残し、葵の運転する車に、母と佳奈と柊羽の3人で乗った。徳島の家を出発し、鳴門の渦潮を見たあと兵庫へ向かい、三宮でランチをしてから宝塚へ。『ベルサイユのばら』を観劇したあと、ユニバーサル・スタジオ・ジャパンの近くのホテルに泊まった。驚くほど広く、景色のいい部屋だったことを覚えている。
 翌日は朝から晩までユニバーサル・スタジオ・ジャパンで遊び、最終日は海遊館を満喫して、時間が余ったので異人館も観光して帰った。盛りだくさんの旅行だった。母と葵はずっと腕を組んで歩いていて、佳奈は柊羽の手を掴んで振り回していた。
 ――ハリー・ポッターのテーマパークが完成したら、また来よう!
 そんなことを話していた気がする。
「佳奈?」
「あ、ごめん。なんでもないの」
 慌てて右手を振る。手首につけた髪留めが、ふるふると揺れた。
 ぼんやりした様子の佳奈を見て、拓海は何を思ったのだろう。
「そういえばさ。俺、あのあと、柊羽くんについてめっちゃ調べたんだよ」
「え?」
 彼がそんなことを言うので、佳奈はびっくりした。
「YouTubeチャンネルに上がってる動画、まだ3分の1くらいしか見れてないんだけど、めっちゃ凄くてハマってる。ドラムがこんなに面白い楽器とは知らなかったよ。
 あとさ、彼、5月1日に結成したバンドのメンバーになったんだって。
 そのプロモーションビデオもカッコよくてさ……」
 拓海は楽しそうに、佳奈の知らない柊羽の姿を語りだした。YouTubeに自分のチャンネルを持ち、2000本以上の動画を上げていること。タテノ・エンターテインメントという芸能事務所の人々とバンドを組んでいること。魅力的なドラムを演奏すること。
「彼のバンドのライブスケジュールを見たら、平日の夜は横浜や川崎あたりで、土日は都内で、毎週2、3回演奏するみたいだ。だいたい場所が遠かったり、時間帯が変だったりするんだけど、30日の土曜の昼間に、渋谷Guiltyってライブハウスへ出演するらしいんだよ。
 よかったら一緒に観に行かない?」
「ええ?」
 佳奈は、ぱちぱちとまばたきをした。拓海は声を弾ませて、
「俺、柊羽くんのドラム、生で見てみたいんだ。佳奈もそうだろ? なんだったら、直接会って話せるかもしれないよ」
「で、でも私、ライブハウスなんて行ったことないし」
「それはまぁ、俺もないよ」
「なんか……危ない場所ってイメージだし……」
 佳奈が漫画やアニメやドラマで知る『ライブハウス』は、路地裏にあって薄暗くて汚くて、柄の悪い人たちが集まっていて、煙草を吸ったりお酒を飲んだり、なんならもっとヤバいものを楽しんだりしている場所だ。
 そんなところへ足を踏み入れるのは怖いし、そこにいる柊羽も見たくないと思った。
「えー。でも、せっかく会えるチャンスなのに」
「ううーん。……ちょっと自分でも調べてみるね。あと私、今、バイトに応募してて。もしかしたら、その辺りに面接が入っちゃうかも」
「へえ。何のバイトすることにしたの?」
「塾講師。うちのそばのローソンの上に、個別指導塾あるじゃん」
「あそこかぁ。塾講師は大変だってうちの姉ちゃんが言ってたけど、がんばってね」
 拓海は笑顔で励ましてくれたあと、
「じゃあ、予定分かったら教えてよ。待ってるから」
「……うん。ありがとう!」
 少しモヤモヤした気持ちになったものの、がんばって笑顔を返した。
 先に料理を食べ終えたのは佳奈だった。もうちょっと前菜を食べてもよかったな、と思ったが、今さら取りに行くのも気が引けた。代わりに、お手洗いへ行って口紅を塗りなおした。帰ってくると、拓海が苦しそうにしながら、なんとか料理を食べ切るところだった。
 それから2人で水族館へ行った。ロマンチックなクラゲの展示や、可愛らしいペンギンが泳ぐ姿に心が浮き立ち、先ほどの困惑は薄れていった。
 これでいい。これがいいのだ、と思った。

1.03 拓海 note.2

「ごめん、拓海。30日はバイトの研修が入っちゃった」
「そっかー…。分かった。じゃあまた、次の機会があったら誘うね」
「ありがとう」
 デートの翌週の英語の講義で、佳奈にライブの誘いを断られてしまった。
 そもそもライブの予定を調べたのは、彼女が柊羽と会えればと思ったからだ。佳奈の都合が悪いなら仕方ない、で終わる話だ。
 だが拓海は、柊羽のドラムを見たいという欲が自分の中に燻っているのを感じた。
 ゴールデンウィーク以降、暇さえあれば彼の動画を見ている。ようやくリストの半分ほどを消化して、画面内の柊羽の背は最初の1.5倍くらいに伸びた。髪もぼさぼさではなくなっている。演奏は、大ヒットした洋画のメインテーマ、聞いたこともないアニメの挿入歌、chil*chilの古い曲、EDMまで様々だった。
 一人でライブに行くか、どうするか。拓海は悩んだ。今は興味があっても、当日になったら面倒くさくなるかもしれない。目が覚めたら昼過ぎかもしれない。豪雨が来て、家から出る気が失せるかもしれない。
 色々と考えていたのに、30日の朝はすっきり9時に目覚め、空は雲一つない快晴だった。
「純粋に、ライブハウスってのがどんな場所か、気になるしな。俺が一度行って様子を見てくれば、佳奈も安心するかもしれないし」
 拓海は言い訳めいたことを口にしながら、出かける支度を始めた。
 適当なシャツとズボンを着て、いつものボディバッグを肩に引っ掛けて家を出る。田園都市線に乗って渋谷駅へ移動し、地下道からエスカレーターを乗り継いでマークシティへ。衣料品店や飲食店を眺めつつ、4階のアベニュー口へ向かう。コンビニとメガネ店の前を通り過ぎると、無事に道玄坂へ出ることができた。
 センター街や宮益坂の方ではよく遊ぶが、こちら側へ来るのは初めてだ。
 交差点を左へ曲がってしばらく歩くと、『渋谷Guilty』と輝くネオンサインが見えてきた。
「……本当に、ここまで来ちゃったな」
 拓海はひとりごちた。
 わりと広い道路に面しているので、イメージしていたような薄暗さや汚さはない。だが、アーチ形の入り口から地下へ伸びる階段は『一見さんお断り』の空気を醸し出している。行くか、行かないか。躊躇していると、階下のガラス扉が開いて、一人の女性が現れた。
 彼女を一目見て、「化粧が濃すぎる」と思った。バサバサのまつ毛に、コバルトブルーのアイシャドウ、濃いピンクの口紅。セミロングの黒髪には赤いメッシュを入れている。これまでの人生では、まず関わってこなかった人種だ。
 女性はゴンゴンと鈍い足音を立てながら階段を上り、拓海の脇を通り過ぎると、隣のビルの壁にもたれかかった。ポケットからスマートフォンを取り出し、耳に当てる。
「何の用? あたし今日はライブに行くって言ったでしょ。……はぁ? 違うって言ってんじゃん。いつもそうやって勝手に誤解して怒るんだから」
 激しい口論が始まった。拓海は、観察するともなく彼女を見つめた。
 フリルとリボンがぎっしりついた黒いスカートに、お揃いのデザインの二―ハイソックス。めったやたらに厚底の靴。典型的なゴシック調のファッションだが、トップスだけがカジュアルなマゼンタピンクのTシャツで、ちぐはぐである。これがいわゆる『バンドギャル』のスタイルなのだろうか。
「うっさいなぁ、あたしの趣味に文句つけないでよ」
 彼女が怒声を発すると、Tシャツの正面にプリントされた『#000000』という文字の上あたりで、赤いメッシュの毛先が揺れた。
「ロクゼロの音楽は本当に最高なんだから。一回聴いてみてって」
 いらいらと吐き捨て、くるりとこちらに背を向ける。Tシャツの背面には白抜きのゴシック体で『60』と書かれ、下に小さくアルファベットが並んでいる。『Rock'd meno Zero』。ぼんやり、その文字列を眺めていた拓海は、『ろくどめのぜろ』と読めることに気づいた。
「はいはい、分かってるよ。夕飯までには帰るから。じゃあ切るね」
 女性は溜息をつくと、どすどす足音を立てながら戻ってきて、階段を下りていこうとする。
 拓海は思わず、
「あの、すみません。『六度目のゼロ』のファンの方ですか」
「そうだけど?」
 振り返った彼女は、眉根を寄せ、いぶかしげにこちらを睨んだ。自分は一体どうしたいのだろう。まごまごしていると、不意に彼女が笑った。厚い化粧がぱっきり割れて、驚くほど純粋な、幼い少女のような顔が現れる。
「お兄さんもロクゼロのファン? もしかして、ライブ来るのはじめて?」
「は、はい」
「ようこそ! えっへへー、嬉しいね。新規さんが来てくれるのは。ライブハウスって最初なんかビビるよねー。案内するから、ついておいでよ」
 彼女は両手をぱんと打ち合わせ、さっと階段を下りると、手招きをした。
 なんだか無性にホッとした。
「ありがとうございます」
 拓海は意を決し、彼女の後に続いた。
 地下1階へ辿り着き、ガラス扉を開ける。エントランスは思ったより狭い。入ってすぐ左手に細長いカウンターがあり、エプロンをした黒髪の男性が座っている。
 背番号60のTシャツを着た女性は、青い紙のかけらを彼に見せ、さらに奥へと歩いていく。
「あたし、先に入ってるね」
「あ、はい」
 彼女を見送っていると、店員と思しき男性が話しかけてきた。
「いらっしゃいませ! お目当てのバンドはどちらですか?」
「えっと……『六度目のゼロ』です」
「前売り券をお持ちでいらっしゃいますか?」
「いいえ、ありません」
 男性は頷いて、
「当日券とワンドリンク代、合わせて3000円になります」
 拓海が代金を支払うと、今日の日付やライブ名が印字された青いチケットの半券と、三角形の札のようなもの、折りたたまれたチラシとパンフレットを手渡された。
 店員は早口でまくしたてた。
「途中入退場される際は、この半券を忘れずにお持ちください。コインロッカーはエントランスの外にあります。このピックはドリンクチケットです。バーカウンターの店員にお渡しいただければ、お好きな飲み物と交換できます。お手洗いはバーカウンターの裏にございます。
 最後に、本日出演するアーティストのフライヤーと、当店の今月のスケジュールでございます。それでは、いってらっしゃいませ」
「ど、どうも」
 専門用語が多すぎて、何を言われたのか、よく分からない。とりあえず渡されたものを全てを受け取り、カウンターを離れた。バッグにチラシ類を入れつつ、ぐるりと周囲を見渡す。壁には見たことも聞いたこともないアーティスト達のポスターが貼られている。先ほどの女性が消えた方向には、さらに地下へ続く階段があり、奥の突き当りに扉があった。
 おそるおそる階段を下り、やたら重い黄色の扉を開けて、中に入る。
 ぱっと視界が開けた。真っ黒な壁と床。壁沿いに幾つかハイチェアが並び、ハイテーブルが5台ほど置いてある。中央の空間には何もない。何気なく左手の壁を見上げたら、上方の隙間から人の顔がのぞいていて、驚いた。よく見ると、照明や音響の機器が置かれた場所のようだ。
 右手には、腰ほどの高さの柵に囲まれたステージがあった。高校の講堂の舞台の半分くらいの広さだ。天井には色とりどりのライトが吊り下げられている。
「お兄さん、こっちだよ!」
 声のした方を見ると、下手側の隅で、マゼンタのTシャツを着た女性がぴょこぴょこジャンプしている。拓海はホールを横切り、彼女に近づいた。
「あの、今は、演奏はしていないんですか」
「まだ開演時間じゃないからね! 今日は1組目が横井ゆきのって女の子で、ロクゼロは2組目だよ」
 彼女は派手な身振り手振りで説明したあと、
「だから、今のうちにエトオさんを紹介するね。エトオさん、この人もロクゼロのファンで、今日はじめてライブに来たんだって」
 彼女の横にいる男性を見て、拓海の脳裏には『オタク』という三文字が浮かんだ。まず彼は、拓海より頭二つ分ほど背が低い。それゆえつぶさに見えてしまう頭頂部の毛髪は悲しいくらい薄く、側頭部の髪を寄せ集めてなんとか誤魔化している。体型は見事な太鼓腹で、女性と同じマゼンタのTシャツを着ているのだが、サイズはSと3Lくらい違う。
 要するにチビ・ハゲ・デブという、メディアでよく見るオタクの印象そのままの男だった。
「はじめまして。新しいファンの人が来てくれて嬉しいなぁ。僕は、エリサのトップオタ。略して『エトオ』と呼ばれているよ」
 ねっとりした喋り方も絶妙に気持ち悪い。握手を求められた拓海は、正直なところ気が進まなかったが、断る勇気もなかった。
 おっかなびっくり応じると、エトオはにんまりと笑みを浮かべ、
「お兄さんは、どのメンバーが一番好きなの?」
「えっと、、ドラマーの柊羽さんの動画見て、カッコいいなって思って来ました」
「そうなんだね! 服のサイズはMかな、Lかな?」
 彼は、背負っていた大きなリュックを下ろした。登山をする人が使うような大容量タイプだ。横のジッパーを開くと、マゼンタ、シアン、イエロー、ブラック、四色の包みが零れんばかりに詰め込まれているのが見えた。
 鼻息も荒く拓海を見たエトオは、
「うん、若いし、シュッとしてるし、Mでよさそうだね。このLはかなり大きめだから」
 慣れた手つきでリュックの中に手を突っ込み、ビニールの表面に『M』と書かれたイエローのTシャツを引っ張り出して、拓海に差し出した。表に『#000000』、裏に『60』の文字があしらわれた、目の前にいる二人と色違いのデザインのTシャツである。
「これは……?」
「ロクゼロ公認のファンTシャツさ。シュウのメンバーカラーはイエローだからね。ちなみにエリサはマゼンタ、ミチルはシアン、アキマサがブラックだよ」
「ええと、お金は……?」
 もしや、半強制的にTシャツを売りつける悪徳商売だろうか。訳も分からないまま付いてきてはいけなかったかもしれない。
 拓海の心情を察したのか、エトオは慌てて首を振った。
「いやいや! これは僕の趣味でね、勝手に作って勝手に配っているんだ。ロクゼロは結成したばかりで、まだグッズがないからね。ファン同士の絆を強めるというか、メンバーに『応援しているよ』と伝えたいというか、そんな気持ちで始めたんだ。だからもちろん、お金なんかいらないよ!」
 傍らの女性も深く頷いている。
「そーそー。こう見えてエトオさんは、千葉にあるTシャツ工場の社長さんなの。自分の工場の機械と素材を使ってるから、タダでいいんだってさ」
「メグちゃんの言うとおりだよ! だから気にしないで、どうかもらってほしいんだ」
「はあ……」
 なんだかよく分からないが、無料なら困ることもないだろう。拓海がTシャツを受け取ると、二人はとても嬉しそうだった。
「よしっ。また一人、ファンの輪が広がったぞ!」
「ライブハウスの最前をロクゼロTシャツで埋め尽くす計画、順調じゃんね!」
 2人はハイタッチし、拓海を見た。今すぐにTシャツを着てほしそうな空気がひしひしと伝わってくる。拓海は戸惑ったが、上手く断る方法も見つけられない。
「トイレってどこにあるんでしょうか」
「こっち、こっち!」
 跳ねるように歩く女性についていくと、ステージの下手側に、壁と一体化している黒い扉があった。開いた正面にバーカウンター、横にトイレがある。
「じゃあ、着替えてきます」
「ありがとー!」
 しぶしぶトイレに入り、着ていた服を脱ぐ。
 流されすぎかもしれないが、郷に入っては郷に従うべきだろう。
 イエローのTシャツを頭から被って、ちらっと鏡を見る。意外と悪くない。いっぱしのバンドファンになった気分だ。
 トイレを出ると、エトオと女性が待っていた。
「似合うね! すっごくいい感じだよ」
「ありがとうございます」
「家に帰ったら、首元についているタグをチェックしてほしい。僕が運営してる公認ファンサイト『Rock Zerors』のURLとQRコードを載せてあるんだ。会員登録してくれたら、ロクゼロに関する色んな情報をお届けするよ。もちろん無料さ」
「はあ。分かりました」
 ぺこりと頭を下げると、
「ねぇ、お兄さんのこと、なんて呼べばいい? あたしはメグだよ」
「ええと……拓海、でいいです」
「タクミは、ネットでロクゼロのことを知ったの?」
「はい。結成のお知らせとMVを見て、『六度目のゼロ』を聴いて、良い曲だなと思いました」
 すると2人は声を揃えて、
「わかるー! あたしも超好きー! 間奏のピアノソロ、超絶カッコよすぎだよね」
「いい曲だよねぇ、エリサの声にぴったりだよねぇ」
 口々に熱い思いを語りだす。
 これがバンドファンのノリか。拓海が若干引いていると、
「タクミ、今のうちに、そこのバーカウンターでドリンクを注文するといいよ。さっき受付でもらったピック、失くしてないよね?」
「ピックってなんですか?」
「ちっちゃい三角形の板だよ」
 あれか、と合点して、ポケットから引っ張り出す。
「来場者特典的なプレゼントかと思いました」
「あっはは。タクミは楽器やってないの?」
「全然まったく。昔、高校の授業で少し触ったくらいで」
「ふーん。ギターとか似合いそうなのに。こういう風に右手に持って、弦を弾くんだよ」
 メグはギターを構えるポーズをとった。そういえば高校生のころ、学校の授業で習ったような気もする。当時は興味がなかったので、あまり覚えていない。
 とにもかくにも、拓海はピックをカウンターの店員に渡し、ジンジャエールを注文した。
「おふたりは、よくライブハウスにいらっしゃるんですか?」
「あたしは今月からだよ。エトオさんは通い詰めてそうだね」
「エリサがアイドルだったころや、シンガーソングライターをしてたころは、全てのライブに通ってたねぇ。ここ数年はライバー活動が中心だったから、またライブハウスに出てくれるようになって嬉しいよ。やっぱり現場はいい。音が違うし、振動が伝わるからね」
 いかにも『プロオタク』っぽい口ぶりである。
「エリサって、ボーカルの人ですよね? 昔はアイドルや、シンガーソングライターだったんですか?」
「うん。デビューした時は6歳、朝ドラの子役だったよ。それから紆余曲折あって、今年で芸歴22年目。僕も、オタク歴22年目なんだ!」
 22年前なんて、拓海は生まれてすらいない。
 あっけにとられていると、
「エリサの子役デビューは『うららか』って朝ドラでね、主人公の親友の娘役だったんだ。それはそれは可愛くて、健気でね。僕は、一目見てファンになった。彼女を推すことが生き甲斐になったんだ」
「はあ」
「13歳の時に有名なアイドルグループへ加入して、23歳で卒業して、シンガーソングライターとしてCDを出したけど売れなくて、長く所属していた事務所を離れて、ShowRoomをはじめて、ライバーとしてそこそこ有名になって、タテノに所属して……本当に色々なことがあった。変わらないのは、エリサは最高に可愛いってこと! 僕はずっと応援しているよ!」
 流石、トップオタと言うべきなのだろうか。
 拓海が返答に困っていると、店員がドリンクを渡してくれた。
 これ幸いとばかりに話題を変える。
「今、ここにいるロクゼロのファンって、おふたりだけなんですか?」
 メグとエトオは、ぎくりとした顔をした。
「いやいやまさかまさか。あたしが気づけてなくて声かけられてないだけで、もっともっといっぱいいるよ。いるはずだよ」
「うんうん。僕がうっかり気づけてなくて、Tシャツを渡せてないだけさ」
 やはり、今ここにいるファンは、この2人だけらしい。
「そんなに芸歴の長い方がいるのに、あんまり人気ないんですね」
 ぽろっと零したら、エトオは「うっ」と胸を押さえてうずくまった。
 メグは遠い目をして、
「まぁエリサは、言ったら悪いけど、子役上がりのアイドル崩れのシンガーソングライターになりそこないのカラオケ配信者だもんね。クラスチェンジが多すぎて、途中で離れたファンも多いんじゃないかな」
「ぐうっ。タクミくんはまだしも、メグちゃんまで。ひどいよぉ」
「あたしはエリサが好きだよ! 可愛いし、歌うまいし、ロクゼロのボーカリストにぴったりだよね!!」
「……だよねぇ! 僕もそう思うよ!!」
 たちまちエトオは復活した。
 メグは苦笑いしつつ、腕組みして、
「でも、タクミの言うとおりだよ。結成から約一ヶ月、今日が9回目のライブじゃん。エトオさんは毎回参戦してるのに、Tシャツ配布成功数が2枚ってヤバいよ。作戦を練り直さないと。ねえタクミ、いい案ない?」
「えっ。えーと……」
 2人に泣きそうな目で見つめられ、拓海は焦った。何かアイディアを出さなければという気になってしまう。必死に無い知恵を絞っていたら、国政選挙のたびに近所の商店街でアンケートを取っている人たちのことを思い出した。彼らはいつも、商店街の片隅に『アンケートへご協力いただいた方には、ノートとボールペンをプレゼント』と書いた幟を立て、人を集めている。
「幟を立てるのはどうですか。『ロクゼロ公認Tシャツ無料配布中』って大きく書いた幟の前で、大声を出してアピールすれば、あんまり怪しくなくて受け取りやすいかも」
「わぁ、いいね、それ! エトオさんの工場で幟は作れないの?」
「作れるとも! よし。今日帰ったら、早速デザインを練ってみるよ!」
 あっさり採用されてしまった。
 ぽかんとしているうちに、店内のBGMの音量が小さくなり始めた。
「もう開演時間か。あたしたちも中に入らないと」
「そうだね!最前をとろう」
 エトオさんは再びリュックを背負い、
「タクミくん、僕らの後ろからついておいでよ」
「は、はい」
 すたすたと歩き出す彼らを追って、拓海も扉をくぐった。
 場内は照明が落とされている。フロアには人影が増えていたが、せいぜい15人くらいだ。ライブハウスは大勢の人でごった返しているイメージだったが、現実はそうでもないらしい。
 ――俺だって、ここへ来るまでに相当な勇気と覚悟を必要としたもんな。
 納得しているうちに、ステージ中央の柵の正面へ辿り着いた。
「タクミくんは僕の右側、つまりステージの上手側へ行くといいよ」
「どうしてですか?」
「シュウくんのプレイが見たいんだろう? 彼のドラムは、そっち側だよ」
 メグはエトオの左側に立ち、柵に両手を乗せて、かかとを上げたり下ろしたりしている。
 まもなくしてステージの幕が上がった。ギターを提げた女性に続いて、3人の男性が現れる。長髪の男性がキーボードの前に立ち、その隣にベースを抱えた男性が並んだ。眼鏡をかけた男性は木製の箱のようなものを持ってきて、ドラムセットの前に置き、その上に座った。
 女性が前の方に出てきて、女の子の絵が描かれたプロップスを譜面立てに飾った。
『みなさん、こんにちは。ゆきのと申します。この子はマスコットののんちびです。普段は一人でギターを弾き語ってるんですけど、今日はスクオペア♪バンドの皆さんにサポートしてもらって歌います。最初の曲は「地元の歌」というオリジナルです。聞いてください』
 ジャーン、とギターが鳴らされた。
 それはスマホやパソコンから流れてくる音とは全然違った。目の前の空気が震えて、右耳から左耳を一気に通り抜けるような、同時に逆方向からも貫かれるような。
 女性が歌い出すのに合わせて、キーボードやベースも演奏を始める。木箱に座った男性は、手のひらで箱の表面を叩き始めた。小気味よい打音が冴え渡る。拓海はエトオに囁いた。
「あれも楽器なんですか?」
「そうだよ。カホンっていう、アコースティック版のドラムみたいなものさ」
 面白い。
 色んな音が身体全体に響いていくのを感じる。全身が耳になったようだ。
 歌っている女性は拓海と同年代だろうか。簡潔な言葉で綴られた歌詞には、共感するところが多かった。聴き入っているうちに、彼女は6曲の演奏を終え、ステージを去った。
 場内の照明が明るくなり、再びBGMが流れ出す。
「いやあ、素朴で可愛かったねぇ」
「エトオさんが言うと犯罪っぽーい。ってか浮気だ、浮気ぃ」
「僕の一番はエリサだけど、夢を追っている若い子はみんな好きだし、応援しているんだよ」
 メグと軽口を叩き合っていたエトオが、こちらを振り返る。
「どうだい? はじめてのライブハウスは」
「なんか……音が凄いっすね。どう表現すればいいのか、語彙が見つかりませんけど」
 拓海が答えると、何故かエトオは自分のことのように嬉しそうだった。
「自宅の音響設備じゃ味わえない重さ、深さがあるよねぇ。あと、特にこのライブハウスは、照明も素晴らしいと思わないかい?」
 そう言われてみれば、曲調に合わせて青になったり緑になったり、明滅したりスポットを照らしたり、実に幻想的だった。
「ホールの後方、一段高くなっている場所が分かるかな? あそこでPAさんや照明さんが頑張ってくれているんだよ」
「ああ。そういうことなんですね」
 会話をしているうちに、再び照明が落ち、BGMが遠ざかっていく。
「さあ、いよいよロクゼロの出番だよ」
 エトオに促され、身体を正面に直す。ステージの幕が上がる。
 彼らは、既にそこにいた。
 動画で見た通りだ。ステージ前方の上手側からミチル、エリサ、アキマサ。下手の奥のキーボードにタカヒロがいて、対になる上手側、拓海の真正面に柊羽がいる。
 ――本物だ。
 そりゃあそうに決まっているのだが、ふわっと心が昂揚する。ここ一ヶ月、ずっと動画で見ていた人物が目の前にいる。
 柊羽が視線を上げたので、どきっとした。
 前触れもなく始まったドラムの連打。深紅に染まるステージ。狙い澄ましたオープン・リムショット。柊羽の撃ちだした音の塊が、衝撃波となって心臓に突き刺さるようだ。
 ビームライトが会場を暴れ、ベースとキーボードが同時に重低音を鳴らす。もっさりしたワカメのモンスターことミチルが、驚くほど滑らかにエレキギターの弦を弾く。朝を告げる鳥の歌のような、美しいメロディが鳴る。
 真っ白なスポットライトがボーカルを照らした。
 音の津波を切り裂くように、エリサはハイトーンで歌い出す。

  *
 1.汚れた世界を諦めた人に
 うたわれすぎた 夢と希望
 無邪気に信じて育った僕らは
 汚れた世界を諦められない

 「こうだったらいいのにな」を
 素直に信じて何が悪い?
 何も知らぬまま 現実に殴られて
 病んだ心を笑わないで

 「権利は闘って勝ち取るものだ」と
 当然に知っていた大人たちの論理が
 いつまでも正しいと思うなよ

 与えられたものを互いに譲り合って
 嫌なことをせず 好きなことを大切にする
 子どもだった僕らの論理を正解にしよう
 そのために 僕らが『大人』になろう

 2.出逢いがないから結婚しない
 僕らにとって その意味は
 運命を感じる たった一人に
 まだ巡り会えていないということ

 「こうだったらいいのにな」を
 素直に信じて何が悪い?
 妥協して 自分を売ったくせに
 僕らの純情を笑わないで

 「甘やかな恋も愛も青春の幻だ」と
 当然に知っていた大人たちの論理が
 いつまでも正しいと思うなよ

 出逢った瞬間に花が舞って 溺れるような
 長い時間の果てに 気がついたら咲いてたような
 子どもだった僕らの論理を正解にしよう
 そのために 僕らが『大人』になろう
  *

1.04 佳奈 note.3

「めっちゃくちゃカッコよかったよ!」
 英語の講義室へ入るなり、拓海が駆け寄ってきたので、佳奈は固まってしまった。
「えっ。なにが?」
「柊羽だよ! LINEでも送ったけど、ヤバかった。熱かった。何がなんだかわかんないまま、エトオさんに投げ渡されたタオルを振り回しちゃったもん。超楽しかったー」
 彼は、今しがたライブを見て、聴いてきたばかりのように語った。
「最初に演奏した『Adult』は、柊羽のドラムソロから始まるんだ。もうテンション上がりまくる名曲。先週やっと仕上がったんだって。結成発表までに作ってたのはロクゼロだけで、これから毎月1曲以上リリースしていく予定らしいよ。
 その次は洋楽のカバーでさ。エリサってめっちゃ英語の発音が良いんだよ。ネイティブレベル。流石に全部は聞き取れなかったけど、綺麗すぎてうっとりした。
 3曲目はchil*chilの『fragrant olives』のカバーだった。ライブハウスの音響ってすごいんだな。目の前から音が『これでもかー』って全身に響いてきて、元の動画とは全然違う良さがあって、踊り出したくなる感じだった。
 4曲目はまた知らない洋楽だったけど、ラストの『六度目のゼロ』は圧巻だったよ。涙が出そうになった。照明も綺麗でさ、本当に楽しかった」
 佳奈は目をぱちくりさせるしかなかった。
「それは、その……よかったね」
「うん! 次は一緒に行こうよ。ライブハウスってそんなに危ない場所じゃなかったよ。入り口は大通りに面してるし、中も綺麗だし。あーでも、チケットは高かったなぁ」
「いくら?」
「3000円」
「わぁ。結構するね」
「だよねー。30分のライブを見るために3000円はきつい」
 彼は苦笑いしている。佳奈はにっこりして、
「じゃあ、私が行けるとしたら、バイト代が入ってからだなぁ」
「そうなるよね。でも、本当に凄かったんだ」
 なおも言い募ろうとした拓海だったが、教授が入ってきた。雑談を打ち切り、ノートと教科書を出して講義に備える。6月になると、高校生時代とは比較にならないような長文を和訳したり、英訳したりすることが増えてきた。集中しなければついていけない。
 しかし佳奈は、気もそぞろだった。
 先週末に拓海からLINEが来たときは「わぁ、そうだったんだ。すごいね。私も行きたかったなぁ」と話を合わせていたが、実際に顔を合わせて感想を聞くのは、また別だ。彼の興奮した様子からは、心からライブを楽しんだのであろうことが伝わってくる。
 ――しゅうちゃんがプロドラマーになっていて、人前で演奏するなんて。
 何度想像してみても、しっくりこない。
 楽器を演奏している柊羽と言われたら、家で阿波踊りの締太鼓を練習している姿しか思い浮かばない。彼は祖父の太鼓を借りて、部屋でこっそり練習していた。こっそりと言っても、音が外に漏れているので、バレバレだった。
 ――しゅうちゃん、お囃子練習しとるん? うち、踊っても良い?
 ――わぁ! 勝手に部屋へ入ってくるなよ。
 ――ノックしたん。太鼓の音でかき消されたんよ。
 悪びれもせずに答えると、彼はバチを額につけるようにして、
 ――俺、かなが踊れるほど上手くないし。
 たしかに学校で太鼓を叩いている子たちは、みな、柊羽より上手かった。お囃子をやる子どもは、たいてい親や兄弟がお囃子好きで、物心ついたころから練習しているのだ。9歳から始めた柊羽とは年季が違う。
 ――ええよ。上手いとか下手とか、うち、あんまりわからんし。
 佳奈は気にしなかった。柊羽のそばにいられれば楽しかったのだ。
 子ども2人で遊んでいると、母や葵や祖父がしばしば様子をうかがいにきた。部屋の扉が開けられるたび、柊羽は演奏を止めた。音は聞こえまくっているのだから今更だと思うのだが、姿を見られることがものすごく恥ずかしいらしい。結局、彼が家の外で太鼓を叩く姿は一度も見なかった。
 そんな柊羽がどうして、ライブハウスなどに出演するようになっているんだろう。
 ――もう高校3年生になってるんだから、変わっててもおかしくないよ。
 拓海の言葉を思い出して、胸が痛む。
 彼が恥ずかしがり屋を克服したのなら、それはきっといいことだ。いつまでもずっと、子どものころから何も変わらずにいてほしいなんて、佳奈の傲慢である。寂しいと思うだなんて、勝手な話だ。
 だから佳奈は、考えることをやめた。
 柊羽のことも拓海の言葉も、何もかも心から追い出そうと努める。
「じゃあ、今日はここまで。次回は58ページから72ページを予習してくること」
 チャイムが鳴り、教授が挨拶をして講義を終わる。
 佳奈は即座に、隣の席の拓海を振り向いた。
「ねぇ、拓海。今週の日曜日は空いてる?」
「日曜? えーっと、午前中はバイト入れてるけど、午後は暇だよ」
「じゃあ映画見に行かない? 明日公開の誠守監督のやつ。ずっと楽しみにしてたんだ。前は、ほとんど拓海にデートプラン考えてもらったから、今回は私が考えるよ!」
 彼は目をぱちくりさせていたが、
「……いいよ! 俺も気になってたんだ。どこの映画館にする?」
「ざっくり上映時間を調べてたんだけど、渋谷のTOHOシネマズがちょうどよさそう。14時半からの回を予約して、13時に待ち合わせて、ランチしてから観るのはどうかな」
「大丈夫だよ。誘ってくれてありがとう」
 いい具合に、デートの話題で盛り上がることに成功する。
 これでもう、拓海の口から柊羽の名前を聞くこともないだろう。時間が経てば、彼も柊羽の話題に飽きて、すっかり忘れてくれるに違いない。
 そう思っていたのに。
「ロクゼロは、Break pointに出場するみたいだよ」
 デート当日、ハチ公前で待ち合わせた拓海は、佳奈の顔を見るなり言った。
「ぶれいくぽいんと?」
「そう。2年に一度開催されてて、今年で5回目になるライブバトルコンテストさ。地区大会、エリアファイナル、ジャパンファイナルって勝ち上がっていくと、賞金はもちろん、スポンサーのCMソングに起用されたり、有名な野外フェスへの出演権が得られたりするんだ。
 グランプリに選ばれると、メジャーデビューして、来年の夏に放映されるアニメの主題歌に起用されるらしい。ロクゼロは神奈川・静岡エリアでエントリーしたって、ホームページに書いてあった」
 彼はぺらぺらと語った。もしかしたら彼は、元々こういうバンドや音楽コンテストが好きなのかもしれない。趣味があるのはいいことだ。
 佳奈は笑顔を作ってみせた。
「詳しいんだね。凄い」
 ほめそやしつつ、ランチを予約している店に向けて歩き出す。
「ああいや、俺も昨日知って、ググっただけなんだけどさ」
 彼は、さりげなく車道側に立ってくれた。優しい人だ。
「ありがとう」
「えっ、いや、うん。まあとにかくそれで、来週の土曜日に早速、地区大会のライブがあるんだ。会場は神奈川の……どこだっけ。そうそう、伊勢佐木倶楽部CROSS STREETってライブハウス。チケット代は安いけど、場所がちょっと遠いんだよね」
「ふうん」
「でもこの大会は、全てのライブの模様を、無料でネット中継するらしいんだ! これなら佳奈も見られるんじゃないかと思って」
 白い歯を光らせて笑う拓海。
 細かいところまで調べてくれたのは嬉しいが、気乗りはしなかった。
「うーん、でも、土曜日かぁ。私、バイト入れちゃってて」
「あ……塾講師だっけ。何時から何時?」
「11時から19時。うちの塾、平日は17時から22時までだから、意外とシフトを入れられなくって。代わりに、土曜日にがっつり入れちゃった」
 両手の指を合わせ、ちょっとだけ上目遣いをして、精いっぱい申し訳なさそうに答える。
「そっか。塾って基本、夜だもんな。姉ちゃんが『地味にスケジュール縛られて大変』って言っていたのは、そういうことか」
 彼は腕組みをして唸った。
「拓海は何のバイトしてるんだっけ?」
「アイスクリーム屋。浪人生時代、勉強ばっかの毎日が嫌になって、『大学生になったときに遊ぶ資金を貯めよう』くらいの気持ちで始めたんだ。
 家からチャリで5分のとこにあって、仕事はわりと楽で、シフトも自由に組めて、欲しいアイスがあれば社割で買える。そう考えると、悪くないバイトなのかも。今月から時給も上げてもらったし」
「めっちゃいいじゃん。一回、バイトしてるところを見てみたいなぁ」
「ああ、来て来て。好きなアイスを奢るから」
 よし。良い感じに話題を変えられた。
 アイスクリーム屋ならではの苦労話を聞いているうちに、予約していたカフェに着いた。サラダとパスタ、デザートに紅茶もついたランチセットが800円。内装も可愛らしい。
「良い店だね」
「雑誌で見て、気になってたの」
 拓海は『一番人気』と書いてあるメニュー、佳奈は店長のおすすめメニューを注文した。
 店員が去ってすぐ、拓海はスマートフォンを取り出した。
「何時だったっけな」
 映画の時間だろうか。答えようとしたら、
「ああ、19時か。ぎりぎりだなぁ。うーん」
 彼はぶつぶつ呟きながら、画面をこちらに見せてきた。一番上に『TIME TABLE』と記載され、左の列に18時から21時まで、15分刻みで時刻が書かれている。右の列には見知らぬ人の名前や単語が並んでいた。
 19時の欄を見ると『六度目のゼロ』と書いてある。
「なあに、これ?」
「来週の、Break Point地区大会のタイムテーブル。17時開場、18時開演なんだ。各組の持ち時間は10分、演奏する曲は2曲らしい。ロクゼロの出番はちょうど19時なんだよね。まあ、時間が押すかもしれないし、佳奈のバイトがちょっと早めに終わるかもしれないし。とりあえずURL共有するね!」
「う、うん」
 また話題が戻ってしまった。拓海はどれだけバンドが好きなのだろう。
 正直なところ、あまり興味がない。こんな話は聞きたくないし、ライブを見る気もなかった。佳奈の知らない柊羽がこの世に存在する事実を突きつけられるのは、辛かった。
 だが、拓海に悪意がないのは分かっている。
 ――落ち着いて、佳奈。心配しなくても、私の思い出のなかのしゅうちゃんは、全部私だけのものだよ。
 自分へ言い聞かせているうちに、LINEでURLが送られてきた。
「ありがとー! 帰ったらチェックするね」
 明るい声でにっこりしてから、
「ところで、今日の映画の主演の子、バラエティ番組のロケで怪我しちゃったらしいよ。全治一ヶ月の骨折だって。心配だよね」
「えっ。鈴ちゃんが?!」
 昨日、ニュースで見かけた話題を振る。拓海は芸能人全般にも詳しいようで、すぐ食いついてきた。それからは好きな女優や俳優の話、これまで見てきた映画、今夏公開予定の映画などの話で盛り上がった。
 彼は、広く浅く色んなものごとに興味関心があるようだ。中高生のころの趣味も、好きな漫画もゲームも、流行を一通り抑えていた。
「拓海はゲームするの?」
「小学生のころはモンハン、スマブラ、パズドラにハマってたなぁ。最近は滅多にやらないや。ポケモンGOブームのとき、久々にアプリストアでゲームをダウンロードしたよ」
「私もポケモンGOしてるよ。元々好きだったし、がんばって図鑑コンプ目指してる」
「えっ、まだやってるの? すごいね。っていうか、佳奈がゲームするなんて意外だなぁ」
「……えへへ。そうかな。まぁ、暇つぶしだけどね」
 適当に空気を読みながら、あたりさわりなく楽しい会話をする。朝飯前のことだ。
 しばらくして運ばれてきたランチセットは、期待通りの美味しさだった。
 映画館に移動すると、拓海はドリンクを奢ってくれた。映画の内容も面白かった。鑑賞後はパンケーキ屋で感想を語り合い、写真映えするメニューを2人でシェアして食べた。
「今日は楽しかったね! ありがとー」
「うん。じゃあまた、来週の講義で」
 駅で手を振って別れた。満足だった。
 次の日からは、いつもの毎日だ。大学にも東京生活にも慣れてきて、平日はパターン化されてきた。講義に出て、友達と学食でランチをして、課題をこなして、スーパーで買い物をして帰って、料理して、掃除をして、お風呂に入って、ほどほどの時間で寝る。悪くない。
 土曜日はバイトしてお金を稼いで、日曜日は彼氏とあちこちへ遊びに行く。完璧である。
 木曜日の英語の授業の最後に、拓海が念を押してきた。
「佳奈、明後日の夜だからね」
「えっと……なんだっけ」
「Break Pointの地区大会だよ! 俺、何の予定もないから、18時半くらいからパソコン点けて待機するつもり。佳奈もバイト終わったら、絶対見てよ」
「う、うん。そうだね」
 佳奈は引きつった笑いを返した。バイトを入れておいてよかったと思った。それなのに。
「あ、鈴木さん。今日は守野さんも村中さんもお休みですって」
 塾へ行ったら、教える予定の子どもたちが休みだと言われた。
「守野さんは文化祭の準備が忙しいって本人から電話があってね。村中さんは風邪を引いたって、お母さんから連絡が来たわ」
「えーっと…こういう場合、私は、どうなるんですか?」
「ごめんなさい、お休みになるのよ。家が遠い子だと、わざわざ来てもらって申し訳ないから、シフトの時間分の事務作業をしてもらったりもするんだけど。鈴木さんは近いし。振替授業の日程は、早めに決めてあげてね。
 じゃあ、おつかれさま」
「はあ…。おつかれさまです」
 出勤して3分で退勤した。実際、歩いて帰れる距離だから良いのだが。
「塾講師って意外と稼げないなぁ」
 バイト選びを間違えたかもしれない、と考えながら家路に着いた。
 途中でスーパーに寄り、豚肉とキャベツとピーマンを買う。今夜は回鍋肉にしよう。
 いつものように食事を作り、掃除をして、お風呂に入る。
「ライブのインターネット中継かぁ」
 正直言って、見たくない。しかし見なければ、拓海をがっかりさせてしまうだろうか。
「バイトがなくなったって言わなければいいか」
 むしろ「残業になって、バイトが終わったときには時間が過ぎてて見られなかった」と言えばいい。それっぽい話を作るのなんて簡単だ。
 うだうだしているうちに時間が経っていく。
 ドライヤーで髪を乾かし、ベッドに転がって、スマートフォンを開いたら19時3分だった。
「一瞬だけ、見てみようかな」
 ちょっとだけ。ちらっと。申し訳程度に。妥協ラインを見出した佳奈は、拓海とのLINEトーク画面を開き、URLをタップした。
 瞬間、画面いっぱいに生意気そうな顔の青年が映る。明るい茶色の目。座っていても分かるすらっとした姿。秀でた額の美しさ。
 ああ、これは柊羽だ。そうと分かっていて、思わず見惚れた。
 彼はドラムを叩き始めた。優しく、穏やかに。夜明けの雨が木々へ降り注ぐように。寄せては返す波のように。ピアノとギターのメロディが加わり、視界は静かに晴れ上がっていく。
 カメラがすっと引いていって、ステージ全体が映った。ボーカルが中央。その周囲をギターとベースとキーボードが囲み、柊羽のドラムセットは右端にある。

  *
 1.白波の清さに恋をした
 海よ あなたはこんなにも尊い

 いいえ 私を満たすものは
 あの森で生まれて 川を流れ 届いたもの

 あなたが愛したのは 私ではありません
 あなたは遠く 遥かな 森の恋人

 2.水面の青さに恋をした
 海よ あなたはこんなにも美しい

 いいえ 私の姿は偽り
 あの空の輝きが 雲と流れ 映ったもの

 あなたが愛したのは 私ではありません
 あなたは遠く 遥かな 空の恋人

 3.恋というものが心なら 感情だというのなら
 海よ 私は 何を信じればよいのでしょう?

 あなたのあなたらしさに 愛がありますように
 私は この海と 森と 空の恋人
  *

『――はい! 2曲目は「海と森と空の恋人」を聞いていただきました。ありがとうございました。「六度目のゼロ」でしたー!』
 ボーカルの女性が挨拶をしたと思ったら、いきなり画面が真っ白になった。時刻は19時10分になっている。
 次の瞬間、『アイスラ飲んでBPチケット当てよう!キャンペーン』という文字が映し出された。令和製薬が販売している『アイスラ』という新感覚飲料を購入し、バーコードを集めると、抽選でBreak Pointのジャパンファイナルの良席が当たるらしい。
 ぼーっとしたままCMを見つめていたら、また画面が切り替わった。
『はじめまして! ネオ90's POPユニット、garden#00(ガーデンシャープ・ゼロゼロ)です。1曲目は「Love your life」を歌います。よろしくお願いします』
 礼儀正しく挨拶して、演奏を始めたのは、女性ボーカルと男性ギタリストのユニットだった。爽やかなギターのサウンドが心地よい。誰かから「今期の土曜ドラマの主題歌だよ」と言われたら信じてしまいそうだ。女性の伸びやかな歌声と、間奏のダンスも上手だった。
 彼らの演奏が終わり、再びアイスラのCMが表示される。
 ハッとしてWEB接続を切断した。頭がぐるぐるする。
 先ほどスマートフォンの画面に映った柊羽は、やっぱり、佳奈の大好きな弟の面影の欠片もなかった。それなのに。それなのに。
「……カッコよかったなぁ」

2.00 柊羽 note.1

 頬に当たるひんやりした感触で目覚めると、床の上に転がって寝ていた。
「やべぇ。またやっちった」
 慌てて身体を起こした拍子に、膝の上からTAMAのスティックが転がり落ちる。どうやら昨夜の練習中、「ちょっと休憩しよう」と横になったまま、朝を迎えてしまったようだ。
 壁の時計を見上げると、6時ちょうどを指している。
「こんなんで風邪でも引いたら、シャレにならねぇよな」
 体調管理もプロの仕事の内だ。
 冷泉院柊羽は、自分に呆れながら伸びをした。
 八畳の防音室には、ドラムセットと譜面立て、アンプ、CDデッキ、パソコン、オーディオインターフェイス、複数のマイクが設置されている。柊羽はスティックを元の場所に戻し、乱れていたドラムのセッティングを整えて部屋を出た。
 防音室の隣は物置で、父の趣味のサーフィン道具などを仕舞っていた。その扉の前を通り過ぎ、階段を上れば、リビングダイニングに繋がっている。
 ウォーターヒヤシンスの家具で統一された室内は、がらんとしていた。いつも通り、父はまだ寝ているようだ。シンプルな白のカーテンを開け放つと、爽やかな青空が見えた。天気は快晴。ダークブラウンのウッドデッキの向こう、遠くへ広がる海の水面は、太陽の光を受けてきらきら輝いている。
「今日も暑そうだな」
 柊羽は冷蔵庫からバナナとサラダチキンを取り出し、プロテインを溶いた牛乳で流し込んだ。使った食器は簡単に洗って、ステンレス製の水切りかごに並べる。飲み終わった牛乳パックは、すすいで潰して捨てた。濡れた手のまま洗面所へ移動し、顔を洗って自室へ戻る。
 音が鳴っていなくても、十分に音楽に溢れた部屋だ。窓際に置かれた机の上には、無数の楽譜と音楽雑誌が乱雑に散らばっている。ベッドサイドに飾っているのは、尊敬するドラマーがサインしてくれた色紙。壁一面の棚には古い洋楽のレコードやCD、音楽理論の教本が並び、入りきらなかったものは床に積みあがっている。
「足の踏み場がなくなってきたな」
 今日、帰ったら片付けよう。決意を固めつつ、クローゼットから引っ張り出したジャージに着替え、羽のように軽いリュックを背負った。リュックの中身は制服のズボンとシャツ、財布とスマートフォン、ノートが数冊。教科書や筆記用具など、勉強に必要な道具はほとんど学校に置きっぱなしだ。忘れ物をしようがない。10分で身支度を終える。
 部屋を出た瞬間、見知らぬ女とぶつかりそうになった。
 きつめの顔立ちの美女だ。白を基調としたコンサバファッションに、シュシュでまとめたグレージュのロングヘアがよく似合っている。先進的なオフィスでバリバリ仕事をこなしていそうな女なのに、シャツの袖をまくって洗濯かごを抱えた姿には、妙な可笑しみがあった。
 彼女は慌てた様子で、
「ごめんなさい」
「いや、こちらこそ、急にドア開けてすみません。
 ……おはようございます」
 柊羽がぺこりと頭を下げると、彼女はほっとした様子だった。
「おはよう。今日はいい天気ね。気を付けて行ってらっしゃい」
「ありがとうございます」
 彼女は穏やかに微笑み、柊羽の目の前を横切って、物干し台がある中庭へと歩いて行った。
 玄関に、彼女の物とおぼしきエルメスのハイヒールがあった。柊羽は何も見なかった振りをして、NIKEのスニーカーの靴ひもを締める。
「じゃ、行ってくるわ」
 誰にともなく呟き、柊羽は家を出た。
 エントランスポーチを抜けながら、イヤフォンを耳にねじ込む。アスファルトの地面に下りるのと、音楽プレイヤーの再生ボタンを押すのと、走り出すのはほぼ同時だ。
 高校生になってから、よほどの荒天以外は走って学校へ行くようにしていた。距離は約6km。最近はすっかり慣れ、30分程度で行けるようになった。目的は体力作りだが、音楽を聴きながら海岸沿いの道を駆ける時間は、良い気分転換になっている。
 自分で編集したプレイリストには、リンゴ・スター、バディ・リッチ、デイヴ・グロール、ジョン・ボーナム、スティーヴ・ガッド、ジェフ・ポーカロ、神保彰、菅沼孝三といった国内外の著名なドラマーの演奏を集めていた。CD音源はもちろん、高く評価されたライブやフェスの音源、それも聴衆の声が入っているようなものを多く選んでいる。
 日によって、それらの演奏に対する姿勢は違う。純粋に彼らの音を楽しむ日があれば、少しでもテクニックを盗もうと研究する日もある。
 常に意識しているのは「何故、この演奏が、人の心を打ったのか?」ということだ。
 3ヶ月かけて全国20か所を回ったツアーのなかで、ファイナルでもないこの公演だけが『伝説』と呼ばれている理由は何か。どうして聴衆はこんなにも熱狂しているのか。それらの問いを突き詰めていくと「俺もこんな演奏ができるようになりたい」という渇望に繋がっていく。
 今朝のランニングでも、明確な答えは見つからなかった。
 学校へ辿り着いた柊羽は、勢いそのままに校門をくぐり、グラウンドへと向かう。
「あっ、冷泉院先輩。おはようございます」
「先輩、おはようございます!」
「……はよ」
 すれ違う後輩たちを適当にあしらいながら、徐々に速度を緩め、部室棟の端にある自動販売機の前で足を止める。流石に息が上がっていた。ポカリスエットを買い、ぐびぐびと飲みながら棟内に入る。
 柊羽は1年生の春からサッカー部に所属していた。しかし、部活動には年10日ほどしか参加していない。辞めさせられずに済んでいるのは、どんなポジションもそこそこ上手にこなせる柊羽の器用さと、部員数があまりにも少ないという部の事情のおかげだった。同級生のほとんどが受験のために引退した今もなお、公式戦へ参加するための数合わせ兼、緊急時の助っ人として在籍を許されている。
 要するに、サッカー部の一員である柊羽は、部室棟のシャワーを使いたい時に使える権利を有しているのだ。空いている個室に入り、ジャージを脱ぎ捨てる。綺麗に汗を流し、学生服に着替えるとさっぱりした。
 タオルで髪を拭きながら外に出ると、クラスメイトに出くわした。
「おはよう、柊羽。今朝も走って来たのか」
「ああ、おはよう。圭也がこの時間に登校するなんて珍しいな」
「物理の補習だよ。最悪さ」
 圭也は、中学のころからの友達だ。穏やかな性格と、ずんぐりむっくりした熊のような見た目があいまって、一緒にいるとなんだか落ち着く。柊羽がプロドラマーになる前からずっと仲の良くしている、数少ない一人だった。
「柊羽はどうだった? 中間テスト」
「まあまあ。今週末も模試だっけか。うんざりだよな」
「あー、受験めんどくせー!」
 大学受験にまつわる社会のシステムについて愚痴りながら、教室へ向かう。圭也は自分の席に荷物を置いた後、物理教室へ消えていった。ホームルームが始まるまで約40分。柊羽は机の中に置いていた教科書とノートを取り出し、予習と復習に励んだ。生活のほとんどを音楽に充てている柊羽にとって、こうした隙間時間での勉強が重要だった。
 ちらほらクラスメイトが集まりだして、圭也も補習から帰ってくる。朝のホームルームから夕方のホームルームまで、約7時間。高等学校卒業資格を得て、大学に合格する学力を身に着けるためだけに、大人しくこの空間に収まっている。
 我ながら、真面目な高校生だと思う。先生の話をちゃんと聞き、綺麗にノートを取る。塾に行っていない代わり、自分で計画を立て、受験対策の問題集を解き進めている。休み時間には友達と雑談したり、ふざけあったりもする。
 1年生のころは「プロドラマーなんて生意気だ」と嫌味を言ってきた同級生や先輩がいたが、全員まとめて校庭の真ん中でボコボコに殴ってやったら大人しくなった。それっきり面倒なことを言ってくるやつはいない。親しい友達も少ないが。
 あっという間に下校時間が来た。
「じゃーな」
「おー。また明日ー」
 友達に挨拶をしてすぐ、リュックを背負って駅へ向かう。プロドラマーを志して以来、学校で放課後を過ごしたことはほとんどない。
 最寄り駅から電車に乗り、横浜駅へ。さらに、駅から歩いて5分ほどの距離にある、所属事務所が契約している音楽スタジオへ。
 今日も今日とて、バンドの練習とミーティングがあった。
「おはざーす」
 挨拶しながら分厚いドアを開ける。
「おはよ。ちょうどいいわ、柊羽。早くこっちに座って、手伝ってよ」
 声をかけてきたのは、ボーカルの菊池絵梨沙(きくち・えりさ)だ。明るい茶色の髪をポニーテールにまとめ、腕まくりをして、大きな針のようなものを手に持っている。
「何してんの」
「天然石のブレスレット作り」
 彼女はスタジオの隅に小さな折り畳み式の机を置き、アクセサリーケースを広げていた。
「はあ?」
「エトオさんが、自費でTシャツ作って配ってくれてるでしょ。何か御礼しないとって思ってたの。事務所から公式ファングッズ出すのにはまだ時間がかかるって社長が言ってたから、とりあえず手作りしようかなって」
 やたら偉そうな口調である。柊羽は荷物を置きながら、
「それって何か意味あんの」
「嬉しいでしょう! 好きなアーティストから手作りのプレゼントを貰ったら!!」
「……」
 果たしてそれは、今やるべきことなのだろうか。疑問を覚えるが、ミーティングの開始までには、まだ時間がある。しぶしぶ彼女の隣に座った。
「いい? まず、ケースの中から好きな石を15個選んで、輪っか状に並べてデザインを作るの。次に、折り曲げたワイヤーを使って、穴にシリコンゴムを通していく。最後の処理は……ちょっとコツがいるから、私がやってあげるわ」
「へいへい。……満は作んねーの?」
 柊羽は、絵梨沙を挟んで反対側にいる女性へ声をかけた。
 真っ黒な長い髪に、同じく黒のマキシ丈ワンピース。地味を通り越して不気味な見た目のギタリスト、新井満(あらい・みちる)だ。
 彼女が口を開く前に、絵梨沙が答えた。
「あんたが来る前に、もう、3つも作ってくれたわ。今は、ラッピングしてくれているの」
「……はい。絵梨沙さんにやり方を教えてもらいました。楽しいです」
 目元まで覆う前髪のせいで、ほとんど表情の見えない満だが、その声は明るい。
「ほら、柊羽。さっさと手を動かしなさいよ」
「分かったよ」
 柊羽はため息をつき、石を選び始めた。こんなことに時間をかけても仕方がない。インスピレーションでデザインし、ゴムで繋ぐ。あっという間に6つの輪っかができたので、絵梨沙の方へ押しやった。
「できたぞ」
「おつかれさまー。うん、まあ、初めてにしては上出来ね」
 絵梨沙は頷きながら輪っかをチェックしていたが、最後の一つを見て、顔をしかめた。
「なにこれ! 黄色とオレンジと黒の石ばっかりって、目がチカチカするじゃない」
「俺の好きな色の詰め合わせだ。カッコいいだろ」
「もうちょっと万人受けするデザインにしなさいよ。これはボツね」
「はあー?」
「ま、せっかく作ったんだから、仕上げとラッピングはしてあげるわ。持って帰って自分で使うか、カッコよさを分かってくれる人にプレゼントしなさい」
「そんなこと言うなら、最初から『こういうデザインはダメ』って指示しろよ」
 思わず口を尖らせたが、絵梨沙は澄ました顔で、
「あんたがこんなにセンスないなんて思わなかったんだもの」
 さらに言い返そうとした時、スタジオのドアが開いた。
「おはようございまーす。隅っこに集まって、一体何をやってるの?」
 色白で華奢な美少年、ベースの中丸彰将(なかまる・あきまさ)だ。背中に背負ったベースケースがやたら大きく、黒く見える。柔らかそうな髪をシルバーアッシュに染め、ミディアムウルフにカットしているのが特徴的だ。
「おはざす」
「おはよう、彰将。ファンサービスのためにグッズを作っているところよ」
 柊羽と絵梨沙の挨拶に続いて、左側から掠れた細い声が聞こえる。
「……お、おはようございます」
 満だ。この声の小ささでは、彰将には聞こえないだろう。さっき柊羽が挨拶した時も、満なりに挨拶をしてくれていたのかもしれない。
 そんなことを考えていたら、荷物を置いた彰将が近づいてきた。
「ふうん。まだあと10分くらい時間あるし、協力してあげてもいいよ」
 絵梨沙が作り方を説明する。彼はすぐにコツを掴んだようで、さくさく石を繋いでいく。
「いいわね。柊羽と違ってお洒落だわ」
「綺麗です」
 女性陣があまりに彰将を褒めそやすので、柊羽はむっとした。
「ファンサービスをするのはいいけどさ。絵梨沙はもっと歌を練習しろよ。前回のライブの2曲目、サビの歌詞間違えただろ」
 苛立ち紛れに指摘すると、彼女はぎくりとして目を泳がせた。
「そ、それは反省してるわよ。地区大会の日じゃなかったから、許してよね」
「普段のライブを疎かにしていいわけじゃねーだろ」
「分かってるわよ。だけど自分が書いた歌詞じゃないし、長年歌い込んでるわけでもないし。なかなか頭に入らないっていうか、染みこまないっていうか」
「お前が作詞したら、寒くてつまんねーラブソングしかできねーじゃんか。せっかく満が良い詞を書いてるんだから、ちゃんと表現しろよ、クソババア」
「なんですってぇ! このクソガキがっ」
 彼女は拳を握り固めたが、振り上げることはしなかった。柊羽を睨んで歯ぎしりしている。正しく歌えていない自分が悪いことは、分かっているのだろう。
「……偉そうに言える立場なのかな」
 ぼそっと声が聞こえたので、隣を見る。
「なんだよ、彰将。俺がいつ、どこでミスしたって?」
 彰将はブレスレットを作り続けながら、
「正確に演奏すればいいってもんじゃないでしょ。柊羽のプレイには魂がないよ」
「はぁ? 言いがかりつけんじゃねーよ」
「ふうん、自覚ないんだ。君はダメだね。芸術的な感性が足りてない」
「てめーのベースに『魂』なんて感じたことねーけどな、俺は」
 彰将は、ふう、と溜息を吐いた。
「少なくとも僕のベースには色気があるよ。可愛い女の子も、大人な男性も、みんなメロメロさ。お子様には分かんないかなぁ。分かんないんだろうなぁ」
「……んだよ、意味わかんねー。マジムカつく」
 彰将は上手い。ミスがないのはもちろん、聴かせるベースを弾く。タテノ・エンターテインメント所属のミュージシャンとしては柊羽より先輩で、知り合って2年以上経つ。レコーディング現場などで何度も顔を合わせているが、いつもこんな調子だ。シンプルに性格が悪い。
 ますますイライラしていると、左から真っ黒な塊がそーっと近づいてきた。思わず、びくっとする。
「あ、あの、驚かせてごめんなさい。ラッピングできたよ」
 満だ。長すぎる髪と服装のせいで、お化けにしか見えない。容姿のことを言うのはどうかと思いつつ、つい指摘してしまう。
「満もさぁ。もうちょっと髪型とか服とか、なんとかならねーの? バンドマンだろ。ビジュアル系じゃなくても、見た目のイメージは大事だぜ」
「ご、ごめんなさい。そうだよね」
 彼女が頭を下げると、分厚くて長い前髪の隙間から、あらぬ方向を向いた瞳が見えた。満の左目は恒常性外斜視である。それが彼女のコンプレックスなのは分かっていた。事実を知っていて、定期的に顔を合わせて会話している柊羽でさえ、なかなか慣れない。こうして直視すると心がざわつく。
 とはいえ、外見を良くしようとする努力を放棄していい理由にはならないと思う。
「……絵梨沙にメイクの仕方でも習えば?」
 柊羽は舌打ちをしつつ、彼女の手に乗っているアクセサリーの包みを受け取った。
 その時、大きな音がして、スタジオの扉が開いた。スーツ姿の青年が、息を切らせて駆け込んでくる。
「おはよう! 待たせてごめん。ミーティングを始めよう」
 プロデューサー兼サポートピアニストの貴裕(たかひろ)・クラインだ。タテノ・エンターテインメントの数少ない正社員であり、専属マネジメント契約を結んでいるだけの柊羽たちとは立場が違う。
 タテノ・エンターテインメントは、主にインターネット配信者のマネジメントをしている芸能事務所だ。配信者の志向や適性に合わせた仕事を紹介したり、プロデュースを行ったりしている。『六度目のゼロ』は、貴裕が企画してメンバーを選び、結成したバンドだった。
 彼の顔を見た絵梨沙は、さっとアクセサリーキットを片付けた。
 貴裕はネクタイを緩めながら、全員に資料を配った。
「今週は土曜のBPの地区大会、日曜の秋葉原、水曜の横浜と大きなライブが続いたな。おつかれさま。早速だけど、これが来週のスケジュールだ。注目してほしいのは……」
「ちょっと待てよ。まずは、今週のライブの振り返りだろ」
 柊羽は、早口で喋る貴裕を制した。彰将も頷く。
「うん、柊羽が正しいね。毎回、きちんとライブの反省会をしようって決めたでしょう。録画を見て、全員の音や動きの確認をする。そうしてクオリティを上げていかないとね」
 満は黙りこんでいる。彼女は滅多に意思表示をしない。絵梨沙は、衣装やメイク、ファンサービスなどについては積極的に口を出すが、音楽的な部分へのこだわりはないようだ。
 それでも貴裕は、気まずそうな顔をした。
「ご、ごめん。時間が押していたから、つい」
 彼はパソコンを開いた。まずはBreak Pointの地区大会の録画だ。大きなミスはなく、観客の反応もまずまずだった。エリアファイナルへの進出は固いだろう。10分間の動画の視聴を終え、彰将が口を開く。
「『海と森と空の恋人』は、沖縄民謡っぽさが売りの楽曲だよね。もうちょっとアクセントつけて歌ってよ」
「……私に言ってる?」
「他に誰がいるの。ボーカリストは君でしょ」
 絵梨沙は腕組みをして、はいともいいえとも言わない。
 このままではまずいと思い、柊羽は口を開いた。
「こぶし入れすぎるとリズム崩れそうだから、あんまり無理しないでほしい」
「そんなの柊羽が気をつければいいだけでしょ」
「彰将が妙なフレーズを弾くから、満も絵梨沙も惑わされてるんだよ」
「あれが風情を出してるんじゃないか」
 音楽的に言えば正しい。先ほどの映像を見ていても、『海と森と空の恋人』のサウンドの深みを作り出しているのは、間違いなく彰将のベースだ。しかし、あくまでポップス的にアプローチしているボーカルやギターと合っていないのは否めない。
 柊羽は貴裕を見た。彼はうーんと唸り、
「このあと、色んなやり方を試しながら練習して、決めよう。さあ次に行くぞ」
 プロデューサーなら、もっと明確な指示を出してほしい。
 微かに不満を抱きつつ、残り2つのライブ映像を見る。飛ばし飛ばしながら全ての録画を確認し終わって、再び口火を切ったのは彰将だ。
「『Adult』はロックだけどR&Bの要素が強い。『EverSeen』はブラジル音楽系のノリ。どっちも、もっとグルーヴ感を強めていこうよ」
「……誰に言ってるの?」
「君に決まってるだろ、絵梨沙。君は、リズム感覚は悪くないんだよ。英語だってきちんと歌えてる。だからこそ、つまんないJ-POPの歌い方をやめてほしい」
 二度目の物言いに対して、絵梨沙は首を傾げている。
 ――おそらく彼女は、ロックとR&Bとブラジル音楽とJ-POPの違いがよく分かっていない。
 彰将も、絵梨沙だけに言っても無駄だと感じたようだ。
「貴裕はどう思うの?」
「うーん。絵梨沙はこのままでいいと思う。一般の人はボーカルをメインに聴いている。絵梨沙の歌い方は十分にキャッチ―だ。音楽的な面白さはバックで表現すればいい。分かる人は分かってくれるだろう」
「満はそれでいいの? 作曲者として」
「は、はい。私が書いたままじゃなくて、ポップにアレンジしてくれていて良いと思います」
 明らかに不服そうな彰将が、柊羽を睨む。
「お前はどうなんだよ、柊羽」
「プロデューサーと作曲者が合意してるなら、俺が口を出す余地はないだろ」
 彰将は大きくため息をついた。
「はあ、つまんないの。せっかく面白い楽曲なのにさ」
 それから5人は楽器を手に取り、『海と森と空の恋人』の練習を始めた。結局こちらにも彰将の意見は反映されなかった。
 ここまでで約2時間。さらに来週のライブ予定とセットリストを確認し、演奏する曲を通して3時間。最後に新曲の譜面とデモが配られ、来週までに個人で練習するよう指示があり、約4時間のミーティングは終わった。
「今日はここまでにしよう。来週もよろしく。じゃあ、おつかれさま」
「「「「おつかれさまでした」」」」
 彰将はまだ納得のいかない部分が多いようで、ぶつぶつ文句を言いながら帰って行った。絵梨沙と満は、貴裕に声をかけ、ブレスレット作りの続きをするらしい。プロデューサーを巻き込む度胸だけは凄いと思った。
 柊羽も荷物をまとめ、家路についた。横浜駅から自宅の最寄り駅までは30分程度だ。元気のある日は2駅手前で降りて走るが、今日は寝不足のため、無理をしないことにする。
 玄関のポーチで家のカギを探していたら、内側からドアが開いた。
 中から出てきたのは、小動物のような女性だ。くるくるした大きな目、丸い頬、セミロングの髪にはふんわりしたパーマをあてている。ピンクの花柄のワンピースがよく似合っていた。
 彼女は柊羽にぶつかりかけ、びくっとして立ち止まった。
「お、おかえりなさい。柊羽くん」
「……どうも」
 ぺこりと頭を下げた柊羽は、そのまま玄関に足を踏み入れた。
 ドアを閉める直前、彼女に声をかけられる。
「ねえ。私、これからお買い物に行くんだけど、冷蔵庫の中をチェックするの忘れちゃって。牛乳ってまだあったかな?」
 質問されて答えないほど、冷淡な性格ではない。
「今朝、俺が全部飲みました」
「そっか。じゃあ、買ってくるね」
「ありがとうございます。カギ、かけとくんで」
「ありがとう、行ってきます」
 返事をせずにドアを閉め、カギをかけた。
 柊羽の父は、やたらモテる男だ。日替わりで女を家に連れ込んでいるどころか、複数の女に合いカギを渡して、自由に出入りさせている。女たちもその事実を知っているだろうに、憤慨することもなく、分担して家事を行っている。出入りする人数が多すぎるので、柊羽は、とっくの昔に彼女たちの顔や名前を覚える気を無くしていた。
「あー、疲れた」
 さっさと風呂に入り、夕飯を食べて、ドラムの練習をして、今日の動画をアップしよう。スニーカーを脱いで靴箱に仕舞う。
 柊羽にとってありふれた一日は、ごく当たり前に終わった。

2.01 拓海 note.3

 生まれてからずっと東京に住んでいるが、高円寺という駅に下り立つのは初めてだ。改札を出て北口広場に向かうと、ロータリーに大きなステージがあり、人が集まっているのが見えた。
 拓海は『ロクゼロ公認ファンサイト・Rock Zerors』を毎日のようにチェックしていた。写真付きのライブレポートやメンバーのプロフィール、次のライブ情報などがまめに更新されていて飽きない。素晴らしいことだが、エトオさんはちゃんと工場の仕事をしているのだろうか。
 初めてライブハウスに行ってから約一ヶ月。BP地区大会のライブ中継を見たことで、「もう一度、生でロクゼロの演奏を聞きたい」という気持ちは強くなった。
 しかし、ライブハウスのチケットは高すぎる。たった30分のステージを見るために、安い居酒屋なら3時間飲み放題を楽しめるお金が吹き飛ぶのは痛かった。
 どうしようかと考えていたら、Rock Zerorsで「来週末、ロクゼロが出演する『高円寺フェスティバル』は観覧無料! Tシャツを着て盛り上げに行こう!!」というお知らせを読んだ。
 佳奈も誘ったのだが、やはり土曜日はアルバイトで難しいらしい。結局、BPの地区大会も見られなかったようだ。「来月からはシフトを調整できるかも」と言っていたので、7月以降、一緒に行ける日があればいいなと思う。
 そんなこんなで拓海は一人、黄色いバンドTシャツを着て、高円寺まで出てきたのだった。
「まぁ、このTシャツ、デザインとして悪くないし」
 それにしても早く着きすぎてしまった。
 ロクゼロのライブまであと1時間近くある。途方に暮れつつステージへ近づくと、五人組のバンドが演奏していた。
『盛り上がってるかーい!』
 サングラスをした男性は、白いTシャツの上に、どこかの国の国旗を羽織っている。奇抜なのは服装だけではない。ステージの上を縦横無尽に走り回り、踊るように歌っている。
『こんなに広い世界の中で、今日、この街に集まってくれてサンキューメントス! 60億だか80億だかしらないけど、溢れる地球の人口で、出逢えた奇跡に感謝感謝!!』
 ラップだろうか。いかにも思いつきの挨拶だが、完璧にリズムに乗っているし、もう一人のボーカルがハモリまで入れている。思わず足を止めて聞き入ってしまった。
 その後も彼は日本語や英語を自在に使い、本気なんだか冗談なんだか、台本通りなのか即興なのか、まるで分からない内容を歌って観客を沸かせた。もう一人のボーカルとのかけあいも面白い。ギターもキーボードもドラムも楽しげだ。
『最後までサンキューメントス! ボラカイJAPAN!! Yeah!!!』
 絶叫とともに曲が終わる。辺りは拍手に包まれ、拓海も手を叩いていた。
「あー、タクミじゃん!」
 聞き覚えのある声に振り向くと、マゼンタのTシャツを着た女性がいた。セミロングの黒髪に赤メッシュ、やたら濃いメイク。前回、ライブハウスで知り合った時と同じ服装だ。
「こんにちは、メグさん。お久しぶりです」
「久しぶり! もーほんと一ヶ月ぶりくらいじゃん?」
「そうですね。今日は観覧無料のライブだって聞いたんで」
 拓海が言うと、彼女は渋い顔をして、
「あー。高いよねー、ライブ。メグも平日の夜は超バイト入ってるよ」
 社会人かと思っていたが、この口ぶりだと大学生だろうか。
「何のバイトをしてるんですか?」
「マックのクルーだよ。タクミは? 大学生なんだっけ」
「はい、早稲田の1年生です。家の近くのアイス屋で働いてます」
「ふーん。ところでさぁ、この店どこにあるか知らない?」
 メグが見せてきたスマホの画面には『フロレスタ高円寺店』という文字と、動物の形をした可愛らしいドーナツの写真が映っている。
「いつも宇都宮へ出た時にドーナツ買ってる店なの。大好きなんだけど、家から遠いんだよね。高円寺にも系列店があるって知ったから、ライブついでに食べたくって」
「そうなんですか。俺、高円寺はじめて来たから、詳しくないんですよ」
「えー。東京の人なのに分かんないの?」
 なんだかプライドが傷ついた。拓海は、すぐさま自分のスマートフォンを取り出し、グーグルマップで店の位置を調べた。そんなに遠くない。商店街に入って真っすぐ歩けばよさそうだ。
「こっちですね」
「案内してくれんの? ラッキー!」
 ちょうど時間を持て余していたところだ。
 5分ほど歩くと、緑の店舗用テントが見えてきた。メグはスピードアップして店へ近づき、ショーウインドウにへばりついた。
「やーん、かわいいー! ペンギン、あざらし、みけ、白うさぎ、ブチねことトラねこ……選べないっ。全部並べて写真撮りたい!」
 大声で嘆きながら迷っている。その様子は急に女の子らしく感じられた。濃すぎるメイクや服装の威圧感が薄れて、可愛いさえと思えた。
 たしかにドーナツのデザインはどれも凝っていて、美味しそうだ。
「……もし2つに絞るなら、どれ?」
「えー。むー。うー。ペンギンとあざらし、かなぁ」
「じゃあ俺、ペンギン買うからさ。メグさんはあざらし買いなよ」
「えっ、いいの?!」
「俺、甘い物好きなんだよね。ちょうど小腹が空いたし」
「やったー!」
 ドーナツを買った2人は、店舗脇のイートインスペースに入った。カウンター席に腰を落ち着けると、メグは早速、皿を並べて写真を撮りだした。
 拓海はその様子を眺めながら、
「メグさんは、エリサのファンなんだよね?」
 メグは大きく首を振った。
「違う、違う! あたしはタカヒロのファン!」
「タカヒロ……サポートでキーボードを弾いている人だっけ」
「そう。タカヒロは元々、クラシックピアニストなのよ」
 彼女は顔を上げた。ようやく満足のいく写真が撮れたらしい。
 解放された皿からペンギンのドーナツを取り上げ、かじりつく拓海。メグも、あざらしのドーナツを手に取りつつ、うっとりと語った。
「タカヒロは神童なの。6歳の時に『黒鍵の小公子』って二つ名でメディアに取り上げられて、いろんな国際コンクールに出て、そこそこ有名だったの。聞いたことない?」
「ごめん。知らないや」
「そっかぁ。一般の人は知らないもんなのかな」
「メグさんはどうして知ってるの?」
「うちの親がクラシックマニアでさ。私、4歳のころからピアノを習わされてたの。週3回のレッスンだけじゃなくて、家でもずっと音楽漬けで。『この子の演奏を参考にしなさい』ってタカヒロのビデオを見せられてた。
 最初はうんざりしてたんだけど、聴いたらめっちゃカッコいいじゃん?
 4歳のメグちゃんは、あっさり恋に落ちちゃったってわけ」
「あはは。でも、そんな凄いピアニストが、どうして『六度目のゼロ』に?」
 彼女は目を伏せ、悲劇的な声を出した。
「タカヒロは頑張ったの。25歳くらいまで、何回もコンクールに挑戦して。でも結果が出なくて、クラシックピアニストとしての活動を辞めちゃったの。そのあと、タテノ・エンターテインメントに就職したのよ」
「へえー。詳しいなぁ」
「これまで彼がプロデューサーとしてデビューさせてきた子や、スタジオミュージシャンとしてレコーディングに参加した作品は全部追ってきたよ。
 でもやっぱり、あたしは彼のピアノが好きなの。そしたら今度、新しいバンドのサポートで、本人が演奏するって知って! いてもたってもいられなくて、栃木の果てから観に来ちゃったってわけ」
「凄い行動力だね」
 拓海は感心した。宇都宮から東京まで、新幹線でも1時間かかる。在来線なら約2時間だ。さらにメグは、宇都宮より遠い場所に住んでいると言っていた。交通費も相当かかるだろう。ロクゼロのライブのためだけに、それだけの時間とお金を費やすなんて、熱心なファンというのは恐ろしいものだ。
「大したことじゃないよ。だってあたし、ビデオでしかタカヒロの演奏を聴いたことなかったんだよ。もう引退しちゃって、二度と生で聴けないと思ってたんだよ。こんな機会があるなんて奇跡だもん。全力出しちゃうに決まってるでしょ」
「相当、好きなんだね」
「うん。最初に行けたのは新宿のライブハウスで、そこでエトオさんと知り合ったの。でもタカヒロはサポートだから、メンバーカラーもTシャツもないんだよね。仕方ないから、エトオさんの推しの絵梨沙のTシャツを着てあげてるんだ。まぁ、ピンクは好きだし、エリサも可愛いしね」
「そっかぁ」
 人それぞれ、色んな想いやバックボーンがあるものだ。見た目で中身を判断してはいけないな、と拓海はしみじみした。
 ドーナツを食べ終えると、ほどよい時間になっていた。
「付き合ってくれてありがとね、拓海。ねえ、クッキーとガトーショコラだったら、どっちが好き?」
「うーん。どっちも好きだけど、あえて選ぶならガトーショコラかな」
「じゃあ今度、ドーナツの御礼に焼いてくるね!」
「え? いいよ、そんな、気にしなくて」
「あたしが気にするのー! これでも、お菓子作るの得意なんだよ」
 駅前のロータリーが見えてくると同時に、音楽が近づいてきた。
 2人組の男性がステージに立っている。キーボードを弾いている男性がコーラスで、ギターボーカルの男性がメインパートを歌っているようだ。なんだか胸を締め付けられるラブソングである。歌声がとても美しい。
 ちょうどステージ前に着いたころ、演奏は終わってしまった。
『梅雨の季節にぴったりの曲、「あじさいのメロディ」を聴いていただきました。ありがとうございました! ワダノヒトでした!!』
 彼らは一礼してステージを去った。
「今の曲、最初から全部聴きたかったなぁ」
 拍手を贈りながら呟くと、隣のメグも頷いた。
「もうちょっと早く、お店出ればよかったね。キーボードの弾き方が面白かった」
 目当てのバンド以外の演奏も楽しめそうだ、というのは良い発見だ。次にライブイベントへ来るときは、ロクゼロだけでなく、前後のアーティストにも注目してみよう。
 そんなことを考えていたら、
「子役、アイドル、シンガーソングライターなど様々なフィールドで活躍してきた菊池絵梨沙が所属するロックバンド『六度目のゼロ』! 10分後にステージへ登場するロクゼロの公認ファンTシャツ、無料でお配りしています!!」
 とんでもない大声が聞こえる。メグと顔を見合わせて振り返ると、観覧エリアの後方にエトオの姿があった。マゼンタのTシャツを着て、巨大なリュックサックの後ろに『ロクゼロ公認Tシャツ無料配布中』と書かれた幟をくくりつけて歩き回っている。さながら桃太郎だ。
「エトオさーん、おつかれさま!」
「メグちゃん、こんにちは。今日もおつかれさま。……おおっ、後ろにいるのはタクミくんじゃないか?!」
「あ、はい。お久しぶりです」
 控えめに挨拶をすると、エトオは相好を崩した。
 拓海の手を握って上下に振り、
「いやー、タクミくんのアイディアは素晴らしいよ! 6月から、こうして幟を掲げてTシャツを配っているんだけど、貰ってくれる人が激増してね。マゼンタは20枚、ブラックも17枚、イエローさえ4枚も捌けたんだ!!」
「お役に立てたなら良かったです」
 シアンが1枚も捌けていないのは、ワカメのモンスターにしか見えないギタリストのメンバーカラーなので、仕方ないかもしれない。柊羽の人気が低いのは、過去の暴言動画が広まっていることが原因だろうか。
 そんなことは考えていた拓海は、同年代の女性が横からエトオを見ていることに気づいた。
「Tシャツが欲しい人ですか?」
「え、ええ」
 エトオは水を得た魚のごとく、
「サイズはS、M、Lとあります。推しメンバーか好きな色を教えて下さい」
「私はアキマサくんのファンで……サイズはSかなぁ」
 周囲の人々は、彼女がTシャツを受け取るのを興味深そうに眺めている。
 するとメグが叫び出した。
「『黒鍵の小公子』の二つ名で活躍した元クラシックピアニスト、貴裕・クラインがプロデュースするロックバンド『六度目のゼロ』! 5分後にステージへ登場するロクゼロの公認ファンTシャツ、無料でお配りしています!!」
 人々がざわついた。拓海が知らないだけで、知名度はあるのだろう。1人、2人とエトオに近づきはじめる。メグはにこにこして、
「ほらぁ、拓海も声出してよ」
「えっ。俺も?!」
「当たり前でしょ。ロクゼロTシャツ受取人ナンバースリーとしては」
 エトオやメグのように、大声で叫べるほどの想いはない。訳の分からない肩書も別にいらない。ただ、野外イベントの熱気に煽られ、少し気分が高揚しているのは確かだ。
「……ちょっと口の悪い問題児だけど、演奏には誠実なドラマー、冷泉院柊羽が所属するロックバンド『六度目のゼロ』! 5分後にステージへ登場するロクゼロの公認ファンTシャツ、無料でお配りしています!!」
 大声を出してみる。
 メグは憐れみを湛えた目でこちらを見た。
「もっと良い感じに紹介してあげればいいのに」
「思いつかなかったんだよ……」
 柊羽のチャンネルの演奏動画を1500本は見ているのに、情けない話だ。
「拓海は頭いい大学生なんでしょ? 次回までに考えてきてね」
 宿題を出されてしまった。
 そんなやりとりをしている間にも、何枚かのTシャツが旅立っていく。
 いつの間にかBGMが止んでいた。
『みなさんこんにちはー! 六度目のゼロです!!』
 大きく手を振りながら、ボーカルのエリサが現れた。楽器隊の4人がセッティングをしている間に、観客席へと語りかける。
『高円寺のみなさん、今日の音楽フェスに私たちを呼んでいただき、ありがとうございます。実は私、シンガーソングライターとして活動していたころ、高円寺で一人暮らしをしていたんです。思い入れのある土地で歌えて、とっても嬉しいです! ……さて、みんな、用意はいい?』
 彼女は振り返って仲間の様子を確認し、
『じゃあ、元気のいい曲から行ってみましょう…「アカツキ」!』
 新曲だ。短いギターソロが始まり、真っすぐな歌詞を聴いた瞬間、「これは人気が出るだろうな」と思った。王道の応援ソングだ。周りの人々は手拍子をしたり、身体をゆらしたりして楽しんでいる。演奏が終わると、大きな歓声が上がった。
 それから数曲、拓海のよく知るオリジナル曲が続いた。
 せっかくなので、柊羽のドラムだけではなく、貴裕のキーボードにも注意して演奏を聴いてみる。同じ曲でも、また違う聴こえ方がした。
 いや、これは、本当に違うのではないか?
「『Adult』の間奏のピアノソロって、前回のライブから変わってる?」
「あの部分は、いつも即興だよ! あんなのをさらっと弾けるのは、タカヒロだけだよ!!」
 最後は、国民的アイドルの大ヒット曲のカバーだった。会場の全員で合唱し、手拍子をした。青空の下で音を楽しむ開放感は、これまでに体験したことがないものだった。
『ありがとうございましたー! またどこかで会いましょー!!』
 エリサが大声を出してステージを去る。割れんばかりの拍手に包まれる。 すかさずエトオが叫ぶ。
「素晴らしい演奏で観客を沸かせたばかりの『六度目のゼロ』! 彼らの公認ファンTシャツ、無料でお配りしています!!」
 声に応えて振り返った人の数は、明らかに20を超えていた。
 拓海とメグは再び顔を見合わせ、
「俺たちも手伝おうか?」
「そうだね! エトオさん、パンクしちゃうよ」
 次のアーティストの演奏が始まるまで、3人はTシャツを配って配って配り倒した。

2.02 other’s note ―貴裕

 タテノ・エンターテインメントは、2014年創業の会社である。
 社長の館野洋(たての・ひろし)は10代のころに『Bad girl』でメジャーデビュー。大手芸能事務所に所属し、ギター弾き語りシンガーソングライターかつ舞台俳優として、そこそこ活躍していた。
 40歳の誕生日に一念発起して独立。YouTubeに『館野のギター講座~メジャーに通用する音の作り方~』や『館野の演技講座~主役を食わずとも食われない脇役になるには~』などの動画を投稿したところ、大ヒット。事務所所属時の3倍の年収を得た。
「世間は僕のノウハウを必要としている」
 そう考えた館野は、芸能事務所を興し、有望なインターネット配信者をスカウトして、マネジメントを始めた。一芸のあるパフォーマーをテレビ番組に出演させたり、カラオケ配信者のオリジナル楽曲制作やレコーディングを手伝ったり、業務内容は多岐にわたる。
 現在の社員数は3名。それぞれ何らかの得意分野を持ち、営業も制作も事務も経理も、並み以上にこなせる人材だ。一人目は、そこそこ売れているイラストレーター。二人目は、そこそこ実績のあるプログラマー。
 そして三人目は、プロにはなれなかったがメディア露出はそこそこ多かったクラシックピアニスト、貴裕・クラインだ。
「貴裕さん、社長が呼んでらっしゃいますよ」
 デスクに頬をつけて眠っていた貴裕は、肩を揺さぶられて、飛び起きた。経費精算の途中のレシートが一枚、床に落ちる。
「うわ、寝落ちしてた。起こしてくれてありがとう。さっきの書類作成は終わった?」
 貴裕はレシートを元の位置に戻しながら、アルバイトの青年に問いかけた。
「はい。今、3枚目に取り掛かっています」
「早くなったね。素晴らしい。引き続き、よろしく頼むよ」
 青年は一礼して自分の席へ戻った。彼は今年の春に入社したばかりだが、優秀で、いずれ正社員に登用予定と聞いている。そこそこ有名なダンサーらしいが、踊る姿を見たことはない。
 腕時計を見ると、社長とのミーティング開始予定時間を5分も過ぎている。貴裕は、慌てて立ち上がった。
 タテノ・エンターテインメントの事務所は、横浜駅から徒歩5分、ごく普通のマンションの一室にあった。リビングの中央にどーんと大きなデスクが置かれ、6つの椅子が周囲を囲んでいる。どこに座ってもいいが、物の置きっぱなしは厳禁だ。帰る前に私物は壁際のロッカーへ仕舞い、会社の備品も棚の定位置に戻す。多忙を極める社員たちが一堂に会することは、滅多にない。
 台所はちょっとした休憩場所だ。冷蔵庫と電子レンジ、小さなソファと丸テーブルがある。風呂場には簡易防音室があって、電話での重要な商談のときに使う。
 リビングの隣の部屋は物置で、楽器や機材やパソコンのサーバーなどが積まれている。玄関脇の部屋は、来客用の応接室兼会議室だ。
 ドアをノックして中に入ると、社長は不機嫌そうな顔をしていた。
「遅いよ、貴裕くん。君が俺を呼び出したんじゃなかったかな?」
「申し訳ありません」
 深々と頭を下げると、
「まあ、いいや。さっさと座りなさい。相談って何?」
「『六度目のゼロ』の予算を追加していただきたく」
「幾ら?」
「100万円……せめて50万円、お願いします」
 相手の顔色を窺いながら、貴裕は希望金額を変えた。
 社長は大きく溜息を吐いて、
「何に使うのー?」
「主な用途は、ライブ出演費用です。私の想定が甘く、チケット販売が伸び悩んでいます。しかしライブへの出演ペースは落とさず、むしろ増やしていきたいと考えています」
「だからさぁ、今どき、ライブハウスに出まくったって集客なんか伸びないよ。この時代にライブハウスに来るのはね、誰かのお客さんなの。要は対バン相手を見に来てるだけ。推し増ししてくれる人がいたとしても、たかが知れてる。最初から言ってるじゃん。ネット使えって。特にロクゼロには、最強の切り札が……」
「メンバー本人が、『できるだけインターネットに頼らず、リアルでの活動で集客を増やしたい』と言っているんです」
 貴裕は語気を強めて、社長の言葉を遮った。ここは譲れない部分だ。
「……あー、そうかー。契約時の条件だったから、仕方ないんだっけかー」
 社長は、ぽりぽりと頭をかいた。
「それならそれで、イベントとか野外フェスとか、人が集まる場所に出演していかないと」
「はい。先月は高円寺のフェスに出演し、HPへのアクセス数増加はもちろん、以降のライブの集客増にも繋がったと実感しています。今月も既に3本のイベントへ出演し、来月にかけて2本の出演が決まっています。また、ビジュアル重視のフライヤーの頒布や、チェキ、ブロマイド等のグッズ販売の用意も進めています」
「ぬるい。ぬるいよ、貴裕くん。最初からそういう作戦でいくべきだ。何のためにエリサとアキマサ使ってるの? 君もシュウも実力優先とはいえ、ばっちりイケメンだからね」
「……はい」
「僕、同じような話、プロジェクト発足時にも言ったよね。この3ヶ月、何してたの?」
 言い訳のしようがない。貴裕は腹をくくった。
「フェス系のイベントへの出演希望は50か所以上出していました。グッズのデザインも、複数のデザイナーに発注していました。ただ、煩雑なやり取りが多く、決定まで粘り強く持って行けなかったものがあります」
「つまり君の事務処理能力が追い付かなかったの?」
「申し訳ありません」
 貴裕がプロデュースを担当しているアーティストは、『六度目のゼロ』だけではない。楽曲の制作、プロモーション計画の立案、練習やイベント出演への同伴に加え、経費精算やメールチェックなどの事務作業も多い。
「やっぱりプロデューサー兼サポートピアニストなんて、無理だったんじゃないの?」
「反省しております。自分のタスクマネジメントを強化し、同じような失敗を引き起こさないよう努力いたします。なんとか両立させてみせますので」
 同じような会話を、これまたプロジェクト発足当時にしていた。
 貴裕自身が「ロクゼロのピアノは自分で弾きたい」と言い、我がままを押し通したのだ。社長も「君がそんなに言うなら任せるよ」と理解を示し、貴裕の業務を減らすため、2年ぶりにアルバイトを採用してくれた。
 入社して3ヶ月目の彼が、まだ戦力になっていないのは仕方がない。ロクゼロのライブの動員も、徐々に増えてきている。
 何もかも順調だ。もう少し時間が経てば、きっと全てが上手く回りだす。希望的観測だらけではあるが、そうなるように努力するしかない。
 歯を食いしばった貴裕を見て、社長は声の調子を変えた。
「まあ、我が社に金の卵が転がり込んできたのは、君の熱意のおかげだ。そこは評価しているよ」
「ありがとうございます」
「ただ、この業界は、結果が命だからさぁ。成功しないと意味がないよ。わざわざバンド組んだり、Break Pointに出場したりしてるのってさぁ、ぶっちゃけ効率悪いんだよね。普通にソロでメジャーデビュー狙える子なのに、敢えて茨の道を選んでさぁ」
「『バンドを組みたい。みんなで何らかのコンテストに挑戦し、その過程を通じて音楽を楽しみたい。リアルな世界で、自分の価値を実感したい』。それが、あの子の希望でした。また、私が確かな筋から得た情報によれば、今回のBPのグランプリの副賞は、来夏にアニメ化予定の、少年ジャパンで大ヒット連載中の漫画作品の主題歌です。作風はロクゼロの音楽との親和性が高く、話題性も抜群です。挑戦する価値はあるかと」
「……まあ、納得行くまでやればいいけどさ。結果が出なかったら、上手くメンバーを操縦して、方向転換すること。様子を見るのは年内までだ。当たれば大きいのは間違いないからねー。100万くらい、先行投資してあげるよ」
 貴裕は、勢いよく頭を下げた。
「ありがとうございます!」
 後ろで、玄関のドアが開閉する音がした。誰か来たのだろうか。
「君のセンスは信用してるよ。頑張って」
「ご期待に応えられるよう努力します。失礼いたします」
 貴裕は礼をして退出した。
 腕時計を見ると、ロクゼロのバンドメンバーとのミーティングの時間が迫っていた。リビングに戻り、机の上を片付ける。アルバイトは、粛々と書類を作成していた。
「お疲れ様です」
「お先に失礼するよ。その仕事、どこまで進んだ?」
「先ほど、6枚目が仕上がりました」
「優秀だね。明日もよろしく頼むよ」
 彼に手を振って、事務所を後にする。
 館野社長の経営方針は『無駄なことをしない』『できるだけ物をもたない』だ。オフィスビルに入居する費用を浮かせて、交通費や交際費、各種機材のレンタル料などに充てている。
 成果さえ上げれば自由にさせてもらえるのはありがたい。
 貴裕も例にもれず、事務所のそばの音楽スタジオと優先使用契約を結び、暇さえあれば入り浸っていた。年間2000時間以上の使用を確約する代わり、一時間当たりの利用料の割引と、優先的にスタジオを予約できる権利を契約してもらったのだ。
 ライブのリハーサルやCDのレコーディングなど、用途や人数に応じて最適な部屋を借りられるし、機材のメンテナンスもしなくていい。タテノの規模であれば、自前でスタジオを用意するより、こちらのほうが経済的だ。
 仕事が片付いてさえいれば、自分の個人的な練習もできる。
「ああ、ピアノが弾きたいな」
 ぽつりと呟いた。最近は事務仕事が多く、必要最小限しか鍵盤に触れられていない。スタジオに向かって急ぎながら、貴裕は物思いに沈んでいった。
 人生ではじめてピアノを弾いた時の記憶はない。まだ1歳に満たなかったころ、母が目を離した隙に、部屋の隅で埃を被っていたピアノの蓋を勝手に開け、遊んでいたと聞いている。指一本で鍵盤を押して音を出すような遊び方ではなく、何かのメロディを弾いていたそうだ。
 母は貧しい暮らしのなかでお金を工面し、近所の音大生を雇って、貴裕にピアノを習わせた。その評判は次第に高まり、テレビや雑誌の取材が来るようになった。物心ついたときには、当然のようにピアノと過ごしていた。
 6歳になる少し前、突然、祖父と名乗る人物が家にやって来た。あごひげをたっぷりたくわえた、気難し気な顔のドイツ人で、世界的に有名なクラシックピアニストだった。
 彼には3人の息子がおり、長男はバイオリニスト、次男はホルンのプロ奏者として活躍していた。年の離れた三男は音楽大学でピアノを学んでいて、その筋では有名だったが、数年前に病死していた。
 母は大学生のころにドイツへ留学し、偶然知り合った三男と電撃的な恋に落ちて、帰国後に貴裕を生んだそうだ。随分あとになってから、そのことを知らせる手紙を三男へ送ったが、既に彼は病床に伏せていた。
 祖父は母からの手紙を読み、孫の存在を知って、ずっと近況を探っていた。日本のメディアで『ピアノの神童』と呼ばれている貴裕の映像を見つけ、衝撃を受けたという。
 ――私の跡を継ぐのはお前しかいない。一緒にドイツへ来い。
 ――ドイツってどこ? 行ったらどうなるの?
 ――多彩な音に溢れた街で、朝から晩まで、最高級のピアノを弾けるぞ。
 魅力的な提案だった。貴裕は彼の養子となり、海を渡った。
 渡独直前に受けた取材でショパンの『エチュードop.10-5《黒鍵》』を弾いてみせたためか、日本のメディアは貴裕に『黒鍵の小公子』という二つ名をつけた。かの児童小説のように活躍する友人はおらず、祖父と母の仲は良好で、最初から家族3人で暮らしていたのだが。
 祖父の言葉に偽りはなかった。ドイツに引っ越した後の貴裕は、音楽家として、これ以上を望みようもない環境で育ててもらった。
 それでも、プロにはなれなかった。
 ――自分に足りなかったものは何だろう?
 貴裕には、美しい音楽が降り注ぐときの光が見える。ピアノの向こうに広がる宇宙を感じられる。それらを表現する技術も磨いたはずだ。しかし10年以上の時間をかけ、世界各地のコンクールに挑戦しても、一度もグランプリを取ることはできなかった。
 ――お前のピアノの素晴らしさは、私が一番よく分かっている。
 25歳の夏、「プロのクラシックピアニストを目指すことを諦める」と告げた時、祖父から返ってきたのは、その一言だけだった。母は明らかに落胆していたが、何も言わなかった。最も意気消沈していたのは貴裕だ。
 ピアニストとして生きたかった。
 朝から晩までピアノを弾いていたかった。
 生活の中心にピアノを置いていたかった。
 それを許される存在に、なりたかった。
「まあ、今も音楽に関わって生きていられるんだから、良い方だよな」
 貴裕はひとりごちた。
 若いころ、ともにピアノの腕を競った友人のほとんどは今、音楽とはまったく関係のない業界で働いている。それなりに楽しそうではあるが、やはり貴裕は、音楽から離れたくなかった。館野社長に「うちで働かないか」と声をかけてもらえたことは、本当に感謝している。
 若い才能を発掘するのは楽しい。これまで、貴裕がプロデュースを担当したアーティストは5組。楽曲制作やイベント出演、インターネット配信などの手段を尽くして、全員、かろうじて音楽で食べて行けるようになっている。
「でも今回は、そんなレベルで終わらせないぞ」
 広く世間に知られるべき音楽が、今、貴裕の手の中にあった。
 ――バンドを組んでみたいんです。
 ある日、そっけない文面とともに、デモ音源が送られてきたデモ。忙しない日常を雷のように引き裂いて、鮮烈な色と香りをもたらすメロディだった。聴き終えた瞬間、貴裕は、その相手に電話をかけていた。
 ――ぜひ、一緒にやりましょう。私にピアノを弾かせてください。あなたの音楽に相応しい、最高のメンバーを集めることを約束します。
 こうして、『六度目のゼロ』プロジェクトがスタートした。
「そうだ、雑務に追われている場合じゃないんだ。予算も確保できた。頑張ろう。頑張るぞ」
 自分で自分を励ましているうちに、音楽スタジオへ辿り着いた。ミーティング開始時刻ちょうどだ。予約した部屋の前で、柊羽が電話をしている。
「ああ。高校は来週から夏休みだ。明日が終業式。そう。でも、14時から新宿でレコーディングの仕事が入ってるから……。19時に銀座か。分かった。じゃあな」
 彼は、ちらりと貴裕を見て、電話を切った。
「大丈夫か?」
「ああ。クソ親父から、面倒な誘いが来ただけだ」
 相変わらず、口の悪い青年だ。貴裕は苦笑しつつ扉を開けた。
 小机を広げてブレスレットづくりに励んでいるのは絵梨沙。その隣で梱包を手伝っているのが、満。彰将は一人でベースの練習をしていて、顔を上げることさえしない。
「みんな、おつかれさま。ミーティングを始めよう」
 声をかけると、絵梨沙は片づけを始め、彰将は申し訳程度に身体をこちらへ向けた。
「連絡事項が幾つかある。まずは、Break Point地区大会の結果が来た。選考突破だ。おめでとう。次は8月15日のエリアファイナルだ」
 満が、ぱちぱちと拍手をする。絵梨沙は「当然ね」と言いつつ、嬉しそうな顔をする。柊羽は少しほっとしたようだ。彰将は相変わらずベースをいじっている。
 もう少し盛り上がるかと思ったのだが、拍子抜けした。
「それから、追加のライブが2本決まった。来週、みなとみらいの……」
「だからさぁ、まずは今週のライブの振り返りでしょう?」
 彰将に遮られて、口をつぐむ。そうだった。伝えるべきことがありすぎて、気が急いてしまった。
「申し訳ない。今すぐ準備を―…」
「まぁいいや。僕からも言いたいことがあるんだよね。
 僕、このバンド、抜けるから」
 彰将の言葉に、理解が追い付かなかった。
「ちょ、ちょっと待て。どういうことだ」
「僕は怒っているんだよ。僕はベーシストであって、バンドのビジュアルを飾るためのモデルじゃないし、お花役でもない」
 ハッとした。先ほど、社長の部屋で聞いた玄関の音は。
「俺と社長の話を聞いていたのか?」
「貴裕が寝てる間に、事務所へ行ったんだよ。ベースを取りにね。ついでに物置を片付けてあげてたら、面白そうな話をしてたから聞いちゃったよね。
 それで僕は、ロクゼロからの脱退を決めたってわけなんだよ」
「あれは社長の軽口で……。俺は、彰将の音楽性を評価して声をかけて」
「じゃあ、なんで否定しなかった?」
 鋭い声が飛んできて、ひるんだ。
「インターネットに頼りたくないとか、Break Pointへ出場したいって話の時は、すぐに社長を遮ってたじゃん。どうして僕と絵梨沙のときは流したの? 貴裕も同じように思ってたってことでしょ?」
「話の流れで、強く出られなかっただけだよ」
「その程度ってことでしょ」
 彰将は雪のように白い顔を、頬から耳まで赤くして、
「しばらく前からうんざりしてたんだ。音楽的な意見出しても反映されないし。ボーカリストは、歌の練習をサボって、アクセサリーなんか作ってるし。ギタリストは、ワカメのお化けみたいな見た目だし。ドラマーはクソ真面目なだけで、中身なくてつまんないし。
 メンバーのダメなとこを直させるのも、プロデューサーの仕事でしょ?
 そこらへんフォローするどころか、ちょっとした約束も守れない、そもそも僕のベースを軽んじてるやつと仕事するのは、これっきり御免だよ!」
 彰将はベースを背に担ぎ、椅子を蹴立てて立ち上がると、勢いよくスタジオを出て行った。貴裕は、頭が真っ白になった。
「……追いかけねーの? それはどうかと思うわ」
 ドラムセットに腰掛けた柊羽が、乾いた声で呟く。
 貴裕は、慌てて荷物を放り投げた。
「お、追いかけるにきまってるだろ! ちょっと待て、彰将!!」
 急いで部屋を出て、廊下を走る。
 どうして俺は、さっき、社長の発言を訂正しなかったのだろう。誰かに聞かれていると思っていなかった? いや、少なくとも、アルバイトがリビングにいるのは分かっていた。彼も彰将と同じ感想を抱いたかもしれない。プロデューサーとして失格だ。
 貴裕が彰将を選んだのには理由がある。
 『六度目のゼロ』はロックバンドをうたっているが、楽曲性は一般的なロックの域にとどまらない。J-POP、ジャズ、ブルース、R&B、ラテン音楽、韓国やタイなどのアジアの音楽、クラシック、テクノ、EDMなど世界中のあらゆる音楽の要素が入っている。可能な限りそれら全てを理解した上で、重すぎず、主張しすぎず、安定感のあるベースが欲しかった。
 16歳で動画投稿者デビューした彰将は、ああ見えて音楽への造詣が深い。クラシック中心の貴裕、ポップスしか分からない絵梨沙、電子音楽に寄り気味の柊羽と比べて、その知識の幅広さは際立っていた。19歳からスタジオミュージシャンとしてタテノに所属し、どんな仕事でも堅実なプレイをすることで有名だった。
 たしかに、彼の甘いルックスと演奏とのギャップは魅力的だが、音が先だ。貴裕は音楽を通して世界を見ている。容姿や性格や賢愚など、とるに足らない要素だった。
「話させてくれ……っ」
 しかし、32歳の全力疾走では、23歳に追いつくことはかなわなかった。
 彼がスタジオを出た後、どちらへ行ったのかも分からない。がむしゃらに動くだけでは限界があった。電話をかけても繋がらず、LINEを送っても既読がつかない。
 試しに事務所へも連絡をとったが、
『彰将くんですか? 来ていませんよ』
 眠たげな声のアルバイトが答えてくれただけだった。
「……なんとか……つかまえて、話をしよう……」
 息を切らせながら、貴裕はスタジオへ戻った。
 他のメンバーを延々と待たせるのもよくない。
「俺は、本当に……マネジメント能力が足りないな……」
 キャパシティオーバーかもしれない。疲労で頭が回らない。
 スタジオに帰ると、髪を振り乱して息を荒げている絵梨沙と、今にも泣きだしそうな満がいた。
「はあ、はあ……。ああ、おかえり、貴裕。彰将は捕まった?」
「ごめん、見失った。柊羽はどこに行った?」
「はあ……『俺も行くわ』ですって」
 頭を鈍器で殴られたような衝撃が走った。
「しゅ、柊羽も抜けるって言ったのか?」
 絵梨沙はイライラと髪の毛先を触りながら、
「私は、聞いたことをそのまま言ってるのよ。ねえ、あんたも聞いてたでしょ」
 話を振られた満が、こくこくと頷く。
「はい……。『彰将の言うことも一理あるな。これじゃ、どうしようもない。俺も行くわ。しばらく連絡とれなくなると思う』って、荷物をまとめて出ていきました。絵梨沙さんは追いかけてくださったんですけど、追いつけなくって」
 貴裕は頭を抱え、膝から床へ崩れ落ちた。

2.03 other’s note ―葵

 ――私が、本当の愛ってやつを教えてあげるわ。
 『翼』という文字を見るたび、20年近く昔の囁きを思い出してしまう。
「CEO? どうしましたか?」
「……なんでもない」
 冷泉院葵(れいぜいいん・あおい)は頭を振り、余計な感傷を追い出した。部下は不思議そうな顔でこちらを見ている。
 何気ない風を装って、手元のタブレットに視線を戻す。画面に映っているパワーポイントの資料は、部下が考えた来季のテレビCMの企画書だった。
 もう一度最初から読み直し、思考を整理する。
「悪くない企画だ。下半期の広告戦略を踏まえて、新規顧客獲得に焦点を当てているところは評価できる。しかし、この『本町翼』という女優を起用するのは何故だ?」
「それは……今、一番旬な女優さんですから。好感度も高いですし」
「彼女のファン層は、このサービスのターゲット層と合致するのか?
 旬の女優ならギャランティも高額だろう。費用対効果は大丈夫なのか?
 以上、精査して、根拠ある資料とともに再提出しろ。期限は明日の17時だ」
「承知しました!」
 部下は一礼し、すたこらさっさと葵の前から消えた。約80平方メートルの広さのオフィスには仕切りがない。全席フリーアドレスとなっており、CEOを務める葵も、その他の役員も、一般社員と同じように座っている。
 葵のお気に入りは、西側の壁に沿って並んだスタンディングデスクの左端だ。くるりと振り返れば、ワーキングスペースの全体を見渡せる。
 スペースの中央には長机が5つの島を作っており、20名ほどの社員が座っていた。マルニ木工へ特注したこだわりの椅子だ。先ほど葵へプレゼンに来た社員も、その一角へ戻っていた。
 ほどよく光が射しこむ、全面ガラス張りの北側は、色とりどりのソファと丸机が置かれたリフレッシュスペースだ。自動販売機を設置し、飲み物やカップラーメン、お菓子など全ての商品を無料で購入できるようにしてある。
 東側には本棚とロッカー。南側の壁に据えられたモニターには、サイトのアクセス数の推移グラフやアクティブユーザー数など、様々な数値が表示されている。
 モニターに現在時刻が映った。18時26分。葵はデスクを片付け、愛用のタブレットを鞄に仕舞った。隣に座っていた古株の社員が、顔を上げた。
「今日は、お早いですね」
「ああ。息子と焼肉へ行く約束をしているんだ」
「いいですね! 楽しんできてください」
「ありがとう」
 他の社員にも労いの声をかけ、ロッカーへ余計な荷物を放り込む。
「じゃ、後は任せたぞ。おつかれさま」
「「おつかれさまでした!」」
 ワークスペースを出ると、左右に3つの会議室がある。壁も扉もすりガラスで作られていて、開放的だ。
 エントランスの中央には会社のロゴが飾られ、ゴールドに輝く受付電話が置かれている。足早に通り抜け、エレベーターホールへ向かう。左手の廊下には非常階段とトイレ、給湯室があるが、今は電灯も点いておらず真っ暗だった。
 一階へ降りると、外は雨が降っていた。最寄りの表参道駅までは、歩いて8分ほどの距離がある。濡れると面倒だ。葵は正面の道路に出て、ちょうど走ってきたタクシーを拾った。
「銀座一丁目までお願いします」
「承知しました。……お客さん、綺麗な乗られ方をしますね」
「え? ああ、癖なんですよ。ありがとうございます」
 葵は微笑んだ。タクシーの後部座席のドアが開いたら、まず奥へ荷物を置く。次に、腰から車内へ入って席に座り、両足を揃えて正面を向く。友人たちに「お前は女優か?それともモデルなのか?」とからかわれる乗り方は、いつからやっているのか思い出せないほど昔から、無意識に行っている動作だった。
 既に帰宅ラッシュは始まっており、都内の一般道を走る車の進みは鈍い。
 タクシーの助手席の後部には、タブレット型の端末が設置してあり、デジタルサイネージ広告が次々と表示されている。見るともなく眺めていたら、見覚えのある女性が映った。本町翼だ。どこかの企業のCMで、軽快なダンスを踊っている。
 葵は、窓の外へ視線を移した。もはや感傷を邪魔するものは何もない。目を閉じ、静かに回想へふけっていく。
 葵にとって『翼』といえば、本町翼ではなく、小園翼(こぞの・つばさ)という女性だった。彼女と出逢ったのは、新卒から勤めた会社を辞め、気心知れた仲間たちと起業したばかりのころだ。
 26歳だった葵は、自社のサービスを売り込むため、奔走していた。大学OBの伝手を頼って、とある大手広告代理店を訪れた時、受付で対応してくれたのが翼だった。
 ――広報部の仲村ですね。ただいまお取次ぎいたしますので、少々お待ちください。
 『小園 翼』と書かれた名札を右胸につけ、紺色のスーツを身にまとった彼女は、大企業の受付には珍しい、地味で大人しそうな女性だった。しかし葵が惹かれたのは、目ではなく耳だ。神秘的な響きの声と喋り方に、一聞き惚れをしたのだった。
 ――お待たせいたしました。仲村は35階の会議室におります。こちらの入館証をお持ちになって、奥のエレベーターでお上がりください。
 ――ありがとう。ところで今夜、空いてる?
 ――え?
 目をぱちくりさせる翼の手に自分の名刺を握らせて、葵は微笑んだ。狙った女も狙っていない女も、手当たり次第に落としてきた笑顔だ。
 ――お酒の美味しい店を知ってるんだ。19時に赤坂Bizタワー1階のアトリウムで待ってるよ。
 結果は上々だった。仲村氏との商談はこのうえなく盛り上がり、契約獲得に繋がったし、翼は待ち合わせ時間ぴったりに赤坂へ現れた。
 まずは行きつけのフレンチレストラン『一ツ木町倶楽部』へ案内し、クラシックの生演奏を肴に舌鼓を打った。さらにバーへ移動し、学生時代の武勇伝や趣味のサーフィンの話題を語り聞かせ、強めの酒を飲ませて、家へ連れ帰ることに成功した。
 ――手の早い人ね。
 ――欲しいものは、すぐ手に入れたい性分なんだ。
 葵は、六本木の夜景を望むタワーマンションの一室で、最高にロマンチックな夜を演出した。そこまでは造作もない日常、よくあるワンナイトラブの一幕だった。
 翌朝、シャワーを浴びた後のことだ。
 ――どれでも好きな化粧品を使って。気になるブランドがあれば、持って帰ってもいいよ。
 葵は洗面台の三面鏡をひらいた。棚に並べていたのは、いずれも数万円する高級品ばかりだ。取引先からもらったものもあれば、前に訪れた女が置いて行ったものもある。
 腕組みをしてそれらをねめつけた翼は、
 ――どれも嫌いだわ。こんなのつけたら、肌が荒れちゃう。
 目を丸くする葵を見て、翼は、ふう、とため息をついた。
 ――この悪趣味な化粧品たちは全部捨ててちょうだい。今夜、2人で買い物に行きましょう。私のお気に入りの店にね。
 彼女は細い腕を伸ばし、戸惑う葵の首に回して、
 ――可哀想な人。私が、本当の愛ってやつを教えてあげるわ。
 その囁きはあまりにも優しく、これまで経験したことのない甘やかさで……葵は、黙って彼女を抱き締め返すことしかできなかった。
 翼と正式に付き合うようになった葵は、女遊びをきっぱりやめた。
 半年ほど経ったころ、翼は誇らしげな顔で、
 ――子どもができたわ。
 彼女の手には、サイン済みの婚姻届があった。
 ――責任とって結婚してちょうだい。
 葵に拒否権はなかった。その週のうちに、役所へ届けを出した。
 ――子どもを育てるって考えると、一軒家に住みたいわ。
 ――そうか。……引っ越すなら、逗子がいいな。サーファーとして、いつかあの街に住むのが憧れだったんだ。
 ――いいわね。じゃあ私、バーカウンター付きの地下室が欲しいわ。素敵でしょう?
 立地と内装にこだわり、けして大きくはないが2人の趣味が詰まった家が完成するころ、男の子が生まれた。
 ――冷泉院家の男子は、植物にちなんだ名前をつけるのが習わしなんだ。
 ――それじゃ、ヒイラギの羽と書いて、シュウにしましょう。
 ――シュウと読むなら、字は『柊』だけでいいんじゃないか?
 ――バカね。羽は、翼の要素よ。私の子どもでもあるんだから。
 穏やかな日々が2年ほど続いた。葵の会社は順調に成長を続け、専業主婦となった翼は得意の家事を楽しんでいた。柊羽は手のかからない子どもで、すくすくと育った。週末はよく3人で海に出かけた。
 柊羽が2歳になった年の梅雨の日、スーパーからの帰り道で、翼は居眠り運転のトラックに撥ねられた。葵が病院に駆けつけてまもなく息を引き取り、帰らぬ人となった。24歳だった。
 葬儀はしめやかに行われた。
 ――ああ、翼…。やっと幸せになったと思ったのに…。
 小学校時代から翼の親友だったという女が、派手に泣いていた。
 ――あの子は5歳の時に両親を事故で亡くして、大変な苦労をしたんですよ。だから高校を卒業してすぐ働いて、でも良い人と結婚できて、子どもも生まれたばかりなのに…。私、保育士の資格を持っているんです。何か困ったらいつでも呼んでください。
 翼の上司だという女も、嗚咽を漏らしていた。
 ――いつも仕事が早くて正確で、良い子だったわ。お子さんがまだ小さいのに可哀想。私の次女も、柊羽くんと同い年なのよ。保育園探しを手伝ってあげるわ。
 何がなんだかわからないでいるうちに、上司の女から「柊羽を預けられる保育園が見つかった」と連絡が来た。さらに彼女は「家が近いから」と送り迎えも買って出てくれた。
 保育士の女は、しばしば早朝から葵の家に来て、柊羽の食事やお弁当を作ってくれた。その頻度は週に1回から徐々に増え、毎朝毎晩へと変わっていった。
 しばらくすると、葵が学生時代に付き合っていた女が一人、二人と家にやってきた。彼女たちは口々に葵を気遣い、「仕事も忙しいのに大丈夫? 手伝ってあげるね」と、家を掃除したり、服を繕ったりしてくれた。
 葵は彼女たち全員を受け入れた。家事も育児も分からない身には、単純に有難かった。
 何かを御礼を返そうとしたところ、彼女たちは服やバッグや高級料亭での食事ではなく、葵を欲しがった。葵はその要望に応えた。しばらくすると、家の洗面所の鏡の裏は、高級ブランドの化粧品で埋め尽くされた。
「やっぱり俺は、こういう生き方が性に合っているんだろうな」
 来るもの拒まず、去る者追わず。
 それから、数えきれないほどの女たちとともに柊羽を育ててきた。悪徳投資家に会社を乗っ取られ、やむなく関東を離れた時期を除き、常に2人以上の女が家に通ってくれている。
「本当の愛って何だろうな、翼」
 呟いたとき、タクシーが止まった。礼を言って支払いを済ませ、雑踏へ下りる。平日の夜の銀座はにぎにぎしい。人混みを抜け、馴染みの店の暖簾をくぐると、いつもの店員がお辞儀で迎えてくれた。
「冷泉院様、お待ちしておりました。お連れ様は先にお見えです」
「そうか。ありがとう」
 店員に連れられ、薄暗い廊下を進む。完全個室制を売りにしているだけあって、通り過ぎる各部屋の中に客がいるのか、いないのか分からない。
 最奥へと辿り着き、店員が引き戸を開ける。黒の大理石とダークウッドで統一された内装は、シックで居心地がいい。排煙フードすらもスタイリッシュである。
 学生服姿の息子は、高級感漂う店の様子に臆するどころか、ふてぶてしいとも言える態度で座っていた。
「時間ピッタリに来るなんて珍しいじゃねぇか、親父」
 思わず頬を緩めた。生意気な口の利き方も、立ち居振る舞いも、顔も体格も、自分の若いころにそっくりだ。ついこの前までランドセルを背負った子どもだったのに、もはや一丁前の大人のような顔をしている。
「久しぶりだな、柊羽。元気だったか」
「ああ。親父も相変わらずみたいだな」
 同じ家に住んでいる高校生の息子と親とは思えない挨拶を交わし、席に着く。まもなくして牛刺しと季節のナムル、キムチ、サラダが運ばれてきた。
「一学期の成績表と、先月の模試の結果を見たぞ。良い出来だったな」
「親父の出身大学の出身学部、A判定だったぜ。順当に行けば受かるだろ」
 まともに会話をするのは何週間ぶりだろうか。平日は昼すぎに起きて終電まで働き、土日に休んでいる葵と、平日は朝から学校へ行き、休みはすべて音楽活動に充てている柊羽は、滅多に顔を合わせることがない。食事も各々が勝手に用意している。だからこそ、こうして月に一回は、ともに外食する機会を設けていた。
 前菜をあっというまに平らげていく柊羽を眺めながら、
「お前がちゃんと勉強していて何よりだ」
「約束は守るさ。日本随一の成長速度を誇るITベンチャーの二代目社長を目指すってのも、悪かねぇし」
「頼もしいな」
 葵と柊羽の関係が大きく変わったのは、6年前のことだ。
 前妻と離婚し、徳島から神奈川へ引っ越してまもなく、柊羽は小学校や家で暴れるようになった。いわゆる反抗期だったのだろう。毎日の殴り合いに疲れ果てた葵は、彼のストレスを発散させるものはないかと考え、物置で眠っていた電子ドラムを引っ張り出した。学生時代に趣味で嗜んでいたが、もう何年も使っていなかったものだ。
 葵の祖父は大小様々な太鼓を所有しており、柊羽は、それらを楽しげに叩いていた。もしかしたら、これも気に入るかもしれないと思った。
 電子ドラムを受け取った柊羽は、葵に殴りかかる代わりに、8ビートの刻み方を研究するようになった。さらに一ヶ月ほど経つと、しおらしい態度になって葵の部屋へやってきた。
 ――親父、今までさんざん暴れて悪かった。ごめん。謝るから、頼みを聞いてくれ。
 ――何だ。言ってみろ。
 ――俺に投資してくれ。ドラマーになるには、金がかかりそうなんだ。でも俺は音楽で成功したい。プロになって、有名になりたいんだよ。
 葵は頷いた。むやみやたらに暴れるよりは、建設的でいい。
 ――そうか。やぶさかじゃないが、2つ条件がある。まず、勉強も疎かにしないこと。最低でも、俺と同じ大学を卒業してほしい。二つ目は、もし22歳までに音楽で成功できなかったら、うちの会社に入って働け。これらの条件を守れるなら、金に糸目をつけずに支援しよう。
 ――分かった。ありがとう。
 それっきり柊羽は大人しくなった。短い反抗期だった。自分の過去を振り返ると、少なくとも中学3年生までは家中のものを壊して暴れまくっていた。よくできた息子だと思う。
 葵は、すぐに地下のバーを改装して防音室を作った。ドラムセットはもちろん、演奏動画を撮影するためのカメラやマイク、編集用のパソコンなど、全て一流のものを買いそろえた。自分が子どものころから集めてきた洋楽のレコードやCDのコレクションも、柊羽に譲った。アメリカへドラム留学をすると言い出した時は、十分な小遣いを持たせて送り出した。
 二人の約束は、今も続いている。
「どうだ、音楽活動は順調か? 新しいバンドを組んだと言っていたな」
 問いかけた時、タンやハラミ、上ヒレなどの盛り合わせがやってきた。柊羽は慣れた手つきでトングを操り、肉を網に並べていく。
「ああ。今はライブバトルコンテストに挑戦してて、地区予選を突破したとこさ」
「凄いじゃないか。次は県予選か?」
「いや、地方単位で分かれてる。次はエリアファイナル、その次がジャパンファイナルだ」
「ふうん。決勝は東京でやるんだろう? 都合がつけば見に行こうかな」
「ファイナルの会場は渋谷公会堂だ。絶対に進出して、いや、優勝してみせるさ」
 肉の焼ける香ばしい匂いが立ち上る。柊羽は待ちきれない様子で、多少赤みが残っていても気にせず、端から順に食べていく。葵も遠慮はしない。しばし、二人は焼肉に集中し、美食を満喫した。コースで出された肉が尽き、三皿ほど追加注文する。さらにキムチをおかわりして、冷麺を食べたところで、ようやく胃が満たされた。
 デザートのシャーベットと温かいお茶が運ばれてくる。
「で、何の話だよ」
「ん?」
「親父が俺を焼肉に誘うときは、言いづらい話をする時だと相場が決まってんだよ」
 柊羽は背もたれによりかかって天井を見つめ、大きく息を吐いた。
 まったく息子には敵わない。葵は居住まいを正した。
「実は、再婚しようと思ってる」
 葵のシャーベットが少し溶けて、三角形の山が崩れた。
「誰と?」
「西川富美子さん。30歳。2年前から……お付き合いしている」
「なんで今、結婚?」
「子どもができたんだ。お前の妹か弟になる」
 柊羽は、ぺちりと額を叩いた。
「いい年してデキ婚かよ、クソ親父」
「面目ない」
 葵は黙って自分のシャーベットを柊羽に差し出した。彼は、ため息をついて受け取る。
「……親父の人生だし、好きにしろよ。ただ、俺も好きにするぞ。今さら仲良し家族ごっこなんてごめんだからな」
「分かっている。いい機会だから、都内にマンションを買おうと思っているんだ」
「今の家は、どうすんだよ」
「お前が一人で住めばいい。大学への通学には少し不便かもしれないが、地下の防音室が自由に使えると考えれば悪くないだろう。いずれ、ちゃんと登記上の権利も譲ってやる。たまにサーフィンをしに行くから、その時は泊めてくれ」
「はあ。親父って、ほんと金遣い荒いよな。それだけ稼いでるんだから、いいけどさ」
「俺の唯一の取り柄だからな」
 柊羽は鼻を鳴らし、一つ目のシャーベットを勢いよくかっこんだ。
「他の女は切ったわけ? 少なくとも3人いるだろ、今」
「どうしてそう思う」
「月金土と、火木と、水日で、洗濯物の畳み方が違う」
 葵は苦笑いを隠せなかった。
「流石だな。冨美子以外の女たちには、これから話をするつもりだ」
 二つ目のシャーベットにスプーンを突き刺した柊羽は、ゆるゆるした動作でそれをかき混ぜる。
「本当にろくでもない男だよな、親父」
「返す言葉もない」
 頭を下げる以外に、どうすればいいのかが分からない。富美子は料理が上手くて、気立てのいい女であるが、葵の家に通う他の女たちと何が違うわけでもない。子どもができたから結婚せざるを得ないだけだ。注意を払っていたつもりだが、できてしまったものは仕方がない。
 柊羽は、暗めのゴールドに染めた髪をかき上げた。
「まぁいいや。俺、来週からしばらく、留守にするよ」
「どこに行くんだ?」
「夏休みの間に免許を取りたい。場所はまだ決めてないけど、どっか地方で合宿してくる」
「そうか、もう18歳だもんな。いくらかかるんだ?」
「いーよ。音楽活動と直接関係ないし、今月と来月の給料で払える金額だし」
「成人祝いだ。50万円あれば足りるだろう。明日の朝、お前の口座に振り込んでおく」
「……さんきゅー。んじゃ、ぼちぼち帰ろうぜ」
 柊羽は、きっぱりと立ち上がった。
「そうだな。ありがとう」
「なんで親父が礼を言うんだよ。俺、トイレ行ってくるわ」
 柊羽が部屋を出ていく。葵は店員を呼び、クレジットカードを渡した。
 我ながら、ダメな父親だと思う。だが柊羽は、執拗に問い詰めたり、責めたりしてこない。思うところをぶちまけるでもなく、淡々と会話をしてくれる。
 彼は、いつもそうだ。7歳の冬に「会社を乗っ取られた。一ヶ月後に引っ越すぞ」と告げた時も、8歳の冬に「再婚しようと思っている」と告げた時も、11歳の冬に「離婚することになった。来春から神奈川へ戻るぞ」と告げた時も、「そうか。分かった」としか言わなかった。
 そこまで振り返って、確かに全部、焼き肉を食べながらの会話だったことを思い出した。柊羽は全て覚えているのだ。
 支払いを済ませたころ、手配を頼んでいたタクシーが到着した。
「東京駅までお願いします」
 先に乗車して行き先を告げる。ほどなく柊羽も店を出てきた。
 彼は「ちょっと持ってて」と言って葵に荷物を投げ渡し、腰から車内へ入って席に座ると、両足を揃えて正面を向いた。
「ごめん、ありがとう。……なんで笑ってんだよ」
「くっくっく。柊羽、その乗り方、どこで覚えた?」
「乗り方? さあ、別に。適当に乗ってるだけだぜ」
 当惑した表情を浮かべる彼を見て、葵は笑いが止まらなかった。
「まったく、何も教えてないのにな。本当に、お前は俺に似ているよ」
 タクシーは後部座席のドアを閉め、雨に煙る街を走り出す。
 柊羽は腕組みして、窓の外を睨んだ。
「似てねーよ。俺は絶対、親父みたいなクズにはならねぇからな」

2.04 佳奈 note.4

 ――うわぁああ! なんだよあれ!
 ――ふふふ。しゅうちゃんは怖がりやなぁ。
 あれはハリウッド・ドリーム・ザ・ライドだったろうか。ジュラシック・パーク・ザ・ライドか、ジョーズか、はたまた全部だったかもしれない。
 柊羽は絶叫系やパニック系が苦手で、アトラクションに乗るたび、涙目になっていた。
 ――向こうでママたちと待っとってもええんよ?
 ――べ、別に平気だし。つ、次はどれに乗りたいんだ。
 震えながら、文句を言いながら、彼は佳奈のそばを離れなかった。その様子があまりにも可愛いので、ときどき抱き寄せて頬ずりしていたら、いい加減にしろと怒られてしまった。
 佳奈は彼と手を繋いで、あちらこちらへ引っ張りまわした。
 ――ハリー・ポッターのアトラクションが完成したら、また来ようね!
 ――……それもジェットコースターなのか?
 ――うーん。わからん!
 初夏の空に、幻の花火が上がる。
 あれから数年経って、高校2年生になる春休み、当時の彼氏とユニバーサル・スタジオ・ジャパンへ行った。どのアトラクションに乗っても、食べ歩きをしても、パレードを見ていても、ふとした瞬間にフラッシュバックするのは柊羽の顔だった。「今の、しゅうちゃんだったらどんな反応をしただろう」。そんなことばかり考えていた。
 ウィザーディング・ワールド・オブ・ハリー・ポッターは完成していたが、彼氏は興味が無さそうで、佳奈も敢えて近づこうとしなかった。
 ――佳奈、あっちへ行ってみよう。
 振り返ればあの人がいて、こちらに手を伸ばしている。佳奈はその手を取って、適当に笑ってついていく。これでいい。これがいいのだ、と思いながら。
 遠い春の空に、彩色千輪菊が咲く。
 ――佳奈。
 再び名前を呼ばれ、気だるさを隠そうともせずに振り返った。
 そこにいたのはあの人ではなかった。一瞬で体温が上昇する。
 すらっとした立ち姿。尖った顎、秀でた額。暗めのゴールドに染めたアップバングショートヘア。明るい茶色の目を優しく細めて、あの大きな手を広げている。
 ――次はどれに乗りたいんだ?
 ハッとして目覚めた佳奈は、涙が一粒流れていったことに驚いた。目頭が熱くなるでもなく、鼻の奥がツーンとするでもなく、静かに溢れて零れていった。
「……めちゃくちゃな夢……」
 佳奈は、布団の中で身体を丸めた。
 思い出と思い出がごちゃまぜになって、聞いてもいない声さえ脳内で作り上げている。自分の頭のなかはどうなっているんだろう。
 原因は分かっている。あのライブの中継を見たせいだ。ドラムを叩いていた彼の姿が頭から離れない。乾いた大地に染み込む慈雨のような音が、ずっと耳の奥に響いている。
「もう、いい加減にしてほしい」
 ため息を吐きながら起き上がり、洗面所へ向かう。
 顔を洗えばすっきりするかと思ったのだが、あまり変わらない。
「はあ……。諦めて浸るか。デートは夕方からだし、いいよね」
 佳奈はスマートフォンを操作し、chil*chilのユーザーページを呼び出した。マイリストの一覧から『歌詞あり・しっとり』を選択。ランダム再生をオンにしつつ、最初の動画を『初音ミクに「Star」を歌ってもらった~2016アレンジ~ byMMP』に設定する。
 初音ミクの歌声が部屋いっぱいに広がっていく。
「いいよね、ミクは」
 無駄に上手すぎたり、感情がこもりすぎたりしているボーカルは苦手だ。電子の歌声には余計なものがなく、すっと耳に入る。落ち着いて聞くことができるから好きだ。
 お気に入りの曲を聴きながら部屋を見渡す。机のわきに、大学のプリントを無造作につっこんだ紙袋が三つほど並んでいた。そろそろ溜めすぎだから、整理しよう。単純作業は心を癒すのにぴったりだ。佳奈はパジャマ姿のまま、作業に取り掛かった。
 カーペットの上に紙袋を引っくり返し、今後も必要になりそうなプリントと、もういらないものに分ける。必要なものはファイルに綴じていく。一枚一枚、丁寧に繰り返す。
 極めて現実的な作業を通じて、下らない妄想を振り払うことに努めた。
 ――幸せとは、真面目に努力して、たまに遊んで、穏やかな日々を過ごすことだ。
 佳奈は恋愛経験が少ないほうではない。
 最初に彼氏ができたのは中学2年生のころ。学校の部活の先輩に告白されたから付き合ってみた。彼が高校へ進学すると連絡が取りづらくなって自然消滅してしまったが、それなりに明るくて優しくて好きだった。
 次に付き合ったのは同級生。高校1年生の終わりごろ、向こうから告白されて付き合った。背が低くて、ひょっとこのような顔をしていたが、頭の良い人だった。宿題を助けてもらったり、受験対策本の解説をしてもらったりした。高校卒業後、彼はストレートで関西の大学へ行った。浪人生の佳奈とは次第に話が合わなくなって、別れた。
 恋人同士がするようなことは一通りしていて、特に深い感慨もなかった。「別れちゃうときは寂しいけど、恋愛は楽しいな」と思っていた。自分を好きだと言ってくれる身近な人を大切にして、ともに過ごす平和な毎日は、わりと好きだ。
 整理してみれば、プリントの山の半分以上がゴミだった。着替えて、マンションの地下のゴミ捨て場へ持っていく。ようやく気分も落ち着いた。
「さて、どうしよっかな」
 今日の夜は、拓海と靖国神社のお祭りに行くことになっている。17時に家のそばで待ち合わせて、軽く夕食をとり、一緒に九段下へ向かう予定だ。ヘアセットと浴衣の着付けのために、美容院を15時半に予約している。
 大学の課題は昨日、全部終わらせてしまった。あまりお金も使いたくない。
「……カーテンでも洗うか」
 結局、いつもより念入りに家の掃除をして、普段は作らないような凝った昼食にした。ついでにクッキーを焼いてみた。拓海は喜ぶだろうか。
 予約時間ぴったりに美容院へ行き、髪をアップにして、白地に金魚柄の浴衣を着る。このくらい自分で出来なくもないが、「デートのためにがんばった」感を出したかった。
 拓海は、佳奈の浴衣姿もクッキーも、想定通りに喜んでくれた。
「わー、すっごく可愛いね! お菓子も作ってくれたの? ありがとう」
「えへへ。喜んでもらえてよかった」
 大学やバイトでの人間関係について、他愛ない話をしながら夕食をとり、電車に乗る。
 佳奈は、自分が身構えていることに気づいていた。
 ここ数週間、拓海は佳奈に会うたびにロクゼロの話をしていた。高円寺の野外イベントに行ったこと、川崎銀座街という場所でストリートライブを見たこと、ちょっと都心から離れたイオンモールでのインストアライブへ足を運んだこと……。
「観覧無料のライブがいっぱいあって、ついつい色々でかけちゃったよ。
 でも俺、気づいたんだ。交通費を考えたら、ライブハウスへ行くのとあんまり変わんないんだよな。野外の開放感を取るか、ライブハウスの音響を取るかって問題で。
 久しぶりにライブハウスへ行きたいなと思って、7月18日と8月8日、2つもチケットを予約しちゃったよ。どっちも土曜日だから、佳奈は難しいかな?」
 うん、と頷いて断っていた。
 だが今朝の夢を見て、気持ちが変わっていた。
 ――あんな妄想するなんて、気持ち悪すぎるよね。
 ステージの上で演奏する彼を見れば、今の自分との距離が実感できるかもしれない。もはや遠い存在になったのだと、全然違う人物に変わったのだと、自分に分からせられるかもしれない。そうすれば、もう、あんな夢を見なくてすむだろう。
 穏やかに、心安らかに、昔の彼の思い出だけに浸れるようになるだろう。
 そのために一度、拓海とライブへ行ってみてもいいかもしれないと思った。彼がその話題を出したら、乗っかってみようと。
 しかし珍しいことに、拓海はなかなかライブの話をしなかった。
「うわぁ、人がたくさんいるね。特に外国人が多い」
「もうすぐオリンピックだからじゃない?」
 九段下の駅について、人の多さに驚きながら靖国神社へお参りして、たこ焼きを買って、綿あめを買って、スーパーボール掬いをして、フランクフルトを食べる。遂にりんご飴を買って境内を出るとき、
「そういえばさぁ。昨日、池尻大橋のライブハウスへ、ロクゼロを見に行ったんだけど」
 きた。いよいよだ。佳奈はつばを飲み込んだが、
「シュウもアキマサもいなかったんだよね」
「……え?」
 思わず訊き返すと、彼は消化不良を絵に描いたような顔をしていた。
「エリサは『バンド内で風邪が流行っちゃいました。2人とも病気で休みです』ってMCしてたけど、メグやエトオさんが『脱退かもしれない』って騒いでて。ライブ自体は、ピアノとボーカルとギターのトリオで、なかなか面白い演奏だったんだけど。心配だよ」
 目の前が真っ暗になるような気がした。
 なんとか表面を取り繕って、にっこりする。
「そうなんだ。大変だね」
 ――会ってみようかと思ったら、会えなくなった。
 これはやはり『会うな』という神様のお告げなのかもしれない。
「8月のライブはどうなるんだろ。もうチケット買っちゃったから、行くしかないけどさ」
「早く、2人とも戻ってくるといいね」
 出来るだけ優しい声を出すように努めた。気に入ったバンドが解散の危機だなんて、きっと拓海は心を痛めているに違いない。佳奈は彼らのファンではないから、何の関係もない第三者だから、穏やかに彼を慰めてあげられる。
 ――やっぱり私は、しゅうちゃんのバンドに関わらなくてよかったんだ。
 拓海は、しばらく佳奈の笑顔を眺めたあと、
「……ところでさ、佳奈の誕生日って8月だよね。お祝いしなきゃね!」
 気を取り直すような明るい声だ。
「えっ、ああ、うん。ありがと」
 御礼を言ったものの、目をそらす。
「でも私、帰省しちゃうから、当日は会えないや。8月7日のフライトを予約しちゃってて」
「あ、そうなんだ。残念。何か用事があるの?」
「うん、家族の予定があって。ごめんね。ちゃんと言えてなくて」
 拓海は少し黙っていたが、深く聞いてくることはしなかった。
「そっか、仕方ないね。じゃあ俺は、佳奈が帰ってくるのを待つよ。楽しんできて!」
「ありがと」
 彼は優しい人だ。ほどよい距離感が心地よい。
 それから2人は、手を繋いで駅まで帰った。
「送って行こうか」
「大丈夫だよ、電車で一本だし。拓海は、ここから半蔵門線に乗った方が帰るの楽でしょ?」
「……うん。ぶっちゃけ、そうなんだよね。じゃ、また次の英語の授業で」
「うん、またね!」
 改札で別れた後、やっぱり送ってもらえばよかったかな、と思った。
 拓海と夜にデートをするのは珍しい。そのまま家に招いたってよかったかもしれない。そろそろ付き合って三ヶ月だし。
「そういえば、拓海の誕生日って、いつだったっけ」
 出逢ったころに聞いた気もするが、よく思い出せなかった。
「あとで聞いとこ。うん。大事だよね、誕生日」
 本当は、何も考えたくない。今、『誕生日』というキーワードを聞いても、柊羽とミサンガのことしか思い浮かばないのだ。
 佳奈は浴衣の裾が開くのも構わず、急ぎ足で家路をたどった。

3.00 柊羽 note.2

 思うようにいかないバンド活動も、クズ親父とダメ女達との生活も、うんざりだった。
 柊羽が荷物をまとめて徳島へ発ったのは、「来週から合宿免許に通いたい」という急な申し込みを受け付けてくれたのが平泉ドライビングスクールと阿波自動車学校しかなく、岩手行きの新幹線は高額で、徳島行きの飛行機は格安だったというだけの理由だ。
 空港からバスと電車を乗り継いで約2時間。吉野川のほど近く、周辺を住宅と畑に囲まれ、遠くに讃岐山脈と四国山地を望む位置に、その自動車学校はあった。
 部屋はツインルームだったが、今は空いているらしく、柊羽一人で使うことができた。風呂トイレは共同。食事は三食無料でついてくるので安心だ。
 寝て、起きて、食べて、運転にまつわるあれこれを習い、食べて、寝る。
 考えてみると、演奏動画の投稿を始めたころから、ドラムを叩かない日は一日もなかった。スティックを握ることすらしないなんて久しぶりだ。
 柊羽は全てを忘れ、運転免許の取得に専念した。
 自動車を運転するのは楽しかった。自分でシフトレバーを動かし、ハンドルをさばき、アクセルの踏み具合によってスピードをコントロールする。このままどこにだって行けるような、世界を支配したような全能感があった。
 空いた時間は、学科の勉強に没頭した。いつもの生活に関わりのない知識を学ぶと、脳みその違う部分が刺激されて心地よい。体を動かしたくなったときは、レンタサイクルであてもなく周囲を走り回った。テレビでオリンピックの試合を眺めることもあった。
 授業が進んでいくと、教習所を出て公道を走る機会が増えた。ある日、信号待ちをしていると、どこからか太鼓の音が聞こえてきた。
 心が波打った。
 久しぶりに聞く『音楽』だからだろうか。その晩は寝付けなかった。
 柊羽は優秀な生徒だったらしく、最短日数で教習を終えることができた。卒業証明書を受け取り、今後の流れを説明される。すぐに運転免許証をくれるのかと思っていたが、そうではないらしい。住民票のある都道府県で、本試験を受ける必要があるとのことだ。
 すべてが終わると、学校の車で最寄り駅まで送ってくれた。
 柊羽はスマートフォンで飛行機の空き状況を調べた。今日も明日も格安チケットは空いている。このまま帰ったって良い。むしろ、帰る以外に何もない。が。
 ――蝉の声に紛れて、どこからか太鼓の音が聞こえる。
 柊羽はタクシー会社に電話した。
「しらさぎ台の郵便局まで行きたいんですけど」
 ちょっとした出来心だ。それでしかない。
「結構遠いですよ」
「分かってます。金はあるんで、お願いします」
 葵は、かなり多めに小遣いをくれていた。こういう使い方をするならいいだろう。
 ほどなくしてやってきたタクシーに乗り込む。窓の外には、川と田んぼと青空と民家が続く。実に、のどかな光景だ。家がある逗子とも、事務所がある横浜とも、仕事でよく通う東京とも、まったく違う。
 1時間ほど走ると、街並みに懐かしさを感じるようになってきた。
「着きましたよ」
「ありがとうございます」
 タクシーの運転手に礼を言い、支払いを済ませて、車を下りる。
「さて。どっちに行けばいいんだ? 郵便局の近くだったのは、間違いないんだけどな」
 目的地の正確な住所は覚えていない。ただ、周囲の風景には、たしかに見覚えがある。適当に歩き回れば見つかるだろう。
 ふんわりした見通しのまま歩き出した柊羽だったが、10分ほどで音を上げた。徳島の夏の陽射しと気温をナメていた。汗だくになり、近くにあったスーパーマーケットへ避難する。
「マジ、暑すぎ。熱中症で倒れそうだ……」
 しばらくクーラーに当たって身体を冷やしたあと、ポカリスエットを購入して一気飲みし、再び外へ出る。
 もうこうなったら、やけだ。旅の恥は搔き捨てだ。
「あの、すみません」
 近くを通りかかった男性に声をかける。
 彼はめんどうくさそうに足を止め、柊羽の顔を見て目を丸くした。
「おおっ、葵?! どないした、久しぶりやな!」
 自分はそんなに父親に似ているのだろうか。
 柊羽は困惑しつつ、頭を下げた。
「はじめまして。葵は俺の親父です。俺は、冷泉院柊羽といいます」
「あ?! 柊羽って、あのチビの坊主か!」
 彼は右手に提げていたスーパーの袋を左手に持ち替え、まじまじと柊羽を見た。
「大きいなったなぁ。俺は近所に住んどった赤松やけど、覚えとらんわな。
 いや、びっくりした。ほんまに葵そっくりやけど……そうか。こない若いわけないわなぁ」
 朗らかな笑い声を立てる相手には、残念ながらまるで見覚えがなかった。世間の狭さに驚くが、知人なら話は早い。
「じい……祖父の家に行きたいんです。冷泉院柳(れいぜいいん・りゅう)の家の場所を教えてもらえませんか?」
「おお、里帰りか。ええこっちゃな。この道を真っすぐ行って、三つ目の角を右に曲がり。ほの次の角を左手に曲がって、手前から5番目の家じゃ」
「ありがとうございます」
 柊羽は礼を言い、教わった通りに歩き出した。
 まもなくして、ダークグレーの屋根の平屋が見えてくる。約10年前、8歳の冬から11歳の冬まで住んでいた家だ。玄関のポーチも、生垣も、何も変わっていない。真っ白だった外壁が、少しくすんで見えるくらいか。
 玄関のチャイムを鳴らして、しばらく待つ。誰も出てこない。
「いないか」
 気まぐれで訪れたのだから、不在も致し方ないところだ。
 諦めて踵を返そうとした時、蝉の鳴き声の向こうに、何かが聞こえた気がした。振り返って耳を澄ませる。迷ったのは一瞬だ。柊羽は、生垣の隙間から庭へ入った。
 子どものころに木登りをして遊んだ梅の木も、友達を呼んでバーベキューをしたウッドデッキも懐かしい。たしかこの窓は洗面脱衣室、その隣が浴室だった。そんなことを考えながら庭を横切り、建物の角を曲がると、音が一層鮮明になった。
 太鼓だ。
 さらにもう一度角を曲がる。かつて主寝室だった部屋の掃き出し窓が大きく開けられ、小躍りしたくなるような軽快なリズムを外に放っている。徐々に高まって、心臓に響く音だ。
 柊羽は、そっと部屋の中を覗き込んだ。
 レースのカーテン越しに、一心不乱に締太鼓を叩く祖父が見えた。長めに伸ばした髪をふりみだし、鬼気迫る顔つきをしている。黙って座っていれば、それなりの色男だろう。少し白髪が増えた以外は、記憶の中にあるままの姿だった。
「じいちゃん、久しぶり」
 小さく呟いてみたところ、ぴたりと太鼓の音が止んだ。
 のそのそと人が移動する気配がして、網戸が開く。ふわりと風になびいたカーテンの間から、祖父がひょっこり顔を出す。
「お? おお……柊羽か! 大きいなったな!!」
 彼は笑顔で両腕を広げた。突然、庭から現れた孫に対して、戸惑う様子は一切ない。もうちょっと警戒心を抱いた方がいいのではないだろうか。
 柊羽は呆れつつ、改めて挨拶した。
「久しぶり、じいちゃん」
「どないした。遊びに来るんやったら連絡くらいせえよ」
「運転免許を取りたくて、徳島の自動車学校で合宿したから、寄っただけさ。すぐ帰るよ」
「ほんなこと言わんと。昼飯食うたんか?」
「いや、まだ……」
「ほらいかん。食べ盛りの若い者が。おーい、ひろこちゃーん」
 柳は後ろを振り返り、大声を出した。しばらくして部屋の奥の扉が開き、眼鏡をかけた初老の女性が顔を見せた。
「どないしたん、りゅうちゃん。って、あら? 男前がおるでえ」
「わしの孫じゃ。腹減っとうらしいけん。なんか作ったって」
「あらぁ~。りゅうちゃんの孫! 道理で似とんなぁ。ちょっと待っとってよ」
 ひろこと呼ばれた女性は、ひょいっと頭を引っ込めた。
「…誰?」
「隣町に住んどう、ひろこちゃんよ。平日の昼間、よう遊びに来てくれてなあ。掃除上手なんよ」
 まるで説明になっていない。
 しかし、祖父はけろりとした顔で、
「とりあえずお前、玄関から入ってきい。今、カギを開けに行くけん」
 反論しようがなかった。柊羽は黙って頷き、来た道を戻った。ポーチに入ると、ちょうど、柳が玄関のカギを開けたところだった。
「えーっと、お邪魔します」
「水臭いな。ほういう時は『ただいま!』『おかえり!』やろう」
「……じゃ、ただいま」
「おかえり!」
 上がり框に座って靴を脱ぐ。無駄に広い玄関には、先ほどの女性の物らしき薄紫のパンプスと、サンダルが二足だけ置いてあった。棚には、かつて父が受賞したトロフィーや賞状の数々が飾られている。
「あんまり変わってないな」
「はっは。佳奈ちゃんが使いよった部屋は物置、柊羽の部屋も物置、葵たちの部屋は太鼓の練習部屋になっとうぞ」
 冷泉院家が代々受け継いできた家と土地は、県内のもっと北の方にあった。葵が再婚するにあたって、古い家と土地は人に貸し、ここへ引っ越した。五人で暮らすために建てた家だ。老人の一人暮らしには広すぎるだろう。
 廊下を抜けてリビングダイニングに入った。カウンターキッチンのなかには先ほどの女性がいる。鍋が沸騰する音、包丁が何かを刻む音が小気味よい。
 柳に勧められるまま、懐かしいダイニングテーブルに座った。 
「柊羽、お前、なんぼになった」
「18歳。孫の年齢くらい覚えててくれよ」
 冷蔵庫からお茶をだしながら、柳は鼻を鳴らした。
「6年も顔を見せに来ん方が悪いわ。まあ、お前やのうて葵のせいじゃな。あの阿呆は一緒ちゃうんか?」
「親父は相変わらず仕事ばっかりだよ。今度、再婚するって」
「懲りんやつやなあ。どんな相手じゃ」
「よく知らねーよ。西川富美子さん、30歳。洗濯物を畳むのが上手い。そのくらいだ」
 祖父が投げかけてくる他愛ない質問に答えるのは、意外と苦痛ではなかった。しばらくして、木製のお盆を手にしたひろこが現れた。運ばれてきたのは冷やし中華だ。つややかな麺の上には、タレに漬けこんだ豚肉、瑞々しいトマト、キュウリ、キャベツが山のように盛られている。上に飾られた錦糸卵は、ふわふわだった。
「はいっ、いっぱい食べ食べ!」
「……ありがとうございます。いただきます」
 箸を手にする柊羽を、ひろこはしげしげ眺めている。
「口に合うかいな? 自家製のタレなんやけど」
「めっちゃ美味しいです」
「うふふ。嬉しいねぇ。若いイケメンに褒められるんは、気分がええわあ」
 ひろこは相好を崩した。柳はふくれっ面をする。
「なんじゃ。わしより柊羽の方がええんか」
「ほんなん言うとらんでしょ。ったく、やきもち焼きなんやけん!」
 彼女は柳の背中をバシッと叩き、再び柊羽を見る。
「やっぱり若い子はよう食べるなぁ。おかわり、用意しとこうか?」
「いえ、結構です。ありがとうございます」
「そ。ま、ゆっくりしていきよ。りゅうちゃん、寂しいに暮らしよるけんなぁ」
 ひろこはにっこり笑うと、洗面脱衣室の方へ歩いていった。洗濯物をパンッと広げる音が響いてくる。
「……良い人だな」
「おう。ひろこちゃんと会うたんは2年前、わしが骨折して、歩くんも難儀しよったころよ。たまたま道ですれ違うて、『いけますか』って声かけてくれてな。連絡先を交換したら、買い物に行くんを手伝うてくれるようになって。骨折が治ってからも一緒に散歩する友達になって、今では、家に通うて料理をしてくれるようになったんよ」
 意味が分からない。家事好きな女と仲良くなって、自宅に入り浸らせるのは、冷泉院家の血筋なのか。
 柊羽は頭痛をこらえ、話題を変えた。
「じいちゃんは最近何してんの」
「ん? 食って太鼓叩いて寝て、遊んで食って寝て、の繰り返しじゃ」
 柳は、からからと笑った。
「お前は元気にしよんか?」
「まあな。ぼちぼち」
「そのわりには、浮かん顔しとるやないか」
「……」
 柊羽は黙りこんだ。どう答えればいいか分からない。ひとまず、冷やし中華を食べきることに集中する。
 皿が空になったのを見届けて、柳は東側の部屋を指さした。かつての主寝室であり、ついさっき、彼が締太鼓を叩いていた部屋だ。
「叩いてみいだ」
「は? なんで」
「好きやったろう、太鼓」
「当分叩いてねーし」
「さっき、わしの演奏を聞きよったやいか」
「わかったよ」
 柊羽は席を立った。口では嫌がってみせたが、実のところ、わくわくしていた。締太鼓を触るのも久しぶりだ。
 かつては持て余していたバチも、今はちょうどよい長さで握れた。さっき柳が叩いていたのは単純なリズムの繰り返しだ。再現することなど造作もない。タンタカタカタン、タカタカタン……。
「つまらん太鼓を叩きよるなぁ」
 柳が呟いた。柊羽は手を止めて振り返った。
「どこが悪い?」
「悪いっちゅうか、魂がないわ」
「なんだよそれ。どういう意味だよ」
 思わず食ってかかると、柳はぽんぽんと腰を叩きながら、
「よし、ちょっと出かけるか。ひろこちゃん、ひろこちゃん」
「はーい?」
「集会所に行ってくるわ。カギは適当にしといてくれんか」
 言いながら箪笥の引き出しを開け、リュックサックのようなものを引っ張り出した。柊羽から締太鼓をひっぺがし、慣れた手つきで収納する。さらに棚の奥を探り、紫の布で包まれた細い棒を取り出すと、リュックの横ポケットに突き刺した。
「はいはーい。晩御飯はどないする?」
「おお、ほうか、ほうやな。せっかくやけん外食しようか。ほれ、柊羽、お前はこれを持て」
 柊羽に締太鼓を押し付けた柳は、携帯電話を取り出し、
「もしもし。今夜18時から、Aコースを2名で予約できるかな。うん。冷泉院柳だ。よろしゅう」
 早口でまくしたてる。
「いつもの店を予約できたぞ!」
「よかったですねぇ。ほな、行ってらっしゃい」
「おう。行くで、柊羽」
「どこに?」
「行けばわかる」
 完全に柳のペースだが、不愉快ではなかった。彼は昔から、勝手に予定を決めて柊羽を連れまわすのが好きだった。小さな子どものころに戻ったような気分である。言われるがままに荷物を抱え、じりじりとした陽射しに耐えて歩く。どうやら来た道を戻っているようだ。
 連れていかれたのは公民館らしき場所だった。中から賑やかなお囃子が聞こえる。柳はしたり顔で振り返った。
「お前、家の中でしか太鼓を叩いたことないでえな」
「ああ」
 子どものころは踊り手をしていた。本当は太鼓が叩きたかったが、柊羽よりも上手い友達が多かったので、諦めた。
 玄関を入ってすぐ右手に大きなホールがあった。子どもから大人まで大勢の人でにぎわっている。柳はすいすいと人波をかき分けて進み、一人の老婆に声をかけた。
「らんちゃん!」
 彼女は、ゆったりした動作で振り返った。
「なんした、柳ちゃん。今日は休むんちゃうかったん」
「そのつもりやったんじゃけど、ちょっとこいつに稽古をつけたってくれんか」
 柊羽の姿を見た老婆は、目を見開いた。
「あれっ。葵ちゃんかえ?!」
「いや、葵の息子の柊羽じゃ。孫よ。6年ぶりに遊びに来たんじゃ」
「おやまあ。よかったなあ、柳ちゃん」
「おおきに。ほなけどこいつ、たっすい太鼓を叩きよるんよ。根性ごと直したってくれ」
 見知らぬ老婆に柊羽を託した柳は、リュックから紫の布に包まれた棒を取り出し、そそくさと壁際へ向かった。近くにいる子どもやおばさんと喋りながら、壁に背中を預けて座り込み、布を解く。中から現れたのは篠笛だ。柊羽の困惑など知らぬ顔で、楽し気にお囃子を吹き始めている。
 ぼんやりしていても仕方がない。柊羽は老婆に向き直った。
「よろしくお願いします」
「はいはい。とりあえず、締太鼓をカバーから出して」
 老婆はにこにこしている。
「そこに首をかけて。バチはこう持って。ああ、結構様になっとるでえ。やっぱり葵ちゃんの息子やねえ」
「……親父も、締太鼓をやってたんですか」
「ええ、ええ。幼稚園のころからずーっと。12のころには、もう何も教えることがのうなってなぁ。大学で東京にいんでまうまで、うちのお囃子のスターやったわ」
 知らなかった。柊羽の知る限り、葵は阿波踊りを見る専門で、家族が踊る様子をどうやって上手くカメラに収めるかに血道を上げていた。
「こっちへもんてきたとき、また一緒にお囃子をやろうって誘うたんじゃけどなぁ。『俺はアメリカで悪魔と取引してきたんだ』って。ビジネスの才能を貰うた代わりに、魂を半分売ったけん、もう楽器はできんって、笑いよってねぇ。ああ、ごめんなぁ。年寄りは話が長いんよなぁ」
「……いえ」
 柊羽が気持ちを整理できずにいるうちに、老婆は、よいしょっと体勢を立て直した。
「実際、決まりやないんよ。やってってその場のノリで。とはいえパターン決めんと叩きづらいじゃろうけんな。鉦鼓(かね)の音をよう聴いて。これが軸やけん。大太鼓(おおど)も締太鼓も、これに合わして叩いてく。こんな風に」
 彼女は軽やかにバチを操り、弾むようなリズムを叩き出した。年齢に見合わない動きだ。柊羽はすかさず真似をしていた。そんなに難しいものではない。
「上手、上手。手首のスナップも利いとるわ。リードに合わして早めたり遅うしたり、テンポに気ぃ付けるんじょ。次は三味線や笛の音を聴いて、強弱をつける。絡んでいく。メロディを感じてみい。
 ああ、鉦鼓の音が強うなってきたな。一回通して叩いてみようかね」
 何が起きているのかわからないが、ひとまずリズムに合わせて叩く。お囃子の音が揃い、ホールの中央に人々が列をなして踊り始めた。
「ほれほれ、大太鼓が乗ってきた。完全に音が負けとうじょ。思いっきし叩き!」
 顔を上げてみれば、6張もの大太鼓が踊りながらバチを叩きつけまくっている。たった一つの締太鼓でどう対抗すればいいと言うのか。力任せに音を高める。果てしない時間が流れた。
「おつかれさま。がむしゃらにやんりょんも悪うないけど、あとは感じ方やな」
 一通りの演奏が終わり、床へ座り込む。老婆が水を差しだしてくれたので、ありがたく受け取った。それにしても腕が疲れた。二週間ほどサボっていたとはいえ、ライブやレコーディングで数時間ドラムを叩いていても平気なのだが。やはり毎日の鍛錬が重要だな、と心の中で呟いていると、
「大事なんは、踊り手さんが気持ちよう踊れるように歌うこと。楽しゅう浮かして、跳ねさせる。自分もそこに乗っていくんじゃ」
「浮かせる?」
「踊る阿呆に見る阿呆、うちらも同類、鳴らす阿呆よ。もっと周りを見て叩いてみい」
 再び鉦鼓の音が強まる。
 柊羽は立ち上がり、もう一度太鼓を叩きはじめた。

3.01 other’s note ―柳

「親父って、いつからドラムやってたの?」
 阿波踊りの練習が終わったあと、柳と柊羽は夕食のためにカフェ・ド・クイーンズベリーへ向かった。森林に囲まれた静かなカフェだ。西洋風の小洒落た建物で、丁寧な料理を出すところが柳のお気に入りだった。
 移動中、すっかり黙っていた柊羽は、椅子に座ってすぐ口を開いた。
「ふむ。どうやったかな」
 予想外の内容だったので、柳はすぐに返事ができなかった。
 柊羽は言葉を重ねた。
「ずっと気になってたんだ。普通―…まぁ親父は普通じゃないけど、物置からひょいっと『これで遊んでみるか?』って、電子ドラムを取り出してこないだろ」
 柳は目を閉じ、遠い記憶を辿った。
「うむ。まず、わしは子どものころからラジオが好きでな。ほなけん大人になって、ラジオ局に就職したんじゃが、家でもずっとラジオを聴きよった。あらゆるチャンネルを無差別に流しよったよ。
 葵は洋楽のチャンネルが気に入ったようで、ずっと聞いとった。小学校の友達にポール・マッカートニーがどうじゃ、ニルヴァーナがどうじゃと語っとったらしい。中学に入ったときにはもう英語がペラペラで、先生に『教えることがない』と言われたそうな。
 たまにわしと目が合うたら『新しい楽譜が欲しいけん小遣いくれ』『大阪へライブを観に行くけん小遣いくれ』ばかりやった」
「子どものころから金遣い荒かったんだな……」
「葵がドラムを始めたんは、中学生やったと思うわ。軽音部で遊びよって、高校では文化祭に出たりしたみたいやな。いつどこでやるんか教えてくれんけん、わしはよう見に行かんかった。電子ドラムを買うた時期も知らん。大学に入ったあと、自分でアルバイトして買うたんじゃろう。
 アメリカへ留学したんも、サーフィンと音楽のためやったらしい。『シアトルでプロドラマーになってくる』っちゅうて飛行機に乗ったんやと」
「マジかよ。壮大だな」
「現地の大学で最先端のIT? PC? を学んで、考えを変えたようやけどな。『日本の未来は俺が作る』らあ言うようになったんやと」
「ふーん、なるほどね。ところでさあ、なんで伝聞ばっかなの」
 柳はぎくりとした。
「いやまあその、なんちゅうか。わしは仕事人間でな。定年退職するまで仕事ばっかしで、ろくに葵と話もせんかったんよ。子育ては母さんとか、ご近所の皆さんに任せっきりでな」
「……そっか」
 柊羽は目を伏せた。
「お前は葵と話すんか?」
「いいや。顔を合わせることも滅多にないよ」
「はっはっは。似んでええところばっかり、似てまうもんやな」
 自嘲気味の笑いを漏らした時、ワインとサラダが運ばれてきた。
 乾杯して、前菜とスープを口へ運ぶ。
「学校は楽しいか」
「ぼちぼち。悪くはないよ」
「部活らあしよんか」
「あー。一応サッカー部だけど、幽霊部員」
「ほう、サッカー。わしも町内のフットサル大会に出とんじょ」
「マジかよ。元気だな」
 一体どんな会話をすればよいのかが分からない。当たり障りのない話題をふっているうちに、メインのステーキがやってきた。
「美味そうだな」
「ここのステーキは絶品よ。男たるもの、とにかく肉を食え。若いうちはなおさらじゃ」
「じいちゃんと親父は、本当にそっくりだな」
 柊羽は呆れた様子だったが、料理には満足したらしい。デザートもコーヒーも、ぺろりと平らげていた。
 蝉の声を聴きながら、薄暗い夜道を歩いて帰った。
「なあ。俺の母さんって、どんな人だった?」
「翼さんか。わしもあんまり話す機会はなかったけんど……お酒が好きじゃったのう」
「えっ? 知らなかった」
「湘南の家の地下にバーカウンターを作ったんは、翼さんの趣味なんやと。古今東西の日本酒やワインを揃えて、夜な夜な楽しみよったそうな。とうとうバーカウンターにお酒が仕舞い切れんなって、葵のサーフィン道具置き場まで浸食してしもうたと、笑っとったわ」
「ふーん。じいちゃんは、母さんと話したことを覚えているんだな」
「もちろん。そこまで耄碌しとらんわ。お前は、さすがに記憶がないか」
「ああ。これっぽっちも」
「……そらあ寂しいな」
「別に。ただ、どんな人だったんかなぁとは思う」
 家に辿り着くと、真っ暗だった。ひろこは自分の家に帰ったらしい。
「はて、柊羽の布団をどこに引こうか。お前の部屋は物置になっとうし……」
 柳の部屋以外で比較的片付いているのは、もっぱら太鼓練習部屋と化しているかつての主寝室だけだ。そう考えて扉を開けると、既に布団が用意されていた。
「さすが、ひろこちゃんは気が利くな。柊羽、ここでかまんか?」
「……ああ」
 彼は荷物を部屋に入れ、持ち出していた締太鼓を棚に戻そうとして、やめた。
「ちょっと叩いてもいい?」
「もちろん。お隣のかおりちゃんは一家で台湾へ旅行中やしな。まあ、先に風呂へ入れ」
「分かった」
 風呂から上がると、彼は早速締太鼓を叩き始めた。
「昼間より、ずっとようなったな」
「俺もそんな気がするよ。すぐ目の前で、俺の太鼓で、笑って踊ってくれる人がいるのは最高だった」
「ほうか」
 柳も風呂に入ったあと、調子に乗って彼の隣で叩いてみた。
 こういうのは悪くない。
 日付が変わるころに布団へ入った。久しぶりの夜更かしだった。
 明け方、蝉の鳴き声で目が覚めた。欠伸をしながら起きあがると、身体の節々が痛んだ。はて、何故かと考えて、昨日のすべてを思い出す。
「ちっと張り切りすぎたな」
 柳は苦笑した。盆や正月に孫が遊びに来てはしゃぐ友人たちをバカにしてきたが、自分も同じ穴の狢だったらしい。
 障子を開け、窓を開ける。むわっとした風が入ってくる。
 なんとなく庭へ降りると、人影があった。その佇まいに妙な既視感を覚え、柳は目をこすった。違う。あのときの彼女は、庭の中央の梅の木のそばに立っていた。引っ越すとき、前の家の庭から運んできたあの木は、西側の隅に植わっている。
 ジャージ姿の柊羽は今、東の塀沿いの桜を見上げていた。
「どうした。眠れなんだか」
 彼は柳を見て、再び桜の木を見上げて、首を振った。
「蝉が……」
「ん?」
「蝉の声が、昨日と違う」
 耳を澄ませたが、柳には蝉の声を聴き分ける力はなかった。ふむ、とも、ううむ、ともつかない唸り声を返しておく。
 柊羽は、ひとり言のように続けた。
「昨日の奴は、どっかへ飛んで行ったのかな。死んだのかな」
「さあなぁ。飛んで行ったとしても、遠くないうちに死ぬるじゃろう」
「……そっか。そうだな。蝉だもんな」
「ああ。どちらにせよ、きっと蝉は満足しとるわ。わしには分かる」
 柳は腕組みをし、桜の木を見上げた。
 枝から透ける真夏の青空には、雲一つ浮かんでいない。
「阿波の季節に鳴く蝉は、四夜のぞめきに、自分の命の限りを尽くす。
 そのために日々を生きとんよ」
 微かに首を傾げた柊羽が、こちらを見る。詩的な表現すぎただろうか。急に恥ずかしくなった柳は、わざとらしく咳払いした。
「わしみたいに徳島で生まれ育って、ずっとこの街で暮らしてきた人間は、阿波踊りのために生きとるようなもんじゃ。夏の4日間を楽しみに、残りの361日を過ごしとる。真面目に学校へ行ったり仕事をしたり、大しておもっしょいこともない毎日に、粛々と取り組んどんよ。
 ほなけん蝉の気持ちが分かる。7年間も地中で暮らして、数週間しか地上で生きられんやつらのことがな。わしらは、よう似とるけん」
 もう一度、咳ばらいを重ねた。
「けんど、これはこれで悪うない。それどころか、最高じゃ。自分の命を賭けるべき相手と、場所と、時が、しっかり分かっとんやけんなぁ」
 柊羽は納得したのか、していないのか。
「ふうん。そういうもんか」
 呟いた声は、霞がかかっている。
「少なくともわしはそう思うて、75年間生きてきた。
 ……柊羽。お前が命を懸けるんは、いつどこで、何のためじゃ?」
 急に祖父っぽいことを語りすぎたかもしれない。
 二人はしばらく黙り込んだ。強い太陽の光に紛れて降り注ぐ、シャンシャンという蝉の鳴き声を浴びる。
 遠くから自転車の音が近づいてきて、家の前で止まった。
「おはよー、柳ちゃん! 隣におるんは誰かいな?」
 生垣越しに声をかけてきたのは、恰幅の良い女性だ。
「さゆりちゃん、おはよう。覚えとらんか? わしの孫の柊羽じゃ。6年くらい前までここに住んどった」
「あらー! あないにこまかったんに、イケメンに育ったなぁ」
 親しみを見せるさゆりに対し、柊羽は不思議な顔をしていた。彼女は当然のように玄関のカギを開け、中へ入ってくる。さゆりはよく気のつく女だから、何も頼まなくても2人分の朝食を用意してくれるだろう。いつもより少し多めの量で。
「近所に住んどるさゆりちゃんじゃ。平日の朝、よう遊びに来てくれる。料理上手じゃ」
 柳の説明を聞いた柊羽は、ため息を吐いた。
「じゃあ俺、帰るよ」
「なんじゃ。朝食くらい食ってけ。さゆりが作る煮つけは美味いで」
「……まあ、それはそうするけど」
「ちゅうか、もう一週間くらい泊っていき。せめて阿波踊りまででも」
「ごめん。やらなきゃいけないことがあるんだ。徳島に来たこと自体、ちょっとした現実逃避でさ」
 柊羽は肩をすくめる。やけに清々しい表情だ。
 柳の中から、引き留めたい気持ちが薄れていった。
「ほうか。ま、お迎えが来てポックリ逝くまでは、いつでもここで待っとるで」 
 家の中に入ると、味噌汁の良い香りが漂っていた。洗面所で顔を洗い、自室で服を着替えてリビングへ戻る。すっかり朝食の用意ができていた。
「いっつもおおきにな、さゆりちゃん」
「ええんよぅ。今日は特別にはりきって、一品多うしてしもうたわ」
 食卓に現れた柊羽は、既に荷物をまとめていた。タクシー会社にも電話をしたという。気の早いことだ。
「ほない急いで帰って、どないするん?」
「明後日、ライブがあるんだ。来週末にはエリアファイナルもある。2週間もサボってるから、帰ったらすぐ練習しないと」
 柳がきょとんとしていると、
「あれ? 言ってなかったっけ? 俺、プロドラマーなの。今年の5月から『六度目のゼロ』ってバンドを組んでて、メジャーデビュー目指してライブバトルコンテストに出場してんだ。来週の15日にエリアファイナルがある。
 ここを勝ち抜いたら、10月のジャパンファイナルに進出できるんだ」
 まるで聞いていない話だ。
「なんなほれは。柊羽も葵も、もうちったあわしに情報を寄こせ」
「ごめん。今回のコンテストはネット中継するはずだから、暇だったら見てみてよ」
「ネット? インターネットか? わしゃ、スマホやパソコンのこたぁよう分からんぞ」
 柳があたふたしていると、キッチンから笑い声がした。
「あっはっは。柳ちゃんはスマホ持っとうけど、電話とメールしか使えんもんなぁ」
「笑い事ごとちゃうわ、さゆりちゃん。祖父のメンツに関わる事態じゃ」
「ほうやなぁ、はす向かいのれいこちゃんに相談してみたらええんちゃう?
 れいこちゃんのお孫さんも、東京でポコチャっていうネット配信をやんりょんじゃって。ほれを見るためにスマホ買うて、アプリの使い方をマスターしたって言いよったわよ」
「おお、ええことを聞いた! 15日までに、れいこちゃんにスマホを教わろう」
 盛り上がる柳とさゆりを尻目に、柊羽は味噌汁を啜っていた。
 ほうれん草のおひたしと卵焼き、にんじんとくるみのきんぴら、鶏皮の佃煮、アマダイの煮つけ、ふかした鳴門金時、納豆と白飯。いつもより豪華な朝食を、あっというまに食べ終えてしまう。
 みんなで皿洗いを終えたあと、さゆりは掃除機をかけ始めた。
 邪魔にならないようにリビングを出た二人は、そのまま玄関へと歩く。
「突然来て悪かったな。土産の一つも持ってきてないし。……あ、そうだ」
 柊羽は不意に立ち止まり、リュックをゴソゴソやって、小さな包みを引っ張り出した。透明な袋の表には『Rock'd meno Zero』とプリントされている。中には黄色とオレンジと黒色の石を繋いだブレスレットが入っていた。
「それはなんな」
「うちのバンドのグッズ。土産代わりに貰ってよ」
「どない見ても、若いもん向けのアクセサリーやないか」
「他にあげられるもんがねーんだよ。一応、俺の手作りの非売品だからな。記念に持っといてくれれば、いつかプレミアがつくはずさ」
「ふむ。ほんなもんか」
 身に着けようとは思わないが、せっかく孫が手渡してくれたものを突き返すのも忍びない。柳は袋を受け取り、ズボンのポケットにしまった。
 玄関のベンチに腰掛け、スニーカーの靴ひもを結び始めた柊羽が、ふと柳を見上げた。
「そういえば、俺の婆ちゃん……じいちゃんの奥さんってどんな人だったの?」
 ぐっと答えに詰まったが、正直に答えた。
「わからん」
「は?」
 目を丸くした柊羽から視線をそらす。柳は顎髭を撫でながら、過去に思いを馳せた。
「わしがまだ四国放送の社員としてバリバリ働きよった頃のことよ。半年間の東京出張からもんてきたら、家に1歳ぐらいの赤子がおった。
 母さん…お前のひいばあさんによれば、わしの不在中、愛子っちゅう女が突然やってきたらしい。『この子は葵という。柳さんの子どもやけど、もう自分には育てられん。あとはよろしく頼む』っちゅうて、赤子を置いて帰っていったと」
「なんだよそれ。昼ドラかよ」
「嘘のようなほんまの話よ。わしも驚いて、ほうぼうに連絡を取ったが、遂にその女を見つけられなんだ。まあ身から出た錆やな。
 なんにせよ子どもはもう家におるし、わしの母さんは『柳のこんまい頃にそっくりじゃ。もう孫は抱けんかと思いよったが、よかったよかった』と喜びよったけん、養子にしたんじゃ」
「軽いな……」
「たしかに少し不安やった。けんど年を追うごとに、顔も背丈も立ち居振る舞いもわしと似いて安心した。あいつが中学2年生のころ、近所の女子大生を家に連れ込んどんを見た時は、『間違いのうわしの息子じゃ』と確信したもんよ」
「……」
「ま、わしが初めて女を家に連れ込んだんは、小学6年生の春やったけどな。わっはっは」
「……」
「どないした、頭抱えて」
「じいちゃんや親父と同じ血が、俺の中にも流れているのかと思ったら、めまいがしてきた」
「はっは。安心せえ。冷泉院家の男子に生まれたからには、一生、女と金には困らんわ!」
「俺は、金だけでいーよ……」
 スニーカーの靴ひもを結び終えた柊羽は、首を振って立ち上がった。心底疲れた顔をしている。柳はげらげらと笑いながら、サンダルをつっかけて玄関を出た。
 夏の陽射しが世界を焼いている。
 庭先の梅の木が目に入って、ようやく笑いが引っ込んだ。
「ほうやな。たしかにお前は、わしらには似とらんな」
 傍らの孫の顔を、とくと眺める。
「きっと翼さんに似たんじゃろう。わしは、彼女の顔と名前くらいしか知らんがの」
 柳の視線を正面から受けた柊羽は、口をへの字に曲げたまま黙っていた。
 しばらくして目をそらし、
「……俺もそうだ。親父は何も喋らないから。養子っていうのも今知った。でも、ありがとう。その言葉を信じるよ」
 まもなくしてタクシーがやって来た。
 車に乗りこむ直前、柊羽は振り返った。
「じゃ、また」
「気いつけて帰りよ。家に着いたらメールか電話をよこせ」
「はいはい。じいちゃんも元気にしてろよ。女遊びは、ほどほどにな」
「おう。葵にも、たまには実家へ顔を出せと言うてくれ。結婚相手を連れて来い、入籍前にわしへ紹介しろ、今度こそ結婚式を挙げてくれ、も頼む」
「分かったよ。じいちゃんこそ、暇ならこっちへ遊びに来れば?」
「お? おお……考えたこともなかった。しかし用もないんに押しかけるんもなぁ」
「意外とメンタル弱いんだな。しゃーない、今度俺が招待するよ」
 柊羽は柔らかく笑うと、タクシーの後部座席に乗り込んだ。軽快なエンジン音が響き、車は道路を走り去って行く。あっという間のことだ。
 柳は、彼の乗った車が道路の先の角を曲がって、見えなくなるまで見送った。
「嵐のようやったな」
 呟きながら庭に戻ると、青々とした葉を茂らせた梅の木が目に入った。
 ――これ、梅ですか? 梅ですよね!
 遠い昔に聞いた、翼の声が蘇る。
 最初の結婚のとき、葵は一つも連絡を寄こさなかった。出産後の翼から突然電話が来て、はじめて入籍したことを知った。
 葵が翼を連れて徳島へ帰って来たのはたった一度だけ、柊羽が2歳になったばかりのゴールデンウィークのことだった。
 まだ葵も柊羽も寝ている明け方、なんとなく目覚めて庭へ降りると、翼が梅の木のそばに立っていた。青い実をたくさんつけた枝を、きらきらした目で眺めていた。
 ――おはよう。
 声をかけると、彼女はハッとして背筋を伸ばした。
 ――おはようございます! お義父さん、お早いですね。
 お義父さん。なんともこそばゆい響きだ。柳はにやけないようにしつつ、
 ――年寄りやけんな。よう眠れたかね?
 ――はい! あの、これ、梅ですか? 梅ですよね!
 ――ああ、ほうじゃ。珍しいかえ?
 ――木になっているところを初めて見ました! こうして見ると、一粒一粒がすごく大きいですね。
 ――もうすぐ青梅の収穫時期じゃ。というても、うちは特に何もせんけんどな。完熟して落ちた後、そこらの動物が食い散らかして終わりよ。
 柳が言うと、彼女は目を丸くした。
 ――そんな、もったいない。私、梅酒が大好きなんです。お義父さんはお嫌いですか?
 ――まあまあ好きやけど、作り方がよう分からん。
 ――今年はぜひ収穫して私に送ってください。上手く漬けられたら、お正月に持って来ます。おせちも作りたいですね。楽しみですね。
 残念ながら、柳が収穫した青梅を送ってまもなく、彼女は事故で亡くなってしまった。
 翼が漬けた梅酒を肴に新年を迎えてみたかった。その人となりや思い出を、孫に伝えてやれればよかった。
 それでも今朝、桜の木の下で蝉の声に耳を澄ませていた柊羽は、翼に似ていたと思う。
 柳はしばらく、ぼんやりと梅の木を見上げていた。
 車のエンジン音がする。気のせいかと思ったが、だんだん大きくなってきて、家の前で止まった。柊羽が忘れ物をして戻ってきたのだろうか? 柳は門へ足を運んだ。
 柊羽ではなかった。見慣れない白のセダンが軒先に停まっている。
 ばたん、と音がして扉が開いた。出てきたのはショートボブの女だ。一体誰だろう。胸の前で右手を握りしめ、左手を下腹部に添えて、やたら真剣な目をしている。
「お久しぶりです、柳さん。あの。さっき、葵くん、来てませんでしたか」
 切羽詰まった顔と声が、数年前の記憶を呼び覚ました。
 柳はポンと手を打った。
「おや、おや。理奈さんかえ。昨日から、珍しい人がよう来るなぁ」

3.02 other’s note ―理奈

 真面目に努力して、たまに遊んで、穏やかな日々を過ごすことが「幸せ」だと思っていた。彼に出会うまでは。
 ――隣のクラスの冷泉院くんって、カッコええよな。
 高校へ入学して一ヶ月経ったころ、クラス中の女子がそんな噂をしていた。どうして女子高生というのは恋の話が好きなのだろう。理奈は不思議だった。
 当時、理奈には3歳年上の彼氏がいた。家が近所の幼馴染で、昔から仲が良く、告白されたから付き合った。恋人同士がするようなことは一通りしていて、特に深い感慨もなかったが、一緒にいるのは楽しかった。彼と過ごす平和な毎日は、わりと好きだった。それなのに。
 ――鈴木さんのノート、綺麗やな。重要なポイントがすぐ分かるようにまとめられとる。
 選択科目の化学は、隣のクラスとの合同授業だった。ゴールデンウィーク明けの席替えで隣の席になった冷泉院葵は、勝手に理奈のノートを覗き込んで、勝手に褒めてきた。
 掠れ気味の低い声。長く伸ばした前髪の奥から覗く、明るい茶色の目。座っていても分かるすらっとした姿。飼い主の靴を自分の小屋の奥に隠した子犬のように、いたずらっぽい笑顔を浮かべている。
 言語化できない衝撃を受けながら、理奈は努めて平然と答えた。
 ――ありがとう。ちょっと工夫しとるだけよ。
 ――頭がええんやね。俺も見習いたいわ。
 理奈は化学が苦手だった。授業の後は自習室にこもって参考書を読みなおし、時間をかけてノートを清書していた。密かな努力に気づいて貰えたようで嬉しかった。
 それから化学の授業のたびに、二言三言、会話をした。部活について。好きな食べ物について。話題の映画について。学校行事について。中間テストの結果について。どれも大した内容ではなかった。だが彼の言葉は、いつも理奈の心に新鮮な風を運んでくれた。
 再び席替えがあって、彼は最前列の左端、理奈は最後列の右端と大きく離れた。遥かな後方から改めて見る彼の姿には、カラフルな花が舞っていた。
 世界はこんなにも美しかったのだと知った。
 それっきり会話する機会は訪れなかったが、理奈は毎日彼のことを考えるようになった。学校中の女子で結成されたファンクラブに入って、彼の一挙手一投足を追いかけた。
 クラスマッチのサッカーの試合での華麗なプレー。所属するバスケ部の試合でのスリーポイントシュート。最初の中間テストから最後の期末テストまで、ずっと学年で一番の成績だったこと。何もかも昨日のことのように思い出せる。
 特に鮮やかな思い出は、高2の文化祭だ。彼は友人たちとバンドを組み、ドラマーとしてステージに立った。演奏したのは流行のポップスと甘ったるい洋楽。毎日音楽室に通い、リハーサル風景を見つめた。そして本番、たしかに理奈は、ステージ上の葵と目が合った。演奏が一番盛り上がるところで、彼はウインクしてくれた。あまりのことに呼吸困難を起こしかけた。
 高校生活の3年間は、葵を追いかけていた記憶しかない。彼氏とは自然消滅した。
 卒業式の日、他の女子と一緒に彼の制服のボタンを貰いに行くと、じゃんけん大会が開催されていた。残念ながら第二回戦で負けてしまい、ボタンは貰えなかったけれど、代わりに握手をしてもらった。
 ――1年の時、化学の授業で隣の席やった、鈴木理奈ちゃんよな。来てくれてありがとう。ボタンあげられんくてごめんな。シャツの袖まで合わせても、14個しかなかってさ。
 ――わ、私の方こそありがとう。葵くんに会えてよかった…。
 葵の手は大きくて、理奈の手をすっぽり包み込んだ。ざらっとした感触は自分の肌とまるで違って、どぎまぎした。目を合わせて会話が出来て、仲良くしていた時期を覚えていてくれて、もう一度名前を呼んでもらえて、感無量だった。
「あの時の葵くん、ほんまに格好良かったなぁ」
 通勤途中の車内で、理奈はひとりごちた。
 少し曇ったルームミラーには、つまらないスーツを着た中年女性が映っている。今年の誕生日で44歳を迎えた。まだ老け込む年ではないが、若さもすっかりなくなった。
 どうせ今日も、いつもと同じ仕事をして、同じ時間に休憩して、終業後に阿波踊りの練習をして終わるだけの一日だ。退屈で息が詰まる。
 明日、佳奈が帰省してくれば、少しは変化があるだろうか。いや、大したことはないだろう。そんな現実のことを考えるより、思い出に浸っている方が、気分がよかった。
 この交差点をまっすぐ行けば、かつて彼とともに通った高校がある。右に曲がり、約30分車を走らせれば、かつて彼とともに住んでいた家がある。そういう事実にかこつけて回想をするだけで、理奈の心は十分に潤う。
 だから、その車に注目したのは偶然だった。
 理奈が信号を待つ道路と交差する、国道11号線は軽く渋滞していた。のろのろと進んでいく車の列の途中で、黒いタクシーが目の前に止まった。その後部座席に座る男性の横顔を見た瞬間、釘付けになった。
 切れ長の目と尖った顎。まさに今、思い返していた葵そっくりだった。
「え……? そんな、あほな」
 彼の顔を見ていられたのは、ほんの数十秒のことだった。車の列が動き出すと、タクシーは国道の先へ消えていった。
 見間違いかもしれない。いや、見間違いでなかったとしても、何の意味もない。しかし理奈は、居てもたってもいられなかった。
 慌てて車のウインカーを消すが、既に車は右折専用路に入っていることに気づく。諦めてアクセルを踏み、いったん国道へ入ったのち、細い路地を使って反対車線へ戻った。
 先ほどのタクシーを探して数分走るが、見つけられない。
「……そうよな。ほんな探偵映画みたいなこと、ないわな」
 諦めて呟いたが、気持ちは収まらなかった。
 左手首にはめた時計を見る。今日は早めに家を出たから、始業時間までには余裕があった。多少遅刻しても、仕事は十分終わらせられる。だが、念のため、上司に電話をしておこう。
「おはようございます。申し訳ありません。体調不良のため午前休をいただきます」
『大丈夫か? 無理をすなよ』
「ありがとうございます」
 理奈は再び反対車線へ移った。徳島城跡を右手に見ながら、国道438号へと向かう。いったい自分は何がしたいのだろう。自問自答したが答えは出ない。ただ、彼の顔を見た瞬間、体温が急上昇していた。血が騒いでいた。何もせずにはいられなかった。
 ――最後に葵と会ったのは6年前のことだ。
 自分の会社を取り返し、意気揚々と関東へ帰ったはずの彼が、また徳島へ戻ってきたのだろうか。また何かトラブルがあったのだろうか。数年ぶりのときめきを胸に、理奈は冷泉院柳の家まで車を走らせた。
「お久しぶりです、柳さん。あの。さっき、葵くん、来てませんでしたか」
 記憶にあるより髪も髭も白くなっている柳だが、門の前に立つ姿からは老いを感じなかった。むしろかつてより若々しく、生気に溢れているとさえ感じる。
「おや、おや。理奈さんかえ。昨日から、珍しい人がよう来るなぁ。しかし葵は来とらんじょ。さっきまで家に遊びに来とったんは、柊羽だけじゃ」
 彼の答えに、理奈は拍子抜けした。
「柊羽、くん? あの小さかった子が?」
 呟いて、心の中で彼の年齢を数える。答えが出る前に、
「18歳になったけん、合宿で免許を取りに来たんじゃと。ついでに家へ寄ったと言いよった」
「……まあ。そうやったんですか」
 理奈は息を吐いた。ほっとしたような、がっかりしたような、不思議な気持ちだった。
「理奈さんはなんしにここへ?」
「あ、ええと。通勤途中の交差点で信号待ちをしよったら、タクシーとすれ違うて。乗っとった人が葵くんにそっくりやったんで、つい。
 ……すみません。突然来てしもうて、失礼しました」
 我ながら言い訳がましい笑顔を浮かべる。柳が何も言わないでいてくれるのは、喜べばいいのか、恐れればいいのか。
 理奈は、その場の空気を取り繕おうとした。
「柳さんがお元気そうで何よりです。今年も平和連で出場されるんですか」
「当然よ。理奈さんは?」
「私も会社の人らと一緒に出ます」
「ほうか、ええこっちゃな。柊羽が18歳っちゅうことは、佳奈ちゃんは20歳か。大学生になっとんかな?」
「はい。一年浪人したあと、東京の大学に通いよります。明日帰ってくる予定です」
「ふうん。子どもが大きゅうなるんは早いなぁ」
「……ええ。柊羽くんもほんまに、葵くんそっくりに育ちましたね」
 かつて一緒に暮らしていたころの柊羽を思い出す。黒い髪はいつもボサボサで、顔の輪郭は丸かった。不細工ではないが、葵のようなカッコよさはなく、どちらかと言えば可愛い顔立ちをしていた。身体の発育が遅く、佳奈より一回り背が低かった。
 恥ずかしがり屋で、人前に出たり、注目されたりするのが大嫌いな子だった。常に佳奈の陰に隠れて、一歩後ろから付いてくるようなタイプだった。
 理奈が当時の思い出に浸っていると、柳は笑った。
「はっは、本人は嫌がっとったよ。今は、ロックバンドのドラマーをしとるようじゃ」
「え? バンド?」
 聞き返すと、柳は頷いた。続けてポンと手を打ち鳴らし、
「ほうじゃ。たしか佳奈ちゃんは、阿波踊りの時期が誕生日やったな」
 柳はポケットから小さな包みを引っ張り出した。
「さっき柊羽に貰うたんじゃが、どう見ても若者向けのアクセサリーやけんな。佳奈ちゃんに、誕生日プレゼントとして渡してもらえんか」
 理奈は目をぱちくりしながら包みを受け取った。中身はブレスレットのようだ。袋の外側には『Rock'd meno Zero』と書かれている。
「柊羽がやっとるロックバンドのグッズじゃ。あいつの手作りで、非売品やけん、いつかプレミアがつくこと間違いなしらしいわ」
「そ、そうですか。ありがとうございます。きっと喜びます。今度、御礼の品を持ってきますね」
「はっはっは、ほんなんいらんよ。お互い、来週の阿波踊りを楽しもうだ」
 柳は手を振った。そろそろ帰れということかもしれない。理奈は居住まいを正した。
「……ええ、そうですね。本当に、急に来てしまって申し訳ありませんでした。失礼します」
「ああ。達者でな」
 礼をして、車に戻る。バックミラーに映った柳は、長いあいだ見送ってくれていた。葵の父親として、あれほどぴったりくる人もいない。
 さあ、お遊びは終わりだ。早く戻って出勤しなければ。理奈は来た道を引き返し始めた。平日の朝、通勤ラッシュも終わった時間帯とあって、国道は空いている。理奈は再び、回想に沈み込んでいく。
 高校を卒業し、地元の大学に進学してからも、葵と握手した時の感触は消えなかった。
 ――葵くん、元気にしとんかなぁ。
 彼は東京の大学へ行ってしまった。風の噂によると、来年にはアメリカへ留学するらしい。当然だ。あれほど賢くて、才能豊かで、格好良い人が、こんな田舎で燻っていていいはずがない。彼は遠くへ羽ばたいていってしかるべきだ。
 分かっているのだが、理奈の心には穴が開いたようだった。時々、東の空を眺めては、遥か彼方で活躍しているだろう葵の姿を思い浮かべた。そうすると少しだけ元気になれた。
 ――お前が、他の男に惚れとるのは知っとる。でも、そいつより俺の方が、お前を好きじゃ。
 3年生の夏、大学のゼミの先輩に告白された。
 ――いつか必ずお前を振り向かせてみせる。お試しでもええ。俺と付き合うてくれ。
 ごく普通の人だった。清潔感のある服装をしているけれど、なんだかダサい。顔立ちは微妙だけど、髪型で雰囲気を誤魔化している。特別頭がいいわけではないが、バカでもない。趣味はゲームと漫画だけれど、オタクというほどではなく、流行り物をそれなりに楽しんでいる。
 つまり彼は、理奈のような人だった。何一つ、これっぽっちも心惹かれるところはなかった。まあ仕方ないな、と思った。自分にはこのくらいの相手がお似合いだろう。
 二つ返事で交際を承諾すると、彼はとても喜んでいた。
 彼との交際は、『お付き合いの作法』という教科書でも読んでいるかのようだった。お茶をして、ご飯を食べて、3回目のデートで手を繋いで、映画を見て、遊園地に行って、キスをした。まあ、こんなもんだろうと思った。
 卒業した彼は地元の銀行に就職し、ごくごく普通に働きだした。理奈は地方公務員試験を受けることにした。やりたいことも、やるべきこともなかったからだ。安定した生活が送れればそれでいいと思った。
 試験勉強は退屈で、なかなか神経をすり減らされた。辛くなった時は東の空を眺め、葵はどこに就職するのだろうかと考えた。きっと東京の一流企業に違いない。いや、彼のことだから、アメリカの会社で働くかもしれない。そんな空想をすると少しだけ元気になれた。
 無事に試験を突破し、公務員として働きだした。毎日同じ時間に起きて、同じ場所に行って、同じ仕事をする。当時の上司はセクハラ発言が多くて嫌な奴だったけど、たまに同期で集まって、その愚痴を言い合う時間は楽しいと言えなくもなかった。
 真面目に努力して、たまに遊んで、穏やかな日々を過ごすことが幸せなのだろう。
 ――必ず理奈を幸せにする。僕と結婚してください。
 就職して数年後、彼氏は県内で一番のレストランを予約してくれて、控えめながらも給料三ヶ月分のダイヤが輝く指輪をくれた。きっと彼は程よい相手だ。理奈は静かに頷いた。
 地元の小さなチャペルでウエディングドレスを着て、バージンロードを歩いて、神様に愛を誓った。誓ったからには遂げねばなるまい。『良い家庭の築き方』という教科書を読むように料理をして、掃除洗濯をして、子どもを産んだ。
 妊娠も出産も、めったやたらに重労働で、なんで自分はこんなことをしているのだろうと思うことが多かった。嫌になったときは東の空を仰いで、葵も結婚しただろうかと考えた。きっと相手はハリウッド女優のような美人か、東大卒の女医のような才女だ。結婚指輪には1000万円は下らない大粒のダイヤがついていて、ハワイのチャペルで盛大な式を挙げて、数週間のハネムーンを満喫するに違いない。そんな空想をすると少しだけ元気になれた。
 子育ては、さらに苦役の連続だった。なんでこんなに不細工でふにゃふにゃで意味不明な生き物を育てなければならないのかと思った。全てを投げ出したくなったときは、東の空を仰いで、葵の子どもはどんな感じだろうかと考えた。きっと葵に生き写しの男の子だ。そうであってほしい。奥さんはさぞ幸せだろう。家に、葵が二人もいるのだ。
 育休が終わり、職場に復帰した。保育園と家と職場の往復。遊べないし穏やかでもないし、ただ真面目に努力するだけの日々。これが幸せなのだろうか。自問自答していたころ、年末のテレビ番組で葵の姿を見た。
 ちょうど、夫が子どもをお風呂に入れている時間で、理奈は一人、自由だった。ぼうっと見ていたテレビに『冷泉院葵』の文字が表示された瞬間、椅子から転げ落ちた。
 慌てて走り寄り、情報を吸収する。なんと彼は独立起業して、日本初のソーシャルネットワーキングサービスなるものを運営しているという。それは全国の若者に人気を博して、流行語大賞の受賞こそ逃したものの、トップ10入りを果たしたのだという。
 授賞式に参列する葵が映し出される。学生時代と変わらない、自信に満ちた笑みを浮かべている。高そうなスーツを着て、よく手入れされた革靴を履いている。最高に似合っていた。端的に言えば、格好良かった。
 流石、葵だ。理奈の想像の遥か上をいっている。そうでいてくれなくては困る。知らないうちに、涙が頬を伝っていた。
 次の日、理奈はパソコンを購入し、彼の会社が運営するサービスを使い始めた。それからは、暇さえあればネットサーフィンをして、葵にまつわる情報をかき集めるようになった。
 気づけば一日の大半を、窓の外を眺めて過ごすようになっていた。
 ――離婚してくれ。
 数年後、押印済みの書類を理奈の前に置いた夫は、泣いていた。
 ――ごめん。好きな人ができた。彼女は真っすぐ僕を見て、愛してくれとるんだ。
 まあ仕方ないな、と思った。
 離婚原因は夫の浮気ということで、少なくない額の慰謝料を貰えた。彼は月々の養育費も欠かさず送ってくれた。子どもは小学生になり、自分のことは自分でできるようになった。穏やかな日々が訪れた。
 インターネットというものは素晴らしく、理奈に葵の情報を届けまくってくれた。大学生時代に、有名なミスターコンテストへ出場してグランプリをとったこと。留学中に、かのスティーブ・ジョブズと未来のIT社会について議論をしたという噂。卒業後に入社した外資系企業の社内コンペで入賞しまくった武勇伝。脱サラして気心知れた仲間たちと起業した経緯。
 結婚して子どもを持ったこと、奥さんは事故で亡くなったこと、住んでいる家の大体の位置、趣味のサーフィンの腕前や、ニルヴァーナを好んで聴くことも。
 彼の会社が悪徳投資家の毒牙にかかったというニュースを知った時は、やきもきした。仕事も家事も手につかないくらいだった。
 その年の冬、徳島駅の人波のなかに彼の後ろ姿を認めた時は、幻かと思った。理奈は何度も目をこすり、頬をつねった。しかし肩幅も背丈も髪型も、着ている服の色や形も、完全に葵だった。見間違えるわけがない。毎日、彼の写真や動画を見ているのだ。それに、醸し出す雰囲気が16年前と何も変わっていない。理奈は駆けだした。
 ――葵くん。葵くんよね?
 理奈の声に反応して振り返った葵は、目をぱちくりさせた。その表情も昔のままだった。
 ――私、同じ高校やった鈴木理奈。違うクラスやったけん、覚えとらんかもしれんけど。
 ――ああ。卒業式の後、ボタンを貰いに来てくれたっけ。久しぶりだね!
 理奈は感激した。けして理奈が特別なのではなく、単に葵は賢くて、記憶力が優れているだけだ。実際、彼は理奈以外にもボタンを貰いに来た女の子ほぼ全員の顔と名前を記憶していたのだけれど、そんなことはどうでもよかった。彼の中に自分が残っていて嬉しかった。
 ――葵くん、東京で起業しとるんよね。なんでこんなところに?
 ――ちょっと色々あってさ。しばらく関東を離れて、実家に戻ることにしたんだ。鈴木さんは、今は何をしているの?
 ――私は公務員よ。徳島県庁で働いとる。
 彼は、さらに目を丸くして、
 ――へえ。俺もこれから徳島県庁に行くところなんだ。来春からスタートする起業家支援プロジェクトのアドバイザーに就任するんだよ。
 がーんと、頭を殴られたような気がした。そのプロジェクトの存在は知っていたが、葵に結び付くとは考えもしなかった。衝撃がおさまると、今度は胸がどきどきと高鳴った。葵くんが県庁に? 部署が違うとはいえ、私と同じ職場に来る? これからしばらく、ずっと?
 口から心臓が飛び出しそうになるのを抑え、平静を装う。
 ――それは素敵ね! 私、これから職場に戻るところなん。一緒にタクシー乗らん?
 ――ああ、ありがとう。こんなところで知り合いに会えるなんて、ラッキーだな。
 葵が笑った。どこか力の抜けた、それゆえに穏やかな笑顔。冬の曇り空が晴れ渡り、暖かな太陽の光が降り注ぐのを感じた。俳優のような美しい作法で車に乗り込む葵を、理奈はほれぼれと眺めた。
 車内では、簡単に互いの近況報告をした。彼は、自分の会社が悪徳投資家に乗っ取られたことをあけすけに語った。
 ――俺は諦めていないよ。腹心の部下も向こうに残っている。しばらくは地元に貢献しつつ、折を見て会社を取り返すつもりだ。
 光に満ちたスター街道を飄々と歩む葵に憧れてきたが、挫折してなお前を向こうとする泥臭い姿も素敵だった。理奈は相槌を打ちながら、恍惚として彼の話を聞いていた。
 ――ただ、柊羽には悪いことをしてしまった。転校先に上手く馴染んでくれればいいが。
 ぽつりと彼が漏らす。
 ――息子さん? どこの小学校に転入するん?
 葵が口にした小学校の名前を聞いて、これは神様がくれた奇跡だ、と確信した。
 ――まあ! うちの娘が通いよる学校と同じやわ。
 ――ええっ。本当に。凄い偶然だな。
 子どもを産んでおいてよかった、と初めて思った。
 ――学校のこと、色々教えてあげる。手伝えることもあると思う。連絡先を交換せん?
 ――それはありがたい。助かるよ。
 タクシーが県庁に到着し、ロビーで葵と別れた後も、理奈の足取りはふわふわしっぱなしだった。全身に血が巡る感覚。16年ぶり、いや当時よりずっと熱い何かがあった。
 互いの子どもを連れて、ファミレスで何度か食事をした。学校の先生のことを伝えたり、柊羽の家庭科の課題を助けたり、遠足の準備を手伝ったりした。子どもたちはいつの間にか仲良くなり、友達として2人だけで遊ぶようにもなっていた。
 子どもたちが1泊2日の林間学校に出かけた夜、葵から食事に誘われた。
 ――いつもありがとう、理奈。本当に助かっているよ。御礼がしたいんだけど、欲しいものはある?
 葵は車を走らせて、橋を渡った向こうの島にあるリゾートホテルのレストランへ連れて行ってくれた。夢のようなディナーだった。
 ――靴でも服でもバッグでも、何でもプレゼントするよ。昔、ボタンをあげられなかったお詫びにもなるといいな。
 彼は茶目っ気を見せて、ウインクをした。あまりにも素敵で、理性が吹っ飛んでしまった。理奈は背伸びして、彼の頬を両手で包み、キスをした。
 ――物より思い出が欲しいわ。
 唇を重ね合わせるだけのことが、これほどに快いとは知らなかった。思わずうっとりして、彼の腕の中に飛び込んだら、そっと抱き返された。背筋がぞわぞわした。得体のしれない感情が全身を満たした。葵から返してもらったキスは、初めての濃厚な味がした。
 生きてきてよかった。女に生まれてよかった。全ての意義は今日にあったのだ、と思った。夢のような夜だった。
「ああ、もう着いちゃった」
 徳島県庁の駐車場に車を停めて、理奈は息を吐いた。時計を見ると、まだ12時にもなっていない。せっかく午前休を取ったのだから、もう少しゆっくりして行こう。
 ふと思いつき、スマートフォンを取り出して『Rock'd meno Zero』というキーワードを検索した。すぐにホームページが見つかり、リンクをタップすると、画面いっぱいにメインビジュアルが広がった。男性が3人と女性が2人、5人の人物が一列に並んで立っている写真だ。
 理奈は息を飲んだ。
 葵だ。葵がいる。
 もちろんそれは葵ではなく、柊羽だ。しかし彼の顔形も立ち姿も、理奈の記憶にある18歳の時の葵と瓜二つだった。暗めのゴールドに染めたアップバングショートヘアという髪型だけは葵と違うが、よく似合っている。素晴らしい。訳もなく涙が溢れてきた。理奈は慌てて目をこすった。
 幸せとは、美しいものの美しさを知り、愛でることだ。
 心の底からそう思った。

3.03 柊羽 note.3

 徳島阿波おどり空港へ向かうタクシーの中で、柊羽は、約2週間ぶりにスマートフォンを開いた。LINEの通知が大量に点灯している。トークの一覧を見ると、学校の友人や音楽仲間の名前がずらりと並んでいた。
「……めんどくせーな」
 つい文句が零れたが、悪いのは自分だ。
 古いメッセージから確認することにして、一気に画面を下へスクロールする。最も古いメッセージは圭也だった。夏休みの宿題に関する素朴な疑問だ。適当に返事をして、次へ進む。
 しばらくすると、絵梨沙と満の名前が続けて現れた。
 まずは絵梨沙のメッセージを開く。10日前に鬼の顔のスタンプが一つ。6日前には一枚の写真。ステージ衣装を着た絵梨沙と、ショートヘアの美少女とのツーショットだ。続けて「えっへん」ポーズをした猫のスタンプ。
「何が言いたいのか分かんねーよ、オバサン」
 柊羽は苦笑し、「?」の1文字だけを返した。
 続けて、満からのメッセージを開く。
『ごめんね。私、学校でいじめられてたころ、容姿をすごくけなされて自信が無くて。できるだけ地味に目立たないように、しか考えられなくて。だけど、芸能人を目指してるんだもんね。変わらなきゃダメだよね。一念発起して、絵梨沙さんにトータルプロデュースしてもらうことにしたよ。絵梨沙さん行きつけの美容院に連れてってもらって、メイクの仕方を教わって、服の着こなしも変えてみたの。でもまさか絵梨沙さんが、撮った写真を柊羽くんに送るなんて思わなくて。「この変身っぷりを見れば、あいつもすぐ帰ってくるに違いない」なんて言うんだけど、恥ずかしくって死にそう。どうか消してください。ダウンロードなんて絶対しちゃダメだよ。お願い。ギターソロも毎日練習してるよ。私は柊羽くんのドラム好きだよ。早くまたセッションしたいな。メッセージ長くなっちゃってごめんね。じゃあまたね』
 絵文字どころか改行の一つもない。
「マジで長ぇし、ウゼぇよ……」
 ため息をついたが、『絵梨沙が写真を送った』という文章が心に引っかかる。絵梨沙からのメッセージを開き直し、ツーショット写真を確認する。
 まさかこれが、陰気で根暗な満、ワカメのお化けだった彼女の姿だとは。
 いや、たしかに面影はある。細い顎や透き通るほど白い肌は元のままだ。髪が短くなったので、顔がよく見えるようになった。斜視の左目は黒い眼帯で隠している。ちょっとコスプレっぽいというか、アニメの登場人物のような空気が出てしまっているものの、お洒落アイテムとして十分機能していた。これで本人のコンプレックスが克服されるなら安いものだ。
 露わにしている右目は、たしか一重だったはずだが、なんらかの手段で二重にしたようだ。さらにマスカラを塗ってまつげを伸ばして、淡い水色のアイシャドウで縁取っている。唇にはピンクのリップ、頬には丸くチークを入れて、とにかく可愛く仕上がっていた。メイクというものはおそろしい。
 服も、よく見ればいつものステージ衣装だ。シャツを第二ボタンまで開けて、大胆に鎖骨をさらしている。ぐっと短くしたスカートから伸びる足は細くて形が良い。着こなしでこんなに印象が変わるのか。素晴らしい。
 柊羽は即座に画像をダウンロードした。
 絵梨沙への「?」というメッセージの送信を取り消し、代わりに「イイね」のスタンプを3つ続けて送っておく。
「良い仕事してんじゃねーか、オバサン」
 満には「分かった」と頷く犬のスタンプを送っておいた。
 それからしばらく、友人からの他愛ないメッセージへの返信に追われた。全てをチェックし終えるより、タクシーが空港に到着する方が早かった。
 チェックインを済ませ、手荷物検査を通り抜ける。待合室の椅子に腰を落ち着けて、最後の一人、貴裕のメッセージ画面を開く。
「げ。何これ」
 思わず声が漏れる。怒涛のような着信履歴だ。彼は柊羽が練習を早上がりした日から毎日、朝昼晩と電話をよこしていたのだ。
「マジかよ。怖ぇよ、オッサン」
 柊羽は、ぽりぽりと頬をかきながら、発信ボタンをタップした。
 10秒ほど呼び出し音を楽しんだところで、
『柊羽! 柊羽じゃないか。やっとつながった!』
 慌てた声の貴裕だ。
「久しぶり。ずっと連絡しなくてごめん」
『まったくだよ。逗子の家まで行ったのに、親御さんから旅行中だと言われるし。お前、今、どこにいるんだ?』
「徳島の空港で、東京行きの飛行機を待ってるところさ」
 貴裕は大きく息を吐いた。
『そうか。まぁ、元気ならいい。本題だ。バンドの脱退を考え直してくれ』
 俺は一度も、辞めるなんて言ってねーよ。心の中で呟いたが、それを声に出す前に、貴裕が言葉を継ぐ方が早かった。
『俺のリーダーシップに問題があった。申し訳ない。絵梨沙の歌、満の挙動、彰将の脱退。何もかも俺の仕事が甘かった結果だ。本当に反省している』
「……結局、彰将は引き留められなかったんだ」
『ああ。タテノ・エンターテインメント自体を辞めたよ』
 柊羽は鼻を鳴らした。
「じゃあ、ロクゼロのベースはどうすんの?」
 満の作る楽曲はメロディアスで、ベースラインが非常に重要だ。
『俺が代わりになる』
「え? 本気で言ってる?」
『当然だ。Break Pointの運営事務局にも電話して確認した。「事前に出場登録したメンバー以外の出場は認めない。ただし急病等のやむを得ない事情があれば、登録メンバーの休場・脱退は可とする」。つまり彰将の脱退を理由に、俺たちがコンテストから下ろされることはない。
 さらに「バンドの実態に関わらず、出場登録メンバーは全員バンドの構成員として扱われる」。事務局にとっては、俺がサポートメンバーだろうが正式なメンバーだろうが、そもそも関係ないってことだ』
「つまり?」
『俺が正メンバーとして加入して、がっつりプレイヤーとして、ベースラインも弾く』
 とんでもない話だ。
「お前の腕は信頼してるけど、キーボード一本じゃ限界があるだろ」
『RolandのJUNOの最新モデルと、2段のスタンドを買った。キーボードとシンセサイザーの2台を同時に弾く。楽曲もアレンジしなおしているところだ』
「大丈夫か。そんな弾き方したことないよな。元々クラシックピアニストなんだから」
『なんとかする。意外としっくりくるっていうか、楽しいしな』
「練習時間、ちゃんと取れんのかよ」
『ああ。他のアーティストのプロデュースを全部下りた。営業も事務もだ。俺は六度目のゼロの専属になった。スタジオミュージシャンとしての仕事は、今後も請けるとは思うが』
「よく社長が許可したな」
『月給4割減で手を打ってもらった』
「うわぁ……」
 何と答えればよいか分からない。しかし、貴裕の声は弾んでいる。
『たしかに俺、嘘をついていたんだ。満の曲を聴いたとき、「俺が弾きたい」と思った。クラシック以外で指が動いたのは初めてだった。この音楽を的確に奏でられるのは、俺しかいないとまで思ったんだ。
 もういい年齢だし、お前らとの釣り合いもとれないし、裏方になって長いし、今さらプレイヤーになりたいなんて許されないだろうから、黙ってた。サポート兼プロデューサーに徹することにした。だけど後ろ髪を引かれる思いはあったんだ。だからきっと、これはチャンスなんだよ』
 寡黙な彼にしては饒舌だ。
「ふーん。じゃ、ベース脱退問題は解決か」
 柊羽は目を閉じて頷いた。
『だけど柊羽、お前の代わりはいないぞ』
 貴裕の声色が変わった。
『満が作る難解な曲を正確に叩けるドラマーなんて、この世に何人もいない。俺のピアノに合わせられるやつも貴重だ。うちの事務所では、間違いなくお前だけだ。魂だのなんだの、彰将がよく分らんことを言っていたらしいが、気にするな。
 絵梨沙は最近、暇さえあれば事務所で歌詞を朗読している。満は本当に可愛くなって、一見の価値ありだ。とにかく頼む。戻ってきてくれ』
 聞いていて恥ずかしくなるほど直球だ。
「……俺、徳島で運転免許を取ってたんだよ。ついでに阿波踊りの締太鼓を教わってた」
『え? あ、ああ、そうだったのか』
 柊羽が本題と違うことを話し始めたので、貴裕は困惑しているようだ。
 構わずに続ける。
「みんなで移動する時、いつも貴裕が車を運転してくれてただろ。彰将も絵梨沙も満も、成人してるくせに、誰も免許持ってねーもんな。ずっと一人に負担かけてごめん。これからは俺も運転するから」
『え。じゃあ、それは、つまり』
「ははっ。俺は一度も辞めるなんて言ってねーよ。ちょっと頭を冷やしたかっただけだ。生意気なクソガキでごめん。今夜の練習から復帰するよ。これからもよろしく頼む」
 ガサガサという音に続いて、ゴーンという鈍い音が耳をつんざいた。貴裕がスマホを取り落としたらしい。遠くで『うわー』っという声がする。
『ありがとう! ありがとう、柊羽。嬉しいよ!』
 涙を流して喜ぶ姿が目に浮かぶようだ。柊羽は微笑んだ。
「つーか俺、社長に許可取ってるぞ」
『えっ? マジ?』
「貴裕が忙しそうで、ろくに話す時間がないから、社長に電話したんだ。『合宿で運転免許取ってきたいです。2週間くらい仕事休んでなるけどいいですか?』って。そしたら『オッケー。せっかくだから全部忘れてリフレッシュしておいで』と言われた」
『マジか!』
「証拠のLINEのスクショもあるぞ。貴裕には伝わってなかったのか」
『マジかよー…』
 貴裕は語彙力を失っている。よほどショックだったのだろう。
『あのタヌキ親父め……。月給3割減にしろって交渉しようかな』
 可哀そうだが、恨み言を聞いていても仕方ない。柊羽は話題を変えた。
「ところでさ。今夜のミーティングで、俺が喋る時間を取ってくれないか」
『ん? いいけど、何を話すんだ?』
 彼の声は柔らかい。
 柊羽は空港のロビーに飾られた阿波踊りのポスターを眺めながら、
「彰将が言ってたことは正しかった。俺のドラムには魂が無かった。その理由がわかったんだ。だから、みんなに聞いてほしい。どうして俺がドラムを始めたのか、どうして音楽で成功したいのか、どうしてこのバンドに賭けようと思ったのか。ちゃんと伝えたいんだ」
『なるほど。それは気になるな』
「……満にだけは、結成時に少し話したんだけどな。とにかく頼むよ」
『分かった。じゃあ、気をつけて帰ってこい。待ってるぞ』
「ああ。またあとで」
 通話を切ると、搭乗手続きの受付が始まったところだった。
 柊羽は荷物を担ぎなおしてゲートをくぐり、徳島を発った。

3.04 佳奈 note.5

 徳島阿波踊り空港に降り立った佳奈は、人の少なさに驚いた。
 いや、冷静になってみると、ここは昔から、このくらいの人通りだった。変わったのは自分だ。すっかり東京の人の多さに慣れてしまったようだ。
「ああ、帰ってきちゃったなぁ」
 リムジンバスで徳島駅へ向かい、電車に乗り換える。窓の外を流れていく景色は見慣れたものだ。実家のマンションに着くまで、30分もかからなかった。
「ただいま」
 誰もいるわけがない。母は仕事中だ。それでも声を出してしまう自分はバカだ。
 自室の扉を開ける。ベッドも机も、綺麗に片付けられていた。上京してから半年も経っていないのに、何だか随分よそよそしく感じる。
 部屋の隅にトランクを置き、ベッドに身体を投げ出した。
「はー。疲れた」
 このままゴロゴロしていたいが、そういうわけにもいかない。
 小一時間ほど休憩し、荷ほどきを終えると、洗面台に向かった。髪をアップにして、綺麗目のワンピースを着て、ゴールドのペンダントをつける。ついでにちょっと化粧を直し、18時前に家を出た。目指すは駅前のレストランだ。
 店に入ると、窓際の席から声をかけられた。
「佳奈、こっちじゃ」
 ネイビーのスーツを着た中年男性だ。丸い顔、ちょっと薄くなり始めた頭髪、ほんのり腹が出始めた体型。よく言えば親しみやすく、悪く言えば何の特徴もない人だ。
「久しぶり、お父さん」
 ウェイターがやってきて、水とおしぼりを置いてくれた。父はいつもコース料理を予約しておいてくれるから、注文をすることはない。
「久しぶり。今日の昼の飛行機で帰ってきたんよな。忙しいにさしてごめん。俺、この日しか空いてのうて」
「夏休みやし、特に予定ないけん大丈夫。これ、東京のお土産」
「わあ、ありがとう! 嬉しいわぁ」
 これだけ大きくリアクションしてくれると、土産も選び甲斐があるというものだ。
「お父さんは、来週から家族でハワイ旅行なんよな。いいなあ」
「うん、楽しみでなあ。ごっつい日焼けしてもんてくる予感がするわ」
 母と父が離婚した時の取り決めの一つに『佳奈が20歳になるまで、毎年1回は会う機会を作ること』というのがあった。来週の誕生日で佳奈は20歳を迎える。来年以降、父に会うかどうかは分からない。
 最後かもしれない晩餐は、和やかな雰囲気で進んだ。
「大学はどないなん。文化構想学部っちゅうんは何を勉強しょんな?」
「んー。文学部って縦やろ。日本文学、英文学、哲学、心理学みたいな。それを横のテーマで切り取って学ぶんよ。たとえば『1950年の世界』ってテーマを設定して、日本文学も英文学も哲学も心理学もやるんよ」
「分かるようで分からんなぁ」
「お父さんは最近どうなん。今年、下の子が小学校に入ったんやろ?」
「順調に嫌われよる。悲しいわ。もう俺とは風呂に入ってくれんのよ」
「あはは。残念やね」
 父は再婚後に2人の子どもをもうけていた。家庭は円満のようだ。毎年、夏か冬には旅行をしている。いいことだと思う。
「バイトは塾講師って言いよったか。俺も学生のころにやりよったけど、大変よな」
「うん。宿題はやらんし、急に休むし。まぁ私も悪い子やったけん、仇を取られようかも」
「はっはっは。ところで来週は阿波踊りやな。佳奈はどないするんな?」
「そうやね。今年は何も練習しとらんけど……帰ってきて、こう、お囃子の音を聞きよったら、踊りたあなってくるな。ママの連に混ぜてもらおうかな。お父さんは会社の人と?」
「ああ。今日もこのあと練習じゃ」
 オードブルにパン、スープ。ポワソン、ソルベ、ヴィヤンド、フロマージュ。舌を噛みそうな名前のコース料理の数々はとても美味しかった。
「少し早いけど、これ、誕生日プレゼント。20歳おめでとう」
「わぁ、ありがとう。開けて良い?」
 父が贈ってくれたのは、シルバーのオープンハートネックレスだった。スワロフスキーとペリドットがあしらわれている。とても可愛い。
 佳奈は歓声をあげ、早速身に着けた。
「どう? 似合う?」
「ああ。大人っぽうなったな」
 父は穏やかに微笑んだ。ちょっとだけ胸が痛む。
 どうして母は、この人を好きにならなかったのだろう。地元の銀行に勤めていて、しっかり稼ぎがあって、家庭もほったらかしにせず、離婚した相手との娘にさえ洒落たプレゼントを用意する甲斐性がある。遊びすぎず、真面目過ぎず、性格も無難だ。何も問題ないじゃないか。
 デセールのブルーベリーソースが酸っぱくて、つい訊いてしまった。
「ねえ。お父さんは、ママのどこが好きやったん?」
 もしかしたら来年からは会わないかもしれないから、訊くなら今日が最後のチャンスだと思っていた。
 父は、ふむ、と一つ唸って、
「しっかりしとるところかな。『自分はこう思う』『自分はこうする』って決めたら、貫き通す強さっちゅうか。カッコええなぁと思うたんよ」
「思い込みが強うて頑固なだけやん」
「あはは。まぁ、悪う言うとそうよな。ほなけど俺は、雰囲気に流されやすいタイプやけん。行き当たりばったりになんとなく、『ええな』と思うたらそれに従ってまうっていうか。
 やけん理奈の、芯が強いところに惹かれたんよなぁ」
 佳奈は口をへの字に曲げた。あまり納得いかないが、父本人がそういうのだから、これ以上の答えは望めないのだろう。
「ふーん。今の奥さんは、どんな人?」
「……俺と似たようなタイプかな。何でもその場のノリで決めるし、『こっちの方がよさそうやね』となったら、すぐ方針転換する。やけんまぁ、一緒におって楽かもしれん」
「そっか。ほな、よかったね」
「ああ。ありがとう」
 紅茶とコーヒーが運ばれてくる。
「佳奈は、彼氏とかおらんのか?」
「おるよー。大学の同級生」
「ほ、ほうなんか。どんなやつな?」
 佳奈はスマホを取り出し、拓海の写真を見せた。
「イケメンやないか」
「そうかもね。でも中身は、お父さんに似とるよ」
 父は眉と口元を微かに動かして、嬉しそうな悲しそうな、寂しそうな表情を浮かべた。
 落ち着いた雰囲気のウェイターが現れ、レザータッチの伝票ホルダーを父に渡す。さりげなく財布からクレジットカードを取り出した父は、ホルダーにそれを挟んで返す。
「そろそろ帰ろうか」
「うん。ありがとう」
 約2時間の滞在だった。すっかり満腹で苦しいくらいだ。
「またな。ゆっくり帰省して骨を休めて、大学生活を楽しみなさい」
「お父さんもね。気いつけて旅行してよ。ほな、またね」
 来年の約束はせず、手を振って別れた。普段からLINEはやりとりしているし、会おうと思えばいつでも会える。佳奈はくるりと身をひるがえし、家路を辿った。
 リビングの電気がついているのが見える。大きく息を吸い込んで、玄関のドアを開けた。
「ただいま」
 ひとまず自分の部屋に入り、余計な荷物を置く。ついでにトランクを開け、羽田空港で買った東京バナナの袋を取り出した。
「おかえりなさい」
 パジャマ姿の理奈は、リビングのソファでくつろいでいた。佳奈が上京する前と何も変わらない。きっと今日もいつも通りの時間に仕事を終えて、家で適当な夕食をとって、お風呂に入ったのだろう。
「久しぶり。元気そうでよかったわ」
「うん。お母さんこそ。これおみやげ」
「わあ、ありがとう。嬉しいわ」
 デビューしたての若手女優でもこんな棒演技はしないというくらい、一本調子な『嬉しいわ』だ。
「お父さん、どうやった?」
「元気そうやったよ。来週から家族でハワイ旅行やってさ」
「あら、素敵やねぇ」
 限りなくどうでもよさそうだ。
 理奈はテレビのチャンネルを変えながら、
「とりあえず、お風呂入ってしまい。お湯沸いとるけん」
「……はーい」
 リビングを出た佳奈は溜息を吐いた。早くも東京へ帰りたくなる。こうなるのは分かり切っていたのに、どうして自分は東京へ戻るフライトを一ヶ月後に予約したのだろう。
 まあ、仕方ない。こんな実家でも、実家は実家だ。
 シャワーを浴びながら、上京前の自分のことを思い出していた。母と無味乾燥な会話を繰り返し、淡々と雑事をこなす毎日だった。とはいえ、上京してどれだけ変われたかと訊かれると難しい。少なくとも、母とのコミュニケーションを改善させられる気はまったくしない。
 化粧水と乳液で肌を整え、ドライヤーで髪を乾かし、リビングに戻る。
 理奈はテレビの音を消し、机でパソコンを触っていた。
「上がったよ。洗濯まわしたけどええよね?」
「もちろん。二人分やもんな。ところで佳奈、ビッグニュースがあるんよ」
 声の調子が違う。一体なんだろうか。
「柊羽くん、覚えとる? 覚えとるわな。仲良かったもんな。彼、プロのドラマーになっとるんよ!」
「え…」
 どうして理奈がそのことを知っているのだろう。疑問で頭がいっぱいになり、返す言葉をうしなった。そんな佳奈の様子を、理奈は単純に『驚いている』と解釈したようだ。
 彼女は嬉々として、
「昨日、柳さんに聞いたんよ。『六度目のゼロ』っていうバンドのメンバーやって。今はライブバトルコンテストに挑戦中で、来週エリアファイナルがあるんよ。演奏の様子はインターネットでも見れるみたい。これに勝ったら10月のジャパンファイナルに出れて、CMソングやアニメの主題歌を担当する権利が得られるらしいわ。
 ママも調べはじめたばかりやけど、カッコええんよ。この曲が特に好きでね。見て、ほら、素敵やろう」
 パソコンの画面を佳奈の方に向け、理奈はYouTubeの再生ボタンを押した。『EverSeen』というテロップに続いて、ボサノヴァのようなリズムの曲が始まる。

 *
 1.きっとほんとのサヨナラを
 私は一度も したことがない
 二度と会えないあなたでも
 いつも 一緒に過ごしているから

 嬉しい時 悲しい時 怒っている時 楽しい時
 I'm calling, calling you everywhere.

 Hello,my friend. 高校生のころの親友
 今日は酷い目にあったよ
 あなたは私の愚痴を聞いて
 あなたらしい返事をくれる
 Always and again, together forever.

 2.嬉しい時 悲しい時 怒っている時 楽しい時
 I'm calling, calling you at all times.

 Hello,my hero. 中学生のころの憧れ
 今日はとても幸せだったよ
 あなたは私の自慢を聞いて
 あなたらしい返事をくれる
 Always and again, together forever.

 3.Hello,myself. 小学生のころの私
 今日の私は あなたが望んだ
 未来の私でいられたかな?
 あなたらしい返事をちょうだい
 Always and again, together forever.

 Welcome my new treasures.
 I’ve given up the farewells.
 These forever increase.

 I will never forget everything I’ve seen.
 Even if you don’t want it, I’ll keep my word.
 Even if I can’t do it, I’ll keep my word.

 I will never forget everything I’ve seen once.
  *

 歌声が止まって随分経って、佳奈は、ようやく声を絞り出した。
「どうして柳さんに会うたん?」
「……偶然よ。ちょうど用事があってしらさぎ台に行ったん」
 理奈はパソコンの画面に見入ったまま、すっと目を動かした。多分嘘だ。まぁいい。
「動画見てすぐ、しゅうちゃんやって分かった?」
「そらもちろん! 葵くんにそっくりやもん。ドラムを叩いとる姿も雰囲気も、葵くんの若い頃そのままやわ」
 まだ画面から目を離さない理奈は、うっとりしている。
 心の奥からふつふつと湧き上がってくるものを止められない。
 佳奈のなかで、長年閉じ込めてきた思いが爆発した。
「なんしに離婚したん?」
「え?」
「ママは、ずっと葵さんが好きなんよな。パパと結婚する前も、後も、今も。そんな好きな人と結婚できたんに、なんで別れたん?
 葵さんが会社を取り戻したけん? 神奈川へ行くことが決まっとったけん? 意味わからん。何考えとんか、サッパリ分からん。私は、ママみたいな大人にだけはなりとうない!」
 ようやくパソコンから佳奈へ視線を移した理奈は、小さく口を開けたまま、固まって動かない。佳奈はきゅっとこぶしを握った。
「……ごめん、言い過ぎた。今日は疲れたし、もう寝るわ。おやすみ」
 さっさと部屋へ戻り、電気を消して布団をかぶる。
 母に本音をぶつけたのは初めてかもしれない。
 眠ろうとして眠れずにいたら、リビングの扉が開く音がした。母の気配が近付いてくる。スリッパで廊下を歩く音。微かなノックの音。
 佳奈の返事を待たずに、理奈は部屋の扉を開けた。
 明かりが射しこむ気配がする。
「ごめんね。佳奈は女の子やし、いつかちゃんと話そうと思ってはおった。言い訳がましいと思うやろうけど、聞いてほしいわ」
「……」
 佳奈は布団をかぶったまま、黙っていた。
「佳奈が小学生の時、ママ、入院したことがあったでしょう。再婚してすぐのころよ。あれ、盲腸やって言うたけど、本当は流産やったの。子宮を全摘出することになって、二度と子どもが産めん身体になった」
 知らない。そんな話はまるで聞いたことがない。
「……葵くんが私と結婚してくれたんは、子どもができたけんなん。それ以上でも以下でもなかった。分かっとったんよ。それだけで十分嬉しかった。
 それやのに流産してしもうた。彼は離婚せんとってくれたけど、私は不安やった。その上、神奈川に帰るって聞かされて」
 理奈は声を震わせる。
「もう、徳島へ戻ってきたころの彼やなかった。夢と希望に溢れて自信満々な、本来の葵くんに戻っとった。関東に帰れば、きっとまた沢山の女性に囲まれる。美人で、才能があって、葵くんを心から愛する女性たちに。
 そのなかで勝つ自信がなかった。彼の子を流産して、もう二度と産めん私には。関東までついていった先で捨てられたら、路頭に迷うとしか思えんかった……」
 勝ち負けの問題だろうか。
 やはり、この人はどこかおかしい。
「葵くんは『君は特別だ』って言うてくれた。『俺の人生で一番最悪な時期に、そばで寄り添って支えてくれた。何もかも失った俺を、かつてと同じように扱ってくれた。とても救われたんだ』とまで。『別れたくない』と、言うてくれたわ。
 やけど私は信じられんかった。嫌やった、って方が正しいかもしれんわ。私の大好きな葵くんには、いつも素晴らしくおってほしい。私みたいな女の存在を足枷にしてほしゅうない。私みたいな女のせいで、こんな田舎に縛られてほしゅうない。やけん『離婚してください』って、お願いしたんよ」
 ああ、やっぱり意味が分からない。
 百歩譲っても、理奈はバカだ。救いようのない大バカ者だ。
「ごめんね。佳奈には寂しい思いばかりさせたわね」
 佳奈は、その言葉には答えなかった。
 布団の陰から顔だけ出して、ずっと抱えていた疑問を投げかける。
「もうひとつ気になることがある。私、おじいちゃんおばあちゃんをほとんど知らん。おじさんとおばさんのことも。パパと結婚しとったころは、お正月にみんなで集まっとったよね。お年玉も貰ったよな。でも、離婚したあとは一度も会うとらん。なんで?」
 母の影が揺れる。
「……私はずっと、自分の親が大嫌いやった。何かあれば『女なんやけん早う結婚して子どもを産め』しか言わん人らやったけん。大学受験のときが一番ひどかったわ。私ほんまは勉強が好きで、東京か大阪の、もっと偏差値の高い大学へ行きたかったのに、『大学へ行くんはええ旦那を捕まえるためじゃ。やけん地元でええやろう』としか言われんかって。
 やけん離婚した時は罵倒されたわ。『なんしに泣いて縋らんのじゃ』『浮気されて捨てられるや女の恥じゃ』って。もうほんま、うんざりしたわ。
 私にとっては、会うたり話をしたりすると、心に毒を入れられるばかりの人らなん。やけんもう縁を切ろう、少なくとも、こちらから連絡をとるんはやめようと思うて」
「で、向こうからも連絡こんなったん?」
「お兄ちゃんもお姉ちゃんも、ちゃんと結婚して子どもがおって、ずっと離婚せんと円満で、両親のそばに暮らしよるけんね。私やいらんのやろ」
 佳奈のこともいらないと言われているように感じた。
「あんな大人にはなりとうない、と思うて生きてきたんやけどな。……佳奈は賢いけん、きっと、私みたいにはならんと思うわ」
 乾いた笑い声のあとで、カサッという音がした。
「最後に、これだけ。柳さんから、佳奈への誕生日プレゼントを預かったんよ。柊羽くんのバンドのグッズやって。机の上に置いておくわ。……おやすみなさい」
 静かに扉が閉まった。
 ずっと気になっていたことを訊けば、すっきりすると思っていた。本音で質問して、本音で答えてもらえれば、晴れやかな気分になるだろうと思っていた。逆だ。いっそうモヤモヤする。イライラする。無性に叫びたいが、それも悔しい。
「ああ、もう、やだ」
 佳奈は枕を叩き、スマートフォンに手を伸ばした。こういう時は音楽だ。chil*chilの楽曲を聴こう。ニコニコ動画を見よう。明るい楽曲のMVを、ふざけたコメントと同時に見れば気が晴れる。きっと安らかに眠ることができる。
 藁にもすがる思いでchil*chilのユーザー画面を開くと、新着マークが点滅していた。
「あ、新作? 久しぶりやなぁ」
 荒れていた心に、涼やかな風が吹き込んだ。なんて良いタイミングだろう。
「できればバラードやのうて、元気のいい楽曲やったらええな」
 今、しっとりした曲を聴いたら、きっと泣いてしまう。
 わくわくしながら最新の動画を開く。
 画面の中央に、眼帯をしたショートヘアの美少女が映っていた。ギターやピアノが乱雑に置かれた部屋で、床には黒いコードが何本もとぐろを巻いているのが見える。
 『皆さん、はじめまして。いつもありがとうございます。メロディメーカーPことchil*chilです。今日は、皆さんにお伝えしたいことがあり、初めて顔出しで動画を撮ることにしました』
 佳奈は思わず大声を出し、跳ね起きた。
「うっそぉ、本人?!」
 画面に映っているのは、どう見ても自分と同年代の女性だった。
 chil*chilは5歳から10歳上くらいの男性だと思っていた。一般的に動画の投稿を始める年齢は高校生ぐらいが多いし、演奏動画でのシルエットは背が高く、スレンダーで、ギターを弾く手も大きく見えたからだ。
 しかし、見慣れた水色のギターを提げた姿は、本人と納得せざるを得ない。
『驚かせてしまった方、ごめんなさい。イメージを壊してしまったら、ごめんなさい。それでも私は……私は、本名の新井満(あらい・みちる)で、バンドのギタリストとして、活動をはじめることにしました。ちょっと長いお話になりますが、飽きずに聞いていただけると嬉しいです』
 佳奈は、ベッドの上で体育座りをした。
 先ほどまでの母との会話は、全て、頭から吹き飛んでいた。長年の推しの言葉を受け取るべく、スマホの画面に集中する。
『私は小学生のころ、学校でいじめられて、不登校になって、引きこもりになりました。気を紛らわせるためにギターに熱中して、従兄にもらった初音ミクで遊ぶようになりました。誰かにそれを聴いてほしくて、動画の投稿を始めました。
 数年前から動画の再生数が伸びてきて、様々な企業や芸能事務所の方から「楽曲をドラマの主題歌に使いたい」とか「メジャーデビューしませんか」とか、ありがたいお話をいただくようになりました。ほとんどお断りしてきたのは、自信がなかったからです』
 眼帯をしていないほうの目が、ぱちぱちと瞬きをする。
『だけど「fragrant olives」のMVが100万再生を突破したころから、心境が変わってきました。これだけ多くの人が聴いてくれて、褒めてくれる自分の音楽を、信じてみたいと思えました。いつも動画を見てくれて、コメントをくれて、応援してくれる皆さんのおかげです』
 彼女はギターを抱えなおした。
『もう一度、外に出てみよう。音楽家として頑張ってみよう。そう思えた時、欲が出ました。せっかくなら、作曲者やソロギタリストじゃなくて、「バンドのギタリスト」になりたいと。
 決意を固めて、色んな企業や芸能事務所の方に連絡をしました。すると唯一、タテノ・エンターテインメントのプロデューサー、貴裕・クラインさんが「一緒にやりましょう」とお返事をくださいました。とても嬉しかったので、すぐ、タテノさんと契約させていただきました』
 タテノ・エンターテインメントという言葉には聞き覚えがあった。だが、どこで聞いたのかを思い出すより、chil*chilが再び喋りだすほうが早かった。
『どうしてバンドを組みたかったのかと言うと……。ええと、うん、全部話しますね。不登校だったころ、私はテレビで『けいおん!』というアニメを見ていました。大好きでした。いつか自分も、ちゃんと学校に通って、友達とバンドを組んで青春したい、という夢を持ちました。
 でも結局、小学校も中学校も高校も、まともに通えませんでした。だから、もう一回、私の大好きな音楽で、夢を取り戻したかったんです』
 彼女の右目が光っている。泣いているのかもしれない。
『実家の広島から東京に出てきて、色々あったけど、タテノさんと貴裕さんのおかげで、素敵なメンバーと、素敵なバンドを組むことができました。
 私たちのバンド名は、六度目のゼロ、と言います』
 ――そんな。
 心臓を貫かれたような痛みが走った。
 ――どうして。chil*chilまで、私を刺そうとしてくるなんて。
『今はBreak Pointというライブバトルコンテストに挑戦中です。優勝を目指して、いくつも新曲を書いています。どれも会心の出来です。
 メインテーマの歌詞は、結成してすぐにメンバーと話し合って、それぞれの想いを込めて書きました。一番にはボーカリストとピアニストと……脱退しちゃったけどベーシストの想い。二番には私の想い。ラストのサビ前のCメロには、ドラマーの想いを綴っています』
 もう、佳奈はいっぱいいっぱいだ。
 これ以上、耳にも心にも何も入れられない。
 だけど。
『WEBのカラーコードでは、ゼロを六回重ねると黒になります。
 色んなことがあったけど、またゼロからがんばろう。あらゆる経験を糧に、全てを飲み込む黒になろう。何度挫折しても、何度でも再挑戦しよう。そんな意味を込めて名付けました。
 今、辛い思いをしている人、諦めかけている人に届けたい曲です。
 どうか聴いてください』
 呆然としているうちに、次の動画に遷移した。画面が真っ暗になったかと思うと、真ん中に白い光が明滅する。続けて、4人の若者が映し出された。
 中央よりやや左に立つ美女の下には、白抜きの文字で『vocal.ELISA』。その右隣に寄り添う眼帯の少女には『guitar.MICHIRU』。ボーカルの左側、二段に重ねたキーボードの前に立つのは『producer&piano.TAKAHIRO』。その反対側、右奥に『drums.SHU』こと柊羽がいた。
 柊羽がハイハットでカウントを刻むと同時に、テロップが輝く。
 『First Original Song / “六度目のゼロ” ―TRUE version―』
 ――しゅうちゃんの想いって何だろう。
 佳奈は無心で、そのMVに見入った。

4.00 拓海 note.4

「昨日の動画、見た?」
「うん。びっくりした!」
 道玄坂の交差点で顔を合わせた拓海とメグは、語り合いながら渋谷Guiltyへ歩いていた。
 昨日の夜、『メロディメーカーPことchil*chilが、「六度目のゼロ」というバンドのギタリストとして、メジャーデビューを目指している』というニュースがインターネット上を駆け巡った。chil*chil本人が自分のチャンネルで、顔出しで告白したのだから、事実に疑いようはない。
「あのワカメのモンスターがchil*chilだったなんて…」
「信じられないよね! でも、動画では、イメチェンして可愛くなってたねー!」
 驚きの急展開だが、腑に落ちることもあった。ロクゼロの楽曲の歌詞やメロディのキャッチーさは、よく考えてみると、chil*chilの楽曲に似ているところがあるのだ。拓海はすっかり興奮して、昨夜はなかなか寝付けなかった。
 さらに今朝、エトオさんが運営する『ロクゼロ公認ファンサイト・Rock Zerors』からメールが届いた。『緊急ファンミーティングのお知らせ』というタイトルで、「今日のライブ後、19時からファンミーティングを行います。会場は銀座ミーヤカフェ。参加費3000円、ワンドリンク付きです。参加希望者は返信ください」とだけ書かれていた。
「緊急ファンミーティングって、一体何をするんだろう?」
「気になるよねー! あたし、どうしても行けなくってさ。急だし。夜だし。お金ないし」
「えっ、そうなんだ。残念だね」
「超悲しい。タクミ、あたしの分まで楽しんできてね。レポ待ってるから」
 渋谷Guiltyの受付は騒然としていた。明らかに、普段より客数が多い。
「いらっしゃいませ。ご予約の方ですか? 当日券はソールドアウトしております」
「あ、はい。予約です。タクミと申します」
 一ヶ月前からチケットを買っておいてよかった、と思った。
「ソールドアウトなんて初めて聞いた! やばいね。バズってるね」
 ファンミーティングに行けない、としょぼくれていたメグも、元気を取り戻したようだ。
「そりゃまぁ、生のchil*chilが見たいって人は、沢山いるよなぁ」
 フロアへのドアを開けると、会場の後方から、エトオの大声が聞こえる。
「あのchil*chilが、青春とメジャーデビューを夢見て所属したロックバンド『六度目のゼロ』! 今、最もホットなロクゼロ公認ファンTシャツ、無料でお配りしています!!」
 彼は、うきうきした様子で幟を振っていた。
「このTシャツは、公認ファンサイトへの登録証にもなります。貰っていただくと、今日のライブ後に開かれるファンミーティングにも参加することができます!」
 エトオの横には、Tシャツの配布待ちの列ができている。拓海はメグと顔を見合わせ、どちらからともなく彼に近づいた。
「エトオさん、お疲れ様です。手伝いますよ」
「おおっ。拓海くんとメグちゃんじゃないか。ありがとう!」
 拓海は、列の先頭にいた男性に声をかけた。
「Tシャツのサイズと、推しメンバーもしくは好きな色を教えてください」
「chil*chil推しです。Lサイズ希望です」
 会話に耳を澄ませていたメグは、すかさずエトオのリュックを広げ、シアンのTシャツのLサイズを引っ張り出した。流れ作業だ。
 エトオはTシャツの配布を拓海たちにまかせ、一歩前に出ると、さらに大声を張り上げた。
「今日のロクゼロファンミーティングの会場は、銀座ミーヤカフェです。定員50名、参加費は3000円でワンドリンク付きです。メンバーと話したり、握手したりできます!」
「あ、握手ぅ?!」
 メグが奇声を上げた。Tシャツを受け取って歩き去ろうとしていた男性も、次の客も、びくりとして振り返る。
「何それ、聞いてない。タカヒロと握手できるの?!」
 次の客もシアンのTシャツのLサイズ希望だった。
 拓海は、動きを止めたメグの代わりにTシャツを用意しながら、
「参加しなよ、メグ。こんな機会めったにないよ。お金なら俺が貸してあげるから」
「ほんとに? ……うん、うん、そうだよね。行くしかないよね。エトオさん、まだ席空いてる?」
「もちろんだよ!」
 急に動きが良くなったメグは、てきぱきTシャツを用意しはじめた。会場内はどんどん人で埋まっていく。ロクゼロのTシャツもどんどん捌ける。
 開演時間が近づいてきたので、3人は荷物をまとめた。今日のロクゼロは2組目の出演だ。人も多くなってきたから、早めに最前を確保するべきだ。
 1組目の対バンアーティストは『四本目のクローバー』という、ツインギターの男性ユニットだった。ギターボーカルの歌声は澄んでいて、節回しも美しく、日本語の歌詞がまるで外国語のように聞こえた。もう一方のギタリストは、中山雄喜という名でソロ活動もしているそうだ。まったく目で追えないくらい指が動いて、音が鋭くてカッコよかった。
 30分のステージがあっという間に感じた。
「今のユニット、よかったね。次がいよいよロクゼロか」
「chil*chilのプレイ、楽しみだなぁ」
 会場のあちこちから声がする。振り返ると、フロアは満員だった。
「うわぁ。人がいっぱいいる」
「すごいね! ライブハウスって感じがするね!」
 メグは目をきらきらさせていた。エトオも、うっとりした顔で、
「これだけの人にエリサの歌を聴いてもらえるなんて、素晴らしいことだ」
 会場の照明が暗くなった。ゆっくりステージの幕が上がっていく。
 柵越しにステージを見上げると、いつもとセッティングが違うことに気づいた。左奥、ドラムセットの対面に設置されたキーボードが二段になっている。さらに、マイクスタンドの数が増えていた。これまではボーカルの場所にだけ立っていたが、ドラム、キーボード、ギタースタンドそれぞれの前に設置されている。
 エトオが拍手を始めた。慌ててメグと拓海、他のファンTシャツメンバーが続き、周りの人々へ波及していく。
 暗闇の中、静かに現れた柊羽がドラムセットに座る。その手前に立った満が、ギターを肩にかける。今までの大きなエレキギターではない。chil*chilの動画でおなじみの、可愛らしい水色のギターだ。
 満の左隣に絵梨沙が、後ろのキーボードに貴裕が立つ。
 全員揃ったところでスポットライトが点灯し、貴裕が語り出した。
『みなさん、こんにちは。六度目のゼロです。演奏の前に、二つお知らせがあります』
 貴裕がライブで喋るなんて初めてのことだ。メグが全身を耳にしている。
『まず、ベースのアキマサが脱退しました。目指す音楽の方向性の違いによるものです。代わりに、この私、ピアニストのタカヒロが正式メンバーになります。メンバーカラーはブラックを引き継ぐことになりました。よろしくお願いします!』
 狂喜乱舞とは、このような様子を言うのだろう。大きく飛び跳ねたメグは、声にならない声をあげて拓海をばしばし叩いたかと思うと、
「エトオさん、黒! 黒のSちょうだい!」
 言うなり、マゼンタのTシャツを脱いだ。
 真っ白な肌と下着が露わになる。
「お、おい!ばか!」
 拓海は焦った。満員のライブハウスの最前であり、ステージは既に始まっている。メンバーすら呆然としていた。拓海はメグが脱ぎ捨てたTシャツを拾い、周囲の視線を隠そうとした。
 エトオは素早かった。よく訓練されたオタクならではの動きで、リュックから黒いTシャツのSサイズを抜き出し、袋を破いてメグに渡した。
 黒いTシャツに着替えたメグは、ぱあっと顔を輝かせている。
『……ありがとうございます。ええと、もう一つのお知らせは、ミチルからです』
 凍りついていた貴裕も、気を取り直したようだ。
 合図を受けて、満がマイクに向き直る。
『はい。私、新井満は、メロディメーカーPことchil*chilとして、インターネット上で活動している人間です。黙っているのが嫌になっちゃったので、昨日、動画でも公表しました』
 彼女は満員の会場を見渡し、すうっと息を吸った。
『私は……私は、話すのがあまり得意ではありません。代わりにギターで話します。音楽を奏でます。どうか私の、私たちの演奏を聴いてください。
 1曲目はセルフカバーをします。10年前に私が初めて作った歌詞ありの曲、「Star」です』
 それが彼女の精いっぱいなのだろう。ちらりと絵梨沙を見る。
 絵梨沙は笑顔で頷き、
『シュウ、あんたも何か言いたいことある?』
『別にねーよ』
 彼がライブで喋るのも初めてだ。
『よーし、じゃあ行くわよ! みんな、準備は良いわね?』
 仁王立ちした絵梨沙が、右手の人差し指で天を指す。柊羽がスティックを掲げる。
 カン、カン、カンカンカンカン。
 カウントの刻み方も、イントロのドラムの叩き方も何もかも、6年前の柊羽とは違う。それどころではない。2週間前の彼の演奏とも、まるで違う。何がどう違うのか分からない。考えようとする前に、跳ねていた。
 拓海は自分に驚いた。ごく自然にジャンプしていた。
 拓海だけではない。隣のメグも、その隣のエトオも、周りにいる全員が音に合わせて床を蹴っていた。
 ――楽しい。
 湧き上がる感情が抑えられない。『Star』は、そんな曲じゃないはずなのに。

  *
 1.たった一つを得るために 生贄を捧げる人生より
 中途半端でいいよ、私は。
 私が選んだものを 全部好きでいる

 暗がりへ 転がり落ちた心を
 すくいあげる力は 私にはないの

 私の譲れない想いは 何度もあなたを傷つけて
 私には受け止めきれない あなたらしさが 確かにあった
 だから きっと 私たちに運命はない
 何度 やりなおしても
 何度 ここで巡り逢っても
 だけど あなたが教えてくれた 優しい歌は
 永遠のまま 夜空に輝いて
 私はずっと いつまでも 歌い続けるんだろう

 2.自由を求めて 飛び立つ鳥を見送った
 遥かな日を思い出して、今。
 幸せの定義も 分からないことが悲しい

 暗がりへ 転がり落ちた心が
 立ち直る日を 祈り続けよう

 あなたが見ていた現実は 何度も私を打ちのめし
 あなたにはけして許せない 私らしさが 確かにあった
 だから きっと 私たちに運命はない
 何度 やりなおしても
 何度 ここで巡り逢っても
 だけど あなたと見つけた 幸せの形は
 永遠のまま 夜空に輝いて
 私はずっと それだけを 追い求めるんだろう

 3.私の譲れない想いは 何度もあなたを傷つけて
 私には受け止めきれない あなたらしさが 確かにあった
 だから きっと 私たちに運命はない
 どうか 次を選べるときは
 次の ひとになれたときは
 いつか あなたと見つけた 幸せの形を
 永遠のまま 強く抱きしめて
 けして離さない そんな2人に なれますように

 あなたが教えてくれた 優しい歌を
 永遠のまま 夜空へ輝かせて
 どうかずっと 来世まで 歌い続けていてね
  *

 『Star』の演奏を終えた彼らは、MCを挟まずに『Adult』『六度目のゼロ』と続けたものだから、会場のボルテージは高まる一方だった。
 拓海は跳ねて、飛んで、叫んで、泣いて、笑っていた。理由は分からないが、きっと柊羽のドラムだ。そのリズムは、ギターもピアノもボーカルも巻き込んで心臓に突き刺さり、血を沸かせ肉を躍らせた。
 3曲終わったところで、次のライブの告知があった。それから『海と森と空の恋人』でしっとりして、最後に『アカツキ』で再び盛り上がり、ステージの幕は下りた。
「最高だったねぇ……」
 柵にもたれかかったメグは放心状態だった。
「ああ……」
 幸せな気分で返事をした拓海は、ハッとして我に返った。
「しっかし、あんな状況でいきなりTシャツ脱ぐやつがいるか、バカ」
「えへ。ごめん。高まっちゃった。ありがと。エトオさんも、ありがと」
 彼はTシャツの裾でメガネをぬぐいながら、深くうなずいた。
「分かるよ、メグちゃん。推しへの愛が溢れた瞬間、人はバカになるんだ。尊いことだよ」
 エトオはファンミーティングの準備をするために会場を後にしたが、拓海とメグは終演までライブを楽しむことにした。もっと生の音を浴びていたかった。
 3組目は『未祐.』という名の女性ソロシンガーだ。ギター一本の弾き語りで、ここまでロックになれるのかと思った。4組目は『Shiny's』。男性ギタリストと女性ベーシストのツインボーカルで、今までに聴いたことのない編成だった。歌詞も独特な世界観で面白かった。
 5組目は『BOKRA and REN』という男性ユニットで、エモーショナルなバラードから軽妙なアップテンポまでバラエティ豊かな楽曲を演奏した。最後はCHAGE and ASKAの『YAH YAH YAH』を観客とともに熱唱し、会場全体を盛り上げて終わった。
「ああ、お腹いっぱいだ」
「わかるー。でも、デザートは別腹だよね!」
 ライブハウスを出た拓海とメグは渋谷駅へ戻り、マークシティを抜けて、銀座線のホームへ歩いていった。ファンミーティングの会場の最寄り駅までは、メトロで15分もかからない。
「ロクゼロ以外の出演者もすごく良かったね。Shiny'sさんの曲がまだ頭の中でループしてる。MCで言ってた来週のワンマンライブ、行ってみようかな」
「あたしは一番最初に演奏してた中山雄喜さんと、未祐.ちゃんが気になるー! ライブハウスって色んな出会いがあっていいよねぇ」
 感想を語り合っていたら、あっという間に銀座駅へ着いた。
 C3出口から南へと細い路地を歩いて行く。しばらく彷徨って、古ぼけたビルの壁に目当ての店のロゴを見つけた。円形の虹の真ん中に地球が描かれ、『Miiya cafe』という文字があしらわれた可愛いロゴだ。
「本当にここで合ってるの?」
「グーグルマップによれば。看板もあるし、間違いないよ」
 入り口は薄暗く、なんだか怪しい雰囲気だ。しかしロクゼロのライブに何度も参戦し、あちこちのライブハウスを訪れてきた拓海にとっては、こんなの屁でもない。どんどん階段を上っていくと、無事に店へたどり着いた。
 クリーム色の扉を開け、店内に足を踏み入れる。左手と正面に受付カウンターがあり、右手側には、外観から想像していたよりずっと広い空間が開けていた。
「グランドピアノだぁ!」
 メグが華やいだ声を上げた。
 十分な奥行きのあるフロア。横長のステージ。右端にドラムセット、左端にグランドピアノ。壁紙は温かみのある白色で清潔感があり、暖色系のインテリアとマッチしている。アコースティック系のライブハウスとあって、渋谷Guiltyとはまるで違う雰囲気だ。
「いらっしゃいませ。受付はこちらです」
 ドアを開けたところで立ち尽くしていた拓海は、慌ててカウンターに向かった。
「こんにちは。タクミとメグです」
 受付の女性は名簿をチェックし、二人の名前に線を引いた。カウンターに置いてあったカゴから透明な袋を2つ取り出し、差し出してくる。中には天然石のブレスレットが入っていた。
「こちらはメンバーからのプレゼントです。お受け取りください。また、本日のイベントはワンドリンク付きとなっております。メニューから一品お選びください」
 ビールやハイボール、カシスオレンジなどの定番ドリンクはもちろん、聞いたことのない酒の名前が多数書いてある。受付の女性の背後の棚には、色も形も様々な瓶が多数並べられていた。なんとも言えずお洒落で、大人っぽい雰囲気だ。せっかくなら珍しいものが飲んでみたいと思った。
「じゃあ、リンゴ酢のソーダ割りをお願いします。メグはどうする?」
 うんともすんとも返事がない。
 振り返ると、彼女はグランドピアノに釘付けになっていた。
「おーい、メグ!」
 メグはびくっと肩を震わせ、
「ご、ごめん。ぽーっとしちゃって。…オレンジジュースください」
「承知しました。お支払いはご一緒でよろしいですか?」
 拓海は頷き、二人分の料金を支払った。
 フロアに並べられた白い椅子は、横に10席、縦に5列。ところどころに丸テーブルが置かれている。拓海たちは早く来た方のようだ。まだまだ空席が目立つ。
「グランドピアノの近くに座ろうか」
「やったぁー!」
 メグはドリンクも持たずに駆けていった。仕方がないので、拓海は彼女の分も受け取り、その隣に座った。
 漆黒のグランドピアノは艶やかに磨き上げられ、輝きを放っている。高校の音楽室や講堂にも置いてあったはずだが、当時はまるで興味がなかったので、よく観察したことがなかった。こんなに美しい楽器だったのか。
「グランドピアノとキーボードって、やっぱり違うの?」
「ぜんぜん違うよ!」
 恍惚としていたメグは、拓海の質問にいきりたった。
「そりゃ最近のキーボードは優秀だよ。特にタカヒロが使ってるステージピアノは高級モデルで、鍵盤のタッチも音質も凄いけど、リアルな迫力はグランドピアノがダントツだもん!」
 スイッチが入ったらしい。それから延々と、ガラガラだった客席がすっかり埋まって立ち見すら出るまで、グランドピアノの奥深さを聞かされる羽目になった。
「……とにかく好きなんだね、ピアノが。メグはどんな曲を弾くの?」
「うぇっ、あたし?! そうだなぁ。ちゃんと弾けるのは、きらきら星ぐらいかな」
「いいじゃん。聞いてみたい」
 お世辞ではなく、本心から零れた気持ちだった。しかしメグは大きく首を振って、ずずっとオレンジジュースを吸い込んだ。
「あたしは下手だし、もうずっと前に辞めたし、聴かなくていいよ。とにかく……」
 照明が暗くなった。ハッとして口をつぐむ。
 最初にステージへ現れたのは、マイクを持ったエトオだった。
『ロクゼラーの皆さん、こんばんは。緊急ファンミーティングにお集まりいただきまして、誠にありがとうございます。公認ファンサイト・Rock Zerors運営者のエトオこと、野間大輔(のま・だいすけ)です。今日はスタッフとして待機しておりますので、何かございましたらお声がけください。よろしくお願いいたします』
 彼の本名をはじめて知った。エトオの一文字も関係ない。当然か。
『それでは、メンバーを呼びましょう。盛大な拍手をお願いいたします!』
 エトオはマイクを置き、一礼してステージを下りた。拍手が会場を包んでまもなく、ステージ横のカーテンが開き、メンバーが出てきた。近い。ものすごく近い。ステージと客席を仕切る柵もないし、手を伸ばせば触れそうだ。
 黒いスーツを着た貴裕が目の前を横切ると、コロンの良い匂いがした。メグはどれほど黄色い声をあげるんだろう。耳をふさいで待機していたのだが、やけに静かだ。
 横を見ると、彼女は白目を剥いて失神していた。
「メグ、しっかりしろ! 気絶するなんてもったいないぞ」
「……はっ。ご、ごめん。ありがとう」
 メグが呼吸を整えるのを待たずして、絵梨沙がマイクを手に取った。
『こんばんはー、ロクゼロです!! 今日は集まってくれてありがとう!』
 客席の誰かが「こちらこそありがとー!」と叫んだ。
 絵梨沙は微笑みを返して、
『今日、ファンミを開いた理由は色々あって。
 いやー、ほんとに色んなことがあったよね。5月に結成を公表して、すぐBreak Pointに出場して。まさかのアキマサの脱退、タカヒロの正式加入、ミチルは実はchil*chilですっていう大暴露。シュウも2週間くらい自分探しに行っちゃってね。安定してるの私だけっていう。
 ま、色々あってようやく、バンドがバンドとしてまとまってきました!』
 絵梨沙がガッツポーズをすると、柊羽が不機嫌そうな声を上げた。
「自分探しってなんだよ。勝手に話を作るんじゃねーよ、オバサン」
 マイクがなくても、彼の低い声はよく通った。
『作ってないわよ。実際そうだったでしょ、おぼっちゃま。それから私のことはお姉様、もしくはお姫様と呼びなさい!』
 余裕ぶった絵梨沙の返しも、口をへの字に曲げた柊羽の表情も、いかにも素だった。満と貴裕が吹き出し、会場全体から笑いが起きる。まるで家族のような温かい空気だ。
『えーっとつまり、今回ファンミを開いたのは、バンドの形がようやく定まったので、これからもよろしくお願いします! ってことです。ミチル、なんか言いたいことある?』
 マイクを手渡された彼女は、きょろきょろとして、
『い、いいえ。エリサさんが全部言ってくれました。あの、皆さん、ありがとうございます。何もかも。今後ともよろしくお願いします』
 深々とお辞儀をして、マイクを絵梨沙に返した。
『ミチルは喋るの苦手だから、これで許してあげてね。可愛いでしょ?』
 客席のどこかから「可愛いよー!」と声がした。
『ね。私の次くらいには可愛いよね。シュウは……マイク渡すと憎まれ口しか叩かないから、やめとこ。タカヒロ、良い感じにまとめてよ』
 話を振られた彼は、グランドピアノの上に伸びたブームマイクへと口を寄せた。
『色々とお騒がせして、本当に申し訳ありませんでした。そのぶん、素晴らしい音楽を届けていきたいと思います。引き続き応援いただけますと幸いです。今日は演奏のあと、メンバーの私物が当たるじゃんけん大会と、握手タイムがあります。楽しんでいってください』
 マイクスタンドの高さを整えていた絵梨沙は、喋り終えた貴裕に頷いて、
『あ、一つ注意事項として、このお店は禁煙です。タバコを吸いたい人は、トイレの横の喫煙室でどうぞ。それとドリンク美味しいから、じゃんじゃん飲んでいってね!
 じゃあそろそろ歌おうかな。昼にもライブしたけど、今夜はグランドピアノとアコースティックギターの編成だから、また違った雰囲気になるよ。みんな、準備は良い?』
 会場から拍手が沸き起こる。
 絵梨沙は貴裕を見て、満を見て、柊羽を見た。ふっと頬を緩めた柊羽が、ゆっくりとカウントを刻む。絵梨沙が歌い出す。
『生まれ変わる日なんて待たない。僕らは刻む、六度目のゼロを』
 目の前のグランドピアノから、優雅で壮大な音の波が溢れた。隣のメグは早くも泣き出している。それだけのものがあった。鍵盤の上で指を躍らせる貴裕は、今まで見たことがないほど自然で、これが彼の本来の姿であることをうかがわせた。
 キーボードと全然違う。数分前の、何も分かっていなかった自分を殴り飛ばしてやりたい。
 視覚効果もあるのかもしれない。開いた屋根と突き上げ棒の隙間から見える響板。ダンパーの動き、弦の震えの一つ一つが、空気に乗って伝わってくるようだ。感動の狭間で、改めて歌詞を味わいながら、ふと理解した。
 ――『六度目のゼロ』って、『Star』のアンサーソングだったんだな。
 瞬間、拓海の頭のなかで、火花が弾けた。
 様々なことが一つに繋がっていく。
 何もかも遅すぎるかもしれないが、まだ間に合うことにさえ、気づいた。
 『六度目のゼロ』が終わると、彼らは軽いMCを挟み、オリジナル曲を続けて演奏した。『Adult』『EverSeen』『海と森と空の恋人』『トパーズの思い出』『アカツキ』。
 いずれもアコースティックバージョンで、演奏の主役は貴裕だった。誰がどう聴いても、そうだったと思う。彼のピアノに合わせるように、柊羽のドラムはおとなしめで、満のギターはいつもより柔らかく、絵梨沙の歌声はしめやかだった。
『……はい。今、発表してるオリジナル曲はこれでおしまい。楽しんでもらえたかな? これからまだまだどんどん色んな曲をリリースしていくわね。
 次は、じゃんけん大会を行います!!』
 楽器やマイクを脇に置いたメンバーが一人ずつ前に出て、右こぶしを掲げる。拓海は一回戦敗退ばかりだった。メグは鬼の形相で貴裕とのじゃんけんに挑んだが、二回戦で負けてしまった。しおしおと座りながら「いいもんタカヒロがあたしに負ける姿なんてみたくないもん、勝ってくれて嬉しいもん」と呟いていた。
『当たった人、おめでとう! 外れちゃった人は、またの機会によろしくお願いします。それではいよいよお待ちかね、握手タイムです!
 握手したいメンバーの前に並んでください。タカヒロはグランドピアノらへん。私はこのへん。ミチルは私の隣。ドラムセットの前がシュウね』
 絵梨沙がアナウンスした瞬間、メグは決然と席を立ち、目の前の貴裕の元へ突進した。その距離、大股で三歩。グランドピアノから立ち上がったばかりの貴裕はあっけにとられていた。
「タカヒロさん、はじめまして。坂倉めぐみと申します。4歳のころにピアノを始めて、タカヒロさんの演奏映像をずっと見ていました。ロクゼロで初めて生演奏を聴いて、今日は目の前でグランドピアノの演奏を聴くことができて、感無量です。ずっと好きでした。これからも大好きです!」
 なんて熱烈な愛の告白だ。
 一呼吸置き、微笑んで彼女の手を握った貴裕は、目を細めた。
「……ありがとう。俺の恋人はピアノだから、褒めてもらえて嬉しいよ。ピアニストとしての俺を、今後も見守ってくれると嬉しいな」
 なんて紳士的な断り方だ。
「も、もちろんです。さっきの演奏、本当に素敵でした。もはや黒鍵の小公子じゃなくて、鍵盤の絶対君主! って感じでした!!」
「あはは。いいね、それ」
 彼の空気に飲まれてなお、メグは前のめりだ。
 他の客も、目当てのメンバーの前に列を作り始めていた。拓海はいったんトイレへ行くことにして、会場の後方へ下がった。
 用を済ませて出てくると、すぐそこにエトオが立っていた。彼の足元の段ボール箱には、令和製薬が販売している『アイスラ』という新感覚飲料が詰め込まれている。エトオは、新しいアイスラの封を切って、口に含んだところだった。
「エトオさん、お疲れ様です。並ばないんですか?」
 彼は拓海を認めると、にっこりと笑った。
「うん。僕はこの22年間、何十回も握手してもらってきたから。新しいお客さんにエリサを知ってもらえたほうが嬉しいよ」
「……凄いっすね、エトオさんは」
 いつも思っていたことを、改めて口にする。
「自分が自分が、じゃなくって、本当にアーティストのことを思っているというか。一歩引いたところから見守って、応援しているんですね」
「そんな風に言ってもらえると照れるなぁ」
 頬を掻きながら、ステージ上の絵梨沙を見つめる。
「僕は決めてるんだ。エリサが歌手として一発当てて有名になって、フェスに出まくって五大ドームツアーをして海外にも進出して、ちょっと疲れたころに休業して大金持ちの青年実業家と結婚して子どもを産んで、約10年後にママタレとして復活するところまで見届ける、って」
「そ、それはもう、人生じゃないですか」
「全部がエリサの夢だから。ずっと昔から、雑誌のインタビューやライブのMCで言っているし、握手会で直接聞いたこともある。エリサの夢が全て叶うまで応援することが、僕の夢なんだよ」
 穏やかに語る彼の横顔には、幸福感が満ち溢れていた。
「ほら。拓海くんこそ、僕と話している場合じゃないよ。シュウくんに握手してもらっておいで!」
「……はい。そうですね」
 エトオに促され、拓海は一歩、踏み出した。
 柊羽はステージの右端にいて、3人の男性が列を作っていた。他のメンバーより数は少ないが、それなりに盛り上がっているようだ。拓海は最後尾に並んだ。
 彼と、どんな会話をしよう。何も考えていないことに気づいて、焦った。悩んでいるうちに時間が経ち、あっという間に拓海の番が来た。
 目の前にした柊羽は、長身痩躯でスタイルが良かった。ほどよく日焼けした手足は逞しく、今までに見たことのないような笑顔を浮かべている。
「はじめまして。来てくれてありがとうございます」
「は、はい。はじめまして」
 拓海は、どきどきしながらステージに上った。
「えっと……今年の春に、たまたまネット検索してて、柊羽さんのことを知りました。毎月ライブに通ってます。あと、YouTubeチャンネルの動画を全部見ました」
「え、マジ?! めっちゃ数あるっしょ。全部で何本か、俺も思い出せないぐらいなのに」
 柊羽は面食らった様子だ。
「一昨日アップロードされた動画が2198本目でしたよ」
「そんなにあったっけ。本当にありがとうございます。嬉しいです」
 屈託なく笑った彼は、右手を差し出した。
 握り返すと、固くてザラザラして熱かった。
 ぐわっ、と、形容しようもない感情が渦を巻き、拓海を飲み込んだ。
 ずっと遠くから見ていた相手を目の前にして、握手をして、明確に分かることがある。
 身長は、拓海の方が柊羽より少し高い。それだけじゃない。鼻筋の高さも拓海の勝ちだ。柊羽は髪型やファッションを工夫しているが、拓海だって頑張っている。単純に顔立ちを比べても、容姿全体でも、けして見劣りしない。
 拓海は、浪人したとはいえ、偏差値で言えば一流の大学の学生だ。柊羽は高校生であり、プロドラマーでもある以上、少なくとも現時点の学力は拓海の方が上に違いない。
 家庭環境を比べるのは難しい。ベンチャー企業のCEOと大手の銀行の役員は、どちらのほうが優秀で、社会的地位があって、稼いでいるのだろうか。ひとまず拓海には母がいて、姉がいる。生まれてからずっと世田谷の一等地の一軒家に住んでいる。安定感というか『普通さ』なら、拓海の圧勝だ。
 持って生まれたものや育ってきた環境、一人の男同士として、絶対に拓海は彼に負けていないはずだ。
 だが。
「……すっげえ固い手ですね」
「そうかな。いつもスティック握ってるからかも。手首は柔らかいっすよ」
 茶目っ気を見せて笑う彼は、めちゃくちゃカッコよかった。
 凄まじいオーラがあった。
 圧倒的に『負けている』と感じた。
 それなのに、不思議なほど悔しくなかった。
 拓海は彼の6年間を知っている。数年前に投稿した動画の『Star』と、数時間前の『Star』の違いが分かる。その間の2197本の動画を全て見た。平凡な少年がどれだけ努力して、これほどのイケメンに成長したかを知っている。
 それが何のためで、誰のためかも、さっき分かった。
 ふんわり、なんとなく生きてきただけの自分とは比べ物にならない。
 比べる必要もないと思った。
「俺、柊羽さんのこと、好きですよ」
 言葉が零れ出ていた。
「ドラムなんて全然詳しくないけど、最初に動画を見たとき、すげぇカッコいいと思いました。ライブハウスに行ったら、音の厚みっていうか鋭さっていうか、心臓に響く感じが気持ちよくて感動しました。今日の『Star』なんか、自然に身体が動いちゃって、ジャンプしてました。最高でした」
 柊羽は、左手で顔の下半分を抑えた。
「うわ。そんなに褒めてもらえることないから、照れます」
「本気で思ってます。柊羽さんを知ることができて、ファンになれてよかったです。あの、応援してます。頑張ってください。夢、叶えてください」
 拓海がどれだけの思いを込めてそう言ったか、柊羽にはきっと伝わっていないだろう。
 伝わらなくったって、彼はこれからも一途に頑張り続けるのだろう。
「はい、がんばります!ありがとうございます」
 彼の笑顔はまぶしかった。
 握手を終え、ステージを下りる。入れ替わるようにして、マイクを持ったエトオがステージに上がった。
『えー、皆さん。まもなく閉店時間ですが、お店とメンバーの厚意で、今並んでいる人の握手が全て終わるまでイベントを続けることになりました。
 握手が済んだ方は順次お帰りください。今日はお忙しいなか、ありがとうございました!』
 もうそんな時間か。
 拓海は自分の席に戻り、荷物をまとめた。メグは、貴裕に握手してもらった右手を天に掲げ、陶然としている。
「メグ。そろそろ帰らないと、終電に間に合わないよ」
「うう……。分かってるもん」
 彼女は名残惜しそうだったが、しぶしぶ席を立った。
 混雑している店をそっと抜け出す。
「良いイベントだったね」
「うん。ありがと、拓海。誘ってくれて。これ参加しなかったら、一生後悔してた」
「大げさだなぁ」
「あたしはいつでも本気だよ!」
「ははっ。それは知ってるけどさ」
 他愛ない会話をしながら階段を下りる。拓海も、参加してよかったと心から思っていた。
 ビルから道路へ出てすぐ、メグのスマートフォンが鳴った。
 画面の表示を見て、彼女は顔をしかめる。
「げ。パパだ。ごめん、ちょっと怒鳴り合いするわ」
 彼女が通話ボタンを押した瞬間に、
『何をやっとるんだお前は!』
 凄まじい音量だ。耳をすませるまでもなく、会話内容が聞こえてくる。
『今、何時だと思っとる。家に連絡もせず、どこにおるんだ?』
「東京へライブ見に行くって言ったでしょ。夜のファンミにも出るってLINEしたじゃん」
『昼だけだと言っていたじゃないか。未成年が、夜遅くまで遊び歩くな!』
「うるさいなぁ。なんで、あたしのLINE読んでくれないの?
 夜遅いったって、まだ21時だし。ピアノ教室に通ってたころは、日付変わるまで先生の家で練習してても、何も言わなかったじゃん」
『それとこれとは話が違う! 東京のライブハウスだなんて、不健全な』
「健全だもん。音楽好きが集まって、音楽を楽しんでるだけだもん。よく知らないくせに、勝手に決めつけないで」
『分かるわ! 変なもんに熱を上げおって。ピアノを辞めて、変なバイトを始めて、東京のライブハウスだと? この不良娘が。私の言うことだけ聞いていればいいものを!』
「パパの言うことだけ聞いてたから、こんな捻じ曲がった性格になったんじゃない。今日はタカヒロのグランドピアノの演奏を聴けたのよ。せっかくいい気分なのに、わめき散らして耳を汚さないでよ」
『くだらん! まったくもって意味のないことばかりしおって!』
 メグは言い返そうとして、声がでないようだった。
 スマートフォンをぎゅっと握りしめて俯く。目に涙をいっぱい溜めて。
 ――拓海のなかで、何かが燃え上がった。
「貸して」
 拓海は右手を伸ばした。驚いた顔で振り返るメグに、重ねて言う。
「ちょっと俺に話をさせて」
 彼女は戸惑いながら、スマートフォンを耳から離した。
 柊羽と握手したばかりの手で、それを受け取る。
「あの。そもそも、貴裕さんの演奏をメグさんに聴かせたのは、お父さんですよね? どうしてメグさんが彼のファンでいてはいけないんですか?」
『なんだ? 誰だ、お前は?』
「メグさんの友達です。今日、一緒にライブを見ていました。答えてください」
『ふん。あいつはピアノから逃げ出したバカ野郎だ。根性なしのクソ野郎だ!』
「貴裕さんは確かにクラシックピアニストの道を諦めました。しかしその後、タテノ・エンターテインメントに正社員として就職されています。プロデューサーとして、何人ものミュージシャンを世に送り出されています。
 ピアニストとしての経歴を生かした転職で、音楽業界の中で活躍され続けているのは、立派なことだと思います」
『クラシックのピアノ演奏以外、この世に音楽と呼べるものはない!』
「そんな……そんなことはないでしょう。僕はこのバンドで、初めて貴裕さんの演奏を聴きましたが、素晴らしいと思いました。心が震えるようなメロディを美しく奏でていて」
 電話の向こうから、荒々しい鼻息が聞こえる。
『なんなんだお前は。田舎の女子高校生を捕まえて、その親父に弁舌をぶって、偉くなったつもりか? メグもお前も、子どものくせに生意気な……』
 頭の中が真っ白になった。
「子どもだろうが、なんだろうが、好きなものを好きでいる権利はあると思います!」
 大声で叫んでいた。メグは幽霊でも見たかのように、手を口に当てて青ざめている。電話の向こうのメグの父は絶句していた。
 数秒、いや数十秒の時が流れる。
『い、言わせておけば。いい加減にしろよ!』
 何十倍もの怒気を含んだ声が耳をつんざく。堰を切ったように痛罵してくるメグの父親に対し、さらに言い返そうとしたとき、スマホを持った手に触れるものがあった。
 ハッとして顔を上げると、メグが左手を伸ばしていた。
「ありがと、拓海。もう大丈夫だから。返して」
 拓海は逡巡したが、彼女は静かな目をしている。
 爆音を撒き散らすスマホを耳から離し、そっと渡した。
「お父さん、私、とりあえず今日は帰んないから。明日は日曜だしね」
『なんだと?!』
「友達の家に泊めてもらうから大丈夫。じゃあ、おやすみ」
 メグは驚くほどの冷たさで通告すると、即座に通話を切った。
「よし。このまま機内モードにしてやる。これでばっちり、安心だね!」
「……いやいやいやいや。おい、待て、何一つ安心じゃないだろ!」
 拓海は慌てた。メグはぷくっと頬を膨らませ、甘えた声を出した。
「だって帰りたくなくなったんだもん。そもそも、ファンミを諦めて帰ろうとしてた私を引き留めたのは拓海じゃん。責任取ってよね」
 思いもよらない展開に言葉を失う。
「いや、でも俺、実家暮らしだし。今から女の子連れて帰るとか無理だし」
「えー。大学生って、みんな一人暮らししてると思ってた」
「そんなわけないだろ、バカ」
「バカじゃないもん。ま、仕方ないから、ファミレスでも探そっか」
 彼女はスキップで歩き出し、1mほど進んだところで、くるりと振り返った。曇り一つない笑顔で、
「ほらほら。ぼーっとしてないで、一緒に来てよ。ちゃんと朝まで付き合ってよね」
 一体、何がどうしてこうなったんだろう。
 拓海は放心状態だったが、ふらふらと彼女のあとを追った。
 メグの勘だけを頼りに20分ほど歩いて、マクドナルドを見つけた。コーヒーを二杯と、ポテトを一つ注文する。22時過ぎの店内は空いていた。妙に機嫌のいい彼女は、拓海にトレイを持たせて階段を駆け上がり、2階の隅のボックス席に飛び込んだ。
「えっへへー。バイトを始めてから、お客さんとしてマックに入るのは久しぶりだなぁ」
 メグの言動が急に子どもっぽくなったと感じるのは、気のせいだろうか。
「あのさ、高校生ってマジなの?」
「うん。高2。2月生まれの16歳だよん」
 拓海は頭を抱えた。
「……年上だと思ってた。つーか高校生でその髪とメイクって、ヤバくない?」
「赤メッシュのこと? ウィッグだよ。これもメイクも、ライブの日しかしてないよ」
「何それ。なんでそんな面倒なことを」
「だってナメられたら困るじゃん!」
「ナメられる?」
「『ロクゼロのファンは田舎者っぽい』なんて噂になったら、タカヒロたちに悪いもん。だからあたしは『東京のバンドギャル』を勉強したんだよ。漫画とかアニメとか見てさ」
 彼女が例に挙げたのは、10年以上前に一世を風靡した少女漫画だった。
 ますます頭が痛くなってきた。
「ほら、これ、学校の日の私の写真。普通でしょ?」
 メグが見せてくれたスマホのアルバムには、ナチュラルな黒髪をポニーテールにして、色付きリップを塗った程度の薄化粧で、ありふれたセーラー服を着た少女が映っていた。
「こっちのが可愛いよ。田舎っぽいなんて言う人、いないって」
 思ったことをそのまま口に出す。メグは、ぽっと頬を染め、スマホを引っ込めた。
「かわいくはないもん! ……拓海って天然だよね」
「え。いや、別に。そういうつもりじゃ」
 じゃあ、どういうつもりなんだよ、俺。
 焦って自問自答していると、メグは目線をそらしながら、
「まあ、褒めてもらえて嬉しいけど。さっきの拓海こそ、カッコよかったよ。パパに言い返してくれてありがとう」
 急に素直になられても困る。
「あれは、つい、カッとなっただけで。ごめん。無責任なこと言った。
 ……お父さんだって考えがあってのことなんだし、メグを心配してるんだから、家に帰ったら謝って仲直りしろよ。っていうかまだ終電間に合うんじゃ」
「やだ! 帰んない!」
 メグはぷいっと横を向いた。
「強情だなぁ。これから始発まで6、7時間、コーヒーだけで粘るのはしんどいぞ」
「拓海が一人暮らししてないからいけないんじゃん」
「あのさ。女子高生が、一人暮らしの男子大学生の家に泊っていいわけないだろ」
「……いいもん。私は、拓海ならいいと思ったんだもん」
 危うくコーヒーを吹き出しそうになった。
 それは一体どういう意味だ、なんて聞き返すのは野暮だ。そっぽを向いたまま、耳まで赤くしているメグに失礼極まりないだろう。
 間違っているのは拓海だ。ようやく20歳になったばかりの若造のくせに、他人様の家の事情に偉そうに口を挟んで、幼気な女子高生を唆してプチ家出させている。さらに悪いことには、自分には佳奈という彼女が存在する事実を伏せている。
 明らかにおかしくて、間違っているのに。
「うん。……うん。ちょっと待って」
 どうして俺は。
「ちょっとその話、やめよう。俺、マジで今、おかしいから」
「どういうこと?」
「ちゃんと話す。絶対、ちゃんとするから、もう少し時間をくれ。
 俺も、もう何も言わないから。……なんか別の話をしよう」
 メグは軽く首をかしげ、鼻を鳴らしたが、意外とあっさり頷いた。
「しょーがないなぁ。いいよ。たとえば?」
「学校での得意科目とか」
「んー。体育と音楽と古典かな。そうそう、夏休み明けに文化祭があるんだけどさ―…」
 それから拓海とメグは、始発電車が動き出すまで、他愛のない話をした。ただの素直な女子高生と化したメグとの会話が続くのか不安だったが、意外となんとかなった。彼女があまりにも真っすぐなので、拓海も自然体で、何も考えずに楽しめた。
 明け方、銀座駅の改札前まで彼女を送り届けた。
「はぁ、帰ったらバカ親父と喧嘩かぁ」
「がんばれよ」
「うん、もちろん闘うよ。ロクゼロファンであり続けるために、ライブ通い続けるために。パパにもロクゼロのタカヒロのピアノを聴かせてやる。絶対、素敵なんだから!」
 メグは延々と抱負を語り続け、なかなか改札をくぐろうとしなかった。勇ましいのは良いことだが、いい加減に拓海は疲れていた。ふっと気が抜けて、欠伸をしそうになった。
 彼女はその隙を見逃さなかった。ひょいっと背伸びしたメグは、拓海の首に腕を回して抱きついて、頬にキスした。
「うわっ! お前なあ、」
「えっへへー。じゃあ、また来週末ね! ありがとー」
 素早く改札を抜けたメグは、満面の笑顔で両腕を大きく振ったかと思うと、そのままホームへ続く階段を駆けて下りて行った。
 拓海は、呆然とその後ろ姿を見送ることしかできなかった。
「なんか……一日で、色々ありすぎだろ……」

4.01 other’s note ―満

「満は姿勢が悪いのよね。もっと胸を張って、顎を引いて。そう、その立ち方を忘れないでね。音源を流すわよ」
 絵梨沙が手元のウォークマンを操作すると、壁のスピーカーから『六度目のゼロ』が流れだした。ギターパートの音だけを消したものだ。
 満は、長年愛用している水色のギターを構えた。間奏からAメロの終わりまで演奏したところで、絵梨沙の鋭い声が飛ぶ。
「ストップ! 演奏中も、ちゃんと背筋を伸ばしなさい」
「え。でも、手元を見たいです」
「見るなとは言わないわ。ちらっと見て、元の姿勢に戻る! 猫背禁止!」
「えええ」
「大丈夫よ。あんたは何年もギターを弾いているんでしょう? きっと手が覚えているわ」
 果たして上手くできるだろうか。満は、おそるおそる言われた通りにしてみた。たしかに、ずっと手元を見ていなくても、指は勝手に動いてくれる。気づかなかった。
 1番のサビが終わる。絵梨沙が頷き、音源を止めた。
「うん、姿勢が良くなっただけでも、だいぶ印象が変わるわね。あとは、決めポーズを入れましょう」
「決めポーズ?」
「そうね。ちょっとギターを貸して」
 どきっとした。他人に自分のギターを触らせるのは初めてだ。
 幼稚園のころに叔父の家で一目惚れして、小学校の入学祝いとして譲り受けた、ギブソンのメロディメーカー。いじめられて不登校になったあとは、このギターだけが友達だった。毎日、朝から晩までネットサーフィンをして、世界中のミュージシャンの動画を漁って、気になった楽曲を片っ端からコピーして遊んでいた。
 しばらくして『満は音楽が好きなのか。俺、ボカロP目指してたんだけど、才能ないからお前にやるよ』と、大学生の従兄が初音ミクをプレゼントしてくれた。自分で作った曲をインターネットにアップしはじめたら、プロフィール画像にしていたこのギターが由来となって、『メロディメーカーP』や『MMP』などと呼ばれるようになった。
 満にとっては10年来の大親友であり、アイデンティティそのものである。
 おっかなびっくりギターを渡すと、絵梨沙は何気ない動作でストラップを肩にかけた。ネックを握り、高々と宙へ掲げる。
「こんな感じで、ナルシストっぽく弾いてよ。あんたは背が高いんだから、きっと似合うわ」
「な、ナルシスト」
「そう。あえて男っぽくやる方が似合うと思う。それと、サビの盛り上がる部分では、こうやってジャンプしなさい!」
 絵梨沙は身体をくの字に折り曲げて跳んだ。右足は前に伸ばし、左足は後ろへ直角に曲げている。ギターのネックを突き出して、ブリッジに指をかけている。
「カッコいい……」
「でしょ? あんたがショートヘアを振り乱してこれをやったら、絶対に映えるから」
「えええええ」
 途方もない要求に思えるが、絵梨沙にコーチを頼んだのは、他ならぬ満自身だった。
 きっかけは彰将がバンドを脱退し、柊羽が行方知れずになったことだ。彼らに愛想を尽かされたのは自分のせいだと、満に大いに反省した。何か変えなければ。まずは彼らが言っていたように、芸能人らしい見た目になろうと決意したのだが、どうしたらいいか分からず、絵梨沙に協力を仰いだ。
 彼女は、満が一番可愛く見える髪型や服装を考えてくれた。さらに、ファンデーションの塗り方すら知らなかった満に『素早く美しくメイクする方法』を叩き込んでくれた。最初は2時間かかったが、一週間の特訓を経て、30分あれば一人でメイクもヘアセットも出来るようになった。
 ――上手になったわね。凄い、凄い。
 昨日のファンミーティングの直前、楽屋で褒められて、嬉しくなった。
 ――ありがとうございます。あの、絵梨沙さん。ステージでのパフォーマンスの仕方も、教えていただけませんか?
 すると彼女はにっこりして、
 ――偉い! 良い感じに『見られる』意識がついてきたわね。あんたのギターの弾き方、モッサリしてダサいなーって思ってたのよ!
 そんなこんなで今日の合奏練習の後、2人だけでスタジオに残ったのだ。
「ほら。時間も少ないんだから、早くやってみて」
「……はいっ! こんな感じでしょうか」
「ちがーう。もっとロックに!」
「こ、こうですか?」
「ちっがーう! もっと腰を入れて!!」
 結局、絵梨沙の熱血指導は2時間以上に渡って行われた。
「よし。『六度目のゼロ』に関しては、ほぼ完成でいいんじゃないかしら。あとは忘れないように反復練習すること。もう少し滑らかになったら、次の曲をやりましょう。エリアファイナルで演奏する2曲だけでも、来週までに仕上げたいわね」
「は、はひ……」
 満はその場に崩れ落ちた。カッコよくギターを弾くことが、こんなに大変だとは。はあはあと肩で息をし、汗をぬぐう。疲れ切っていた。
 一緒に飛んだり跳ねたりしていたのに、絵梨沙は呼吸一つ乱していない。
「絵梨沙さんは、体力あるんですね」
「腐っても、元アイドルだもの。5時間ぶっ通しでダンスの練習とかしてたし」
「はわー。ギタリストのパフォーマンスを考えられるのも、元アイドルだからですか?」
「そうね。子役のころも、シンガーソングライター時代も、『どうやったら自分が可愛く見えるか』を考え続けてきたから。対象を他人にしただけよ」
「凄いです……」
 まったくもって気の遠くなる話だ。到底真似できない。
 膝を抱えていたら、
「自信を持ちなさい。今のあんたには『眼帯萌え』がついてるわ!!」
「がんたいもえ?」
「そうよ。見てみなさい」
 絵梨沙はスマートフォンを取り出し、ぽちぽちと操作して満に渡した。
 受け取った端末の画面には、聞いたことのない名前のまとめサイトが表示されていた。記事のタイトルは『【朗報】chil*chilこと新井満が可愛いすぎる【MMP】』。ポップな水色の背景に、カラフルな文字が躍っている。
『1:chil*chilのバンドデビュー動画見たけど、想像してたより若くて可愛くて困ってる』
『≫1:ほんとそれ。25歳くらいのこじらせババアかと思ってた』
『≫1:いやまず女だったのがびっくりだろ。シルエット完璧に男だったし』
『87:眼帯キャラとか中2かよ』
『≫87:似合ってるからいいじゃん!』
『145:スタイル良いよね。スレンダー眼帯女子、マジ萌える』
『215:昔のMMPは好きだった。しばらく興味なくしてたけど、また聴こうかな』
 まれに否定的なコメントもあるものの、ほとんどが満を褒める内容だった。
「他にもロックやポップ、ボカロからアニソンまで音楽系のまとめサイトは一通り見てるけど、あんたの容姿は概ね好評よ。私の目から見ても、世界で二番目くらいには可愛いわ」
「……に、二番目」
「当たり前よ。一番は私だもの!」
 きっぱり言い切る絵梨沙を、心底うらやましいと思った。
「ありがとうございます、絵梨沙さん。私、こんなに沢山の人に褒めてもらえるのは初めてです。とても嬉しいです。絵梨沙さんのおかげです」
「当然ね。まあ、しばらくは眼帯で誤魔化しておいて、お金ができたら手術しなさい。あんたは作詞も作曲もできるんだから、一曲ヒットすれば印税がっぽり入るでしょ。ついでに目を二重にして、鼻筋も整えるといいわ。私の友達が通ってた整形外科を紹介してあげる。
 見た目のコンプレックスなんて、お金と工夫と技術で解決できる時代よ。とにかく今は、自信を持ってパフォーマンスすること!」
「はい!」
 満は力強くうなずいて立ち上がった。
 あくる日も、そのあくる日も、特訓は続いた。
 高校生の柊羽は夏休みであり、満は音楽系YouTuberという名の有給無職、貴裕はタテノ・エンターテインメントの正社員のため、朝から晩まで事務所が借りたスタジオに籠っていた。個人で演奏したり合奏したり、アレンジを練り直したり、新曲を作ったり、やることは尽きなかった。
 飲食店でアルバイトをしている絵梨沙だけは、16時を過ぎないと練習へ来られなかった。
「お前、バイト休めないわけ? ファイナルまでの期間だけでもさあ」
 柊羽が文句をつけると、
「私だって休みたいわよ。でもタテノの給料だけじゃ、ママと私の生活費を賄えないの。大人は大変なのよ。おぼっちゃまと一緒にしないでね」
 絵梨沙は自分の歌やステージングの練習もしつつ、休息時間を削って、満にパフォーマンスのレッスンをつけてくれた。
「あ、あの、絵梨沙さん。私の練習に付き合っていただくのは大変じゃありませんか」
 満が気遣うと、彼女は唇の右端だけ吊り上げた。
「よく考えなさい。私は、ほぼ完成してるの。歌詞ももう間違えないし。そもそも私は歌が上手いの。ロクゼロ結成前から90点ぐらいなところを、バンドに最適化しつつ100点を目指してて、今は98点ぐらいなのよ」
「たしかにそうですね」
「その点、あんたのギターパフォーマンスは、ファンミの日まで0点だったわ。分かる? 伸びしろが違うの。あんたが80点でも90点でも仕上がってくれれば、バンドの完成度がぐっと上がるのよ! だからこれはあんたのためだけど、バンドのためだし、私のためでもあるのよ」
「なるほど。分かりました」
 満を助けてくれたのは、絵梨沙だけではない。パフォーマンスを向上させるために体力をつけたいと言うと、柊羽は食事についてアドバイスをくれた。貴裕も、おススメの筋トレグッズを貸してくれた。
 ごく自然に、自由に生きているように見えていた彼らが、体形やパフォーマンスを維持するためにどれだけ努力をしているか、初めて知った。満はびっくりした。頑張っていないのは自分だけだった。日常の中で思いついた言葉やメロディを書き留めて、なんとなくギターで弾いたり初音ミクに歌わせたりして、それだけで今日まで生きてこられたのだ。
 満は頑張った。ものすごく頑張った。家からスタジオまでの移動時間は、絵梨沙との練習の録画を見た。『イケてるギタリストパフォーマンス8選』などの動画集も見た。食事内容の改善や、筋トレにも励んだ。
 思いついて、実家の父母や親戚にもパフォーマンスの動画を送った。関係者以外の目線から、一般的な観客の意見をもらいたかった。
『満、久しぶり。カッコええ動画じゃね。ところでコーチしてくれとる女の子、すごく今どきな雰囲気じゃけど、大丈夫? 上手くやれとる? いじめられとらん??』
『動画ありがとう。いい雰囲気だな! 満が本当にメジャーデビューしたら、俺、友達に「あのchil*chilに初音ミクをプレゼントしたのは俺さ」って自慢するんだ。いつか広島でもコンサートやってくれよな!』
『どしたん。めっちゃ可愛くなっとるじゃん。ほいじゃけえ、うちは前から「ショートヘアにしんさい」って言うとったのに。満は頭の形が綺麗じゃけ、似合うよねぇ』
 ――期待したようなアドバイスはもらえなかったが、ともかく、やれることは全部やった。結果として、エリアファイナルの前日には、絵梨沙から花丸を貰うことができた。
「いいじゃない! 今の『六度目のゼロ』、過去最高にカッコ可愛かったわよ!!」
「本当ですか?」
「ええ。録画を見てみなさい」
 リハーサル風景を見ると、確かにポーズは決まっているし、ジャンプも躍動感があった。何気なくメロディメーカーを構えている立ち姿さえ、スタイリッシュに見える。これなら、イケてるギタリストの一人としてまとめサイトに載せてもらえそうだ。自分だとは思えない。
 さらに、一曲通してパフォーマンスしても、息切れしなくなっていた。
「努力した甲斐がありました」
 思わず涙ぐんでいたら、絵梨沙が頭をなでてくれた。
「よしよし。よく頑張りました。あんたは素直だし、すぐ結果を出すし、教え甲斐があっていいわね。あの生意気なクソガキも、爪の垢を煎じて飲めばいいのに」
「……柊羽くんのことですか?」
 絵梨沙は渋い顔で頷いた。
 鞄からコラーゲンドリンクを2本とりだし、片方を満に投げ渡しながら、
「あいつも素材は悪くないのよね。たまに微笑むくらいでいいから仏頂面を辞めて、服装を少しカジュアルにしたほうが似合うって言ってるんだけど、ちっとも聞きやしない。馬の耳に念仏って感じ。
 逆か。あいつは偉いおぼっちゃまだから、あたしみたいな馬が耳元で何を唸っても、気にしないんでしょうね」
 自虐モードに入っている。渡されたコラーゲンドリンクを口に含むと、さっぱりしたレモンの味がした。
「そんなことはないですよ。柊羽くんは、絵梨沙さんを尊敬してますよ」
「ええ? 嘘でしょ」
 絵梨沙は肩をすくめる。満は言いつのった。
「私、嘘つかないです。
 『俺はこんなに頑張ってるのに、どうして報われないんだってイライラしてた。でも、同じようにイラついてるやつは沢山いて、これに負けたやつから終わっていくんだろうな、って気づいたよ』と柊羽くんは言ってました。
 『そう考えると、絵梨沙は凄いよな。こんな気持ちを俺より長く、芸歴でいえば18年ぐらい長く抱えてるんだ。俺の人生全部と同じぐらいの時間、頑張り続けてて、報われなくても、まだ諦めてないんだよな。尊敬するよ』って」
「……うえええ。信じられない。そんなこと、本当にあいつが話したの?」
「はい。先週の昼休みに、ガリガリくんをかじりながら、言ってましたよ。あ、あと心の中では絵梨沙さんのこと、ちゃんと『お姫様』って呼んでいるそうです」
「何よそれ。気持ち悪っ」
 絵梨沙はわざとらしく震えあがり、両腕で自分を抱きしめている。だが表情を見ると、まんざらでもなさそうだ。
「しっかしあいつ、満にはそんな話をするのね。私への態度と違いすぎでしょ。あ、もしかして好きなんじゃない? 満のこと」
 いたずらっ子のように舌を出して、ニヤっとする。
「あはは。ありえないですよ」
 満は笑ってしまったが、
「私はちょっと好きですけどね。柊羽くんのこと」
 さりげなく本音を呟く。絵梨沙が目の色を変え、身を乗り出した。
「何言ってんのよ、バカ! あんな口の悪い童貞はやめときなさい。もっと良い男がいくらでもいるわよ!」
「えー。えへへ」
 どう返したものか。満が微笑んでいると、
「本当にね。あんたは才能があるんだから、男には気をつけなさい。ジョークじゃないわよ。変な男に食われて潰れて終わった女の子、たくさん見てきたんだからね、私」
 絵梨沙は、やたら真剣な声を出した。悔しそうな口ぶりである。
 軽く流していい話題ではなさそうだ。満は姿勢を改めた。
「分かりました。じゃあ、もし好きな人ができたら、まず絵梨沙さんに相談します」
「あー。まあ、私も恋愛偏差値低いから、あんまり力になれないけどね」
「そうなんですか? 百戦錬磨って感じがするのに。絵梨沙さんは彼氏いないんですか?」
 気になっていたことを訊いてみる。彼女の目が遠くなった。
「……ここだけの話だからね。私、彼氏いたことないのよ」
「えっ。えええええ」
 心底驚いた。
 ひっくり返りそうになっている満を見て、絵梨沙は肩をすくめた。
「理由は色々あるのよ。まずアイドル時代は恋愛禁止だった。その前に、子どものころから見たり聞いたりするものが多すぎて、嫌になっちゃったってたけど。枕営業ができる女だったら、もうちょっと売れてたかもしれないのに、バカよねぇ」
 なんと言えばいいのか分からない。
「それに、芸能人としての私を、ずっと応援してくれてる人がいるから。何も返せない私に対して、自分の人生を捨てる勢いで投資してきてくれたのよ。せめて成功する姿を見せたい。
 ちゃんと実績を残すまで、恋愛にうつつをぬかすわけにはいかないわ」
 彼女なりのプロ意識なのだろう。これには満も頷き、理解を示した。
「あとはね。これでも私、一応まだ、夢があるのよ」
「どんな夢ですか?」
「……いつかはちゃんと結婚して子どもがほしい。そのとき、私なんかと結婚してくれるって言う相手に、汚れものを渡すわけにはいかないでしょ」
「汚れものって、そんな」
「まあ気分の問題よ。私は性格が悪くて、頭が悪くて、心もすっかり汚れてるから、せめて身体は綺麗でおいておきたくて。めんどくさいでしょ。ま、こんな感じよ」
 絵梨沙は髪をかき上げた。明るい茶色に染めた髪が、ふわっと風に靡く。
 なんだかとてもカッコいい仕草に見えた。
「あの、絵梨沙さん。これから絵梨沙さんのこと、お姉様って呼んでいいですか?」
 いつぞやの柊羽への言葉を参考にしたのだが、彼女は露骨に眉をしかめた。
「はあ? 何言ってんのよ、気持ち悪い」
「えええええ」
 再び満がひっくり返っていると、彼女はため息をついて、笑った。
「仕方ないわね。そんな呼び方しなくても、満のことは妹だと認めてあげてもいいわ。その代わり、満も『さん』付けと敬語をやめてちょうだい」
「はい!……じゃなくて、うん、絵梨沙」
 翌日、新横浜 NEW SIDE BEACH!!にて、Break Pointの神奈川・静岡エリアファイナルがあった。六度目のゼロの演奏順は4番目。満は練習通りにミスなく演奏し、パフォーマンスも完璧に行うことができた。
 人事は尽くした。あとは天命を待つばかり。
 ジャパンファイナル進出を信じるだけだ。

4.02 拓海 note.5

 8月は終わったが、まだ残暑は厳しい。
 大学の夏休みも後半戦に入り、拓海はアルバイトに精を出していた。ライブハウスへ通うにはお金がかかる。課題はすべて終わらせたし、今のうちに稼ぎたかった。ある意味、大学生らしい過ごし方かもしれない。
「ポッピングシャワーを、シングルのレギュラーのワッフルコーンでください」
「はーい! って、また来たのかよ」
 おまけに最近は、もう一つ、出費のかさむ要因が増えていた。
「えへへ。嬉しいでしょ?」
 現れたのは、ご機嫌な笑顔のメグである。赤いメッシュはつけていないし、やたら濃いメイクもしていない。服装も、ロクゼロTシャツとゴシックスカートではなく、清楚なライムグリーンのワンピースだ。
「ったく、高校の夏休みは先週で終わったんだろ?」
「今日は土曜日だもーん」
「はあ。毎回、お前に奢る人間の身にもなれよ」
「私は自分で払うつもりで来てるのに、拓海が勝手に奢ってくれるんじゃん」
 メグは頬を膨らませているが、わざわざ栃木の片隅から自分へ会いに来る女子高生に対して、アイスの一つも奢ってやらない男ではありたくなかった。注文の品を手渡すと、彼女はにこにこして、
「今日は何時まで? 休憩、いつ?」
「……あと30分したら昼休憩だよ。上がるのは16時」
「じゃ、ここでアイス食べとくね」
 完全にメグのペースである。
 同僚の冷やかしの視線を浴びつつ、拓海は粛々と仕事を続けた。
 最初に彼女が現れたのは、ファンミーティングの翌週だった。髪型も化粧も服装も違うから、全然気が付かなかった。
 ――え、メグ?! なんで、俺がここでバイトしてるって知ってるの?
 ――こないだマックで話してくれたじゃん。今日、ロクゼロのライブの前にもシフト入ってるって。
 あの日は頭がショートしており、疲労困憊だったため、何を話したかあまり覚えていなかった。メグは、きっちり記憶していたようだ。
 それ以降、毎週土曜日の昼頃になると、彼女は必ず現れた。好きなアイスを注文して、店の隅のカウンターでじっと拓海を待って、昼休みを一緒に過ごす。その後は近所を散策し、ウインドウショッピングなどを楽しんだあとでロクゼロファッションに着替え、拓海のシフトが終わるころに戻ってくる。それから2人でライブに行く―…という。
「もうこれデートだよね。付き合ってるみたいだよね」
「そうかなぁ」
「うふふ。しょーがないなー。まぁ、あと1年半くらいは待っててあげる」
 どうやらメグは、拓海の煮え切らない態度を「ロリコンと思われるのが嫌だから」だと解釈しているらしい。たしかにあと1年半経てば、彼女は高校を卒業する。進路はまだ迷っているようだが、大学1年生でも専門学校1年生でも浪人生でも社会人1年目でも、大学3年生の拓海と釣り合いはとれる。
 問題は、そこではないのだが。
 昼休みになると、2人はアイス屋からすぐのファミレスに移動した。休憩時間は45分しかないので、できるだけ早く来そうなメニューを注文する。
「ほんと、メグは押しが強いよね」
「好きなものは好きなの、私」
 その真っすぐさが快いのは間違いない。
 壁の時計を見た彼女は、底抜けに明るい笑顔を消した。
「ああでも、どうしよう。どきどきする」
 拓海はスマートフォンを見た。
「あと5分だね」
「ううう。拓海が昼休憩で良かった」
「そのくらいは考えてシフト入れてるよ」
「そっか。さすが、ロクゼラー。さすが、頭のいい大学生」
「バカにしてるだろ」
「ううん。緊張してる」
 Break Pointの神奈川・静岡エリアファイナルの結果発表はもうすぐだ。
 彼らが落選していたらどうしよう、とは思わなかった。六度目のゼロのエリアファイナルのステージは圧巻だった。特に満のギターパフォーマンスは、たった一週間前のライブから凄まじく進化していた。あれで落選するなら、日本に存在する全てのバンドは落選だ。
 あっという間に、その時は来た。
「10、9、8、7、6、5……」
 顔を真っ青にしながらも、メグはスマートフォンを離さない。結果発表を行うツイッターアカウントをにらむように直視し、更新ボタンを連打している。
 彼女のそういうところは、正直、好きだった。
「きっ……たああ! きたよ、拓海!! 通った!!! ジャパンふぁ、ふぁっ、ごほごほ」
「大丈夫か。水を飲め」
 拓海は微笑み、彼女の背中をさすってやった。
 バイトを終えてすぐ、メグと一緒に池尻大橋へ移動した。今日のライブは17時開場、17時半開演。ロクゼロの出番は3組目で、会場は#chord_というライブハウスだ。フロアも設備もドリンクカウンターも綺麗で、居心地がいい。ステージは少し奥行きがあり、白い壁を使用した映像や照明の演出が幻想的だ。柱がなく、すっきりした長方形をしているので、どこからでもメンバーが見やすいのもありがたい。
 ロクゼロは7月にもここでライブをしていたが、当時は満の暴露前ということもあり、客入りはそれなりだった。しかし今日は既に相当な数のロクゼラーが集まっている。揃いのTシャツを着た老若男女がフロアを占領している様子は、なかなか迫力があった。
「Break Pointのジャパンファイナルへ出場が決定した『六度目のゼロ』!
 めでたすぎるロクゼロ公認ファンTシャツ、まだまだ無料でお配りしています!!」
 この光景の立役者であるエトオは、今日も今日とて会場後方で声を張り上げている。
 彼は拓海たちの姿を見つけると、大きく手招きした。
「あっ、待ってたよ。こっちに来て」
「どうしたんですか?」
「まず、これ。ジャパンファイナルのチケット!」
 彼は、大きなリュックの口を開けた。イエローのポーチから1つ、ブラックのポーチからもう1つ包みを取り出すと、それぞれ拓海とメグに渡した。
「この席は上手側、シュウくんに近い。こっちは下手側で、タカヒロさんの正面だよ。もちろん両方最前列だ」
「きゃー! ありがとうございますー!」
 メグは黄色い声を上げ、早速包みを破った。出てきたのは、白地に七色の音符が描かれたデザインのラバーバンドだ。イベント名、日時、席番、QRコードが刻印されている。
「ありがとうございます、エトオさん。俺も応募したんですけど、当たらなくて」
「いいんだよ、餅は餅屋って言うだろう。僕には、長年の推し活を通じて蓄積してきたノウハウがある。それにメグちゃんと拓海くんは、Tシャツを受け取ってくれた最初の二人だからね」
 誇らしげに語った彼は、
「ただ一つ、お願いを聞いてもらえないかな」
「なんですか?」
 拓海が訊き返すと、エトオはリュックを指さした。
「今日からファイナル当日まで、このリュックを預かってほしい。Tシャツの配布を代わってほしいんだ。これから一ヶ月間、僕はライブに来られないかもしれないから」
「えっ、なんで? エトオさんはロクゼロ結成以来、横浜も都内もそれ以外も、全部のライブに参戦してきたんでしょ?」
 訝るメグに対して、彼は微笑む。
「他のエリアの出場者や、敗退者のライブとファンコミュニティに顔を出して、チケット交換の交渉をしようと思ってるんだ。たとえば『最前列のチケットを持っているけど、目当てのメンバーとは真反対の位置で逆に見づらい』って人に、5列目だけど目当てのメンバーが見やすい位置のチケットと交換してもらうとか。最悪、お金で買い取ることも考えてる」
「他のエリア……って。東京や北関東や千葉はまだしも、北海道から沖縄まで、日本全国を巡るんですか?!」
「もちろん、インターネットを使って交渉できれば一番いいけれど、顔を合わせた方がスムーズに進むことも多いからね。ゲットしたチケットは、確実に会場へ来てくれそうなロクゼラーへ渡すよ」
 エトオは決然と言い放った。
「僕は、あらゆる手段を尽くして、ロクゼラーで最前列を独占する」
 その覚悟の凄まじさに、拓海とメグは声を失った。
「ステージのメンバーに、ロクゼロTシャツで埋まった最前を見てもらうんだ。Break Pointの主催者や協賛スポンサーにも見せつけるんだ。
 これがエリサのラストチャンスかもしれない。僕は僕にできることで、絶対に爪痕を残す!」
 エトオの容姿は醜い。悲しいほどチビでデブでハゲだ。ポーズをつけて啖呵を切っても、まるで様になっていない。さらに言えば、この彼の努力は、ほぼ報われないだろう。少なくとも彼自身に、形として残るものは無い。
 つまりバカだ。真正のバカだ。
 今回だけの話ではない。青年期はニートとして過ごし、就職してからは絵梨沙最優先のオタク生活。いまは社長の立場でも、22年間のオタク活動により、貯金はほとんどないという。
 一般的に言えば、何一つ褒められるところのない男だ。
 それでも拓海は感動した。
「エトオさんは、最高にカッコいいです。俺、尊敬します」
 メグも深く頷いていた。
「ファイナルが終わって落ち着いたら、思い切ってスキンヘッドにして、ライザップ通うとかどう? あたし、10歳上の従姉いるから、合コン相手探してあげるよ」
 2人の言葉を聞いたエトオは、涙を流さんばかりになった。
「ありがとう。ありがとう。これで僕は心置きなく旅立てる」
 しかし、Tシャツが入ったリュックはいかにも重そうだ。拓海は試しに背負ってみたが、数歩歩いてよろめいた。
「何着入ってるんですか、これ」
「どうだったっけな。シアンとマゼンタとブラックとイエローを、4:3:2:1で、詰められるだけ詰めたんだ。万が一、足りなくなったら連絡して。会社の人に届けてもらうから」
「わ、分かりました」
 こんなに重いリュックをメグに背負わすのは酷だし、そもそも栃木へ持ち帰るのは不可能だろう。つまり、拓海が引き受けるしかない。
 ――突然、こんなの持って帰ったら、母さんびっくりするだろうな。
 心の中で笑う。
「たぶん俺、全部のライブには行けないと思いますけど」
「もちろん、できる範囲でいいんだよ。無理なお願いでごめんね」
 黙って何かを考えていたメグが、こちらを見上げた。真剣な瞳である。
「これから一ヶ月、ライブに行くスケジュールをずらそう、拓海」
「え?」
「2人で一緒にライブ行くより、別々にして、ちょっとでも多くの人に配れた方がいいでしょ。あたしエコバッグ持ってるから、その中身を少し分けてよ。でもごめん、あたし平日の夜に横浜まで行くの無理だから、そのあたりは拓海にお願いしたい。休日や都内のライブはがんばるよ」
「メグちゃん……」
 エトオは目をうるうるさせている。
「メグ……」
 拓海は、別の意味で心を打たれていた。
 ――再来週には佳奈が徳島から帰ってきて、大学の授業も始まる。
 いずれにせよ、それまでに腹を決めなければいけないと思っていた。
「そうと決まれば、チケットが入ってるポーチだけ回収するね。大事な交渉材料だから」
 リュックの中から、4色のポーチを取り出すエトオ。
 拓海は大きく息を吸った。
「エトオさん。一つだけ、俺も、お願いを聞いてもらえませんか?」
 それからしばらく、拓海とエトオは、二人だけで打ち合わせをした。
 話し終えた拓海は、いつも通りライブを楽しみ、終演後はメグと夕飯を食べに行った。少し奮発して景色のいい店にしたので、彼女は生まれて初めて雪を見た子犬のようにはしゃいでいた。
 バックパッカーのようなリュックを背負って帰宅した拓海を見て、母は爆笑した。さらに拓海は、姉と父に頭を下げて、ライブに行くためのお金を借りた。背に腹は代えられない。今月のバイト代が入れば、あらかた返済できるだろう。
 それから2週間、拓海は目黒や品川、蒲田、横浜など、今まで行ったことのない地域のライブハウスに足を運んだ。メグの家から遠いところが中心だ。それぞれに出演者も客層も違い、興味深かった。
「気骨稜稜のドラマー、冷泉院柊羽が所属するロックバンド『六度目のゼロ』! 5分後にステージへ登場するロクゼロの公認ファンTシャツ、無料でお配りしています!!」
 各ライブハウスではエトオを見習ってフロアの隅に陣取り、声を張り上げ、一日10枚ほどTシャツを配ることができた。メグも同様のペースらしい。
 あわただしい毎日のなか、しばらくぶりに佳奈からLINEが来た。
『ずっと返事できてなくてごめんね。18日の金曜、13時くらいに羽田へ着く便で帰るよ』
『おかえり。大学が始まる前に会える?』
『ありがと。じゃあ19日のお昼はどうかな』
『いいよ。店を予約しとく』
 OKというスタンプが来たので、適当なスタンプを送り返した。
 いよいよだ。
 新宿西口に近いビルの地下1階にある店で、ランチビュッフェを予約した。待ち合わせは現地だ。
 一ヶ月ぶりに会った彼女は、少し日焼けしていた。
「久しぶり。元気そうだね」
「うん、拓海も元気そうでよかった!」
「徳島はどうだった?」
「んー。特に楽しいこともなかったよ。友達と映画見に行ったくらいかな。ほんと、何にもない街だから」
「そっか」
「代わりに、悪いこともないけど。……ああ、少しママと喧嘩したか。でも、すぐ元通りだったな」
「ふーん」
 ランチ中、地元での退屈な日々の愚痴を聞かされた。そんなに嫌だったなら、すぐに東京へ戻ってくればよかっただろうに。
 拓海は気になっていることがあったが、あえて自分からは言い出さずにいた。そのうちに1時間半の制限時間が終わり、店から出る。すぐそこの広場にベンチがあった。周囲に人気はない。拓海は彼女を誘って腰を下ろした。
 カバンから包みを取り出して、
「あのさ。かなり遅いけど、これ、誕生日プレゼント」
「わぁ、ありがとう! 嬉しいなぁ。開けてもいい?」
 にっこりする彼女に笑顔を返す。
「うん。むしろ開けてほしい」
 佳奈は包みを破いた。中から出てきたのは黄色いTシャツだ。
「これは……?」
「ロクゼロのTシャツ。柊羽のカラーはイエローなんだ。首元についているタグ、あとでチェックしておいて。エトオさんっていう人が運営してる公認ファンサイト『Rock Zerors』のURLとQRコードが載ってる。会員登録すると、ライブ予定とかファンミーティングのお知らせとかメンバーからのメッセージとか、お得な情報がたくさん送られてくるよ」
「……え」
「もう一つ、プレゼントあるから。よく調べてみて」
 佳奈は目をぱちくりさせながら、言われたとおりに袋の中を探り、間もなくして白いラバーバンドを引っ張り出した。
「可愛いだろ。Break Pointのジャパンファイナルの最前列、プラチナチケットだ。ロクゼロの出場時間は、当日の朝、開会式でのくじ引きで決まる。
 10月4日の10時開場、11時開演。場所は渋谷公会堂だ」
「え、え、なんで? どういうこと? そんな良い席なら、拓海が」
「俺はいいんだ。別のチケット持ってるから」
「Tシャツも」
「……鞍替えしたんだ。俺は黒を持ってる。最近は、ピアノの貴裕を一番推してるんだよ」
 嘘だ。拓海が最も好きなのは柊羽で、変わらない。
 尊敬している。憧れている。
 ドラマーとしても、人間としても幸せになって欲しい。
 そのために、拓海にはできることがある。
 ある気がする。だから、やると決めた。
「LINEでも送ったけどさ。8月のchil*chilの動画、見た?」
「ああ、うん。ごめんね。あのころ忙しくて、返事できてなくて。もちろん見たよ。びっくりしたぁ。chil*chil、すごく可愛かったね。私ずっと男の人だと思ってた。拓海が言ってたバンドだっていうのも驚いたよ」
 佳奈はぺらぺらと喋った。それだけかよ、と思った。
「……だからもちろん、ロクゼロのライブ、行くよね?」
「そ、そうだね。予定が合えば行きたいな」
 この期に及んで、まだそんな態度なのか。
 心が決まった。前から決めていたことではあるが、いよいよ決断できた。
「なんでそうやって、現実から目をそむけるんだよ」
 大声にならないように注意したが、怒気を帯びるのは防げなかった。5月からずっと静かに降り積もっていた怒りだ。佳奈はきょとんとしている。それがまた腹立たしい。
「長年ネットで応援してたアーティストに、リアルで会えるんだぞ。会いたいだろ。会いに行くだろ。他の予定ぜんぶ捨てて、会いに行こうとしろよ。
 しかもそのバンドに柊羽がいるんだぞ。偶然だと思ってるのか?」
「え。えっと」
 佳奈は目を白黒させている。拓海が急にギアを上げたので、ついてこられないようだ。しかし、ついてくるまで待つ気にもならなかった。
「そんなわけないだろ。佳奈は、chil*chilがニコニコ動画に『Star』を投稿して、メロディメーカーPと呼ばれ始めた頃からのファンだよな。
 あの動画が公開されたのは、2012年の12月だ。
 そのころ、佳奈と柊羽は姉弟だったよな?
 つまり柊羽は、佳奈がchil*chilのファンだって知ってるんだよな?」
「う、うん……」
「太鼓を叩くのが好きだった子どもが、プロのドラマーになって、chil*chilとバンドを組んでいる。誰の影響だと思う? 誰に聴いてほしくてやっていると思う?」
 何故か涙が出てきた。
 どうして俺が「悔しい」と感じなければいけないんだ。
「汲み取れよ。世の中、自分だけでまわってるんじゃないんだぞ。人間関係だぞ。佳奈は、何を考えてるんだか、さっぱり分からないよ」
 結果を分かっていて放った決定打は、見事に彼女を傷つけた。
 初秋の風が、二人の間を吹き抜ける。穏やかな太陽が広場を照らす。
「私は、ちゃんと、目の前にいる人を大切にしているの」
 かすれた声で彼女は言った。
「そっか。……佳奈にとっては、そうなんだろうな」
 拓海は目を伏せた。
「夏休みの間、色々あってさ。ほんとに色々。それで思うことがあって。それでさ。俺と、別れてくれないか」
「そんな。急すぎるよ」
「うん、ごめん。でもこれ以上、付き合い続けるの、難しいなって思って」
「急すぎるし、わけわかんないよ」
 わけがわからない。拓海もそう思う。
 ただ、素直になりたかった。
 好きなものを一途に追う人を好きだと思った。
 拓海も、自分の好きな人の幸せを願える人でありたい。
「なんだかんだで、俺と佳奈は意見が合わないことも多いじゃん。今のも、別にどっちが正しいとか間違ってるとかじゃなくて、方向性が違うだけだろ。だったら友達でいいじゃん、って思わない?
 佳奈にはきっと、俺より相応しい人がいると思う」
「そんな……」
 まあ、この理由だけではフェアではない。拓海は正直に言った。
「実は、他に気になる人ができちゃったっていうのもあるんだ。彼女への気持ちの方が、恋愛感情に近い気がする」
「…………」
 佳奈はしばらく黙ったあと、
「つまり、私を嫌いになったわけじゃないけど、友達に戻ろうってこと?」
「うん」
 大丈夫。今なら、まだ戻れる。そもそも付き合ったきっかけは「大学生になったんだから可愛い彼女が欲しい」という願望が先に来ていた。ある意味、誰でもよかったのだ。佳奈でなくても。佳奈もきっと拓海に告白されて「悪くないな」ぐらいの気持ちでOKしている。拓海でなければならないなんて、思っていないはずだ。
 案の定、彼女は頷いた。不承不承な様子だったが、
「そっか。分かった。仕方ないよね。幸せになってね」
「……ありがとう。佳奈こそ、ちゃんと幸せになってくれよ」
 『譲る』なんて発想は傲慢で、間違いだろう。自分の心情や状況を鑑みても、ぴったり正しい表現ではない。だが、どうしても、その言葉が脳裏をちらつく。
 何度も、何度も、柊羽の手のひらの感覚が蘇るのだ。
 固くてザラザラした手。6年前からスティックを握り続け、ドラムを叩き続けてきた手。今日までに少なくとも2205曲、約11025分間、リズムを刻んできた手。没にした動画や、基礎練習に費やしてきた時間だって、ばかにならないだろう。
 彼がどれだけのものを犠牲にして、どれだけの努力を積み重ねてきたのか。なんのために、誰のために、そうしてきたのか。
 拓海は理解してしまった。絶対に報われて欲しいと思ってしまった。
「最後に、一つだけお願いだ。そのチケットでライブに行ってほしい。柊羽のドラムを聴いてほしいし、実物のchil*chilに会ってほしい。貴裕も満も絵梨沙も最高だ。演奏はもちろん、人物的にも、めっちゃ良いバンドだよ。
 あと、そのチケットを手に入れるのは大変なんだ。それを確保するために、死ぬ気で頑張ってる人がいるんだ。『必ず来場してくれる人に渡す』って約束で、特別に分けて貰ってきたんだよ。どうか俺の、いや俺たちの気持ちを汲んでほしい」
 返事は聞かなかった。聞いても意味がないとさえ思った。
「じゃ、また大学で会おうな!」
 拓海は敢えて笑顔で手を振って、彼女と別れた。

4.03 other’s note ―絵梨沙

 いよいよ明日は、Break Pointのジャパンファイナルだ。
 長いようで短かった戦いが、遂に決着する。
 朝食を終えた絵梨沙は、白のポロシャツとショートパンツに着替えた。動きやすさ重視の服装だ。ステージ衣装は、愛用の小型キャリーバッグに詰め込んである。
 いよいよ出かける直前、メイクを仕上げていると、母が帰ってきた。 
「Morning,Elisa.」
 浅黒い肌に、くっきりした目鼻立ち。真っ黒な髪。見事なスタイル。もう50歳に近いというのに、エキゾチックなセクシーさは少しも失われていない。
「Morning,Mom. How was your day?」
「Same as usual.」
 大げさに肩をすくめてみせた彼女は、荷物を床に投げ出し、ソファーに座った。今日の出来事をぺらぺらと英語でまくしたてる。来日して30年ほど経ってもなお、日本語より英語の方が話しやすいらしい。そのおかげで、絵梨沙はネイティブレベルの英語を話せるのだから、ありがたいことだ。
 母の愚痴に相槌を打ちながら、絵梨沙はメイクを終わらせた。
「I got to go.」
「Have a nice day!」
 疲れた様子の母に手を振り、アパートを出る。最寄りの関内駅まで歩く。
 絵梨沙が芸能界に入ったきっかけは、母だ。母が職場で幼い絵梨沙の写真を見せびらかしていたところ、客の一人だった芸能事務所のマネージャーの目に留まり、子役デビューが決まったと聞いている。物心ついたときには、ドラマや映画の仕事をしていた。
 小学校高学年になったころ、事務所の人間が「アイドルグループに入らないか?」と持ちかけてきた。可愛い衣装に惹かれてOKした。深く物事を考えていなかった。
 10代後半になって、はじめて真剣に将来を考えた。学校の勉強はほとんどやってこなかったし、あまり得意ではない。ダンスは苦手。演技は嫌い。唯一、歌うことは好きだった。CD制作のためにレコーディングしたり、震災の被災地や老人ホームを慰問したり、歌がメインの仕事は楽しかった。
 ちょうどそのころ、事務所の先輩から「私のライブを見に来てよ」とチケットを貰った。ピアノ弾き語りのシンガーソングライターの女性だった。彼女は大きなステージにたった一人で立ち、自分の歌とピアノ演奏だけで観客を魅了していた。感動した。
 事務所はモデルやバラエティタレントの道を勧めてきたが、絵梨沙はそれらを断り、シンガーソングライターを目指してアイドルを卒業した。しかしデビューCDは売れず、300人規模のライブのチケットすら完売できなかった。事務所は契約満了に伴って絵梨沙を切った。
 一人になって途方に暮れた。ギターもピアノもろくに弾けず、練習しても上達せず、演奏に気を取られて歌が下手になるばかり。作詞作曲の才能もない。
 そもそも自分のなかには『歌うべきもの』なんてない、と気づいてしまった。それでも歌いたかった。
 八方塞がりに陥った絵梨沙は、藁にもすがる思いでSHOWROOMを始めた。音楽的な感性を磨こうと、色んなジャンルの楽曲を聴いたり歌ったりしてみたが、細かな違いはよく分からなかった。「やっぱり普通のJ-POPが好きだし、歌ってて楽しい」という結論に落ち着いた。
 往年の名曲を中心にカラオケ配信をしていたら、そこそこ人気が出た。タテノ・エンターテインメントから専属マネジメント契約の誘いが来て、喜んで飛びついた。テレビやイベントの仕事を幾つか貰った。それでも世間は、絵梨沙のことを『子役上がりのアイドル崩れのシンガーソングライターになりそこないのカラオケ配信者』としか見てくれなかった。歌唱力は確実に、右肩上がりで向上し続けているのに。
 今年の初春に貴裕から電話で呼び出され、『六度目のゼロ』のボーカリストを打診されたときは、あまりに美味しい話で疑ってしまった。それでも即引き受けた。騙されてもいいと思った。『菊池絵梨沙』がメジャーな歌手として成功できるかどうかのデッドラインは、刻一刻と近づいている。
 なぜ自分にこの話が来たのかは、今もよく分からないが、どうでもいいとさえ思う。
「歌えるなら、なんでもいいわよね」
 ぽつりと呟く。
 関内駅から横浜駅へ移動し、事務所へ向かう。駐車場にスペースグレイのワゴン車が停まっており、貴裕がキーボードを積み込んでいた。
「おはよう、貴裕」
「おはよう、絵梨沙。そのキャリーも貸してごらん」
「大丈夫よ。自分で入れられるわ」
 絵梨沙はキャリーバッグを荷室に放り込んだ。既に満のギターや、柊羽の機材の山も積み込まれている。
 前方のスライドドアを開けて乗り込むと、最前列の満と目が合った。
「絵梨沙、おはよう!」
「おはよう。その服、似合ってるわね」
「ほんと? やったー!」
 実際、水色のシャツにベージュのガウチョという組み合わせは、彼女の若さを引き立てて可愛らしかった。普段着にも気を遣えるようになるとは、やはり天才は成長速度が違う。
 運転席には、小生意気な顔をした青年が座っている。
「今日は柊羽が運転してくれるの?」
「ああ。ファイナル当日は、貴裕の方がいいだろうからな」
 夏休みに免許を取得して以来、柊羽は貴裕と交互に車を運転してくれるようになった。
 貴裕が荷物を積み終えると、車は出発した。目指すは渋谷公会堂だ。
 カーステレオから、六度目のゼロのオリジナル曲が流れる。貴裕は膝の上で指を躍らせ、満は何かを抱えたり下ろしたりする動作を練習しはじめた。絵梨沙は窓の外の雲を数えながら、歌詞をなぞった。
 土曜日の午前中の首都高速は、それなりに交通量が多い。
 すいすいと車を走らせていく柊羽に、満が声をかける。
「柊羽くんって、免許をとってから1ヶ月半しか経ってないんだよね」
「ああ」
 彼は悠々とハンドルを切った。バックミラーにはいつもの無表情が映っている。
「凄い安定感だよな。俺よりも上手いんじゃないか?」
 貴裕の穏やかな微笑みを見ていると、なんだか憎らしくなって、
「それはないわね。貴裕の運転のほうが静かだもの」
 腕組みをした絵梨沙が言うと、柊羽はむっとしたようだ。
「文句があるなら、自分で免許とって運転しろよ、オバサン」
「お金ないし、車持ってないし、人の命を預かるのは怖いから嫌よ」
 横浜市内に住んでいるから、移動は電車で事足りる。車の購入費用はもちろん、駐車場代や維持費はバカにならない。絵梨沙の母は、自分の稼ぎのほとんどを、母国の親戚に送っている。絵梨沙が二人分の生活費を賄っている現状、出費は抑えるに限る。
「ったく、大人のくせに」
「おぼっちゃまとは事情が違うのよ。まあ、運転してくれて助かってるわ」
 絵梨沙が引き下がると、柊羽は軽くため息をついて話題を変えた。
「言い忘れてたけど、帰りは自由解散にしてくれ。16時からレコーディングの仕事が入ったから、すぐに帰らなきゃいけないんだ」
「どこのバンド?」
「garden#00。地方大会で一緒になって以降、たまにライブのサポートをしてたんだ。新しいアルバムを制作中なんだけど、一曲だけ、どうしても俺に叩いてほしいんだとさ」
「ジャパンファイナルの前日まで仕事入れるなよ……」
「俺、あの人たちの音楽、好きなんだよ。楽器は事務所にちゃんと仕舞っておくから」
「そういうことだったら、ギターは自分で持って帰るね」
「私のキャリーも持って帰るわ」
「そうか。分かった」
 あっという間に渋谷に到着した。公会堂の駐車場に車を停める。3人で手分けして荷物を下ろしている間に、貴裕は受付へ行って帰ってきた。
「ただいま。全員、このネームプレートとラバーバンドを付けてくれ。今日のリハーサル中はもちろん、明日も一日中必要だ。特にラバーバンドは、ステージに上がるとき以外は絶対に外さないこと。いいな?」
「「「了解」」」
「よし。俺たちの楽屋は、2号楽屋のAスペースだ。行こう」
 Break Pointのジャパンファイナルは、北海道、東北、群馬・信越、北関東・埼玉、東京、千葉、神奈川・静岡、中部、関西、中国・四国、九州・沖縄、それぞれのエリアを勝ち上がった全11組が競い合う。持ち時間は各組30分。MCや曲数については規定がない。「時間内で、自由に、自分たちらしさを見せてください」とのことだ。
 転換時間は別に確保されているため、開会式や閉会式を含めると、イベントは7時間を超える。
 演奏順は、開会式でのくじ引きによって決まる。ファンは朝一番に会場へ来ないと、目当ての出場者を見られない可能性がある。
 その代わり、チケット代わりのラバーバンドをつけていれば、途中入退場自由だ。場内のエントランスやホワイエはもちろん、北側の緑地帯にも様々な屋台が並び、各地のエリアファイナルの準優勝者たちがストリートライブをするスペースさえある。ちょっとしたフェスのようなものだ。
 当日がそんな状況のため、リハーサルは本番の前日に行われる。各組1時間のリハーサルでは、ステージを使用してパフォーマンスを確かめたり、音響照明スタッフと相談したりすることができる。さらに司会者との挨拶や、幕間に読み上げられたり、生中継画面にテロップで表示されたりするプロフィールの打ち合わせもあった。
 絵梨沙たちの今日のタイムテーブルは、12時までに受付。12時半から司会者との顔合わせ。13時から14時までステージでのリハーサル。14時半に完全撤収。楽屋に到着した4人は、それぞれ買ってきた昼食を食べ、ステージ衣装に着替えた。
「六度目のゼロの皆さん、はじめまして。司会の柴田です。よろしくお願いします」
「「「「よろしくお願いします」」」」
 地下の7号楽屋で顔合わせをした司会者は、フリーの女性アナウンサーだった。何度かテレビで見たことがある。実物は、思っていたよりずっと華奢で、可愛かった。張り合う相手ではないと分かっていても、なんだか悔しい。
「六度目のゼロさんの当日の受付時間は、朝8時半から9時の間です。混雑を避け、スムーズな運営をするため、時間厳守にご協力ください。演奏順は、開会式でのくじ引きで決定します。どなたがくじを引かれますか?」
 4人は顔を見合わせ、貴裕以外の3人が、一斉に彼を指さした。
「……じゃあ、俺が引きます」
 そのあと、バンドやメンバーのプロフィールについての確認があった。さらに、事前に提出した原稿を踏まえ、それぞれに簡単なインタビューが行われた。
「ギターのミチルさんは、約10年前からインターネット上で活躍されている作曲家、chil*chilさんと同一人物なんですよね。結成時ではなく、エリアファイナル直前の8月7日に公表されたのは、理由があったんですか?」
「えっと。本当は、メジャーデビューできるまで伏せておくつもりでした。chil*chilのネームバリューに頼らず、本名の自分だけで勝負してみたかったんです。だけどメンバーの脱退などがあって、8月6日にミーティングをして……ドラムの柊羽が、このバンドに賭ける想いを話してくれたんです。それを聞いて『私も全部賭けよう』と考えを変えました。
 どこかで『バンドが上手くいかなかったら、chil*chilとして動画投稿を続ければいいや』って思ってたんです。逃げ道を残していた。でも、chil*chilだって、間違いない私自身です。切り離すことなんてできない。この10年の歴史も全部背負って、全部賭けるために、公表へ踏み切りました」
「なるほど。相当な覚悟だったんですね。次に、柊羽さんへうかがいたいのですが―…」
 司会者は次々と質問をし、最後に一つ、頷いた。
「インタビューへのご協力、ありがとうございました。コンテスト結果は、当日、閉会式で発表されます。楽しみにしていてください。グランプリを受賞された場合、その場で、代表者1名にコメントをいただきたく思います。
 どなたにマイクをお渡ししましょうか?」
 再び4人は顔を見合わせた。貴裕は一度だけ瞬きをして、
「……ボーカルの絵梨沙でお願いします」
「承知しました。では、皆さんから何か質問がありますか?」 
 貴裕が一つ、二つ、当日の流れについての質問をして、打ち合わせは終わった。自分たちの楽屋に戻り、楽器などの用意をする。
 今度はステージリハーサルだ。
 絵梨沙は身一つで、他のメンバーはそれぞれの楽器を抱えてステージ袖へ赴くと、他の出場者がリハーサルをしていた。
『じゃあラストの曲、「前に」を歌います』
 素朴な笑顔の青年がギターをかき鳴らした。死ぬほど頑張ってきたなんて言えないけど、自分なりに努力してきたことに間違いはない、と一生懸命歌っている。絵梨沙は、つい聴き入ってしまった。
「はい、オッケーです。ただのケンジさん、お疲れ様でした! 次、六度目のゼロさんです!」
「「「「よろしくお願いします!」」」」
 進行係や音響照明のスタッフに挨拶をする。揃いのTシャツに身を包んだ彼らは、空調の利いたホールでも汗だくだった。絵梨沙たちはリハーサル1時間、本番30分だけで終わりだが、彼らは一日中働かねばならない。今日の労働時間は、単純に考えて11時間以上になる。
 スタッフ一人一人に深々と頭を下げる絵梨沙を、満と柊羽は不思議そうに見ていた。お子様には、まだ、彼らの苦労は分からないのだろう。
 下準備を終え、いよいよステージへ出た。
「ああ……広いなぁ」
 定員1956名。1階から3階まで広がる客席の眺めは圧巻だった。アイドル時代にも同じような規模の会場に出演したことはあるが、あの時、ステージ上には50名近くの仲間がいた。
 たった4人で、これだけの人々の視覚と聴覚を独占できるなんて。
「わあああ」
 満は頬を染めて立ち尽くしている。20年以上、なんだかんだでスポットライトを浴び続けてきた絵梨沙でも、これほど感動するのだ。10年近く自宅に引きこもり、六畳の部屋で動画投稿ばかりしていた子には、刺激が強すぎるかもしれない。
「大丈夫? いつも通りにやればいいんだからね」
「う、うんっ。すごいね! ワクワクしちゃう!」
 柊羽は会場全体を舐めるように見渡していた。絵梨沙の視線に気づくと、
「いい設備だけど、客が入れば音が吸われるだろうな。声を張ってくれよ、オバサン」
「任せておきなさい」
 普段と変わらぬふてぶてしさだ。何も心配する必要はないだろう。
 貴裕は既に楽器のセッティングを始めている。世界各地のピアノコンクールに出場してきただけあって、この立派なステージにも臆する様子はない。
「柊羽の言うとおりだ。俺はボリュームをいつもより上げて、高音を強くする。絵梨沙も頑張ってくれ」
「分かってるってば」
 マイクスタンドの前に立つと、ぴりりと身が引き締まった。
 本番と同じセットリストを、通しで演奏する。MCは挟まないが、気になった部分を随時、音響照明スタッフに伝えていく。
 リハーサルだと分かっていても楽しかった。
 広いホールに自分の歌が響いていく。まばゆい照明が神秘的な演出をしてくれる。この時間が、いつまでも続けばいいとさえ思った。
「六度目のゼロさん、そろそろ終了です。大丈夫ですかね?」
「大丈夫です。当日、よろしくお願いします」
「では、おつかれさまでしたー! 次、鹿野レイさんです!」
 貴裕と進行係が挨拶をして、リハーサルは終わった。立ち位置や楽器の位置の目張りを終えて、みなが楽器を仕舞うのを手伝う。
 楽屋に戻り、荷物をまとめて撤収する。あっという間だ。
「柊羽。レコーディングが終わったらすぐ帰って、よく寝るんだぞ」
「ああ、オッサンもな。オバサンは加湿器かけて寝ろよ」
「おぼっちゃまに言われなくても、毎日マスクと加湿器してるわよ」
「満は……大丈夫だよな。明日、楽しくやろうな」
「うん!」
「じゃ、また明日」
 柊羽は、飛ぶように仕事へ向かった。駐車場を出ていく車を見送った後、絵梨沙たちも出口を目指して歩き出した。
「うふふ。本当に楽しみですね、明日」
 貴裕と絵梨沙の間に挟まれた満は、スキップしそうな勢いだ。
 髪型や服装を変え、メイクの仕方を覚えて以来、彼女は性格まで明るくなった。ちょっとしたイメージチェンジで生まれ変われるのは、若い女の子の特権かもしれない。
「皆でコンテストのファイナルに挑むって、すっごく青春って感じです!」
 そっと貴裕の顔色をうかがうと、静かに苦笑しているようだ。絵梨沙も同じような表情をしているだろう。くたびれた32歳のオッサンと、諦めが悪いだけの28歳のオバサンを捕まえて『青春』を語るとは、20歳の天才は無敵である。
「決起の円陣をしたいところですが、柊羽くんがいないので、明日の朝にしましょうか」
「そうだな。しかし、あいつが自分で運転できるようになって助かるよ。前なら、俺が連れて帰ってやらなきゃいけないところだった」
 貴裕が大きく伸びをする。
「柊羽くん、喜びますよ。貴裕さんのために免許を取ったんですから」
「え? そうなのか?」
「もちろんです。ドラムは機材が多いのもあるけれど、貴裕さんにばかり負担をかけるのが嫌だったみたいです。柊羽くんは、本当に貴裕さんが大好きですよね」
 満の言い方が直截的すぎて、絵梨沙は吹き出してしまった。
 貴裕は苦笑を深めている。
「それにしては、俺の扱いが雑じゃないか? オッサン呼び、地味に傷ついてるんだけど」
「柊羽くんなりの愛情表現ですよ。『貴裕ほど音楽を愛している人間はなかなかいない』『長年芸能界にいるのに、人間としてまともだ』『本当にピアノだけを恋人にしていて、一途でカッコいい』『貴裕の息子に生まれたかった』って、言ってました!」
 怒涛のような褒め言葉の嵐だ。貴裕は、つんのめって転びそうになっている。絵梨沙は感心してしまった。
「ほんとに柊羽は、満には素直に喋るのねぇ」
「私だけなのかなぁ。……そっか、絵梨沙には喋らないって言ってたもんね。貴裕さんも、柊羽くんとあんまりお話されないですか?」
 満に訊かれて、彼は静かに首を振る。
「ああ。年もかなり離れてるし。バンド結成まで、仕事上の会話以外はしたことなかったな」
「そうなんですね。意外です。貴裕さんは、どうして柊羽くんを、このバンドのメンバーにしようと思ったんですか?」
 気になる質問だ。絵梨沙は耳をそばだてた。
 彼は少し考えてから、
「そうだな。まずは単純にドラミングの技術。うちの事務所では一、二を争う腕前だ。次に、真面目さ。まだまだ子どもっぽくて、口が悪い部分もあるけれど、スタジオミュージシャンとしては一流だ。そして何より、満の音楽への解像度の高さ。あいつは、chil*chilがこれまで発表してきた楽曲を全部叩いて、YouTubeにアップしている。どれも非常に完成されていた。
 あとは―……昔の自分とかぶったから、かな」
 貴裕は天井を仰いだ。
 どういうことだろう。絵梨沙は、満と顔を見合わせた。
「柊羽と貴裕が似ている部分なんて、1ミリもなくない?」
 思わず本音を口に出すと、貴裕は乾いた声で笑った。
「知り合ったころのあいつは、番組付きのバックバンドを首になったばかりで荒れていた。『お前、まだ16歳だろ。そんなに焦るなよ』と声をかけたら、『俺は22歳までに音楽で成功しなきゃいけないんだ』と怒鳴り返された。『あと6年しかないんだぞ、バカヤロー』と。
 追い詰められた口調が、10代のころの俺によく似てたよ」
 静かな独白が、人気のない通路に吸い込まれていく。
「あいつと同じ年齢だったころの俺は、世界中のコンクールを転戦していた。『10代のうちにどこかのコンクールでグランプリをとれなければ、プロのクラシックピアニストとして食っていけない』と祖父に言われていた。必死だった」
 壮年の横顔に、メディアから『黒鍵の小公子』と持て囃されていた神童の面影がよぎった。
「10代では鳴かず飛ばずだった。『今は祖父のころと時代が違う。まだ大丈夫だ』と自分に言い聞かせて挑戦を続けた。でも、ダメだった。俺は25歳で演奏家の道を諦めた。それでも音楽関係の仕事がしたいとあがいていたら、タテノが拾ってくれた。
 スタジオミュージシャンの仕事は俺に向いてるし、プロデューサーとしての適性もあると思う。現状に不満はないよ。良い決断をした。ただ……」
 彼は絵梨沙たちを振り返った。優しい目をしていた。
「もし俺がプロデュースするバンドで、あいつに成功を味わわせてやれたら。柊羽が期限内に夢を叶えて、目標を達成する姿を見ることができたなら。あのころの俺も報われるんじゃないかな、と思ったんだ」
 すとん、と腑に落ちるものがあった。
 傍らの満は目をうるうるさせている。
「良い話過ぎます。感動しました」
「あはは。満はすぐに泣くなぁ」
「すみません。でも、ほんと、そうですね。柊羽くんの夢はすごく綺麗で、一人で活動していたころの私の想いを拾ってくれたように感じていたんですが……貴裕さんの想いも、重なっているんですね」
「ああ。何故あんなに焦っていたのか、8月のミーティングではじめて理由を聞いて、ますますあいつが気に入ったよ。絵梨沙も分かってくれるだろう?」
「……ええ。そういうことなら、これまでの私の無念も、柊羽に背負ってもらおうかしら」
 呟いた時、視界が開けた。出口だ。
 爽やかな風が頬をくすぐる。
「あの、このあたりにスタジオってありますかね?」
 満は、おずおずと口を開いた。絵梨沙は首を傾げた。
「ここは渋谷よ。いくらでもあるにきまってるじゃない。とりあえず、そこの角を曲がって坂を下れば、ノアがあるわ」
「ありがとうございます。私、一曲書けそうなので、ちょっとスタジオにこもります。お二人は先に帰っちゃってください。じゃあ、また明日!」
 言うが早いが、満はギターを肩にかけ、絵梨沙の指さした方向へ駆けていった。
「元気だなぁ」
「青春してるわねぇ」
 絵梨沙は貴裕に笑いかけた。
 彼は、どこまでも澄み渡る空を見上げていた。
「……本当に、奇跡の確率が何パーセントかは知らないが。俺たちのうち一人くらいは、最初に見たままの夢を叶えられたらいいのにな……」
 空には無数のひつじ雲が浮かんでいる。
 しばらく風に吹かれていたら、出来心が芽生えた。
「ねえ、貴裕。ちょっと飲みに行きましょうよ」
「まだこんなに明るいのに?」
「だからいいのよ。明日に響かないでしょ」
「ああ、そうか。それにしても珍しい誘いだな」
 貴裕は断らなかった。早速、近くを走り抜けようとしていたタクシーを止める。
「東中野のALT_SPEAKERって店、分かります?」
 運転手は頷き、カーナビを操作して走り出した。渋谷からは電車でも15分程度の距離だ。すぐに着くだろう。
「よく行くところなのか?」
「昔ね。シンガーソングライター時代、お世話になっていたのよ」
 思った通り、あっという間に店が見えてきた。明るいオレンジ調の外壁。店名とスピーカーを象った白いロゴマーク。店の正面でタクシーを降りる。入り口の看板には『Open mic』と書かれていた。
 ボタンを押すと、自動ドアは静かに開いた。ガラス張りのエントランスを歩き、開けっ放しの内扉を通り抜ける。こじんまりとしたカフェバーだ。壁紙は白で清潔感があり、落ち着いた色合いのインテリアとマッチしている。
 店内には10名ほどの客がおり、奥のステージにはギターを抱えた女性が座っていた。
『はじめまして、鳥井多佳子です。見ての通りギター弾き語りで、ブラジル音楽をやっています。今日はまず「サンパ」という曲を演奏します』
 巧みなギターの音色を聴きながら、バーカウンターへ近づく。
「いらっしゃいませ。受付は……っと。絵梨沙さん、お久しぶりですね」
「お久しぶりです、赤井さん。近くに来たから懐かしくなっちゃって」
「ありがとうございます。歌って行かれますか?」
「いえ、今日は飲みに来たので。『スカーレット』をください」
「承知しました。お連れ様は、いかがされますか」
 貴裕は分厚いメニューをめくっている。
「『スカーレット』って何?」
「赤井さんのオリジナルカクテルよ。ピーチで甘くて、好きなの」
「ふうん。甘いのは苦手だな。さっぱりしたものはありますか?」
「『Moon stone』はいかがでしょうか。ラムとグレープフルーツを使っています」
「じゃあ、それで」
「承知しました」
 店主はカウンターにグラスとメジャーカップを並べ、赤いリキュールとネクターを順に注いだ。バー・スプーンでくるくると混ぜる様子を、貴裕は興味深そうに見つめている。
 絵梨沙は店内を見渡した。フロアには4人掛けのソファが8つ並べられている。ふかふかで座り心地が良いのだが、今はどれも埋まっていた。バーカウンターの丸椅子は空いているようなので、そのまま腰を下ろす。
 ステージの女性は、また新しいリズムの楽曲を奏でている。ポルトガル語はまったく分からないが、柔らかい歌声とギターの複雑なメロディが見事に絡んでいて心地いい。
「いい店だね。グランドピアノも置いてあるんだ」
 貴裕は、演奏の邪魔をしないように囁いた。絵梨沙も小声で答える。
「そうよ。弾かせてもらう?」
「気になるけど……次の機会にしよう」
 2人のカクテルが揃ったので、グラスをあわせて乾杯した。
 冷たい甘さが全身に染みわたっていく。
「はあ。疲れた」
「満が可愛すぎて?」
「分かってんじゃない。あの子は眩しすぎて、スレたオバサンには辛いわぁ」
 カウンターにぐったりと転がる。貴裕は、くっくっと笑った。
「若い子のエナジーを吸い取るんじゃなかったのか?」
「もちろん吸い取ってるけどぉ。才能が圧倒的過ぎて羨ましくもならないわ。柊羽も同じだけどね」
「そうだな。あの子たちは素晴らしいよ」
「まあ、あんたは、プロデュース側の人間として楽しいでしょうねぇ」
 グラスを回す。氷がからんと音を立てる。ギターの女性は次の曲を奏で始める。ジャズかボサノヴァか、まったく違う音楽か。分からないけれど、郷愁めいたものを感じた。
「ありがと、貴裕」
「どうしたんだ急に」
「知ってるのよ。社長は、もっと若くて将来性のある子をボーカルに据えたかったんでしょ。あのchil*chilのプロジェクトだものね。今回のコンテストの結果はともかく、遠くないうちにメジャーデビューすることがほぼ確実なバンドに、私みたいなオバサンを使う理由がないわ」
「自虐的だな」
 事実を述べただけである。笑みがこぼれた。
「さっきの話を聞いて分かったの。貴裕が私を選んでくれた理由。
 柊羽と同じなんでしょう?
 賞味期限切れ間近で焦ってる私に、最後のチャンスをくれてありがとね」
 ギターの女性が演奏を終える。絵梨沙と貴裕は拍手をした。
 ソファ席では、若いアーティストの卵から年配の音楽好きまでが賑やかに交流している。絵梨沙もかつてはあの中にいた。若かった。夢を見ていた。自分にも、社会にも。
 歌しかないと思った。歌っている間は、唯一、自分が自分らしくいられる。だから、この人生で肩書を得るなら『歌手』がよかった。それだけが正確に自分を表す言葉だと信じた。
 しかし、この社会では、歌うことしかできない人間は、歌手になれない。
 歌で表現したい独自の思想を持っていたり、歌そのものを上手に作れたり、作れる人間と仲が良かったり、権力者に媚びるのが上手かったり、とにかく何らかの歌以外の能力を持っていないと『歌手』にはなれないのだ。
 気づいたのが遅かった。理解しても、自分には、譲れないものや出来ないことが多すぎた。努力できることは努力したが、間に合うわけもなかった。
 持って生まれた容姿が優れていたのは、不幸中の幸いだ。こんな絵梨沙でも『世界一可愛い女の子』を目指すことで、歌い手の端くれを続けてこられたのだから。しかし、寄る年波には勝てない。そろそろ容姿は衰える。若いボーカリストは、どんどん出てくる。30歳を過ぎたら本当に終わりだろうな、と考え始めていた。
 そんなとき、ロクゼロのボーカリストの話が転がり込んできたのだ。
 遠くの席の青年が手を挙げて、店主にオムライスを注文した。
「……確かに、柊羽と絵梨沙を選んだ理由は同じだ。満のバンドのメンバーに相応しい人物という意味で、な」
 貴裕は、静かにグラスを傾ける。
「歌が上手いだけで、何がいけないんだろうか?
 スタインウェイのピアノも、ストラディバリウスのバイオリンも、高く評価されている。人の声も楽器だとするなら、美しい音を美しく奏でられる人は、それだけで素晴らしい」
「ふふふ。貴裕って結構ポエマーよねぇ」
 絵梨沙は、頬杖をついて答えた。
 彼は軽く首を振り、人差し指を立てた。
「15万」
「……何の数字?」
「俺がインターネットに投稿したクラシックピアノの演奏動画の再生回数だ。柊羽のチャンネルでは8万が最高記録、満の歌詞なしシリーズでは『Againer』の120万が一番だそうだ。歌詞ありでは、『fragrant olives』が1000万再生を突破したのにな」
「それがどうしたのよ」
「インストゥルメンタルがそのまま響く相手は、少ないってことだ」
 貴裕は、真剣な瞳をする。
「最初に満がギター演奏をアップロードしていたころは、もちろん技術が未熟だったり不慣れだったりもしたけれど、100回も再生されなかったという。ボーカロイドを使って歌詞有りの『Star』を投稿したら、再生数が10倍に跳ね上がって驚いたと言っていた。彼女がメロディメーカーPと呼ばれるほど人気を得たのは、ボカロあってこそだ」
「何が言いたいの」
「多くの人は、歌詞を聴いているんだ。音に乗った言葉の意味に共感したり、励まされたりしている。歌があってこそ、その楽曲を好きになる。音楽そのものを理解している人は少ない。日本で広く流行っているのはJ-POPだということでも分かる。
 有名な劇伴も、心に残る名作から生まれる。『あの映画、面白かったね、劇伴も素晴らしかった!』という感想は多いが、『映画はつまらなかったけど、あの劇伴を聴けただけでも観に行った価値があったよ!』という感想は滅多にない。みんな物語を楽しんでいるんだ。音楽はプラスアルファの価値をもたらすけれど、そのもので物語を上回ることは少ない」
「うーん。まあ、そうかもね」
 絵梨沙が気のない返事をすると、彼は力強く頷いて、
「満がどれだけ画期的な曲を作っても、柊羽がどれほど想いを込めてドラムを叩いても、俺がどんな超絶技巧でピアノを弾いても、そのまま受け取ってくれるのは、ごく一部の音楽好きだけ。ほとんどの人々には届かないんだ」
 大きくて形の良い手を広げ、ぐっと宙を掴む。
「満は、広く世間に知られるべきアーティストだ。彼女のバンドのアイコンとして、俺は、純粋なボーカルがほしかった」
「純粋……」
「そう。自分で表現したい世界を持っている子は、いらない。シンガーソングライターとして自分で頑張ればいい。『売れそうなバンドに加入したい』『目立つために有名になりたい』と思っている子は、もっといらない。人の褌で相撲を取るなと言いたい」
 早口で語った貴裕は、微かに怒っているようだった。
 咳払いをして声色を変える。
「絵梨沙、君には何の思想もないね。だからこそ、余計な色をつけず、満が書いた歌詞をそのまま歌ってくれる。
 かといって君は、有名になりたいから歌っているわけじゃない。歌うことが好きだから、君を応援する人がいるから歌っている。歌うことを辞められないと言ってもいい。そこがいいと思ったんだよ、絵梨沙。
 君は、中身がないからこそ美しい。俺は、そこに惹かれたんだ」
 絵梨沙は黙り込んだ。店主はキッチンでフライパンをふるい、チキンライスを炒めはじめた。良い匂いだ。
「褒められてんだか、けなされてんだか、分かんないわ」
 口を尖らせてみたが、けして嫌な気分ではなかった。
 貴裕は全てを見透かしているようだ。
「もちろん、他にも条件はあったよ。満が作る楽曲にぴったりハマる声域。バラードからアップテンポまで歌い分けられる技術。あの子が書いた詩をちゃんと表現できる滑舌。英語をネイティブレベルに発音できること。
 一般に受けそうな容姿、トーク力もほしかった。満と喧嘩せずにやれる懐の深さがあって、できれば彼女に足りないもの、端的に言えば女子力を磨いてやれる人間がいいなと思っていた。
 君は、俺が求めた要素をすべて満たしている」
 絵梨沙は笑ってしまった。
「無理に追加してくれなくていいわ。要するに、生きたボーカロイドが欲しかったのよね」
 一般的に、ボーカリストはバンドの華になりがちだ。華になりたくてボーカルを選ぶ人間も多い。だが貴裕は、満の音楽を最高の形で世に鳴らすべく、自分自身と彰将、柊羽を演奏者に選んだ。その音楽を邪魔しないボーカルを欲していた。
 それなら、絵梨沙を選んだのは慧眼だ。
 絵梨沙は歌いたいだけだから。
 素晴らしい音響設備のホールで、美しい青空を望む野外フェスのメインステージで、だだっ広いドームのど真ん中で、気持ちよく歌えたら嬉しい。
 極論を言えば、聴衆がいなくたっていい。誰かに何かを訴えたいとか、励ましたいとか、歓声を浴びたいとか、考えたことがないのだから。
 いつからだろう。「才能ある誰かが素敵なオリジナル曲を作ってくれて、同じくらい才能ある演奏者がバックで演奏してくれて、凄いステージへ連れて行ってくれて、ただ楽しく歌えたらいいのにな」と考えていた。
 他人から見たら虚しくて、前提から間違った考えかもしれない。
 だが絵梨沙は、それでよかった。それこそがよかった。
「もしも中身が欲しいなら、俺のことを想ってくれ。こんなにも音楽を愛しているのに、その力を信じきれない、可哀想な俺のために歌ってくれ。代わりに俺は君を日本一、いや、世界一のバンドのボーカリストにしてみせる。歴史に残る歌い手、『永遠の歌姫』と呼ばれる存在にさえしてみせるよ、絵梨沙」
 貴裕はグラスを傾けながら、やけに格好の良いことを言った。
 ――この男は、いつからこんなに人を転がすのが上手くなったんだろう。
 悔しさを覚えつつ、絵梨沙は口元を綻ばせた。
「分かったわ、貴裕。……選んでくれてありがとう」
 店主がキッチンの奥で仕上げているオムライスの卵はふわふわで、実に美味しそうだった。

4.04 柊羽 note.4

「あの、柊羽くん。ちょっと質問してもいい?」
 レコーディングを終えて帰宅した柊羽は、部屋に荷物を置いてすぐ寝間着を用意し、風呂に入ろうと廊下に出たところで、見知らぬ女に呼び止められた。
 目鼻立ちのはっきりした顔と、ぷっくりした唇が印象的な女だった。栗色の長い髪をバレッタでまとめている。
「こんばんは。なんですか?」
「地下の物置について知りたいの。少し付き合ってくれるかしら」
 家の中を徘徊する女たちが、柊羽に深く干渉してくることは滅多にない。よほど困っているのだろう。柊羽は黙って彼女のあとに続き、階段を下りた。
「急にごめんなさいね。葵さんが『どのくらいの広さのマンションを買えばいいんだろう。持ち込む荷物の量にもよるよな。柊羽の部屋と防音室以外の場所にある荷物を、ざっと数えておいてくれ』って言うから、どこに何があるかを調べているところなのよ」
 ――そのくらい自分でやれよ、クソ親父。
 柊羽は心の中で毒づきながら、こっそり納得していた。
 ――ああ、この人が西川富美子か。
 写真でしか知らないが、小園翼は大人しそうな文系女子だった。前妻の鈴木理奈は、ツンと澄ましたクール系だった。今度は、女らしさ全開の派手系だ。3人とも、見た目にまったく共通点がない。葵には、女の好みというものがないのだろうか。
 そんなことを考えているうちに、地下の物置へたどり着いた。
「これ、何だか分かる?」
 彼女が指さしたのは、寸胴の瓶だった。随分と埃を被っている。
「棚の一番下の奥に隠れていたの。引っ張り出すのに苦労したわ」
「見たことのない瓶ですね」
 シャツの袖で表面の埃をぬぐうと、丸いものが無数に沈んでいるのが見えた。持ち上げようとすると浮かび、また沈む。それにしても重い。明らかに液体が入っている感触だ。
 瓶を観察する柊羽をよそに、富美子は物置全体を見渡している。
「この物置には、サーフィンの道具とお酒ばっかり置いてあるのね」
「ええ。俺が使っている防音室は、元々、バーカウンター付きの地下室だったんです。母の趣味で、様々な酒を揃えていたと聞いています。この物置は父のサーフィン道具置き場なんですが、バーに入りきらなかった酒も置いていたそうです」
「あら。翼さんは、お酒が好きだったのね」
「そう聞きました。だからこの瓶も、酒なんじゃないかな」
 富美子は柊羽の隣に屈んで、瓶をしげしげと見つめた。
「でも、市販品には見えないわね」
「……酒って自分で作れるんですか?」
「私はやらないけど、料理教室の仲間には、自分で漬けるのが好きって人もいるわ。材料はホームセンターやスーパーで買えるんですって。ああ、これが果実酒瓶ってやつなのかしら」
 富美子の説明を聞いても、まるで実感がわかない。
「母さんが漬けた酒……?」
 ぼんやりしている柊羽を見て、富美子は困ったように首を傾げた。
「柊羽くんも分からないか。どうしようかな。せっかくなら、荷物を数えるついでに不要品を整理しようと思ってるんだけど。捨てちゃっていいかなぁ」
 急に、祖父の顔が思い浮かんだ。「わしをのけ者にするな」と地団太を踏む姿が脳裏によみがえる。翼が酒好きであることを柊羽に教えてくれたのは柳だ。彼なら、この瓶のことを知っているかもしれない。
「ちょっと待ってください。明日、じいちゃんが遊びに来るんで、一応聞いてみます」
「え? お祖父さんが?」
「親父から聞いてませんか」
 富美子は目をぱちくりしている。柊羽は口をへの字に曲げた。一ヶ月前には話したのだが、忘れてしまったのか、無視をしているのか。
 胸にわだかまるものがあるが、目の前の彼女は悪くない。
「徳島から俺のライブを見に来るんです。夜は、この家に泊まる予定で。なんだったら、富美子さんも家にいてください。紹介します」
「わぁ、本当? 嬉しいわ。ありがとう」
 冨美子は優雅に微笑んだ。
「そっか、明日は大事なライブなのよね。邪魔しちゃったかしら」
「いえ、大丈夫です」
「私、つわりはおさまったんだけど、まだ人混みは不安で……。会場へ応援には行けないけど、頑張ってね」
「はい。ありがとうございます。じゃあ俺、風呂入りますね」
 頭を下げて、物置を出る。なんだか不思議な気分だ。
 階段に足をかけたところで、思い切って振り返った。
「あの、明日のライブは、インターネットで生配信するんです。出演時間は11時くらいに決まります。『Break Point』でググってもらえれば、すぐ分かると思うんで。もしよかったら見てください」
 富美子は一瞬、目を丸くして、すぐに満面の笑みを浮かべた。
「ありがとう。必ず見るわね」
 返事はせずに階段を上がる。妙な達成感があった。
 そのまま風呂に入って夕食を食べ、防音室で軽く練習し、22時には寝た。翌朝は6時に起き、朝食を摂って、軽くランニングしてから横浜駅へ。何もかも計画通りだ。柊羽は、万全の体調で事務所に到着した。
 事務所に入ると、リビングに社長と社員とアルバイトが顔を揃えていた。全員がロクゼロTシャツを着ている。いつの間に用意したのだろう。エトオという一人のファンが勝手に作ったグッズが、いつの間にか公式化している。恐ろしいことだ。そんな柊羽の思いをよそに、マゼンタのTシャツを着た社長は、にっこにこだった。
「来たね、柊羽! 君にはこの歌を贈ろう。僕の代表曲の一つだよ。聴いてくれ……『卒業』」
 宣言するなり、手にしたアコースティックギターをかき鳴らす。いや、ここ防音でもない普通のマンションだし、まだ朝の7時半なんだけど、とツッコミを入れる暇もない。
「がんばってくださいね!」
「優勝してきてください!」
 シアンのTシャツを着た女性は、イエローのTシャツを着た男性と一緒に、手描きの『ロクゼロ頑張れ』という横断幕を掲げている。メンバーの似顔絵とおぼしきイラストが可愛かった。
 ブラックのTシャツを着た男性は、社長のギターに合わせてブレイクダンスを披露している。
「仕事が終わらないので渋谷へは行けませんが、ネット中継見ますね!!」
 サビの1フレーズを気持ちよさそうに歌い上げた社長は、
「グッドラック」
 と親指を立てた。とんだ芸能事務所だ。
「どうもありがとうございます。行ってきます」
 努めて平板な声で挨拶をし、物置から機材を引っ張り出した柊羽は、さっさと駐車場に下りた。ワゴン車のトランクを開け、荷物を積み込む。
「柊羽。おはよう。あんたもやられた? あの寒い壮行セレモニー」
 後部座席に座っていた絵梨沙が、顔を出した。
「はよ。ああ、やられたよ。『卒業』って選曲が、少し不吉だよな」
「私は『Bad girl』だったわ! いくら自分のデビュー曲だからって、酷くない?」
 柊羽は思わず噴き出した。
 しばらくして、キーボードを抱えた貴裕がやってきた。
「貴裕、社長は何を歌った?」
「……『涙の溢れたワイングラス』」
「励ましのメッセージがある曲なの?」
「切ないラブソングだったよ」
 柊羽は、ますます笑ってしまった。
「俺、もう一台のシンセがあるから、また事務所に上がらなきゃいけないんだよな……」
 貴裕は、ぶつぶつ言いながらエレベーターへと消えていった。
 戻ってくるときは、満と一緒だった。
「おかえり、おはよう。社長の最後の一曲は何だった?」
 ギターケースを背負った満は首をかしげている。
「『大きな古時計』を歌っていただきました」
「何それ?! 童謡じゃん!」
 絵梨沙が目を剥く。貴裕は遠くを見つめ、
「たしか社長は若いころ、童謡のカバーアルバムを出して、100万枚売ったんだよな」
「それにしても、ここで歌う必要なくない?!」
 ようやく笑いがおさまってきた柊羽は、
「なんなんだ、あの社長。代表曲、暗い歌ばっかなのか」
「私たち、本当に応援されてるのかなぁ……」
 満は両手の指を組んでグネグネさせている。
「ま、まあ、みんな緊張はほぐれたよな。準備もできたし、出発するぞ!」
 貴裕の運転する車で渋谷へ向かう。日曜日ということもあり、朝の首都高速は空いていた。
 大会事務局から指定されていた時間通りに、会場へ到着する。楽器を所定の場所へ搬入し、自分たちは2号楽屋へ。大きな部屋がパーテーションで区切られ、神奈川・静岡エリアから九州・沖縄エリアまでの代表5組の控室となっている。既にほとんどの出場者が集まっており、空気はピリピリしている。
「わああ、コンテストって感じですね」
「コンテストだもの。さあ満、まずはメイクと衣装よ。用意はいいわね?」
「うん! この2ヶ月半の特訓の成果を見せつけちゃうよ!!」
 満は遠足に来た子どものように楽しそうだ。緊張しているよりはいいだろう。柊羽も着替え、ヘアセットとメイクを終えた。黄色のシャツに白のジャケットとパンツ、ゴツいチェーンのアクセサリー。普段の衣装より少し豪華にして、ワックスを強めにつけた。
 貴裕は黒の燕尾服を着ている。いつものスーツよりは装飾が多く、髪もオールバックにしているが、大して雰囲気は変わらない。
 女性陣はまだ鏡の前から動かないので、貴裕と最後の確認をした。
「曲間やMCの時間調整は俺がやる。演奏中のリズムキープは柊羽に任せるぞ」
「分かった。アカツキは早めるか? ゆっくりで行くか?」
「演奏順によって変えよう。一番手やトリなら早めで、そうでなければゆっくりで」
「いいけど、そんな不利な順番引きやがったら怒るぜ、オッサン」
「ああ、そうだな。大丈夫だ。俺、くじ運は良い方だから」
 貴裕は、まったく頼りにならなそうな細腕を叩いてみせた。
 ようやく女性陣の準備が整った。絵梨沙はセミロングの髪をハーフアップにしてティアラを着け、プリンセスラインを意識した膝丈ドレスを着ている。マゼンタピンクを基調に、ところどころ白を取り入れた優雅なドレスだ。メイクも頑張っていて、23歳くらいには見える。
 満は水色のプリーツスカートにシャツ、黒いブレザーとレースアップブーツという出で立ちだ。学生服をイメージした衣装で、清楚さを前面に出しつつ、さりげない色気を醸し出している。眼帯もスワロフスキーやリボンで飾り立てられ、ヘッドドレスのようになっていた。
「2人とも最高に可愛いよ」
「まあ、悪くないな」
 貴裕は臆面もなく褒め、柊羽は適当にお茶を濁した。
 いつの間にか、開会式の時間が近づいている。進行役のスタッフが走ってきて、ステージ袖へ移動するよう告げた。他の出場者たちとともに部屋を出て、ぞろぞろと廊下を歩いていく。
 分厚い扉を幾つか潜り抜けると、ざわめきが聞こえてきた。チケットは当日券までソールドアウト、場内は満員らしい。昨日のリハーサルとは、まったく違う空気だ。
『それでは早速、出場アーティストの入場です! 拍手でお迎えください』
 北海道エリアの代表から、一列に並んでステージへ出ていく。
 柊羽たちは黙って互いの顔を見たあと、貴裕、満、柊羽、絵梨沙の順で歩き出した。ぱあっと光の当たるステージへ出る。暴力的ともいえるほどの音の渦が、拍手が襲い掛かってきた。一瞬、めまいがする。現実味がない。ふわふわと雲を踏むような足取りだ。
 柊羽の左手、観客から見てステージ正面の奥に設置された大型ビジョンが明滅している。各出場者のアップ、それぞれの名前、選出エリアなどが表示されているらしい。画面が切り替わるたびに、それぞれのファンと思しき人々の歓声や拍手があちこちから聞こえる。
 と、思った瞬間、最前列が一斉に湧いた。
 何事かと右手側に視線を移して、ますます何事かと思った。
 最前から3列、ロクゼロTシャツが埋めている。
 シアン、マゼンタ、ブラック、イエロー。色の比率に偏りはあるものの、『#000000』の白抜き文字がステージの光を照り返し、燦然と輝いている。
「これは……エトオさんか」
 思わず呟いた。彼以外に誰がこんなことをするというのだろう。
 絵梨沙が耳元でひそひそと、
「私、エトオさんには、招待チケットを渡したのよ。だけど彼、自分でチケットを応募しまくって、200枚くらい当てたらしくて。他の出場者やエリアファイナル敗退者のファンコミュニティに顔を出して、交渉して、最前をまとめてくれたみたい」
 柊羽は、その光景をしっかり胸に刻み込んだ。
 ステンドグラスのように美しい。
 見とれているうちに、出場する全組の入場が終わった。
『これより演奏順を決定します! 代表者は、前に出てきてください』
 司会者のアナウンスに従って、11人が一歩前に出た。
 ステージの中央に箱が置かれている。まず、九州・沖縄エリアの代表が腕を突っ込み、『4』と書かれたボールを取り出す。さらに5人が同様の行為を続け、いよいよ貴裕の番だ。
 彼が取り出したボールには『6』と書いてあった。
 ――真ん中か。理想的だな。
 演奏順が早いと、コンテストが進むうちに、審査員や観客への印象がどんどん薄まって行ってしまう。遅いと、それまでに良い演奏をした出場者のイメージに引っ張られてしまう。ライブバトルコンテストという特性を考慮すれば、11組中6組目という出演順は、パーフェクトだ。
『決定した順番は、公式HPとSNSにも掲載されます。改めてご確認ください。それでは、出場者の皆さまは、演奏の準備をお願いします!』
 ステージの幕が下りていく。舞台の前方に残った司会者は、観客に向けてコンテストのルールを説明している。完全に幕が下りた後、袖から、進行役のスタッフが走ってきた。
「一番手の鹿野さん、準備してください。他の皆さまは楽屋へ戻って待機となります。自分の出演する15分前には舞台袖へいらっしゃるようお願いします!」
 出場者たちは、指示に従って散開した。
 満の足取りは軽やかで、ほとんどスキップしている。
「最前の3列、とっても綺麗でしたね!」
「ああ。ファンの行動力と団結力は、間違いなくうちが優勝だな」
「エトオさん、幾ら使ってくれたのかしら。破産してないといいんだけど」
「有難いな。貴裕も、良い順番を当ててくれてよかった」
 柊羽が言うと、絵梨沙も頷いた。
「そうね! 6組目ってことは、私たちが演奏するのは14時半くらいね」
「お昼ご飯、どうしますか?」
「先に食べておこう。俺が買いに行ってくるよ。……いや。その前に、まだしばらく時間があるから、外のスタジオを借りてリハーサルしようか」
 演奏順の遅いアーティストたちは、貴裕と同じことを考えているようだ。近場のスタジオを調べたり、電話で予約したりと動き始めている。
「あっ、私、昨日使ったスタジオの電話番号分かります!」
 満は楽屋へ戻るなり、スマートフォンを手に取った。幸い、そのスタジオには空きがあり、スムーズに予約が取れた。いったん衣装を脱ぎ、貴重品以外の荷物を残して外へ出る。
 たった1時間でも、直前に練習できたのは幸いだった。各曲の入りと終わり、サビの高まる部分、全体の流れを全員で確認した。
 会場へ帰る途中でコンビニを見つけ、昼食を購入した。
「何にしようかなぁ。エネルギーがほしいから、オムライスにしようかなぁ」
「元気ね。私はゼリーとおにぎりでいいわ。貴裕は幕の内弁当なのね」
「コンテスト前は和食を食べると決めているんだ。柊羽はどうする?」
「豚生姜焼き弁当で」
 13時過ぎに会場へ戻り、楽屋で昼食をとる。スマートフォンを見ると、友人や音楽仲間たちから激励のメッセージが届いていた。
『いよいよだな! ネット中継で応援してるぞ』
 圭也からのLINEに「ありがとう」とスタンプを返しておく。
 再び衣装を着て、メイクを直して、雑談をして、ストレッチをしていたら、14時になった。
「さあ、そろそろステージ袖に移動しましょう!」
 絵梨沙が立ち上がった瞬間、柊羽のスマートフォンが鳴った。
 電話の着信画面には『葵』と表示されている。
「……ごめん、親父だ」
「ったく、仕方ないわね。先に行っとくから、さっさと来なさいよ」
「分かった」
 楽屋を出ていく絵梨沙たちを見送りながら、柊羽は通話ボタンを押した。
「なんだよ」
 電波が悪いのだろうか。ざらざらした音が耳に障る。
『ごめん、柊羽。今朝、仕事で深刻なトラブルがあって、どうしても俺が動かないといけなくて。さっきオフィスを出たんだが、道が混んでいるんだ。
 もうすぐ出番なんだよな。間に合うかどうか』
「親父のオフィスって表参道だろ?」
『あ、ああ』
 無駄に透き通った父の声を聴いた瞬間、感情の糸が千切れた。
「バカ。この時間帯、この距離なら、電車の方が早ぇにきまってんだろ。自転車でもいい。いっそ走れ。今すぐタクシー降りて走りやがれ。一人息子の晴れ舞台だぞ!」
 電話の向こうで、ハッとする気配がした。
「……親父にも色々あったんだな、っていうのが、最近ようやく分かったからさ。親父が出来なかったぶんまで、頑張って見せるから。つべこべ言わずにさっさと来いよ。俺が、本当の愛ってやつを教えてやる」
 返答を待たずに通話を切り、スマホを放り投げる。
「ったく、本番前にやめてくれよ」
 柊羽は額を押さえた。葵は本当にバカでクズだ。何故、こんなにも感情をかき乱されなければいけないのか。自分が動揺していることに、最も動揺していた。
「落ち着け、俺。親父が来ようが来なかろうが、どうでもいいじゃねぇか」
 自分は父に何も期待していないはずだ。
 こんなにも腹が立つのは、緊張しているせいかもしれない。
「あー、クソ。俺が冷静じゃねぇと、ロクゼロの音はまとまんねぇんだよ」
 満の楽曲は先進的ゆえに不安定だ。ギタープレイも上手いが脆い。絵梨沙は歌うことしかできない。貴裕のピアノは美しいが、彰将が弾いていた骨太なベースに比べて繊細過ぎる。今のバンドメンバーでは、全体のリズムを締められるのは柊羽しかいない。
「……とりあえず、行くか」
 無駄に勢いよく楽屋のドアを開け、廊下へ踏み出そうとして、
「うわぁっ」
 大きく後ずさる。
「柊羽くん、大丈夫?」
 ギターを提げた満が、申し訳なさそうな顔で立っていた。
「驚かせてごめんね。私、心配で、待ってたの」
「いや。こっちこそ、注意散漫になってて、悪かった…」
 謝りながら、頭を下げる。満の身長は、柊羽と同じくらいだ。今朝、シャワーを浴びてセットしたというショートヘアの髪から、シャンプーの匂いが漂ってきた。彼女がインターネットCMに楽曲提供をしているBOTANISTAのものだろう。
 懐かしい匂いだ。遠い記憶が呼び覚まされる。
 ――おい、大丈夫か。起きてるか?
 あれは、寒い冬の日だった。
 佳奈が風邪を引いて熱を出し、学校を休んだ。柊羽は、まだ小学5年生で、学校の授業は4時間目までしかなかった。昼過ぎに家へ帰ると、柳がキッチンでまごまごしていた。
 ――おかえり、柊羽。佳奈ちゃんが、まだお昼食べとらんのよ。わしが呼んでも返事してくれんでな。様子を見てきてくれんか。
 葵も理奈も、当然仕事中でいない。仕方がないので、柊羽は佳奈の部屋に向かった。部屋の扉をノックした。
 ――おい。おかゆがあるんだってよ。ちゃんと食べて、薬を飲んだ方がいいんじゃねーの。
 返事はない。放っておくべきだろうか。しかし具合が悪化していて、本当は助けてほしいのに、声も出せない状態だったらどうしよう。
 柊羽は悩んだ結果、彼女の部屋の扉を開けた。
 ふわっ、と溢れてきた香りに包まれて、びくっと身体が震えた。馴染みのない、とても良い匂いだった。鼓動が高まるのは何故だろう。分からなかったが、いつまでも入り口で立ち尽くしているのはおかしい気がした。柊羽は自分を奮い立たせ、中へ足を踏み入れた。
 室内は白とレモンイエローで統一されていた。花柄のカーテンも絨毯も、優美な曲線が特徴的なロココ調の箪笥も、『ザ・女の子』という印象しか与えてこない部屋だった。
 佳奈は布団にくるまっているようで、腕も足も髪の毛の一本すらも見えない。花と蝶々が描かれた可愛らしいデザインのベッドカバーは、こんもり盛り上がっている。微かに上下しているので、とりあえず死んではいないらしい。
 ホッとしつつ近づくと、ピコピコした電子音が聞こえてきた。ベッドの枕元に置かれたアイパッドで、ニコニコ動画が再生されている。この音が柊羽の声をかき消したのかもしれない。それはともかく、耳元で音楽が鳴っているのは、病人の身体に悪いのではないか。
 柊羽は、何気なくアイパッドに手を伸ばし、動画を止めようとした。
 ものすごい勢いで布団がふっとんだ。真っ白な佳奈の手が伸びてきて、柊羽の腕を掴む。熱くて柔らかかった。心臓が跳ねた。
 ――止めんとって。chil*chilの曲、止めたら、ダメ。
 掠れた声で懇願する佳奈の瞳は潤んでいる。柊羽は思わず息を飲んだ。なんと言えばいいか分からず、自分でも間抜けだと思う声で質問を返した。
 ――ちるちるって、何?
 佳奈は二、三度咳をしてから、
 ――検索しよったら、たまたま見つけたんよ。去年から毎週ギターの動画をアップしよる子。すごいんよ。どんどん上手うなるん。最近はこういうボカロの曲も作りよって。『Star』ってタイトルなんよ。素敵やろ。
 打ち込み丸出しのサウンドと機械で合成された歌声は、お世辞にも聴きやすいとは思えなかったが、佳奈の熱に押されて頷いた。
 そんな柊羽を見て、彼女は微笑んだ。
 ――辛い時も苦しい時も、音楽は心の中にあって、星みたいに輝いてくれるんよ。嬉しい時も楽しい時も、ずっとそばにおってくれるん。やけん頑張れるんよ。
 それが『Star』という曲の歌詞なのか、佳奈個人の感想なのか、柊羽には判別がつかなかった。ただ、彼女がその歌を心の支えにしていることは伝わってきた。
 ――わかったよ、止めない。だから、おかゆ食べて、薬を飲めよ。
 ぼうっとした顔の佳奈としばらく見つめ合った。曲のサビが始まって終わるくらいの時間が流れて、やっと彼女は頷き、柊羽の手を放してくれた。
 動くのが辛そうだったので、おかゆと薬を部屋まで運んでやった。大人しく食事を始める佳奈を見ていて、ふいに理解した。
 葵が再婚し、急に友達から『姉』という存在に変わった佳奈に対して、どんな距離感で接すればいいのか分からずにいた。その理由に気づいた。むしろもっとずっと前、はじめて彼女に会ったときから渦巻いていた気持ちの名前を、見つけたのだ。
「……柊羽くん?」
 心配そうにこちらを見つめている満の顔にハッとした。
「ああ、ごめん。大丈夫だ」
 頭を振って感傷を追い出し、現実感を取り戻す。ここは渋谷公会堂の楽屋。もうすぐBreak Pointのジャパンファイナルの本番だ。
 俺は10歳の子どもじゃなくて、18歳のプロドラマー。目の前にいるのは12歳の佳奈じゃなくて、20歳の満。あの時、あの場に流れていた音楽を作った、chil*chil本人。
 柊羽は万感の思いを込めて伝えた。
「ありがとう、満」
 当時はよく分からなかったが、きっと佳奈は辛かったのだ。物心ついてすぐ両親が離婚し、母親は育児放棄気味であまり構ってくれず、寂しい思いをしていたのだ。柊羽より2つ年上な分、葵と理奈の再婚について思うところも、柊羽よりずっと多かっただろう。それでもなお、前向きに生きようとしていた佳奈を支えていたのは音楽だった。
 それは、柊羽にも希望を与えてくれた。
「この世界に満がいなかったらと考えると、ぞっとするよ。8年前、小学生だった俺に…俺たちに、音楽の素晴らしさを教えてくれてありがとう」
 満は静かに瞬きをした。
「……そのころの私は死にたくて、死ねなくて、ただ自分が呼吸を続けるために、なんとか音楽をしてただけだよ」
「そか。じゃあ、死なないでくれて、ありがとう。生きててくれて、ありがとう」
 柊羽は、満に右手を差し出した。
 その手を見つめた満の右目から、涙がこぼれた。

5.00 佳奈 note.6

 2020年10月4日9時58分、佳奈は渋谷駅にいた。
「人、少ないなぁ」
 ハチ公改札を出てすぐのところで立ち止まり、スクランブル交差点を眺める。東京は徳島より朝が早いのに、店が始まる時間も、人々が行動を開始する時間も遅い。
 右手首につけたラバーバンドを見る。今日のイベントは10時開場、11時開演だ。ここから渋谷公会堂までは歩いて15分もかからない。
 だが、佳奈はその場から動けなくなっていた。
「私、本当に、行くのかな」
 拓海にあれほど強く言われて、家にとどまっていられるほど面の皮は厚くなかった。もちろん、彼にチケットを突き返す度胸があろうはずもない。
 ――なんでそうやって現実から目をそむけるんだよ。
 ――佳奈は、何を考えてるんだかさっぱり分からないよ。
 ――佳奈にとっては、そうなんだろうな。
 彼が最後に投げてきた言葉たちは、まだ胸に突き刺さっている。溢れる血が止まらない。
「拓海の方こそ、何がしたくて何を言いたいのか、よく分かんない」
 言い訳がましく呟いてみるが、きっと悪いのは佳奈だろう。彼からの誘いを何度も断った。夏休みで実家に帰省しているからといって、一ヶ月もろくに連絡を取らずに放置していた。振られてしまっても文句は言えない。それなりに好きだったので残念だが、仕方がない。
 それでもchil*chilの、いや、柊羽たちのバンドのライブを見るかどうかは、別問題である。
 うだうだしているうちに、時間が過ぎていく。スマートフォンをチラ見し、スクランブル交差点を眺め、またスマートフォンをチラ見し―…と繰り返していたら、時刻は10時半になろうとしていた。
「どうしよう」
 会場へ行くなら、そろそろ歩き出さないといけない。
 決めきれずにいたとき、すぐ近くから、年寄りの声が聞こえてきた。
「すみません。ちょっとお尋ねしますけんどなあ、渋谷公会堂っちゅうんはどこですか。こっからどないして行ったらええんですかね?」
 渋谷の真ん中で、こんなに強烈な阿波弁を聞くとは。
 思わず声の方を見やると、ハチ公前の交番に老人が立っている。髪や髭こそ白いが、背筋はしゃんとして、人懐こい笑顔には若々しささえあった。
「り、柳さん」
 柊羽の祖父、冷泉院柳だ。偶然にしては出来すぎている。いや、そうでもないか。きっと彼は柊羽のライブを見に来たのだ。それなら渋谷駅を使うだろうし、地方から来た老人が道に迷い、交番を訪ねるのはありがちなことだ。
 柳に話しかけられた巡査は、面倒くさそうに地図を取り出し、道順を説明しはじめた。あまりにぶっきらぼうな対応で、彼が気の毒になる。見過ごすには良心が痛んだ。
 声をかけようと思い、一歩踏み出しかけて、ハッとした。
 鞄の中を探り、黄色とオレンジと黒の石を繋いだブレスレットが入った袋を取り出す。母が「柳さんから預かった」と言って渡してきた誕生日プレゼントだ。色合いが普段の服と合わないし、どのように扱うべきか迷った挙句、ずっと鞄に入れていた。本人に会うなら、身に着けておいた方がいいだろう。
 思い切って袋を開ける。ラバーバンドを左手首に移し、右手首にブレスレットを着けた。天然石で作られているだけあって、かつてのミサンガより、ずっと重量感がある。
 柳は、巡査から譲り受けた地図を手にして歩き出したところだ。
「あの、柳さん。お久しぶりです」
 振り返った彼は怪訝そうな顔をしていた。
「ん? どちらさんやろか」
「あ、えっと……鈴木佳奈です。理奈の娘です」
 彼は目を丸くした。
「いやあ、佳奈ちゃんかえ! 綺麗になったなぁ」
「お久しぶりです。お元気そうで何よりです」
「こんなところで会うんや奇遇やなぁ。ほうか、東京の大学に行っとんやったか」
 彼はふむふむと頷いたあと、佳奈の手首のブレスレットに気が付いた。
「ああ、ちゃんと貰うてくれたんやな」
「はい。ありがとうございました。御礼ができていなくてすみません」
「いやいや、たいしたもんでないけん。お誕生日おめでとう。
 ……ん? ちゅうことはもしかして、佳奈ちゃんも柊羽のライブを見に来てくれたんか? あいつが喜ぶわ!」
 ふわっ、と周囲の空気が温かくなった気がした。
「よ、喜んで……くれるでしょうか」
「当たり前よ! いやー、助かった。実はわし、迷子になっとってな。10時に駅へ着いたんやけど、会場がさっぱり分からんのよ。さっき地図を貰うたんじゃけど、やっぱりようわからん。佳奈ちゃんも会場に行く途中やったら、一緒に連れて行ってくれんか」
 ここまできたら断りようもない。
 佳奈は柳とともにスクランブル交差点を渡り、公園通りを歩き出した。
「東京は人が多いなあ!」
「まだ朝だから、少ないですよ」
「これが少ない状態なんか? おっとろしいなぁ」
 柳は今年で75歳のはずだが、足取りはしっかりしていた。
「いつ、東京にいらっしゃったんですか?」
「今朝じゃ。8時半に羽田へ着いたんよ」
「朝早くから大変でしたね」
「うむ。柊羽は『前日から泊まりに来れば』って言うてくれたんやけどな。わしは湘南の家に足を踏み入れるんは初めてなんじゃ。ずっと話しか聞いとらんでな。そんな場所へ2泊もするやなんて、心臓に悪すぎる」
 マルイの角で左折し、ゆっくり坂を上りはじめる。
 柳が自然に柊羽の話をするので、佳奈の心もほぐれてきた。
「……しゅうちゃんとは、よく連絡を取るんですか?」
「いいや。この夏、6年ぶりに家に来たんよ。急に庭から現れて、わしゃ心臓が止まるかと思うた」
「庭から?」
「ああ。部屋で太鼓の練習をしよったら、どっかから『じいちゃん』と呼ぶ声が聞こえてな。気のせいかと思いつつ、外を確認してみたら、庭の真ん中に立ち尽くしとった。顔色も悪いし、生霊かと思うた。ホラーじゃった」
 懐かしい庭での光景を想像し、ふっと微笑む。
「それでも、すぐにしゅうちゃんだって分かったんですね」
「葵やわしの若いころに生き写しやけんなあ。本人は嫌がっとったが」
「……写真や動画でしか見てませんけど、昔とは随分、変わってますよね」
 ぽつりと呟く。柳は破顔一笑した。
「いやいや、変わらんよ。意地っ張りで、真面目で、寂しがりでなあ。
 顔や姿こそ、わしらの若いころと似とるが、中身はさっぱり違うわ」
「はあ……」
 パルコの前を通り過ぎると、目的地が少しずつ見えてきた。坂がきつくなる。道路を走る京王バスが、佳奈たちを追い越していく。
「わしの親父は、太平洋戦争のとき、特攻隊の一員として死んだ」
 唐突に柳が重い話をはじめたので、佳奈はびっくりした。
「え? えっと」
「すぐ終わる話やけん、ちょいと聞いてくれ。
 母さんは女手一つでわしを育ててくれた。恩給があったり、親父の両親のサポートがあったりで、そこまでしんどうなかったらしいが……やたらわしに甘かった。わしが年を取ればとるほど、親父に似てきたけんやそうじゃ。母さんは親父が大好きじゃった」
「……」
「わしはとんでもないバカ息子に育った。好きなことだけやってきた。葵が生まれても、ろくに構うたらんかった結果、とんでもないクズに育ってしもうた。そんなわしらのしわ寄せが、全部、柊羽にいってしもうたんじゃなぁ」
 彼は、静かに首を振った。
「わしらが阿呆でクズなんは取り返せんが、せめてあいつは、幸せになって欲しいと思うよ」
 人のざわめきが大きくなってきた。ライブ会場が近いのだろうか。
「柳さんは良いお祖父ちゃんですよ。葵さんも、良いお父さんです。だって2人とも、しゅうちゃんのことが好きで、できるだけのことをしようとしてるじゃないですか。今日もこうして、遠くからライブを見に来てる。
 私はずっと、しゅうちゃんが羨ましかったですよ」
 本音だ。彼が何をもって「わしらは阿呆でクズだ」と断じているのか分からないが、理奈よりはマシだ。自分の子どもに対して無関心である方が、よほど罪深いと思う。
 柳は、目をしばたいた。
「……ありがとう。すまんな、妙な話を聞かせてしもうた」
「いえ。そんなことはないです」
 左斜め前方に、カラフルなガラスとタイルで覆われた建物が現れた。渋谷公会堂だ。看板を持ったスタッフの案内に従って、入場口へ歩く。
 柳は感嘆の声を上げている。
「おおー、これが今日の会場か。大きいなあ。こんなとこで演奏するなんて立派なもんじゃ」
 入り口では、早速チケットのチェックがあるようだ。
「チケットを出しておいた方がいいみたいですよ」
「ん? これか、これじゃな!」
 彼はポケットからラバーバンドを取り出すと、佳奈をしげしげ見て、さらに周りの客たちを見て、同じように右手首にはめた。入り口のスタッフはバーコードリーダーを持ち、それぞれのQRコードを読み取って席を案内していく。
「1階の1列31番ですね。1R-1からお入りください」
「2階の1列14番ですね。2C-1からお入りください」
 簡単な手荷物検査が終わり、エントランスに到着して腕時計を見ると、開演10分前だった。
 エスカレーターを上りながら、柳は破顔した。
「ちょうどいい時間やな。佳奈ちゃんのおかげで助かったわ」
「こちらこそ」
 佳奈は微笑んでみせた。あの場で柳に会っていなければ、ここまで足を運んだかどうか自信がない。きっと、神様の思し召しなのだろう。
「いやあ、ほんと、佳奈ちゃんから声をかけてくれんかったら、全然わからんかった。女の子は、すぐ綺麗になるなぁ。
 こうまじまじ見ると、昔の面影はあるが……理奈さんには似とらんなぁ」
「私は父親似なんです」
 ちょっぴり誇らしげに伝えると、柳は繰り返し頷いた。
「ああ、ほうか。ほなけど……なんとなく、翼さんに似とんな。
 佳奈ちゃんは、お酒は好きかえ?」
「え? ええ、一応、普通に飲めますが」
「はっは。ほうか、まあ、こっちの話じゃ。ほな、わしは2階席に行くわ」
「お気をつけて。ありがとうございました」
 佳奈は、彼がもう一つ上の階へ向かうのを見送った。ホワイエは大勢の人でごった返している。それらをかきわけ、佳奈もホールへ入った。
「わぁ……」
 明るいブラウンの壁に白い床。2階席と3階席のバルコニーはダークブラウンで、赤と臙脂が入り混じった座席の背と合わせ、全体をきゅっと引き締めている。天井は高く、降り注ぐ照明は夜空の星のように輝いている。静謐な雰囲気は高校の講堂に似ているが、広さも綺麗さも段違いだ。
 自分の座席はすぐに見つかった。座る前に周囲を見渡して、驚く。
 みんな同じデザインのTシャツを着ているのだ。
 シアン、マゼンタ、ブラック、イエロー。『#000000』という文字が書かれたTシャツはカジュアルで、この会場のクラシカルな優雅さに似合わない。それでも数の暴力というべきか、これだけ揃っていると美しかった。
 ――こんなに沢山のファンがいるバンドなんだ。
 佳奈は驚きながら、ジャケットを脱いだ。ちゃんと下にTシャツを着てきてよかった。この状況では、着ていない方が浮いてしまう。
 よくよく会場の奥の方を見渡せば、他にも、明らかに市販品ではなさそうなデザインの服を着た人たちがいた。音符のマークだったり、鹿のキャラクターだったり、いろんなシンボルが描かれている。他の出場者のグッズなのだろう。
 ――ここにいる人は、みんな誰かのファンなんだなぁ。
 当然のことに思い至り、佳奈はじーんとした。
 今日のライブの出場者に、メジャーアーティストは一人もいないのだ。「好きな俳優が出ているドラマの主題歌を聞いて気になったから、その一曲以外は知らないけど来てみた」なんてミーハーなファンがいるはずもない。みんな自分の好きなアーティストを応援するために、コンテストで賞を取るところを見るために、わざわざここへ集まっているのだ。
『まもなく、第5回Break Point、ジャパンファイナルが始まります』
 ブザー音とともに照明が落ち始めた。慌てて上着を畳み、膝の上に置く。
 ステージの正面奥に、大型ビジョンが設置されていた。『第5回Break Point』の文字に続いて、賑やかなBGMとともに、様々なライブハウスで演奏するアーティストたちの姿が映る。今日の出場者だろうか。エリアファイナルまでに敗退した人たちだろうか。
 最後に『2020.10.04(Sun) JAPAN FINAL at SHIBUYA』の文字が映った。周りの人たちが拍手をしたので、佳奈も真似をした。
 舞台袖から若い女性が出てきた。スポットライトに照らされた彼女は、左手に白い本のようなもの、右手にはマイクを持っている。
『皆さま、本日はご来場ありがとうございます。司会を務める柴田と申します。よろしくお願いいたします。それでは早速、出場アーティストの入場です! 拍手でお迎えください』
 ビジョンに『北海道エリア代表 NATALY』の文字が表示され、舞台袖から入ってくる女性がアップになった。会場のあちこちから歓声が沸き起こる。次は『東北エリア代表 ただのケンジ』。北部エリアの代表から順に入場しているようだ。
 しばらくして『神奈川・静岡エリア代表 六度目のゼロ』が現れた。周囲の人々が興奮する。
「chil*chilー!」
「ミチルー!!」
「シュウーっ」
「タカヒローッ! ロクゼロ―ッ」
 最前列中央の男性の絶叫が、とりわけ熱く響き渡った。
「エリサぁぁあぁぁ! 今日も世界一可愛いよぉぉおぉ!!」
 メンバー達はステージの奥の方にいる。ここからだと、司会者が邪魔でよく見えない。佳奈は雰囲気にのまれたまま、ぱちぱちと手を叩き続けた。
 入場が終わると、くじ引きがあった。柊羽たちのバンドは、6組目に演奏するようだ。
『では、出場者の皆さま、演奏の準備をお願いします!』
 あっという間に幕が下り、出場者たちの姿は見えなくなった。
 舞台の前方に残った司会者が、ルール説明を始める。
『ジャパンファイナルでは、来場者さまおよびインターネット中継の視聴者さまからの投票と、10名のゲストおよびスポンサー企業担当者の審査によって、受賞者を決定します。ポイントには2種類あります。「アーティストポイント」と「ライブポイント」です。
 まず来場者さまは、ご自身のラバーバンドのQRコードをスマートフォンで読み込んでください。「アーティストポイント」が100、付与されます。今この瞬間から、最終演奏者の演奏終了15分後まで有効です。お好きなアーティストに好きな比率で投票してください。
 また、各出場者の演奏が終わるごとに、「ライブポイント」が10、追加されます。こちらは各組の演奏終了後15分間のみ有効で、演奏したアーティストにのみ投票できます。聴いたばかりの演奏の素晴らしさを10段階で評価する、と考えていただければ幸いです。
 インターネット中継を視聴されている皆さまは、まず、大会事務局にメールアドレスをご登録ください。登録が完了すると、「アーティストポイント」が50、付与されます。次に、応援したいアーティストの演奏を10分以上ご覧いただくと、「ライブポイント」が10、追加されます。それぞれの使い方は来場者の皆さまと同じです。
 これらのルールは、大会事務局の公式ホームページでも確認できます』
 複雑そうで簡単なルールだ。来場しているファンが多い方が、有利ではある。
『では、これにて開会式を終わります』
 BGMが切り替わり、ステージが暗転した。強烈なスポットライトが司会者を照らし出す。
『まもなく登場する1組目の出場者は、東京エリア代表、鹿野レイさんです。2010年より活動を開始した、英語・ドイツ語・韓国語を話す、マルチリンガル・シンガー。明るい曲からしっとりしたバラードまで、夢と愛に溢れたガールズ・ポップをお楽しみください』
 会場のあちこちから拍手が湧きおこった。「レイちゃーん」「がんばってー!」などの声が飛ぶ。まもなくして幕が上がり、シンセサイザーのイントロが鳴り響いた。
 ぱっとステージが明るくなり、舞台袖から女性が現れる。
『こんにちは、鹿野レイです! 1曲目「Dreamy Rain」、聞いてください』
 降りしきる雨の様子を、情緒たっぷりに描いた歌詞が特徴的だ。ボーカルの笑顔にも癒される。優しい声だな、と思っているうちに曲が終わった。MCを挟んで2曲目、3曲目へ。30分は意外と短い。最初は地蔵のように固まっていた佳奈も、途中からは手拍子を入れ、最後の楽曲は身を乗り出して聴き入っていた。
 周囲の客は曲間で席を立ったり、スマートフォンを触ったりしている。
 鹿野という女性のステージが終わると、今度は男性5人組のバンドが登場した。また30分演奏して、次へ。さらに次へ。
 佳奈は席に座ったまま、ぼうっとステージを眺め続けていた。
 途切れることなく現れるアーティストたちは、みんな歌が上手かった。楽器隊も素敵な演奏をしていた。以前、地区大会の中継を見たときも思ったが、「今期のアニメの主題歌です」「話題のCMソングです」と紹介されたら信じてしまいそうなクオリティの楽曲ばかりだ。
 ――今、メジャーで活躍しているアーティストと、ここにいる人々の違いはなんなんだろう?
 運。縁。タイミング。努力して身に着けられるものとは違う次元の要素が、多く絡んでいるに違いない。それでも彼らは、それらを掴むために努力して、このステージ立っている。
 ――怖くないのかな?
 純粋な疑問が、心に浮かんだ。
 ――たくさんの時間とお金をかけて、夢を見て、叶えようとして、叶わなかったらどうするの?
 アーティスト側だけではない。この会場に集まっているファンも同様だ。
 拓海は、これは全国規模の大会だと言っていた。柳のように朝から飛行機に乗り、地方から応援に来ている人が、他にもいるかもしれない。
 ――それだけ手間暇をかけて、心を砕いた相手が、良い結果を出せなかったらどうするの?
 当日の演奏がつまらなかったら。賞を取れなかったら。
 ――何一つ報われなかったら、嫌になってしまわないのかな?
 好きだったはずの音楽を、嫌いになってしまわないだろうか。好きだったはずのアーティストを、嫌いになってしまわないだろうか。そんな未来が怖くはないのだろうか。
 ――いつか失うくらいなら、どうせ得られないのなら、そもそも得ようとしなくていい。その方が楽で幸せだ、とは思わないのだろうか?
 佳奈は、怖い。ネットでchil*chilの話を聞いて、『六度目のゼロ』を聴いて、なんとなく彼女や柊羽の想いを理解できた気でいても。
 実際のchil*chilが、佳奈の理想と違って、長年の心の支えを失うことが怖い。実際の柊羽の想いが、佳奈の推察と違って、がっかりすることが怖い。
『関西ブロック代表、call...it singsのお二人、お疲れ様でした!』
 暗転した場内で、司会が声を張り上げる。
『次に登場するのは神奈川・静岡エリア代表、六度目のゼロです。今年5月に結成した、4人組のロックバンド。幅広いジャンルの音楽を取り入れた革新的なサウンドと、ポップでキャッチ―なボーカルによる、新時代のJ-POPがここにあります。「何があっても諦めず、好きなものを好きでいよう」。強いメッセージをこめた楽曲群をお楽しみください』

5.01 柊羽 note.5

 手を繋いでステージ袖に現れた柊羽と満を見て、大人2人は、明らかに何かを言いたそうな顔をした。しかし、問い詰めないことにしたらしい。
「遅いぞ、柊羽」
「もう。満までいなくなるから、心配したじゃない」
 満は何事もなかったように柊羽の手を離し、絵梨沙の元へ駆け寄った。
「ごめんなさい。まだ時間、大丈夫だよね?」
「ええ。ちょうど今、本番15分前よ」
 柊羽が近づいていくと、貴裕は目を細めた。
「問題は解決したか?」
「……まあ、そうだな。柄にもなく緊張してたけど、もう大丈夫だ」
 ステージでは、前の出演者が演奏をしている。
『それではラスト2曲、続けて聞いてください。「さくらら」、そして「Life」です』
 電子ピアノが奏でるメロディと歌の粒を乗せ、ゆったり流れる伴奏。実に美しいバラードだ。袖で待機しながら聴くだけで、心が洗われていくようである。観客席でちゃんと聴くことができたら、さぞ耳が幸せだろう。
 絵梨沙が、両手をパンと叩き合わせた。
「じゃあ、円陣するわよ。集まって」
 一体どういう発想だろう。
「はあ? 体育会系の部活じゃあるまいし、なんで、そんなことすんだよ」
 柊羽は呆れたが、満は目を輝かせて、
「円陣! すごく青春っぽいです!」
「たしかに。俺もずっとソロでやってきたから、こういうのは初めてだな。柊羽も、文句を言わずに集まれ」
 燕尾服の襟を直した貴裕は、子どものような笑顔を浮かべている。
 柊羽はしぶしぶ輪に近づいて、満と貴裕と肩を組んだ。
「で? こっから、どうすんだよ」
「私に任せなさい。アイドル時代は声出し担当だったの。ああ、でも、ステージの邪魔をしないくらいの声量でやらないとね」
 絵梨沙は咳ばらいをして、
「そうね…。『今日こそ勝利するのは誰だ?』『私たちだ!』『六度目のゼロ!』『行くぞ!』にしましょう」
「わあ、青春だぁ。せっかくなら最後は『刻むぞ!』『六度目のゼロ!』が良いかも」
「実に、いい掛け声だな」
 柊羽は、もはや返事をするのも面倒になって、一つだけ頷いた。
 絵梨沙が息を吸い込む。
「今日こそ勝利するのは誰だ?」
「私たちだ!」「俺たちだ」「俺たちだ!」
「刻むぞ!」
「「「「六度目のゼロ!」」」」
 タイミングを見計らったかのように、スタッフが声をかけてきた。
「転換3分前です。演奏終了時にいったん、照明を落としますが、幕が完全に下りたら明るくなります。call...it singsさんと入れ替わりでセッティングをお願いします」
「はい!」
 あっという間に、その時は来た。
 直前まで演奏していた男女ユニットが去り、彼らが使っていた2台のキーボードが運び出される。即座に柊羽のドラムセット一式、満のギターとエフェクター、貴裕のキーボードとシンセサイザー、絵梨沙のスタンドマイクを搬入。簡単に音出しをして、不備がないかを確かめる。
 最初に顔を上げたのは貴裕だった。次に絵梨沙、満と目を合わせ、柊羽は右手を上げた。準備完了。ゆっくりと、ステージの幕が上がっていく。
 舞台と幕の隙間から、ロクゼロTシャツで埋まった最前列が見え始める。
 ――本当に良い景色だな。ワンマンライブを始める気分だ。
 会場にいる全員が、自分たちの客に思えてきた。エトオのおかげだ。
 さらに、漆黒の観客席の手前で、ステージからの光に照らされた四原色のTシャツは、幼いころに見た提灯の色を思い起こさせた。
 ――浮かせる。
 しらさぎ台の集会所で、老婆から教わったことを思い出す。三味線と笛と鉦鼓、自分の締太鼓に合わせて舞う踊り手たちの笑顔。年に数日の阿波踊りに、命を懸ける人々の音楽。
 ――俺のドラムで、満を、貴裕を、絵梨沙を、観客を、ネットで視聴している人たちを、みんな『向こう側』へ連れて行く。
 完全に幕が上がった。柊羽はスティックを打ち合わせ、シングルカウントを行なう。
 1曲目の『アカツキ』は王道の応援ソングだ。コード進行も、メロディも歌詞も、誰もが気持ちよく聴ける作り方をしている。悪く言えばありがちな楽曲を支えているのが、満のギターだ。からっとした骨太のメロディは一度聴いたら忘れられない。
 しかし、緊張したのだろうか。彼女は間奏のリフを間違えた。
 もっとも、即座にアレンジで誤魔化したので、観客にはミスと分からなかっただろう。流石だ。
 絵梨沙は、気持ちよさそうに1曲目を歌い終えた。
『皆さんこんにちはー。「六度目のゼロ」、ボーカルのエリサです!』
 簡単な自己紹介のあと、最前を埋めているファンへのお礼を述べる。
 このMCは、ほぼ柊羽のためにあった。次の『Adult』はドラムソロから始まるハードな曲だ。アップテンポの『アカツキ』と続けて演奏するため、柊羽の休憩時間を稼いでくれているのだ。
 息を整えていると、貴裕の視線が絡んできた。先ほどの満のミスを気にしているようだが、ピアノの位置からでは、彼女に声をかけられない。
 柊羽は、こっそり満に囁いた。
「満。良いアドリブだったな」
 がちがちに固まっていた満の表情が、少しだけ和らいだ。
『さて、そろそろ次の曲に行きたいと思います。いいわね、シュウ?』
 絵梨沙に答える代わりに、スティックを掲げた。照明が絞られる。
 頭を空っぽにして、心の赴くがままにロールする。深紅のライトが世界を満たす。クソったれな人生への不満を、やり場のない怒りと憎しみを、叫びたいだけ叫ぶ。
 柊羽がやりたい放題なぶん、絵梨沙のボーカルはシンプルだ。満は髪を振り乱してジャンプしている。貴裕はシンセの音色で遊んでいる。
 シンバル・チョークで叩き終え、柊羽は灰になった。
 全ての音が終わり、照明が落ちて真っ暗になる。
『きっとほんとのサヨナラを
 私は一度も したことがない
 二度と会えないあなたでも
 いつも 一緒に過ごしているから』
 カウントなしで絵梨沙が歌い出す。キーボードがそれに寄り添い、ギターが入り、一番のサビからドラムも加わる。ボーカル主体の『EverSeen』の面白さを前面に押し出したアレンジだ。そもそもこの曲は、絵梨沙の歌唱力と英語力をアピールするために書かれた節がある。
『はい、2曲続けて聴いていただきましたー! ここで、プロデューサー兼ピアニストのタカヒロにも挨拶してもらいましょう』
 貴裕にマイクを投げ渡した絵梨沙は、ペットボトルの水を口に含む。柊羽も汗をぬぐった。
 満は何も言わないが、ロクゼロの楽曲は、メンバーそれぞれに当て書きしているようだ。おそらく『Adult』が柊羽、『アカツキ』は彰将をイメージしている。貴裕に宛てたのは、4曲目の『海と森と空の恋人』だろう。
 ピアノソロから始まる本格的なバラード。クラシックの名曲に勝るとも劣らない優美なメロディ。貴裕の技巧と相まって、情緒的で広がりのある世界が生み出される。柊羽も、潮騒をイメージして、静かにドラムを叩いていく。
 1番が終わり、2番が終わり、Cメロから大サビへ。
『恋というものが心なら 感情だというのなら
 海よ、私は 何を信じればよいのでしょう?
 あなたのあなたらしさに 愛がありますように
 私は、この海と 森と 空の恋人』
 楽曲の最後も、ピアノのソロだ。長く複雑なフレーズをいとも簡単に弾き終えた貴裕が、ちらりとこちらを見た。
 ――分かってるよ、オッサン。もうちょっと、あと数秒、余韻を残したいんだろ。
 ギターを構えなおした満も、ちらりとこちらを見る。
 ――分かってるよ、chil*chil。恋人のアウトロから、ロクゼロのイントロへの繋ぎが一番引き立つのは、このタイミングだろ?
 柊羽は、さりげなくバスドラムを刻み始めた。
 ――さあ、俺たちのお姫様。タイトルコールを頼むよ。
 こちらに背を向けたままの絵梨沙は、まるで柊羽の目配せを受け取ったかのように、
『続けて聴いてください。最後は、私たちのバンド名を冠する曲です。「六度目のゼロ」!』
 勢いよく、オープンハイハットでカウントを叩く。
 絵梨沙は歌いだしの音をぴたりと当てた。伴奏から間奏へ、貴裕の指は淡々と鍵盤を刻み、満のギターフレーズへ繋ぐ。
 完璧な入りだ。史上最高だ。この仕上がりをこの場面で出せるなんて。
 これは行ける。
 心地よい音の渦に身を委ねそうになりかけて、そんな自分を戒める。改めて様子をうかがうまでもなく、お姫様は絶好調だ。貴裕も『美しい音楽の宴』に酔っていることは明白だ。しかし、ほんの少しだけテンポが怪しい。
 柊羽はバックビートのスネアを強く鳴らした。
 ――お前ら、楽しくやっていいけど、俺のビートからは外れんなよ。
 ぐっと二人の手綱を握りなおしたところでハイハットを刻み、一番のサビに向けてフィルを入れる。
 クラッシュを打った瞬間、満と目が合った。微かに苦笑している。
 ――ほんと、うちのオッサンとお姫様は、すぐトリップして大変だよな。
 柊羽は微笑み返した。
 ――最後だし、お前も行っちゃっていいんだぜ?
 満の笑顔の質が変わった。
 スポットライトのさらに上から彼女に向けて降り注ぐ、金色の光が見えた気がした。キィーン…と、耳鳴りにも似た音が空を裂く。サビの途中で唐突に始まったギターソロは、ボーカルに寄り添うと見せかけ、がっつり反発しながら昂揚していく。そんな無茶な、と言いたくなる展開のメロディだ。
 だが、胸を打たれる。これ以上ないほど締め付けられる。
 観客の歓声に驚嘆が混じり、熱狂へと変わっていく。
 ――何の打ち合わせもなく、こんなアドリブをするやつがいてたまるか。
 柊羽は呆れた。
 ――たしかに、行っていいと言ったのは俺だけど、好き勝手しやがって。
 しかも満は、これが破綻しないと分かってやっている。
 急にギターが暴れ始めたら、まずボーカルが動揺するのが普通だろう。しかし、絵梨沙の歌は全くブレない。彼女は、自分こそが世界一可愛くて歌唱力のあるボーカルだと確信しているからだ。お姫様気取りのオバサンは「観客の視線が満に集まるなんて許せない!」とばかりに熱唱している。上手い。本当に、良い歌声だ。
 ――歌えなかったら、お前は、もっと簡単に幸せになれたんだろうな。
 ふと、憐れみにも似た感情を覚えた。
 絵梨沙にはアーティスト性が皆無だ。表現したいもの、中身と呼べるものがない。ちょっと見た目が可愛いだけだ。もし歌が下手だったら、子役やアイドルとして芽が出なかった時点で、表現者の道に見切りをつけていただろう。マネージャーに転身したり、コスメやファッション関係の仕事に就いたりしたかもしれない。自分をちやほやしてくれる男と付き合って、結婚して、子どもを産んだりしていたかもしれない。きっとそれは、本来の彼女の資質に合った、幸せな道だっただろうと思う。
 でも、絵梨沙は、歌えたから。歌うことに、自分のアイデンティティを見出してしまったから。
 ステージに立つ人間であり続けるために闘い続けてきた彼女は、『表現したいものが溢れているだけ』『作曲とギターの才能があるだけ』で表舞台に現れた、満なんかに負けはしない。
 貴裕は貴裕で、満に合わせてシンセサイザーの音色を即座に変えた。その耳の良さ、感度の良さは驚異的だ。即興に即興で返すメロディのセンスも卓越している。
 柊羽も、後ノリで刻んでいたドラムを前ノリに切り替えた。フレーズの引き出しの多さなら自信がある。スタジオミュージシャンとして、あらゆるジャンルの音楽家とセッションしてきた。さらに、この10年間でリリースされた満の楽曲、およそ300曲は全て完璧に叩き込んでいる。どんなアドリブでも対応してみせる。
 ――俺たちだからこそ、この演奏ができるよな。
 絵梨沙は、2番のサビまで順調に歌い上げ、間奏のなかで語りだした。
『ここで、バンドメンバーを紹介します。まずはピアニスト! 帰ってきた黒鍵の小公子改め、鍵盤の絶対君主……タカヒロ!』
 高らかに名前を呼ばれた貴裕は、うっとりした顔でキーボードとシンセサイザーを奏でている。狂ったように踊る指は、何連符を叩きだせば満足するのだろうか。「こんなセッションができるなんて、生きててよかった」という独白が聞こえてきそうだ。
 ――お前、ジャズピアニストになるべきだったんじゃないか?
 出し抜けにそんなことを思った。貴裕が幼少期から学んだのがクラシックではなく、即興主体の音楽だったら、すんなりプロとして世に出られたのではないか。だが、その不幸のおかげで、今ここにこのバンドはある。
『ギタリスト! インターネットを席巻するメロディメーカーPことchil*chilこと…ミチル!』
 完全なソロプレイを許されたこの数小節、満は自由だった。まさに、天上の音楽の神様から遣わされた存在。さきほどのアドリブは、どれほど手加減をしていたのか思い知らされた。
 ――むしろ、クラシックに向いているのは満だな。
 もし彼女が違う時代に生まれていたら、後世に残る壮大な交響曲を書いていただろう。たとえばベートーベンの第5番に勝るとも劣らないような。彼女の演奏はある意味で王道の極みにあり、音で伝える情報量の多さが半端ではない。
 ――本当に、生き方を間違えてきたやつばかりが集まったバンドだぜ。
 悪態をつきながらも、鼓動は高鳴る。
『ドラマー! 気骨稜々の問題児、シュウ!』
 ――問題児だと? こんな状況でキレずにドラムを叩いていられんのは、俺くらいだぞ!
 絵梨沙に文句をつける代わり、手の中でスティックを滑らせ、ライドシンバルを叩く。汗が飛び散る。息が上がる。さらに重ねる。
『そしてボーカルはこの私、永遠の歌姫、エリサがお送りしております!』
 いよいよCメロの入りだ。柊羽は全ての音を止めた。貴裕も、満も、ぴたりと動作を停止する。残響の中に、絵梨沙の歌声が透き通っていく。

『あの日 本当に贈りたかったものは たった一つの真心
 君が望むこと全て 僕が叶えてあげたかった』

 ――そうだ。それだけだったのに、幼い日の柊羽は、何もできなかった。葵に「離婚しないでくれ」と言うことさえ。
 無力な自分が悔しかった。
 絶望と渇望の狭間で暴れていた時、ドラムと出逢った。
 全身でビートを刻んでいると、『音楽』と繋がれる実感があった。
 これだと思った。
 せめて、君の心を支える存在でありたいと思った。
 どんなに遠くに離れても、ずっとそばにいられるように、音楽家になろうと決めた。プロのドラマーになって、有名になって、君の耳に届けようと。

 いつも心の真ん中で、君のことを考えていた。君はきっと、今も徳島にいるんだろう。いつかどこかで俺の音楽に気づいてくれて、物語のように再会する未来を夢見た。そんな奇跡が起きたなら、神様からの『会っていい。会うべきだ』というお告げだと思った。
 かつての俺の弱さも、君を救えなかったことも、全て許される時だと。

『甘くて 弱くて 何もできなくて ごめん』

 動画投稿を始めて、再生数が増えるたびに、君が見てくれたかもしれないと期待した。新しいコメントがつくたびに、君が書いてくれたのかもしれない、と嬉しかった。
 誰かが「次はこの曲を演奏してくれ」とリクエストしてきたら、どんな難曲でも、練習した。だってそれは、君からのリクエストかもしれないから。絶対に応えなければと奮起した。
 そうしてドラムを叩き続けた結果、chil*chil本人とバンドが組めるなんて思いもしなかった。

『せめて君の心を照らす光になれるように
 奏でるから どうか 気づいて』

 ――阿波の季節に鳴く蝉は、四夜のぞめきに、自分の命の限りを尽くす。柊羽。お前が命を懸けるんは、いつどこで、何のためじゃ?
 
 ――今、ここだよ、じいちゃん。
 結局、自分のためかもしれないけれど。
 彼女を慰められる曲を作るギタリストがいる。その曲を、俺には上手く言えない想いを、歌い上げられるボーカリストがいる。全員を繋ぎとめられる技術と人格を持ったピアニストがいる。そいつらと同じ光を浴びていられる今は、俺の人生最高の時間だ。
 これは君のために重ねた努力の賜物だから、君から貰った宝物にも等しい。たとえ君が気づいてくれなくても、ここで命を懸けることに、悔いはないよ。

『生まれ変わる日なんて待たない
 この自分で 辿り着きたい場所がある
 いつか夢を見た 優しく微笑む君
 駆け寄って 手を取り合って
 僕らは刻む 六度目のゼロを』

 最後のサビで、柊羽は気力と体力とテクニックの限りを尽くす。

『もう一度 何度でも刻む 僕らだけのゼロを』

 歓喜に満ちたステージが終わった。

5.02 拓海 note.6

『神奈川・静岡エリア代表、六度目のゼロの皆さま、お疲れさまでした!
 次に登場するのは東北エリア代表、ただのケンジさんです。山形県出身のギター弾き語りシンガーソングライターで……』
 舞台が暗転し、司会による出場者紹介が始まってすぐ、拓海はメグに引きずられるようにして席を立った。
「どうしたの?」
「だってもう……この感動を……余韻に浸りたいじゃん……」
 彼女は、顔中ぐしゃぐしゃにして泣いている。
「よかったー……最高だったー……」
「うん。素晴らしかったね」
 拓海の胸のうちも感動で満たされている。万感の思いでメグの頭を撫でた。彼女は少しずつ落ち着きを取り戻して、
「はあ。あたし、ちょっとお手洗いで顔を立てなおしてくる」
「行ってらっしゃい」
 女子トイレは大混雑している。しばらく待たされそうだ。
 拓海は壁に背をもたれかけて立ち、ズボンのポケットからスマートフォンを取り出した。Break Pointの公式生中継にアクセスし、コメント履歴を見る。ロクゼロのライブはインターネット視聴者にも好評だった。これなら投票も良い結果を収めるだろう。
 俯いてスマホに集中していたため、横から走ってくる子どもに気づかなかった。
「あっ」
 ぶつかられた衝撃は大したことなかったが、うっかりスマホをとり落とした。白と黒のタイルが模様をなす床の上を、勢いよく滑っていく。
「ごめんなさい」
「いいよ。でも、ちゃんと前を見て走るんだよ。気を付けてね」
「はあい」
 子どもは、けろりとした顔で駆け去った。
 スマホを拾おうと歩き出したら、近くにいた男性が屈みこみ、代わりに拾ってくれた。見るからに高級そうなスーツを着た男性だ。ネクタイを緩めてシャツの首元を開け、ハンカチで額をぬぐう仕草さえ、優雅である。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
 年齢は、拓海の父より少し若いくらいだろうか。うっかり見とれそうなほど端正な顔立ちをしている。恐縮しながらスマホを受け取った。
 彼は微笑み、何気なく拓海の後ろに視線を移して、目を見開いた。
「理奈。理奈じゃないか!」
 ただならぬ様子だ。拓海は思わず振り返った。ベージュのパンツスーツを着た女性が、胸の前で右手を握りしめ、左手を下腹部に添えて、惚けたように立ち尽くしている。目元や口元に皺が出始めているが、若いころはクール系の美人だったのだろうと思わせる顔立ちだった。
「葵くん……」
 葵と呼ばれた男性は、急ぎ足で彼女に駆け寄った。
「理奈、どうしてこんなところに?」
「……この夏、通勤中に偶然、柊羽くんを見かけて。びっくりして柳さんに会いに行ったら、彼がロックバンドでドラムを叩いていると聞いたんよ。
 インターネットで調べてみたら……とても素敵だったけん。大きなコンテストのジャパンファイナルだっていうし、気になって、つい、見に来てしもうた」
「そうだったのか。ありがとう。あいつが知ったら喜ぶよ」
 理奈は、ふっと頬を緩めた。どこか懐かしい、少し訛った標準語で、
「葵くんは相変わらずやね。でも、どうしてそんなに暑そうなん?」
「表参道から走ってきたんだ」
「ええっ。大変だったやろう」
「まあな。柊羽があんなに声を荒げるのを初めて聞いたから。ぎりぎり間に合って、最後の2曲は聴けたよ。勘弁してもらえるといいんだが」
 葵は、大きく息を吐いた。
「ああ。しかし、ここで君に逢えるとは。……俺がここまでクズじゃなかったら、きっとこれは、感動の再会なんだろうな」
 理奈は首を傾げている。葵は何かを言いかけて止め、彼女に手を伸ばしかけて止めた。少し時間を置いて、再び口を開く。
「それでも俺は、どうやっても俺だから、やっぱり言わせてくれ。
 さっき、柊羽たちの演奏を聴きながら考えていたんだ。俺の人生で唯一、心から愛したと言える女性は、理奈だったな、と」
 何十人、いや何百人が行きかうエスカレーター前の雑踏をものともせず、葵は愛を語った。
「昔から、何もしなくても沢山の女性が寄ってきた。当たり前のことだと思っていた。だけど信頼していた人に裏切られ、命の次に大切にしていた会社を乗っ取られて、様々なものを失った時、周りに溢れかえっていたはずの女性たちは誰もいなくなっていた。
 俺は何もしていないつもりだったが、その時々に価値があったんだろう。成績が一番だったり、スポーツができたり、音楽がやれたり、有望なスタートアップの社長だったり……そこに彼女たちは集まってきていたんだと、何もない俺には興味がないんだと、はじめて気づいた」
 彼はハンカチをポケットにしまった。
「うちしおれて帰った地元で、理奈だけが昔と変わらずに接してくれた。
 だから俺は虚勢を張れた。格好つけられた。そのために頑張れた。君がいてくれなかったら、きっと俺は立ち直れなかった。こっちに帰ってきてからもそうだ。『あなたの仕事の邪魔をしたくないから』と身を引いてくれた君のために、常に格好いい俺でなければならないと思えたことが、事業の立て直しと拡大に繋がった。
 そんな風に、ずっと俺の中にいた女性は他にいない。来る者拒まず、去る者追わずで生きてきた俺の、唯一の特例だ。理奈は俺の光だった」
 葵は両手を伸ばした。彼女の右拳をとって開かせ、左手も同様にする。
 泣き顔を隠す手段さえ奪われた理奈は、
「……私は、こんな私が大嫌いなんに」
「知ってる。いや、さっき気づいた。だから言う。
 君の愛する俺が愛した君を愛してくれ」
「無茶苦茶や」
「俺は常に無茶を言い、不可能を可能にしてきた男だ。違うか?」
「……違わん」
「そうだ。誰よりも君が、よく知ってくれているはずだ」
 やけに自信たっぷりな葵に対して、理奈は眉をハの字にしている。
「私は生まれてこのかた、あなたしか愛したことがない。そこに、私自身を追加しろと言うんね」
「ああ。そうすればきっと、もっと世界は変わるから」
「大嫌いな私を生んだ両親が嫌いなことも、大嫌いな私から生まれた娘が嫌いなことも?」
「そうだ。俺も、俺なりに、もう一度頑張ってみるから」
「本当にろくでもない男やわ、あなたは」
「柊羽にも言われた。そうだよな。翼にもらった問いかけの答えが、彼女ではないというのも最悪だよな。我ながら吐き気がするよ。
 俺はそもそも間違ってるんだ。生まれ方も育ち方も、なにもかも間違いだ。ただ……生まれ変わる日を待たないことにする。せめて残りの人生と死に方は、自分が納得できるものにしたい。
 それには、理奈にも幸せになってもらわないと困る」
 理奈は瞬きを繰り返す。
 しばらくして、くすくすと笑いだした。
「葵くんはやっぱりカッコええ。そんな意味不明なことを言うとこも大好きよ。仕方ないわね。私ほどあなたを愛せる女はおらんと証明するために、努力してみましょう」
「ぜひ、そうしてくれ」
「また遠くないうちに会える?」
「ああ、もちろんだ。連絡先を交換しよう」
 2人はスマートフォンを取り出した。全く同じ機種の色違いで、ボディは白と黒だった。
 後ろから足音がした。
「タクミ、お待たせ。ごめんね。お手洗い、めっちゃくちゃ混んでて」
 振り返ると、メグはすっかりいつもの様子に戻っていた。淡いブラウンのアイシャドウに、大人しめの色付きリップ。長く伸びた黒髪をポニーテールにまとめ、黒のロクゼロTシャツにあわせて、モーヴピンクのフレアスカートとスニーカーを履いている。
 最初に渋谷で会った時と比べると、かなり普通の女子高生らしくなった。
 あのころは、彼女も無理をしていたのだろう。
「なあ、メグ。もし今日、ロクゼロが優勝したら、付き合おうか」
 笑いかけると、メグは目を見開いた。
「ふぇっ、何?! どしたの、いきなり!」
「いや、なんとなく。だってもう付き合ってるようなもんだろ、俺たち」
「ロクゼロが優勝するかどうかと、あたしたちが付き合うかどうかって、関係なくない?!」
「まあそうだけど、ロクゼロがなかったら、絶対知り合わなかったじゃん」
「も、もし、ロクゼロが優勝しなかったら?!」
「1年半後、メグが高校卒業してから、改めて申し込むよ」
 彼女は即座にポケットへ手を突っ込み、スマートフォンを取り出した。
 何をするのかと思えば、Break Pointの公式サイトへアクセスし、視聴者投票ページからロクゼロへポイントを投げている。投票成功の画面が表示されるなり、投票ページのURLをコピーして、LINEとTwitterとfacebookとInstagramのタイムラインに「【拡散希望】みんなロクゼロに投票するべし【ライブバトルコンテスト】」というメッセージを添えて投稿する。
 さらに動画共有アプリを起動し、インカメラで自分を撮影し始めた。
「みんな元気ー? あたしは元気! 今、Break Pointのジャパンファイナルに来てまーす。ロクゼロめっちゃカッコよかった。最高だった。これはもう公式サイトから視聴者投票ページへ行って投票すべき。
 みんなも友達に広めまくって!」
 全力だ。メグは全力で、ロクゼロを優勝させようとしている。
 拓海は、自分の笑い声が彼女の動画に入らないよう、必死で口を抑えた。
 メグが一通りSNSを活用し終えるのを待ち、せっかくだからと一度会場の外に出た。露店で焼きそばを買って分け合い、餅フランクをかじり合い、限定スイーツとクレープも買った。道端の小ステージでは各エリアファイナルで準グランプリをとったアーティストたちが演奏していた。そのパフォーマンスを見て、気に入ったアーティストのCDを買う。
 気づけば、時刻は18時半を回っていた。
「そろそろ中に戻ろうか」
「うわぁぁぁ。緊張するうぅぅ」
 メグは顔色が悪くなっている。拓海は笑いながら、彼女を半ば引きずるようにして場内へ歩き出した。同じように自分の席を目指す人々で、ホワイエはごった返している。
 ――佳奈は、ちゃんと会場に来たかな?
 束の間、思いを馳せた。ぱっと見ただけだが、会場の最前はロクゼロTシャツで埋まっている。ここに来て、あの演奏を聴いて、きっと彼女も分かってくれたと信じたい。
 拓海とメグの席はステージの下手側、貴裕に最も近い場所だった。
 ステージ上の大型ビジョンでは、今日のハイライトが上映されている。徐々にBGMが小さくなって、司会のアナウンスが響いた。
『皆さま、大変長らくお待たせいたしました。これより、閉会式を行います。出場アーティストの入場です。拍手でお迎えください』

5.03 柊羽 note.6

 『六度目のゼロ』を演奏し終え、真っ白に燃え尽きた柊羽は、ドラムセットから立ち上がるのがやっとだった。貴裕の肩を借りて何とかステージを降り、舞台袖を通って楽屋へ戻る。
「お互い、ナイスプレイだったな」
 貴裕も、柊羽と負けず劣らず汗だくだが、晴れ晴れとした笑顔を見せていた。満もニコニコだ。絵梨沙は興奮冷めやらぬ様子で、楽屋に入ってなお、ぴょこぴょこ跳ね回っていた。
「おつかれー! よかったねー! これもう優勝間違いなしでしょ!!」
「元気だなぁ、オバサン……」
 柊羽はジャケットを脱ぎ捨て、ポカリスエットをごくごくと飲んだ。しばらく何もしたくない。ソファに寝転がり、タオルを顔にかける。
「いやぁ、本当によかった。早速映像を確認しよう」
「もう見られるの?!」
「大会公式のインターネット生中継を録画してあるんだ」
「流石です、貴裕さん。抜かりないです」
 3人は、パソコンを囲んでいるようだ。カチカチとマウスを操作する音の後、少しノイズの入った司会の声が聞こえてきた。
『関西ブロック代表、call...it singsのお二人、お疲れ様でした!
 次に登場するのは神奈川・静岡エリア代表、六度目のゼロです。今年5月に結成した4人組のロックバンド。幅広いジャンルの音楽を取り入れた~…』
 転換時間に読み上げられていたプロフィールだ。
「あ、最前の中央に、エトオさんがいますね」
「他にも知った顔が多いわ。ファンミで握手した人たちね」
「有難いよなぁ。Tシャツのおかげで、ファンがいてくれるっていうのが一目でわかる」
 画面には観客席の様子が映っているらしい。プロ野球のイニングの合間に、大型ビジョンへ客を映していくのと同じようなものだろうか。
「やっぱりシアンのTシャツが多いな。おめでとう、満」
「マゼンタだって沢山いるわよ! 何より、最前中央のエトオさんが一番目立ってるもの!!」
「うんうん。あと私気づいたんですけど、彰将さんから貴裕さんにカラーを引き継いで以来、ブラックを着ている人は、女性より男性の割合が多くなりましたね」
 和やかに会話していた3人だったが、
「えっ、うそ!」
「マジか?!」
「一時停止してください、貴裕さん!」
 突如、空気が一変した。
「見間違いじゃない…」
「マジだった…」
「しかも、ヒマワリ級に可愛いです」
 絵梨沙の声は震えており、貴裕は語彙力を失っている。満は何を言っているのか分からない。なんだか大変な事が起きたようだ、と思っていたら、
「柊羽、起きて! こっちへ来なさい!!」
「マジだぞ!」
「大事件だよ、柊羽くん」
 3人に呼びつけられては無視もできない。
「何だよ…。もうちょっと休ませてくれよ」
 ぶつくさ文句を言いながら、身体を起こす。
「イエローのTシャツを着た女の子がいるのよ!」
「マジだぜ」
「おめでとう、柊羽くん」
 大騒ぎするほどのことだろうか。柊羽は呆れながら立ち上がり、3人が見入っているパソコン画面へ近づいた。観客で埋め尽くされた渋谷公会堂の最前列がアップになっている。中央のエトオから上手側へ9席。確かに、イエローのロクゼロTシャツを着た女性が座っている。
 メンバーたちが何を期待しているか、本当は分かっていた。
 自分だって分かっている。
 それでも信じきれなかった。
 意志の強さが表れた瞳。いつも何かに耐えているような、きゅっと唇を引き結んだ表情。6年前、最後に会った時から、何一つ変わっていない。
「かな……」
 思わず画面に手を伸ばした。
「……かなって、あの佳奈さんよね?」
「マジで?」
「柊羽くんが照らしたい、誰より何より大切な佳奈さんなの?」
 黙って頷く。
 その拍子に、何かが溢れて、頬を伝った。
「見間違うわけねーよ。佳奈だ。……気づいてくれたんだな」
 両側からタックルをかまされた、のではなく勢いよく抱きつかれた。きゃあああ、だか、やったあああ、だか、よくわからない声を上げている満と絵梨沙だ。さらに背後から首を絞められた、のではなく抱きしめられた。まじかあああ、と叫ぶ貴裕だ。
 ステージで全てを出し尽くし、疲労困憊の柊羽には、3人を支える力など残っていない。全員でその場に崩れ落ちた。
「よかった……本当によかった……」
「おめでとう……ありがとう……」
「……奇跡ってあるんだなぁ……」
 何故か3人とも号泣している。
 程度は違えど全員汗みずくで、それぞれ無駄に装飾の多い衣装を着ているので肌触りが悪い。いつもの柊羽なら、暑いしウザいしさっさと離れろ、と言うところなのだが。
 声が出なかった。
 ――柊羽は、ずっと一人で戦ってきた。
 物心ついたころから、父は何を考えているかよく分からなかった。家には謎の女たちが多数徘徊していて、何一つ不自由のない生活を提供してくれたが、不気味だった。自分の身の振り方は自分で考えるしかなかった。
 かと思えば、急に田舎へ引っ越して、家族と呼べるものができた。自分の在り方を考え直して、大切だと思えるものを見つけたが、すぐに手をすり抜けていった。どうすれば取り戻せるのか、自問自答した。誰も教えてくれないだろうと思ったからだ。
 地下の防音室にこもって、もくもくとドラムの動画を撮りはじめた。できるだけ沢山の仕事を引き受けて、練習を重ねた。
 誰にも何も言わなかった。言えなかった。
 柊羽の夢は、柊羽だけのものだった。自分の夢が叶うことを、誰かが喜んでくれるなんて、思ってもみなかった。
 まるでコンテストで優勝したかのように大騒ぎする3人の声は、パーテーションを超えて楽屋全体に響き渡り、他の出場者たちやスタッフが何事かと様子をうかがいに来ている。
 それらさえ、有難いことのように思える。
「……ありがとう。きっと、満が自分のチャンネルで、バンドのことを公表してくれたおかげだ。佳奈は、chil*chilの動画を全部チェックしてたから」
「8年もフォローし続けてくれてるなら、私の方こそありがとうございますぅぅ」
 柊羽は、ぐすぐす泣いている満の頭を撫でたあと、絵梨沙と握手した。
「佳奈が最前に座ってなかったら、ロクゼロTシャツを着てなかったら、たぶん気づけなかった。絵梨沙のトップオタの力は凄いよ。ありがとう」
 彼女も大粒の涙を流しているのに、まったくメイクが崩れていないのは流石だ。
「当たり前でしょう。私、どんなに落ちぶれた時でも、集客ゼロになったことないの。必ずあの人が来てくれたから。22年間、私を私でいさせたのはエトオさんよ。根性が違うわ」
 貴裕は、柊羽の左肩に顔を埋めて、おいおい泣いている。
「マジで俺は今、確信したよ。この世界に神様はいるんだ。努力は必ず報われるんだ」
 柊羽は笑った。
「ああ。音楽の神様だろうな。ここまで連れてきてくれたのは貴裕だ。ありがとう」
 暑苦しいが、心地いい。これだけ人の温もりに触れるのは、佳奈に無理やり抱きしめられていたころ以来だ。
 柊羽は目を閉じ、久方ぶりに感じる安らぎに浸った。
 永遠とも思われる時間が過ぎて、最初に身体を起こしたのは満だった。
「……それで、このあとはどうするの? 閉会式の途中でステージを飛び降りて、駆け寄って、抱きしめちゃう?!」
 なんという無茶を言うのだ。
 あっけにとられていると、絵梨沙が噴き出した。
「バカね。大会事務局に迷惑をかけるのはダメよ。大体、せっかくステージでカッコいいところを見せたのに、すっかり燃え尽きて汗まみれになった姿で近寄ったら、ガッカリされるわ」
 ひどい言われようだ。
 柊羽がむっとしていると、貴裕が背筋を伸ばした。
「ファンミーティングを開催しよう」
 彼はスマートフォンを取り出し、
「再会のシチュエーションは重要だ。中途半端なことをすると、百年の恋も冷めかねない。あのTシャツを着ているということは、エトオさんは、佳奈さんの連絡先を把握しているはずだ。彼にも、他のファンにも、今日の御礼をしないといけない。善は急げだ」
 満と絵梨沙が深々と頷く。
「景色がよくて、ロマンチックな会場にしましょう!」
「キャパも前回の倍は欲しいわね!」
 貴裕は顎に手を当て、考えている。
「そうだな……。シャンパンタワーやケーキも用意したいな」
「会場の装飾は、お花もいいけど、バルーンを使うのはどうかしら?」
「入場曲は私が書き下ろすよ! 実はさっきから頭の中でぐるぐるしてて、すぐ譜面に起こせそう。タイトルは『For KANA』……ううん、『Forever KANA』にしよう!」
 話があらぬ方向へ進んでいる。
「待てよお前ら、勝手に盛り上がりすぎだ……っと」
 立ち上がろうとして、よろめいた。身体が言うことをきかない。演奏で疲弊しきったところに、無理な姿勢で3人の体を支えていたので、足腰にダメージが来ている。
「あら、せっかく素直で可愛くなったと思ったのに。もうちょっとそのままでいなさいよ」
「そうだよ! あとは私たちに任せて、ゆっくり寝てね」
「閉会式の時間になったら起こしてやるよ」
 絵梨沙は早速パソコンで『会場装飾』を調べており、ギターを手にした満は机に広げた五線譜と向き合い、貴裕は手当たり次第にパーティ会場へ電話し始めている。
 その光景を見ていたら、肩の力が抜けた。
 まあいいか、と柊羽は思った。
 大人しくソファへ戻り、顔にタオルを乗せて目を閉じる。満の鼻歌を聞いているうちに、あっという間に意識が闇へ吸い込まれていった。
「まもなく閉会式となります! 出場者の皆さま、ステージ袖へ移動をお願いします」
 スタッフの声で目覚めた。2時間は寝ただろうか。気分も身体もすっきりしている。ジャケットを羽織り、ぱぱっと髪とメイクを直した。
 満、絵梨沙、貴裕は、既に準備万端の様子である。
「死んだように寝てたわね」
「ぱっちり起きられたみたいで、よかった!」
「よし、行くか」
「……ああ」
 他の出場者たちとともに廊下を歩いていると、徐々に現実味が戻ってきた。あれだけ手ごたえのある演奏ができたのだ。何らかの賞を受賞できることは確実だろう。いや、これでグランプリを獲れなければおかしい。
 幾つもの分厚い扉を通り抜ける。興奮と期待のざわめきが聞こえてくる。
 司会のアナウンスとともに、ステージに光が灯った。
『皆さま、大変長らくお待たせいたしました。これより、閉会式を行います。出場アーティストの入場です。拍手でお迎えください』
 北海道エリアの代表から順に歩き出し、柊羽たちも、貴裕を先頭にして列に続く。アーティストたちは一様に神妙な面持ちをしていた。
 このコンテストにどれだけのものを賭けているかは、一人ひとり違うだろう。現時点で達成感に満ち溢れてしまっている柊羽は、きっとおかしい。
 ステージに立つと、最前を埋め尽くすロクゼロTシャツがよく見えた。佳奈がいるはずの席を確認しようかすまいか迷い、敢えて見ないことにする。
 ――結果発表が終わるまでは、司会者の挙動に集中していよう。
 舞台前方に立った司会の女性の傍らに、2人の男性が控えていた。
 誰だろうと思う間もなく、司会者は大きく息を吸い込んだ。
『それではこれより、結果発表を行います!
 まず、令和製薬賞を受賞したのは……』
 場内が暗転し、ドラムロールが流れる。スポットライトが8の字を描き、柊羽たちを照らしては通り過ぎる。背後の大型ビジョンには華やかな映像が流れているようだ。
 とんでもない見世物にされているなぁ、と感じる余裕があった。
『東京エリア代表、鹿野レイ!』
 柊羽たちのすぐ横に立つ、ボブヘアーの女性にスポットライトが当たった。場内のあちこちから拍手と歓声が沸き起こる。
 たしか、1組目の演奏者だ。ライブバトルコンテストとしては不利な演奏順だったのに、素晴らしい結果である。柊羽は惜しみなく拍手を贈った。貴裕も笑顔で手を叩いている。
『受賞された鹿野レイさんの楽曲は、来年放映される令和製薬様のCMソングに起用されます。令和製薬広報部部長の林山様から、選出理由をうかがいます』
 司会者の隣にいた中肉中背の男がマイクを受け取った。
『鹿野さんのパフォーマンスと楽曲は、弊社の企業理念である「健康で美しく、明るい毎日の創造」にぴったり合うと感じました。素晴らしいCMとなることを期待しています』
 鹿野は弾けるような笑顔を浮かべ、前方に歩いていく。同時に、ステージ横から白いスーツを着たプレゼンテーターが現れた。『令和製薬賞』と書かれた大きなボードを抱えている。ステージの中央でボードを受け取った鹿野は、林山と力強い握手を交わした。
『続きまして、審査員賞の発表です。受賞したのは……』
 二度目の暗転とドラムロール。
『関西エリア代表、call...it sings!』
 男性と女性の2人組にスポットライトが当たった。柊羽たちの直前に演奏していたユニットだ。ステージの袖で聴いた楽曲の美しさを思い出せば、受賞も納得である。柊羽は再び手を叩いた。満も、繰り返し頷きながら拍手している。
『受賞されたcall...it singsさんの楽曲は、日の丸テレビにて月曜から金曜に放送されている朝のニュース番組・LZH!のテーマ曲として約三ヶ月間使用されます。審査員代表の古村さん、選出理由をお願いいたします』
 枯れ木のような細身の男性が、小さな声でぼそぼそと、
『作曲家の古村です。ピアノ2台という編成を最大限に生かした独創的なメロディ、伴奏に専念する八重尾さんの演奏技術、森本さんの表現力の豊かさ。全てを総合して、音楽性の高さを評価させていだたきました』
 泣き崩れる森本を八重尾が支えるようにして、ステージの前方へと出ていく。2人は順に古村と握手し、『審査員賞』と書かれたボードを受け取って、宙高く掲げてみせた。
『次は、視聴者投票賞の発表です。本日のインターネット生中継番組への総アクセス数は52万7724件、有効投票件数は1万3679件でした。
 得票数1位に輝いたのは……東北エリア代表、ただのケンジ!』
 白いスポットライトが、出場者の列の端の方にいる若い男性を照らした。
『2位以下に1000票以上の差をつけての1位、おめでとうございます。ただのケンジさんには、来年春から秋にかけて開催される8つの野外音楽フェスティバルのメインステージにて演奏していただきます。楽しみですね!』
 絵梨沙がやたら力強く拍手をしているので、引きずられるようにして柊羽も手を叩いた。
 男性はすたすたと歩いてきて『視聴者投票賞』のボードを受け取り、観客に向けてガッツポーズをした。会場が沸き、一段と大きな拍手が送られる。
『いよいよ、グランプリの発表です』
 会場全体の緊張が高まっていくのがわかる。一際大きなドラムロールが鳴り響く。
 ここまで名前が呼ばれていないのは幸運なのか、不運なのか。
 ――いや、どう考えても、俺たちが優勝だろ。
 他のアーティストの演奏を全て聴いたわけではない。審査員たちの素性や音楽の好みも把握していない。しかし、柊羽は確信していた。
 どれだけ素晴らしいパフォーマンスをしても、評価されない時がある。どれほど美しい音を奏でて、巧みな言葉を紡いでも、想いを伝えられない場合がある。
 努力とは、奇跡が起こる確率を、0.00001%から1%へ引き上げるものだ。
 どれだけ頑張ったって、99%は報われない。
 どれほど願っても、1%しか手に入らない。
 柊羽は、それでいいと思う。
 ゴミをどれだけ集めてもゴミだ。気に入らないものをどれほど愛でても満たされはしない。有象無象のなかから、たった一つ選んだものだから価値がある。草も生えない荒野へ孤独に放り出されるとしても、たった一つ欲しいものがあれば十分だ。手に入れられないまま彷徨い続け、裸一貫で果てたとしても、「手に入れようとし続けた」事実は自分のもの。最後まで、自分のありたいような自分であれたことを、誇りに思って死ねるだろう。
 それでいい。それがいい。
 ――全てが繋がるときは、きっと何もかも上手くいく。
『第5回Break Point、栄えあるグランプリに輝いたのは!』
 俺たちだ。
『神奈川・静岡エリア代表、六度目のゼロ!!』
 それは数時間前の再来のようだった。
 喉の奥から、よっしゃあ、だか、やったあ、だか、よく分からない声が零れる。飛びついてきた絵梨沙を抱き返し、同じように満と抱き合っている貴裕とハイタッチを交わす。次は満と、再び絵梨沙と。視界が白い。強烈なスポットライトに照らされている。
『選出理由について、古村さんからご説明いただきます』
 細身の男性が咳ばらいをする。
『もはや語ることもないでしょう。圧倒的なパフォーマンスを披露してくれました。個性がありながらも耳に残る、完成度の高い楽曲ばかり。ライブにおいては、ギターのアドリブセンスが飛びぬけていました。引きずられることなく、楽曲本来の魅力を余すところなく歌いこなしたボーカルも素晴らしい。ベーシストの不在を感じさせないキーボードとシンセサイザーの構成は、非常に巧みで惹き込まれます。バラードとアップテンポを見事に叩き分け、リズムをキープし、全体をリードしたドラムの技術も光っていました』
 ふとステージの下に目をやると、ロクゼロTシャツを着た人々も、柊羽たちに負けず劣らず喜んでいた。いつぞやのファンミーティングで握手をした青年の笑顔も見える。自然と口角が上がった。
『古村さん、ありがとうございます。視聴者投票でも、ただのケンジさんに次いで2位という結果がでており、特にライブポイントの得票が多くなっております。ギタリストの新井満さんは数年前からインターネット上で「chil*chil」という名前で活躍し、人気を博していますが、その影響だけでなく、パフォーマンスで観客の心をつかんだと言えるでしょう』
 一歩後ろに控えていた林山がアピールし、司会からマイクを受け取った。
『令和製薬からも一つ、よろしいでしょうか?
 弊社が主管となって開催した「アイスラ飲んでBPチケット当てよう!キャンペーン」において、もっとも応募が多かったのが六度目のゼロのファンの皆さまでした。飲んでいただいたアイスラの総数は1万2575個、断トツの一位です。誠にありがとうございました。
 引き続きアイスラをご愛飲いただけますと幸いです』
 そのうち半数以上が、エトオさんの功績だ。彼と彼の工場の職員は、2ヶ月間、毎日5個以上のアイスラを飲み続けたらしいと絵梨沙が言っていた。果たしてどんな顔をしているだろうか。
 最前の中央に目をやると、エトオは床に膝をつき、涙と鼻水を滂沱と流していた。元々、チビ・デブ・ハゲをきわめているため、B級ホラー映画の妖怪も真っ青の様相だ。しかし柊羽は、彼の姿を「美しい」と思った。巨大なタオルで顔を拭き、22年間待ち望んだ光景を目に焼き付ける準備をしている姿は、神事を行う巫女のようでさえあった。
 柊羽は、すっと視線を左に動かした。惚けたような顔で、ふわふわと拍手をしている佳奈と、確かに目が合った。
『グランプリ受賞者の楽曲は、来夏に放映予定のアニメおよび、冬に公開予定の映画主題歌に起用されます。少年ジャパンで大ヒット連載中の漫画の、初の映像化作品となります。皆さま、どうぞ楽しみにお待ちください!』
 司会のアナウンスで、会場は一層沸いた。
 舞台袖のスタッフが必死にジェスチャーをして、こちらの注意を引こうとしている。ハッとした柊羽は、貴裕に目で合図をした。彼は頷いて歩き出し、古村、林山、司会者と順に握手をしていった。
 プレゼンテーターが『最優秀賞』と書かれたボードを運んできた。これまでのボードより一回り大きい。柊羽、貴裕、満の3人がかりで持つのがやっとだ。
『それではメンバーを代表して、ボーカルのエリサさんにコメントをいただきます!』
 司会が絵梨沙にマイクを渡した。スポットライトが彼女だけを照らす。額のティアラが煌めき、マゼンタピンクのドレスの裾がなびく。どこかの国のお姫様のように綺麗だと思った。
 柊羽たちが後ろから見守るなか、絵梨沙はステージの前方へと踏み出す。
 ――きっと、これは小さな一歩だ。
 ここは俺たちのゴールじゃない。長く続くであろう道のスタートラインに過ぎない。この先の道のりが幸福に満ちたものかどうかなんて誰にも分らない。いつか遠い未来で、足を踏み入れたことを後悔するかもしれない。
 それでも、と柊羽は思った。
 この一歩は俺たちにとって、夢を見る資格を得るための夢だった。
 それぞれの人生のマイルストーンとして、永遠に、燦然と輝くものだ。
『グランプリ、本当に嬉しいです。ありがとうございます。私たちがここまで来られたのは、ずっと応援してくれた方々がいたからです。これからも、どうぞよろしくお願いします!』
 絵梨沙が深々とお辞儀をする。
 万雷の拍手が会場を包んだ。

6.00 prologue

 佳奈は、宵闇に紛れるようにして立ち尽くしていた。
 『六度目のゼロ Break Point優勝記念祝賀ファンミーティング』なるものへ参加するために来たのだが、辺りにそれらしき人だかりはない。
 集合場所や時間を間違えているのではないかと不安になって、ファンサイト運営者からのメッセージを確認する。
 『新橋駅の汐留口、鉄道唱歌の碑の前に18時』。うん、合ってる。
 佳奈は、ゆりかもめとJRの間を行き交う人々をぼんやりと眺めた。
 ――もう一度だけ、信じてみたいと思った。
 血湧き肉躍る柊羽のドラムで跳ねて、踊って、叫んで。天才そのものとしか言いようのない、chil*chilのギターで熱狂して。夢のようなコンテスト結果と、柊羽の視線を目の当たりにして。
 家に帰ってすぐファンサイトへ会員登録して、届いたメールに返信をして、ここまで来た。
 10月初旬の東京の風は少し冷たい。トレンチコートの襟をかきあわせたとき、遠くから近づいてくるメタリックブルーのクーペが視界に入った。
 タクシーの列に紛れてロータリーへ入ってきたその車は、佳奈の左斜め前方、ガードレールの切れ目に停車した。
 ドアを開けて出てきたのは、暗めのゴールドに染めたアップバングショートヘアが印象的な青年だ。レザーライダースを羽織り、首にはシルバーのネックレスを巻いたロックな出で立ちだが、細面に浮かべた笑みは優しい。
 彼は真っすぐ佳奈のもとへやってきて、
「ごめん、待たせた」
 開いた口が塞がらない。
「……な、なんで、しゅうちゃんが」
 かろうじて声を絞り出す。
「絵梨沙からエトオさんに事情を話して、佳奈に送るメールだけ内容を変えてもらったんだ。一緒にファンミーティングへ行こう。本当の集合場所はお台場、時間は19時だ」
 差し出された左手は大きく、骨ばっていて男らしい。無言で見つめていると、彼はすぐに焦れて、強引に佳奈の手をとって歩きだした。抵抗する間もなく、助手席へと導かれる。
「これ、しゅうちゃんの車なの?」
「ああ。貯金とBreak pointの賞金で買った。……中古車にするつもりだったんだけど、親父が『足りない金は出してやるから新車にしろ。俺からの優勝祝いだ』っつって譲らなくて」
「相変わらず派手だね、葵さん」
「唯一の取り柄だからな。……シートベルト、ちゃんと締めろよ」
 何がなんだかよく分からないうちに、柊羽は車のエンジンをかけた。佳奈がシートベルトをしたのを確認して、シフトレバーを動かす。車がゆっくり走り出して間もなく、首都高速の入り口が見えてきた。ETC専用ゲートに進入し、スムーズに料金所を通過する。
 月曜の夜の首都高速は空いていた。
 沈黙に耐えきれなくなった佳奈は、必死に会話の端緒を探した。
「あのね。私、しゅうちゃんと遊ぼう思って、持ってきたものがあって」
「何?」
「ポケモンの最新作。私、シールドを買ったんだ。こっちのバージョンでしか捕まえられないポケモンを育てておいたの」
「……ああ。俺はソードを買ったよ」
 思わず笑みが零れる。
「やっぱり、そうだよね。しゅうちゃんはソードだと思った」
「まあ、そんなに遊べてないし、今日は持ってきてないけど」
「そうなの? いつも、どこへ行くときも持ってたのに」
「流石になぁ。俺のこと、何歳だと思ってるんだよ」
 柊羽は軽やかに笑った。その声も、仕草も、何もかもが昔と違った。
「そ、そっか。そうだよね。ごめんね。お姉ちゃんっぽいことがしたかったんだけど、難しいね」
 佳奈は頬を染めた。考えてみれば当然のことだ。年齢を重ねれば趣味嗜好は変化する。
 恥ずかしさで縮こまる佳奈をちらりと見て、柊羽は声色を変えた。
「いらねーよ。昔も言っただろ。俺は佳奈のこと、姉ちゃんだと思ったことないって」
「……そうだよね。たった3年きりの家族ごっこだったもんね」
「違う。そういう意味じゃない」
 柊羽は溜め息をつきかけて、止め、深呼吸をする。
「? どういうこと?」
 車は、いよいよレインボーブリッジに差し掛かるところだ。ダイヤモンドのごとき東京の夜景を遥かに望み、幻のような輝きがあたりを包む。
「好きだ」
「え?」
「最初に会った時から、佳奈が好きだ」
 世界が止まったかと思った。
「……ほんとに?」
「ああ。8歳の春からずっと、お前に恋をしていた」
「ほ、ほんとのほんとに?」
「嘘ついてどうすんだよ。そんなに疑われたら、俺がバカみたいじゃんか」
 柊羽は口をへの字に曲げた。かつての面影を感じる表情だった。
「だ、だってそんな…そんなの……びっくりするもん」
 自分の中に湧き上がった感情が大きすぎる。
 18歳になった柊羽は、20歳の佳奈より一回り身体が大きい。背が高く、肩幅も広く、声は低い。当たり前のように車を運転し、ロマンチックな告白さえ演出する。顔も髪型もファッションも芸能人のようにカッコよくて、いや彼はメジャーデビューが決定したバンドのドラマーなのだから、本当に芸能人だ。
 何もかもが夢のようだった。
「嬉しくない?」
「……えっと……」
 再び、車内を沈黙が支配する。
 だが今度は、不思議と心地よく感じられた。
 柊羽が再び口を開く。
「うん。今すぐ返事をくれなくていい。むしろ、その方がいい。
 俺たちは6年も会ってなかった。佳奈は今の俺を知らない。俺も、今の佳奈を知らない。戸惑って当然だ。今日からまた、改めてお互いのことを知っていけたらいいと思う」
 彼は、噛んで含めるように言った。
「だけど『弟と姉』って前提は、もう嫌なんだ。何のしがらみもなく、一人の男と、一人の女として始めたい。
 だから今、10年分の告白をした。分かってくれるか?」
 窓の外を流れる景色に身をゆだねていると、徐々に混乱が落ち着いていく。感情の名前が整理され、思考が一つずつ繋がっていく。
 ――本当は、ずっと昔から夢見ていたのだ。
 たった一人でいいから自分の味方がほしかった。自分の大好きな人に、自分を好きになってほしかった。そのままずっと、そばにいてほしかった。自分の居場所になってほしかった。何があっても、どれだけ時間が経っても、変わらないものがほしかった。
 だけど、そんなものはないと知っていた。ありえないと分かっていた。
 期待は必ず裏切られる。裏切られると傷つく。だったら最初から期待しない方がいい。教科書に載っている『正解例』をなぞって淡々と生きた方がいい。それでもきっと、日々のなかに幸せは見つかるだろう。その幸せと真摯に向き合って、命が尽きるのを待てばいい。
 夢は諦めておく。好きなものやひとは、遠くからそっと好きでいる。希望は過去のできごとだ。けして変わらず失われない、自分の心の中にあるものだけを信じておけば安全だ。そうやって生きようとしてきた。
 だけど。
 我ながら完璧な理論だと思うのに、納得できていない自分もいた。ドラマや映画のような奇跡に憧れる自分がいた。相反するようで反しない、どうしようもない想いの狭間で生きてきた。心の片隅で、誰かが助けてくれたらいいのにと願っていた。
 違う。
 柊羽が助けてくれたらいいのに、と願ってきた。
「うん……。分かるよ……」
 心の底から溢れたのは、10年分の涙だった。
 車はレインボーブリッジを走り抜ける。
 柊羽は黙っていた。佳奈は思う存分、泣いた。
「……うん。分かった。ちゃんとゼロから始めよう」
 ずっと逃げてきた真実に向き合って、落ち着いたところで涙を拭く。
「普通に連絡先を交換して、メッセージを送りあって、デートしよう。それで来年は、ううん、再来年もそのまた次も、一緒に阿波踊りへ行こう!」
 高らかに宣言し、遠ざかるレインボーブリッジへ向けて柏手を打つ。
「……本気かよ?」
「あったりまえだよ!」
 柊羽は明らかに動揺していた。ハンドルから片手を離し、頭を押さえる。
「いや、あの、俺から言い出しといてアレだけどさ。これからまだまだ色々あるだろ。俺が送るメッセージの文章やスタンプがキモいかもしれないし、デートのプランがダサいかもしれないぜ。それに阿波踊りへ行くってことは、2人で徳島へ旅行するってことだぞ?
 今の時点で、一生ずっと永遠に、俺と行く気かよ」
「ダメなの?」
「いや……まあ……ちょっと頭おかしいと思う」
「ええっ」
 佳奈は大仰な仕草でのけぞったあと、勢いよく柊羽に迫った。
「そんなにおかしいかなぁ。柊羽は、私と阿波踊り行くの、イヤ?」
「……別に、そんなことは言ってない」
「よかった!」
 ふと思い出し、右の手首につけたブレスレットを掲げ、しゃらしゃらと鳴らす。
「昔貰ったミサンガが、この春、ちょうど切れたんだよ。それから色々あって、本当に色々あったけど、ママを通じて、柳さんからこれを貰ったんだ」
 一瞬だけ視線を動かし、佳奈の手首を見た柊羽は、目を見開いた。
「マジかよ」
 佳奈は満面の笑顔を浮かべる。
「柊羽の真心、届いたよ。
 ずっと何も気づけなくてごめん。何もしようとしなくてごめん。でも、私は私なりに精いっぱいだったの。それで分かったことがあるの。だから自信をもって言える。私は柊羽じゃないとダメだし、柊羽がいてくれたら、ずーっと幸せだよ!」
 口をぱくぱくさせたまま、柊羽は車のウィンカーを出した。徐々に左へ寄っていくと同時に減速し、本線から外れていく。台場のインターチェンジで高速を下り、一般道へ入る。
「……そうだな。変わらないものはあるよな」
 細い道へとハンドルを切りながら、彼は頬を緩めた。
「分かった、任せとけ。もう、誰にも何にも邪魔させない。約束だ」
 しばらくして車は駐車場に入った。
 青年と乙女は再び手を繋ぎ、宵闇の中を歩き出す。
 どこまでも、どこまでも。
 明るい光が射す未来を目指して。

Special Thanks

表紙イラスト: かとうかおり 
ドラム関連アドバイザー: 二田水優太 
阿波弁翻訳・徳島県関連全体監修: もりたちひろ

REASNOT取材アーティスト:

R01.鹿野レイ
R02.garden#00
R03.中山雄喜(&四本目のクローバー)

S01.call....it sings
S02.ボラカイJAPAN
S03.BOKRA and REN
S04.Shiny's
S05.スクオペア♪バンド
S06.ワダノヒト

RS01.よこいゆきの
RS02.未祐.
RS03.ただのケンジ
SR01.鳥井多佳子

お世話になったライブハウスの方々:

渋谷Guilty
銀座ミーヤカフェ
池尻大橋#chord_
東中野ALT_SPEAKER

&最後まで読んでくださったあなた!

© 2019-2024 REASNOT / Momiji

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