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【SSW09:STORY】普通に生きてきた、普通の男の、普通の歌・yamathan

学生時代、バンド活動に傾倒していたyamathan(ヤマタン)。就職を期に音楽から離れたものの、憧れだったコーヒー専門店への転職と離職を経て、ギター弾き語りシンガーソングライターとして活動を再開。コロナ禍にもめげずEPをリリースし、配信ライバーの道に活路を求める彼の物語に迫った。

冷めた目の少年が、音楽と出逢い、情熱を燃やすまで

yamathanが生まれ育ったのは、千葉県の多古町だ。「成田空港の隣町で、バスが1時間に1本あるかないか、というくらいの田舎です」。

幼いころは、ひとりで家にこもり、アニメやゲームをしていることが多かった。「リアルな友達より、インターネット上の知り合いの方が多かったですね。いわゆるオタクです」。

完全なインドア派というわけではない。小学校では野球部、中学校ではバレーボール部、高校弓道部に所属し、身体を動かすことを楽しんだ。ただ、どれも長くは続かなかった。

「飽きちゃうというか、満足しちゃうんですよね。『野球は小学校でやりきったから、中学校では違うことをやろう』みたいな」。

そんな彼が音楽を始めたのは、高校2年生の秋のことだった。

「小学校からの幼馴染に『バンドやろうぜ』って誘われたんです」。

yamathanは懐かしそうに目を細める。

「幼馴染といっても、親しくなったのは高校生になってからです。彼は中学からギターをやっていて、僕にバンプやアジカンを教えてくれました。そこから僕も邦楽のロックにハマって、休み時間に『この曲がカッコいい』なんて話で盛り上がるようになりました」。

そんな幼馴染が、高校2年生の秋、文化祭で3年生の先輩たちがバンドで演奏しているのを見て「僕らもバンドをやろうぜ」と言ったのだ。

「僕が『がんばってね』と言ったら、『ボーカルはお前だ』と当然のように言われました。「『お前は音を外さない。僕は知っているんだ』と。いつも教室で音楽談義をする時、僕が楽曲のサビなどを軽く歌うのを聴いて、目をつけていたそうです」。

とはいえ、当初のyamathanは冷めたものだった。

「『はあ、そうですか』ぐらいの気持ちでした。バンドで歌を歌うのがどういうことなのか、分かっていなかったんです。ときめきもドキドキもなく、『僕はバンドのボーカルをやるらしい』程度のノリで」。

そのうちに、ベースやドラムといったメンバーが揃い、練習が始まった。

半年ほどが経ち、夏が近づいたころ、幼馴染が突然「腕試ししようぜ」と言い出した。島村楽器主催のコンテストライブバトル『HOT LINE』に、コピーバンド枠で出場しようというのだ。yamathanは、軽く驚きつつも賛同した。

「ライブをすることはもちろん、プロのミュージシャンからアドバイスをもらえるっていうのを魅力に感じたんです。自分たちのレベルを確認しようと。今、振り返ると、『どのレベル』もないような素人だったんですが」。

いよいよコンテストの当日を迎え、初めて『ライブ』のステージに上がったyamathanは、それでも冷静だった。

「『僕は今、バンプの曲を歌っているらしい』『なんだか会場は盛り上がっているようだ』くらいの感覚でした」。

彼らが演奏したのはBUMP OF CHICKENの『メロディーフラッグ』と、ASIAN KUNG-FU GENERATIONの『Re:Re:』。どちらも当時、広く知られた曲とは言い難い。しかし会場は盛り上がり、イベント終了後に店員から「コピーバンド枠ではお前らが一番だったよ」と声をかけられるほどだった。

yamathanの心を大きく動かしたのは、後日、審査員から返ってきたアドバイスシートに「歌が良いですね」と書かれていたことだ。

「その日、その瞬間まで、歌うことについてなんとも思っていなかったのに。あのコメントを見た時から『僕は歌が上手いんだ』と自信をもつようになりました」。

以前よりも真剣に音楽のことを考えるようになったyamathanは、近所の島村楽器へ足繁く通い、ボイストレーニングの本を買ったり、ワークショップへ参加したりした。

「歌だけではなく、気になったことは全部調べて、ベースの弾き方さえ学びました。気づいたら、『音楽』そのものが好きになっていたんです」。

バンドはその後も練習を重ね、秋には予定通り学園祭で演奏。yamathanにとって初めてのバンド活動はここで終了となったが、音楽への情熱は冷めることがなかった。

バンド活動に熱中した大学生時代

英語が好きだったyamathanは、千葉県の神田外語大学へ進学。すぐに軽音サークルへ所属した。「あのころは、ことあるごとに『僕は歌が上手いんだ』と豪語していましたね。ちょっとした黒歴史です」と笑う。

サークルでは、自らがリーダーとなってASIAN KUNG-FU GENERATIONのコピーバンドを結成。最初はボーカルのみを担当していたが、2年生になるころ、メンバーの脱退を機にエレキギターを購入。ギターボーカルとしてバンドを率いた。

「ひたすらアジカンをコピーした4年間でした。歌もギターも独学で、『100曲コピーしました』『色んなフレーズを弾けるようにしました』みたいに誇れる成果はありません。でも同じ曲を繰り返し弾いて、綺麗に、自分の演奏をできるようになった自信はあります」。

また、彼には「闇雲にライブを重ねても、自分たちの価値を下げるだけだ。練習して、ここぞという大舞台にだけ出演し、場を盛り上げたい」というポリシーがあった。「メンバーには、しばしば反発されましたけどね」。

この考えに沿って、新入生歓迎会や学園祭、先輩を送る会などメモリアルなライブだけに出演。「あいつらが出ると盛り上がる」と、サークル内での評判を高めた。そして、4年生として迎えた最後の学園祭ではサークルの枠を飛び出し、最も大きな野外ステージでライブを敢行。多数の観客を集め、大成功を収めた。

「バンドメンバーは、やっと納得してくれましたよ。『yamathanはここを目指してたんだな』と」。

こうして、英語よりも音楽を真剣に勉強した4年間は過ぎ去った。

「卒業単位ぎりぎりしか取っていません。いかに良い音楽をするかだけ考えていました」。

「音楽はやり切った」と考えた彼は、卒業後、家電量販店に就職した。

就職、転職を経て、再び音楽の道へ

「大学生のころは、就職したくないと思いながら音楽をやっていた部分もありました。珈琲が好きで、スタバでアルバイトをしていたので『そのまま社員登用してもらえないかな』と考えたことも…。でも親やおじいちゃんおばあちゃん、高校の恩師からも『人生舐めてんのか』と言われてしまいました」。彼は苦笑する。

「今は、みんながどうして怒ってくれていたのか分かるのですが、当時は単純に腹が立って。『とっとと就職して、こんな家でてってやるよ」と、半ば勢いで就職してしまったので、あとから職場環境が自分には合っていないことに気づきました」。

社会人1年目、日々のストレスを吐き出すようにしてギターを手に取った。

「本当はバンドがやりたかったんですけど、メンバーが集まらなかったので、アコギ弾き語りになってみました」。

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2015年には初のオリジナル曲『星海』が完成。幾つかのライブハウスに足を運び、オープンマイクやブッキングライブに参加したが、思うような反応を得られなかった。

「自分では良い演奏ができたと手応えがあったんですが…。ある時、今までやって来たことが全部バカなことに思えて、ギターを目に入れるのも嫌になりました」。一年ほど活動したものの、モチベーションが下がり、ぱたりと活動を止めてしまった。

何もかもやる気を失っていたころ、憧れだったコーヒー専門店への転職を果たした。

「ハンドドリップの店で、僕が淹れたコーヒーを美味しいと言ってくれるお客さんがいて、評価してくれる仕事仲間がいて、楽しかったですよ」と彼は微笑む。ただ、順風満帆とはいかなかった。

「経営面で数字を上げなきゃいけないってことと、目の前のお客さんを大事にしたい、誠実な仕事をしたいという気持ちとのギャップが凄かったんです。先輩との意見の衝突もありました」。

結局、人間関係のもつれから、19年10月に退職を決意した。

独立し、自ら珈琲店を開業することも考えたというyamathan。だが「もっと大きなことがやりたい」という心の声、突き詰めれば「音楽がやりたい」という思いを無視できなくなっていた。

「そのころ、相変わらず弾き語りは封印していましたが、よく飲みに行く友達とコピーバンドを組んで遊んでいました。『もう一度、ちゃんと挑戦しよう』と思いました」。

コロナ禍を越え、1st EPをリリース。さらなる挑戦へ

退職の手続きを終え、海外への留学も視野に入れていた矢先に、思いもよらない事態が起こった。新型コロナウイルス感染症の拡大およびそれにともなう社会問題である。「貯金を切り崩して生活せざるを得なくなって…。色々と計画は狂いましたね」。

そんな状況下、自身初となるEPを作ろうと決意したのは、4月下旬だった。

「きっかけは、親との仲が険悪になってきたことです。コロナ禍で実家に顔も出せないなか『お前は仕事も辞めて何をやっているんだ』と言われて。小さくてもいいから、何か結果を見せなければ』と焦りました」。

その時点で、彼が作っていたオリジナル曲は『星海』と『リストレット』の2曲のみ。「どちらも約5年前に作った曲ですが、今回のリリースに当たって、歌詞もメロディも大幅に変えました」。さらに新曲の制作とレコーディングを並行して進め、20年5月23日にまずはシングルとして『星海』を、続けて6月17日に1st EP『living』をリリースした。

「『living』は、リリースから3日で再生回数の合計が1000回を超えたんです。とてもテンションが上がりました」と彼は振り返る。

「今でも、一曲も再生されない日はないんです。自分の音楽が誰かに届いているというのは嬉しいですね」。

現在はライブ配信サービス・PocochaやSpoonなどを利用し、定期的にラジオや弾き語りの配信を行っている。「『仕事終わりに聞くのにちょうどいい』と言ってくださる方がいて、やりがいがあります」。

今後も配信を中心とした活動に力を入れたいと語るyamathan。「オリジナル楽曲はもちろん、カバーの演奏にも力を入れたいです。ライバーをやるからには収益ラインを越えたいですね」。

将来の夢を訊くと「メジャーデビューして、プロのアーティストになりたいです」と語気を強めた。

「これまで、今現在もですが、家族には大きな迷惑かけてきました。しっかり稼げるところまで行って、恩返しをしたいです」。

音楽業界にも構造改革の波が訪れている昨今、メジャーデビューという道を通らずとも、音楽で生計を立てるアーティストは増えた。それでもyamathanは、メジャーというステージにこだわっている。

「僕自身が、そういうメジャーアーティストに支えられてきたので、今度は僕が、人を支えられるような存在になりたい。何より、どうしても、有名人になりたいんです」。

理由は、彼が辿ってきた人生そのものにある。

「30年ちょっと生きてきて、出逢って親しくなった人、お世話になった人がそれなりにいます。そのなかには、今でも連絡がとれる人、会おうと思えば会える人と、絶対に会えない人がいます。僕は、僕自身のピークに辿り着いたときの姿を、これまで知り合ってくれた全員に見せたい。『みんながいてくれたから、僕は今日ここにいられる』という感謝を伝えたいんです」。

多くの人から借りっぱなしで生きてきたからこそ、有名になって「自分はここにいる」と伝えたいのだと言う。

「たとえば楽器屋の店員さんといつ、どんな話をしたか、といったことも全部覚えているんですよ。でも、買ったギターの音が一番好きになったときには、薦めてくれた店員さんはもう異動されていたり…。彼がどこかで僕に気づいて、『yamathanにギターを売ったのは僕だ』と自慢に思ってくれたら嬉しいです。

もっと言ってしまえば、満員の武道館でライブをして、最後のアンコールのMCで『高校2年生のあの秋に、僕をバンドのボーカルに誘ってくれてありがとう』と、あの幼馴染に伝えたいんです」。

これまでのすべてへの恩返しとして、有名になりたいと彼は語る。

「自分は無駄に楽観的なんです。音楽なら今すぐできる。マジになればいけるんじゃないか、と本気で思っています」。

さらに遠い未来の夢として、「僕が企画した音楽フェスで、僕がコーヒーを淹れて、歌うみたいな。思いつくこと全部やれたらいいですね」。

彼の伝えたいメッセージが、いつかどこかに、誰かに届くことを願う。

text:Momiji

INFORMATION

毎月第4火曜日夜 「yamathanのOpen Mic」
[会場] 東中野ALT SPEAKER(東京都中野区東中野1-25-10)
[料金] 観覧者:¥1100+DRINK(税込)演奏者:¥1650+DRINK(税込)
[出演]「皆さま」とyamathan

2020.06.17発売 1st EP『Living』(6曲入/¥1,222)

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