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【R06:STORY】"ALL HAPPINESS"の理想を掲げる シンガーソングマスター・Miiya

中央区銀座にあるアコースティックライブハウス『Miiya Cafe(ミーヤカフェ)』。オーナー兼マスターのMiiyaは、自らもギター弾き語りシンガーソングライターとして活躍するアーティストだ。彼の音楽活動や、ライブハウスを開店するに至った経緯、『Happiness & Peace』というコンセプトに込められた想いなどを聞いた。

『Miiya』と『Miiya Cafe』の誕生

日蓮聖人の生誕地といわれる千葉県小湊出身のMiiya。三兄弟の末っ子として生まれた彼は、赤ちゃんのころから、本名の一部をとって『みいや』と呼ばれていたという。

「小学校から中高大、社会人になっても、ずっとこのあだ名でした。音楽活動を始めるときにアルファベット表記を考えて、イントネーションを変えたんですよ」と彼は語る。

「あだ名『みいや』のイントネーションは「ピース(Peace)」に同じ。ミュージシャン名の『Miiya』は「平和」のイントネーションと同じになります」。

ちなみに、彼の出生時間は0時38分。生まれながらに『Mii(3)ya(8)』だったのだ。

彼には0歳の時の記憶がある。「母が僕を抱いて、鯛の浦の浜辺を歩いていました。ふたりで見た海が、まるで日本画のように脳裏に焼き付いています。『美しい』という感情が残っていますね」。

1歳になったころ、母方の実家である東京都築地へ転居。下町情緒あふれる環境で育った。一人で近所を歩き回っては、あちこちの家でおやつを食べさせてもらったり、遊んでもらったりしたという。

「『東京の人は冷たい』なんて言われるけど、優しい人もいっぱいいますよ。みんなに可愛がってもらったので、人懐こさが身に着いたかもしれません」。

そんなMiiyaは、子どものころから『表現すること』に興味を持っていた。学芸会などの演劇では主役を務め、集会があれば皆の前で歌っていた。手塚治虫氏や松本零士氏の漫画・アニメ作品等に心惹かれ、オリジナル漫画を描いて学級新聞に掲載したり、自分でセル画を描いたりするほど熱中した。

「お芝居するとか、歌うとか、絵を描くとか、全般的に好きでしたね」。

特に『歌いたい』という想いが一番大きかった。同じく歌が好きだった母や、詩吟を嗜んでいた父、クラシックギターを学んでいた長兄や、歌の上手かった次兄の影響もあったという。

音楽活動を始めたのは中学生の終わりごろ。オフコースの楽曲に感銘を受けたことがきっかけだった。小田和正氏の美しい歌声に憧れて、友人と結成したオフコースバンドではボーカルを務めた。作詞やギター演奏にも取り組んだという。

高校では新たな音楽友達と出逢い、作曲に挑戦しはじめた。知り合いと映画を制作した際は、主演を務めるだけでなく、テーマソングを作詞・作曲・歌唱した。大学進学後も演劇サークルに所属し、芝居や歌、脚本の執筆などに没頭していたそうだ。

一方、大学の教育学科で学んだMiiyaは『教育』にも深く関心を抱いていた。小学校の教員免許を取得。教師になろうかと真剣に考えたが、表現の道、特に歌への想いを断ち切れなかった。

「学校の先生になってしまったら、音楽を続けるのは難しいだろうと思って。悩んだ結果、『塾の先生なら音楽と両立できるかもしれない』と考えたんですよ」。

大学卒業後は塾講師として働きながら、メジャーデビューを目指して弾き語りを続けた。「僕は、綺麗なメロディの歌が好きなんです。フォークソングやニューミュージック、ポップスを中心に聴きながら、メロディの美しい楽曲作りを心がけて演奏活動をしていました」。

自主制作したCD音源は、J-WAVE、Tokyo FM、bayfm、FMヨコハマ、NACK5などの音楽番組でオンエアされたことがある。

さらにモーリスフォークソングコンテスト東京大会で優勝し、全国大会出場を決めるなど活躍していた2000年の暮れ、転機が訪れた。

飲食店を経営しながら、女手1つで三人の男子を育ててきたMiiyaの母親が、体調を崩した。検査の結果、ガンを患っていることが発覚。余命2ヶ月の宣告を受けたのだ。

プロのクラシックギタリストとしてドイツに住んでいた長兄も、アメリカでビジネスマンをしていた次兄も、急遽帰国した。とはいえ、最も彼女のそばにいたのはMiiyaだった。

「母が『店を畳まなきゃ』と言う姿を見ていたら、可哀想になってしまって。『僕が継ぐよ』と言ったんです」。

Miiyaの決断に、母は大いに喜んだという。

塾講師の職を辞したMiiyaは、01年3月から母の店『めるへん』の経営者となった。場所は、泰明ビル別館の地下。現在のMiiya Cafeがある泰明ビル本館の隣、数年前に駐車場となってしまった一角だ。

「でもやっぱり、僕は母の代わりにはなれません。せっかくなら自分独自のことをしたいと思って、お店でライブ活動も始めました」。

かつての音楽仲間や演劇仲間に声をかけながら、出演者を募った。『グッド・タイム・ミュージック』などで知られる斉藤哲夫氏が出演し、オープニングアクトをMiiya自身で務めたこともある。

「もっと本格的なライブハウスを作りたい」。

そう考えるようになったMiiyaは、たまたま空いた隣の店舗まで敷地を拡張。壁をぶち抜いて、細長かった店を正方形にリフォームし、02年7月7日7時、銀座初のアコースティックライブハウス『Live&Bar Miiya Cafe』をオープンした。

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試行錯誤しながらの経営だったが、徐々に人が集まり人気店となっていった。その盛り上がりに応え、さらに店を大きくするべく移転を決意。現在の場所にリニューアルオープンしたのが、07年12月21日である。

『Happiness & Peace』の実現を目指して

Miiyaには忘れられない想い出がある。大学生のころ、尊敬する先輩と、屋上で語り合っていたある日のことだ。

どうすれば世の中がよくなるのか。子どもたちが幸せになれるのか。教育や社会の問題について話していると、空に虹が現れた。

「子どものころから『虹』が好きだったので、単純に嬉しかったんですよね」。Miiyaは、カメラを買いに購買部へ走った。屋上へ戻ると、先輩が「Miiyaくん、もうひとつ虹が架かったよ!」。

空を見上げると、先程から架かっていた大きな虹の下部に、三日月のような小さな虹が架かっていた。

息を飲んで見守るふたりの目の前で、大小の虹はそれぞれが手を伸ばすように広がり、やがて太陽を囲む大きな「虹の輪」になったのだ。

「おそらく『ハロ』という現象なんですが、とても感動的でした」とMiiyaは目を細める。

「その虹の輪を見ながら思ったんです。『この光景こそ理想の世界なんじゃないか』って。虹は、日本だと七色と言われていて、まったく違う色が並んでいるけれど、調和してとても綺麗ですよね。それぞれ自分の色を輝かせながらも、美しいハーモニーを生み出している。しかも、輪を描きながら、まあるく繋がっていて…。

この世界にも色んな人がいて、言葉や人種や思想が違ったりするけれど、それぞれの文化や個性が尊重された『幸せな平和な世界』を実現していきたいね!と、先輩と熱く語り合ったんです」。

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大学卒業後、先輩は沖縄で小学校の先生になった。多くの児童や保護者に信頼され、将来を嘱望されていたという。

「先輩には『いつか自分の学校を作りたい」という夢がありました。『そのときはMiiyaくんも協力してよ』なんて話もしてくれていました」。

だが残念ながら、それから約10年後、彼は病気で世を去ってしまった。

「あのとき先輩と誓ったことは、今も自分の胸に残っています。僕なりに形にしていきたくて、『ALL HAPPINESS』や『Happiness & Peace』をコンセプトに掲げています」。

世界を変えることは、容易ではない。だが、身近な人を大切にすることはできる。世界中の全ての人たちが、目の前の大切な人や、大切なもの、大切なことを、心から大切にしていけば。そして、そういう人が少しずつ増えていくことで、やがてこの星は“幸福と平和な世界”になっていく。

その想いを広げていけばいいんじゃないか、という考え方が、Miiyaが唱える『ALL HAPPINESS』だ。

「『平和』とは、小さな『幸せの輪』を広げていったその先に、生まれてくるものだと思うんです。だから僕は目の前の人と接するとき『笑顔と温かい言葉』を大切にしています。

一人ひとりが、ご縁のある目の前の人を、心から大切にしていけば、やがてこの星は“幸福と平和な世界”になっていくと信じています。そんな『ALL HAPPINESS』の理想を掲げ、発信していくライブハウスでありたいんです。」。

『笑顔』と『温かい言葉』を大切にしたいというMiiya。地球の周りを虹が囲んだMiiya Cafeのロゴは、かつて先輩と見た景色と約束を意匠化し、自らデザインしたものだ。

全ての生命が輝く『Rainbow Earth』こそ、彼の思い描く究極の理想である。

Miiya Cafeを『自分たちの夢を叶える場所』にしたい

「アーティストさんとお客様のおかげで、気づけば開店から17年が経ちました。ありがたいことです」。

Miiya Cafeの出演基準を訊ねると「強いて言えば『縁がある人』ですね。僕は、常々あったかい空気を作りたいと思っています。縁があって出逢って、出演してくれる人とのつながりを大切にしています」。

17年前に比べると、アコースティックライブハウスは随分増えた。反面、減ったともMiiyaは言う。

「特に、ここ5-6年は激動というか、ライブハウスシーンの変化も大きいですね。ライブハウスはもちろん、音響設備を整え、食事とともに演奏を楽しめるシステムを提供する飲食店が増えてきた一方で、残念ながら、多くの老舗ライブハウスが閉店してきたのは事実です」。

それでもMiiyaは、時代に合わせて経営努力を重ねている。

「僕がライブハウスをやっていること自体に、応援の気持ちがあるんです。『夢を叶えたい』 と思っているみなさんの応援をしたい。Miiya Cafeを『自分たちの夢を叶える場所』にしたいですね」。

現在のMiiyaの生活の中心は、店の経営だ。イベントのある日は、終演後の片づけなどを済ませて深夜に帰宅し、事務処理などを行う。ブッキングのために連絡を取ったり、悩んでいるアーティストの相談に乗ったり、メルマガやホームページの更新をしたり、すべきことは無数にある。

「お店にいる時間は『結果』であって、その前段階が色々とあるんです」。

昼夜逆転することも多く、自分のプライベートな時間はほとんどとれないという。

店を始める時、自身のアーティスト活動への未練はなかったのだろうか?

筆者が質問すると、「『継ごう』と思った瞬間は、真っ白でしたね。ただ母への想いがあって。それに『自分の活動をやめる』という気持ちはなかったんです」とMiiyaは言った。

「実際に自分が経営を始めてから、プロの方を呼んで演奏してもらったり、レーベルを作ったり、CDを作ったりしてきました。これまで様々な音楽活動も展開してきましたし、アーティスト・Miiyaとして、まだまだやりたいことがあります」。

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毎年、東日本大震災の被災地支援チャリティイベントを積極的に開催。これまでも、UNICEFなどの国連機関への寄付を目的としたチャリティイベントを複数開催。また、イジメ、 環境問題などを学生に訴えるべく開催した野外イベントも1000人以上の動員をするなど、積極的な音楽活動を展開してきた。

現在は、スタッフの育成や、店舗運営の組織作りにも尽力している。

「スタッフにはとても恵まれています。みんなとても優しい人たちで、僕の想いにも共鳴して働いてくれています。いつも『有難いことだなぁ…』と感謝する日々なんです」

Miiya Cafe開店のきっかけとなった母は、奇跡的にガンを克服し、今も健在だ。

「病院の先生が尽力してくださったことに、ただただ感謝の想いでいっぱいです。ですが、当初は主治医に『絶対治らない』と宣告され、治ったときは『奇跡が起きた!』とまで言われるほどの末期ガンであったことを思うと、母の生命力に改めて感動します。大切に育ててもらった子どもたちの祈りも届いたんじゃないかと思っています」。

将来の夢を聞くと、Miiyaは「映画を作りたいですね」と微笑んだ。

「チャップリンのように、自分で脚本を書いて、主演をし、音楽も担当して、監督もする。もちろん主題歌も歌います。そんな作品を作りたいです。大学生くらいのころからずっと、今も捨てていない夢の一つです」。

彼の夢が叶うことを願うとともに、『Happiness & Peace』が世界に広がっていくことを祈りたいと思った。

Text:Momiji

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