見出し画像

【R04:STORY】台湾系J-POPシンガーソングライター・洸美-hiromi-

日台ハーフのシンガーソングライター・洸美(ひろみ)。日台各地のライブハウスやイベントへ出演しているほか、ラジオやYouTube番組のパーソナリティを担当。20年2月公開予定映画の劇中歌も書き下ろすなど、幅広く活躍する彼女の来歴と目標に迫った。

プロの歌手を目指し、18歳で来日

日本人の父と台湾人の母の間に生まれた洸美。珍しい漢字を使った名前は、「中国語でも日本語でも読めるように」という母の想いから付けられた。

小学校から中学校までは台湾の日本人学校に通学。テレビや音楽など、日本の文化に囲まれて育った。特にアニメが大好きで、声優のCDを買ったこともある。

「当時の台湾には、空前の日本ブームが到来していました。CDショップでも、台湾の歌手のコーナーより日本の歌手のコーナーの方が広かったくらいです」。

洸美が中学3年生のころ、日本で一青窈(ひととよう)の『もらい泣き』がヒット。一世を風靡した。「私と同じ日台ハーフで、こんなに活躍する歌手がいるんだ、って大きな刺激を受けました」。歌手を目指す大きなきっかけになったという。

高校は台湾の現地の学校に通い、同級生が好んで聴く台湾POPにも触れた。しかし、自分でオリジナル曲を作ろうと試みると、日本語の歌詞ばかりが出てきた。そもそも考え方や夢など、日常の頭の中の言語は日本語だ。

「7:3で日本語の方が得意ですね。中国語を喋る必要があるときはモードを切り替えています」。ならば日本へ行こう、日本で歌いたいと思った。

2006年に来日。音楽学校に通い、ボーカルや作詞作曲などを学びながら、歌手になる方法を模索した。「怪しいスカウトに声をかけられたこともありましたが、学校の先生のおかげで怖い目に遭わずに済みました」と笑う。

手探りで音楽活動を開始し、四谷天窓.comfortを皮切りに様々なライブハウスへ出演。当時はオリジナル曲もあまり持っておらず、カバー曲を交えながらカラオケ音源で歌ったり、ピアノを弾き語ったりしていた。

「弾き語り時代は黒歴史です。クラシックピアノを8年やっていたので、弾けなくはないのですが、未だにコードが分からなくて」。

同時に、様々なオーディションやコンテストへ挑戦。10年には第4回ノクティミュージックコンテストで優勝を果たした。

「毎年応募していたので、審査員の方に『また君ですか』と言われました。だけど『回数を重ねても目の輝きが変わらないし、今年は違うなと思いました』と評価していただけて。諦めないって大事ですね」。

この優勝をきっかけに、横浜市青葉区のコミュニティFMラジオ・FMサルースにてレギュラー番組『洸美のふんわりぃら♪』をスタート。「生放送もある番組のパーソナリティを務めたことで、MC力が鍛えられました」。活動の幅が一気に広がった。

「音楽活動を始めた当初から『台湾系J-POPシンガーソングライター』というキャッチコピーを使ってきました。基本はJ-POPなんだけれど、歌詞に中国語や台湾語を使ったり、台湾の情景を織り交ぜたりしています」。

観客の心に少しでも台湾を残せるようにと重ねてきた努力が、近年ようやく実りつつある。

「台湾系のイベントの数自体が増えていることもありますが、一昨年より去年、去年より今年と、野外ライブやフェスへの出演数が倍増しています。『台湾系のイベントだったら洸美を呼ぼう』と考えてもらえるようになったのかな。続けてきてよかったです」。

今後も北海道や福岡、神戸など日本全国の台湾フェスへ出演が予定されている。「昔から、日本と台湾の架け橋になりたいと思って歌ってきました。嬉しいですね」。

日本全国から台湾まで、各地を飛び回る活躍

来日から5年ほど、一度も帰台しなかった洸美だが、17年ごろから台湾での活動も行うようになった。

台湾にも、日本と同じようにシンガーソングライターが路上やライブハウスで演奏する文化がある。ただ格差が激しく、毎回ワンマンライブを行えるほど人気のあるアーティストか、趣味でやっている人ばかり。日本ではお馴染みの『ブッキングライブ』はほとんどない。

学生時代の友人や親戚などを招き、何度かライブハウスで演奏した洸美だったが、「これでは広がりがないな」と思ってしまった。

画像2

転機となったのは18年、台湾新聞社主催の『日本台湾祭り』という野外イベントへ招かれたことだ。イベントでは多くのお客さんに歌を聴いてもらい、CDも届けることができた。

「台湾で歌うなら野外イベントがいいな、と思いました。19年はそのイベントが行われないと知ったので、『じゃあ自分で主催しよう』と」。

すぐに台湾のイベントコーディネーターへ協力を要請。19年7月6、7日と13、14日の4日間にわたり、台北地下街にて『J-POP SUMMER FESTIVAL~日本小清新創作演唱會~』を開催した。

「日本から仲良しのアーティストを呼んで、東京駅の地下街のような場所のステージを借りて歌いました。めっちゃ大変だったけど、すっごく楽しかったです」。

洸美いわく、台湾での日本ブランドには凄まじいものがあるという。「世界的に見ても、日本をこんなに高評価している国はないですよ。まだステージを見ていないのに『日本から来たの?じゃあCDを買うわ』と言って、本当に購入してくださるお客さんもいました」。

出演したミュージシャンも、訪台経験がある人や、台湾が好きな人ばかりだった。「『台湾で歌わない?』と声をかけたら、みんなすぐ快諾してくれました。ご縁にご縁が重なって開催できました」。

今後も年1回以上のペースで同様のイベントを続けていきたいと言う洸美。「日本のアーティストと台湾のお客さんが交流する機会になればいいですね。この日台関係が永遠に続けばいいと思います」。

洸美の活躍の場は、野外イベントだけではない。ライブハウスで自主企画やワンマンライブを開催したり、様々なメディアへ出演したりしている。

現在は北海道のFMはな『洸美のまったりぃら♪』(土曜13時)、沖縄のFMコザ『洸美のまるっとガジュマル!』(月曜20時)のパーソナリティを担当中だ。

「ラジオは本当に楽しいです。『日本の北端と南端でラジオ番組をやっている』っていうのも面白いですよね」。19年5月からは『台湾でアイヤー』というYouTube番組のナビゲーターにも就任している。

さらに、20年2月に日台で公開予定の映画『恋恋豆花(レンレンドウファ)』の劇中歌を担当。本人役で出演もしている。

画像2

「台湾の美味しい食べ物がたくさん出てきて、すっごくお腹が減る映画です。タイトルにもなっていますが、主人公が一番気に入るのが豆花。いわゆる豆乳プリンです。最近、日本でも人気が出てきて、新宿や浅草にお店ができているんですよ」。

「映画に楽曲を使っていただけるのは初めてです。映画を見る方は、普段ライブを見てくださる方とは客層も人数も全然違います。自分の活動に、また新しい展開が起きればいいなと願っています」。

今後の目標を訊くと「衰えることは絶対にしたくないです。長期的に言えば、おばあちゃんになっても好きな歌を歌っていたいですね」。そのためにも、より多くの人に自分の歌を届けていきたいという。

「野外ライブやフェスへの出演が増えたおかげで、色んな人に歌を聞いてもらえるようになりました。さらにファンを増やして、ライブハウスにも足を運んでもらえるようにがんばりたいです」。

10年後、いや50年後の洸美の活躍に期待したい。

text:momiji

関連記事




お読みいただき、ありがとうございます。皆さまからのご支援は、新たな「好き」探しに役立て、各地のアーティストさんへ還元してまいります!