【R26:STORY】サラリーマンピアニスト /ディミトリ・ワイル
東京都を中心に演奏活動をしているディミトリ・ワイル。「モテたくてピアノを弾き始めた」と言い切る彼は、プロのミュージシャンに混じって腕を磨き、現在はビジネスマンとしても働いている。「一定のクオリティで音楽を続けることと、社会人としてキャリアを積むことは、両立できる」と語る彼の生き方に迫った。
何のために、何を弾くのか
ドイツ生まれのディミトリ・ワイルは、3歳で来日し、東京都で育った。
「父はアメリカ人で、楽器関係の仕事をしていました。ピアノはもちろん、サックスやフルート、バイオリンなど、様々な楽器を演奏できます」。
彼の音楽の原体験は、父親が弾くピアノだった。
「我が家には、古めかしい民謡集がありました。ドイツを中心としたヨーロッパの民謡がたくさん載っていて、曲ごとに挿絵がついていたんです。僕は楽譜が読めなかったので、絵を見て『これ』と指さすと、父がピアノを弾いてくれました。その曲が、絵からイメージした通りだったり、違ったりして、面白かった思い出があります」。
一般家庭での絵本の読み聞かせのように、親子のコミュニケーションが、音楽を通じて行われた。
彼自身がピアノを弾くようになったのは、小学生になってからだ。
「8歳から、ピアノの先生につきました。でも、当時は、まったく好きじゃなかったんです。親に強制されて、仕方なく通っていただけでした」。
中学受験のために、習い事としてのピアノを辞めたときは、せいせいしたと言う。しかし中学生になると、新たな動機が、彼を音楽へと駆り立てた。
「モテたくなったんですよ。とにかく女子にモテたくて、仕方なくなりました」と、彼は笑う。
「どうすればいいか考えた結果、『ギターが弾ければモテるはずだ』と思って、必死に練習しました。中学3年生のときには、学年で1番か2番かくらいに上手くなりました」。
しかし、悲しくなるほど成果は得られなかったという。
「ギターが弾けてるのに何故モテないのか、問題解決しなければと焦ったとき、同じ学年で、モテ男を見つけたんです。頭が良くて、スポーツ万能で、ピアノがめっちゃ上手い。さらっとジャズを弾けちゃうような男でした。『なるほど。楽器が違うんだ』と、閃きました」。
ギターを横に置き、再びピアノを触り始めたワイルは、「何を弾くのか?」という問いに直面する。幼いころに習っていたクラシックは、あまり弾く気にならなかった。
「バッハとモーツァルトが、どうしても好きになれなくて。でもドビュッシーはよかったな、と思い出して、弾いてみたり」。
ポップスや現代音楽など、幅広いジャンルに手を出していった。
「当時好きだったビートルズの『While My Guitar Gently Weeps』を、よく弾いてましたね。ニコライ・カプースチンというロシアの作曲家の曲も、ジャズとクラシックを融合させていて、好きでした」。
試行錯誤をするうちに高校生になったワイルは、軽音楽部と料理部に所属した。入部動機は、やはり、モテだった。
「魚影が濃い部活に入ったらモテるかなって思ったんです。昔から今も、モテに対する執着が原動力で、様々な結果を生み出してきました。自分の浅ましさに感謝です」。
そんな青春のなかで、心を惹かれていったのが、即興演奏だ。
「中3のころにモテの参考にした男や、プロのジャズミュージシャンの映像を見るうちに、『即興演奏が一番カッコいいな』と思うようになりました。その日、その場にいるお客さんや、周りのミュージシャンと対話するように、音楽を作り上げていく躍動感とエンタメ性に惹かれたんです。彼らみたいになりたくて、ブルースやジャズにのめりこんでいきました」。
ワイルの父は、ブルースの発祥の地とも呼ばれるシカゴ出身だ。ワイル自身、マディ・ウォーターズやロバート・クレイなど、有名なプレイヤーの演奏をよく聞いていた。「おかげさまで、本場っぽいブルースを弾けるようになったのは、僕の強みの一つです」。
大きな転機が訪れたのは、高校を卒業する直前だった。
「うちの学年は軽音楽部の人数が多かったこともあり、どこからともなく『卒業ライブパーティをやろうじゃないか』という声が上がったんです」。
しかし、国公立大学の入学試験を終えた2月末ごろから、2週間後に約200名が演奏できる会場を探すのは大変だった。
「関東近郊のライブハウスやホールに、片っ端から電話をかけました。ほとんど門前払いをくらいましたが、一箇所だけ、『ちょっと待ってて』と言ってくれた店があったんです。『高校最後なんでしょ?月一のライブと、一生に一回のイベントは違うから』と、既に決まっていたスケジュールを調整してくださいました」。
そのライブハウスのマスターは、メジャーの第一線で活躍するアーティストのサポートやプロデュースを行ってきた、プロのミュージシャンだった。
「それから、マスターに僕の演奏を聴いてもらう機会があって、『大学でやりたいことが決まってないなら、うちに遊びに来なよ』と声をかけていただきました。彼が、僕の音楽の師匠です」。
大学生となったワイルは彼のライブハウスに通い、バーカウンターの仕事を手伝いながら、本格的に音楽を学びはじめた。
スタジオミュージシャンに憧れて
「18歳のころの自分は、ちょっとギターとピアノが上手いだけの男の子でした。師匠には、かなりスパルタで指導してもらいましたね。『この曲をアレンジしてこい』と楽譜を書かされたり、リハーサルの現場で『曲の邪魔すんな。お前もう弾かなくていい』って、楽器をバシンと叩かれたり」と、ワイルは振り返る。
セッションでの武者修行も、成長に繋がった。
「若手ミュージシャンが集まっているバーに飛び込んで、上手くセッションできなくて、しらーっとした目で見られるっていうのを、毎日のように繰り返していました」。
努力の甲斐あって、大学2年生ごろから、ピアニストとして仕事を得られるようになった。
「ボーカリストの伴奏をしたり、結婚式やホテルのラウンジで演奏したり、とあるバンドの音源をアレンジしたり。少しずつ、任せてもらえる仕事が増えていきました」。
師匠から教わったのは、音楽の知識や技術だけではなかった。
「プロのスタジオミュージシャンが、どういう風に仕事をするかってことを、実体験を交えて伝えてくれました」。
それはまさに、生きた音を扱う仕事だった。
「現場で楽譜を渡されて、求められたものを、ぱっと演奏する。ジャズもあれば、フォークソング、演歌、歌謡曲、ポップス、ゴスペル、ブルースなど、何にでも対応できなきゃいけない。その在り方は、すごくカッコいいなと感じました」。
いつしか「自分もスタジオミュージシャンになりたい」と考えるようになっていた。
とはいえ、学業をおろそかにする訳にもいかない。ライブハウスでアルバイトをしながら、音楽を学び、週末にはピアニストとして現場で演奏しつつ、平日は大学に通って講義を受ける。ハードな生活は、約6年間、大学院の修士課程を終えるまで続いた。
いよいよ卒業する時期が近づくと、進路の選択に悩んだ。
「学部や院で学んだことを生かして就職するなら、身を粉にして働かないといけない、と分かっていました。僕が就職するであろう業界に進んだ先輩たちの姿を見て、話を聞くだけで、『この人たちのワークライフバランスはどうなっているんだろう。趣味ってあるのかな』と、不安になりました」。
おそらく価値観の問題だ、と彼は語る。
「その業界では、仕事一筋に生きて、キャリアアップしていくことが正しいんです。もし僕がそこに入ったら、音楽をやっていることをバカにされそうだな、と思いました。それだけじゃなく、たとえば週末にライブが決まっていても、『お客さんの要望に応えるためには週末もサラリーマンとして働かなきゃ間に合わない』って事態が発生するかもしれない。だけど僕にとってはライブも仕事で、ギャラが発生する現場だとしたら、怖いですよね」。
普通に就職したら、ピアニストとして仕事を請け負うことは難しくなるだろう。趣味として続けることさえ、尋常でない努力が必要になる予感があった。
一方で、音楽の道を選ぶことにも、迷いがあった。
「今となっては笑い話ですが、とあるブルース・バーで演奏する仕事を貰って、一晩中ピアノを弾いて、ギャラが1500円だった日がありました。その夜、飲みに来たお客さんは3人で、それぞれビールを1杯と、スルメイカくらいしか頼まなかったんです」。
あまりの薄給に、「これはしんどいな」と思ってしまった。
「音楽の道を選んだ場合、僕が好きな音楽で得られる報酬は、一晩で1500円なのか、って。まあ、稼げる日もあるかもしれないけれど、それっぽっちな日もあるわけです」。
もちろん、音楽で稼ぐ方法も知っていた。
「まったく興味のないアイドルの、オタ芸を気持ちよく打てればいいような曲をアレンジしたら、どんなに安くても1曲1万円くらい貰えます。ピアノなんてあってもなくてもいいようなポップスのライブで、シンセサイザーを触っているだけで、2万円くらい貰ったこともあります。でもそれって、自分としては面白くない仕事なんです。音楽は音楽だけど、好きな音楽、やりたい音楽かと聞かれたら、そうではありません」。
結局のところ、自分の好きな音楽をするだけでは、生活は成り立たない可能性が高い。音楽の道を選んだとしても、好きではない音楽に携わるなど、複雑な気持ちを抱えながら生きなければならない。それどころか、好きでやりたかったはずの音楽を嫌いになってしまうリスクすらある。
「サラリーマンになって、音楽に恋い焦がれながらも収入面では充実する道を選ぶか。音楽は存分にできるけれど、ちゃんと音楽愛が続くかどうか分からない道を選ぶか。どっちに行っても引き返すことはできない。大きな分岐点に立っているな、と思いました」。
悩む彼に対して、師匠は「26歳になるまでに、どんな経験を積むかで、音楽家としての器が決まる。それまでに、色んなことを、色んなやつと、高いレベルでやれ」とアドバイスしてくれた。
「人生において重要な数年間をどう過ごすべきかと考えたとき、『仮に就職しても、自分の研鑽次第では、高いレベルで音楽を続けられる可能性はある』と思いました。逆に、ここで就職せず、26歳まで音楽だけをやったら、履歴書には大きな穴が開きます。そのあとで就職しようと思っても、高いレベルの仕事ができる確率は、低くなります」。
熟考ののち、覚悟と諦めの混じった気持ちで、就職することを選んだ。
「『俺はできる。仕事をしながら、音楽もそれなりのレベルでやってみせる』と、自分の限界に挑むような気持ちがありました。一方で『これまで一緒にやってきた音楽仲間たちとは、距離が出来てしまうんだろうな』という、諦めの気持ちもありました。毎日6時間ぐらい練習しているやつらと、これからは一日1時間さえ練習できるかどうか分からない僕が、同じレベルで音楽を続けられるわけないよな、と」。
予想外に充実した日々と、コロナ禍による停滞
葛藤しつつも、サラリーマンピアニストの道を選んだワイルは、大手の外資系コンサル企業に就職。最初の半年間は、仕事に追われる日々を過ごした。
「初めは『報連相』もなっていないし、社会人としての基礎を叩きこまれました。血涙を流しながら、がんばって仕事しましたね」。
だが、学生時代に考えていたよりも、音楽をする時間はあった。
「意外なほど週末は暇だったし、早く仕事が終わって帰れる夜もありました。ならばと、昔から通っているライブハウスに顔を出したり、セッションに行ったりしました」。
気づけば、毎月1,2本は、ピアニストとして活動できるようになっていた。
「学生時代のコミュニティを継続して、顔を合わせた人に『ライブの話があったら、ぜひやらせてください』と、下手に出て営業をかけまくりました」。
仕事の都合で海外へ赴任したときも、音楽から離れることはなかった。
「ニューヨークへ1年半ほど行ったときは、流石に、日本で音楽の仕事をするのは難しかったですね。代わりにセッションへ参加したり、向こうのジャズバーへ行ってみたりしました。まあ、海外だからレベルが高いということはなく、『上手いやつに限る』っていうのは、日本と同じでした」と笑う。
さらに、26歳で結婚する。
「本当は、もう少し独身貴族を謳歌するつもりだったんですが、『この人しかいない』という女性に出会ってしまいました。結婚したばかりで夜な夜な留守にするわけにもいかないので、家でまじめにピアノを弾くことも増えましたね」。
そうして月日を重ねるうちに、少しずつ、心に余裕が生まれたと語る。
「20代前半のころは、『一線級の人たちと音楽を続けたい』『自分もプロレベルだと言えるところにしがみつきたい』って気持ちが強かったんです。でも、ニューヨークに行ったり結婚したり、生活が変化するうちに、落ち着いてきたというか。『今、音楽ができる場を大事にしよう』という気持ちになりました」。
自分の実力をなるべく維持して、自分なりに面白い音楽ができればいい。
そんな風に意識が変わってきたころ、コロナ禍が世界を襲った。
「僕にとって『毎月1、2本ライブしたい』というKPIには、大きな意味がありました。人前で、お金をもらう立場で演奏するためには、見てくれる人に何らかの感動を与える必要があると考えているからです」と、彼は語る。
「ライブの予定を入れておけば、僕は勝手に焦って、練習して、実力を保つであろうと分かっていました。だから2020年の春以降、ライブの場が激減してしまったことは、もともと弱い心臓からペースメーカーが引き剥がされてしまったようなものでした」。
世間では、リアルな現場でのライブの代わりとして、配信ライブが普及した。しかしワイルは「まだバーチャルは、即興性の高いライブミュージックという文脈で、能動的に音楽をしたり、楽しんだりするにあたって、まだまだ課題の多い技術だと思います」と嘆く。
「配信ライブや動画では、観客に伝わる情報量は非常に少ないと思います。『画面の中で、次に何が起こるか』というコンテンツになるので、消費者は受動的になります。だからテロップや効果音があって、『ここが見どころですよ』と整理された分かりやすいコンテンツがウケると思うんです」。
リアルな現場でのライブとは観客も、演奏者も、奏でられる音楽も異なる。
「人間は社会的動物です。目の前に実物の人間がいれば、一挙手一投足に注意を払います。そいつが敵なのか、味方なのか、自ら積極的に情報を取りに行くんです。筋肉の動き、目くばせ、匂い、あらゆるものから想像する。誰かが目の前にいるときと、パソコンやスマホの画面を見ているときでは、対象に注意を払う度合いが全く違うんです」。
自分の想像が裏切られたり、その通りになったりすることで、コンテンツの消費に面白さが発生する。無意識に歓声を上げ、拍手をし、涙を流し、恋に落ちる。そうした観客の反応は、今度はアーティスト側の心を動かし、さらに演奏を変化させる。
ワイルが愛する音楽とは、まさに、そうした本能的なものだ。
「そもそも、モテたくて音楽を始めた男ですからね、僕は。バーチャルの世界では、まだ、僕が思う『モテる』音楽はできない。コロナが始まって2年以上経ちますが、今もベストなやり方は正直見つかっていません」。
自分だけにできることを探し続ける
「2020年以降、音楽へのアプローチは試行錯誤に尽きます。22年春ごろから、少しずつリアルな現場でのライブが戻ってきましたが、元通りとはいきませんね」。
時間はかかっても、いずれ、コロナ禍前の環境は戻ってくるだろうと考えている。
「明快で分かりやすいものしか生き残らない状態は、文化の発展という意味では極めて危険です。音楽に限らず、たとえば料理の世界で、一流のシェフ の創意と新規性に溢れる料理が食べられなったら悲しい。多くの人が同じような懸念を持つと思うので、文化を維持するための動きは強まると信じています」。
現在は、東中野ALT_SPEAKERで、毎月1回セッションを主催。今後を見据えて、交友関係を広げたいと考えている。
目標や夢を訊ねると、「迷子ですね」と笑った。
「バーチャルへの対応もそうだし、世代が変わると、声がかからなくなっていくということもあります。流れに負けないように、なるべく色んな音楽を聴いて、色んなピアノを弾けるように練習して、若い感覚で人と話して、自分を磨いていきたいです。その先にどういう姿があるのかは、よく分かっていません」。
ただ、ぼんやりとした憧れはある。
「いつか、自分のライブバーを持てたらいいですね。いいピアノを置いて、音楽好きが集まって、自分が弾きたいときは弾けるっていう空間があったらいいな」。
何よりも「総合的に面白い人間になりたい」と語る。
「自分がビジネスの世界でやってきたことが、音楽ではまったく役に立たないかといえば、それはおかしいなと最近は思うんです。
たとえば『世界経済を語れるピアニスト』って、面白くないですか?ライブでピアノを弾いて、ちょっと休んで、今一番儲かる投資商品の話をして、またピアノを弾くとか。色んなことを高いレベルでやれていれば、キャラの面白さや唯一性さえ達成できれば、必ず需要は生まれると思うんです」。
これからの世界は、人間同士のとらえ方が、ダイバーシティをはらんだものになっていくと感じている。
「だからこそ、10年前の僕と同じ悩みを抱えている人に、エールを送りたいですね」。
どういうことか、詳しく聞いてみた。
「この10年、ぬるくやってきたつもりはありません。『早く帰って音楽をやりたいから、適当に仕事を終わらせよう』と思ったことはないし、『仕事で疲れたから、週末のライブの練習は手抜きでいいや』なんてこともしませんでした。そうした積み重ねの結果、今、仕事も音楽も、生活はなんとか上手くまわっています」。
悪い見方をすれば、「どちらも中途半端だ」とも言える。どちらかを捨てていたら、もっとピアノが上手くなっていたかもしれないし、もっとビジネスで昇進が早かったかもしれない。
それでも「今、ここにいる僕が僕だ」と胸を張る。
さらに彼は「10年前に恐れたほど、道は分かれていませんでした」と付け加える。
「僕が就職することを選んだとき、『音楽の道を選んだやつらとの間には壁ができて、どんどん分厚くなって、触れ合えなくなるんだろうな』と思っていました。
でも、あのころ音楽を選んだ仲間の8割は、『やっぱり音楽で食っていくの難しかったわ』と、どんどん就職して、サラリーマンになっていきました。
残りの2割は、今やビッグネームのコーラスとして全国ツアーに帯同したり、ブルーノートで演奏したり、活躍してますけどね」。
音楽の世界は厳しいと呟きつつも、微笑む。
「10年早送りしてみると、たしかに一部のやつらと差は開いたけど、本当の上澄みとの差はそりゃ開くよね、って話で。あのころの仲間たちは、今も音楽好きな仲間たちで、ほとんど変わりません。だから、そこまで怖がる必要はないと思うんです」。
現代の日本では、高いレベルで音楽をすることと、社会人としてキャリアを積むことは、二項対立で論じられやすい。それはおかしいと、自らの人生をもって主張する。
「『音楽だけで食っていきたいけど、できない』とか『就職するから、音楽を捨てなきゃいけないのかな』って悩んでる人を、ちょくちょく見ます。そこを超えてきた僕としては、『全然両立できるよ』って言いたいし、これからも言える人間でありたい。総合力を磨き続けたいですね」。
国公立大学を卒業して修士課程に進んだのち、一流企業でエリートコースを歩みながら、週末にはライブをして、プロと遜色ないピアノを奏でる。ビジネスをきわめるでもなく、ピアノをきわめるでもなく、自分らしく生きていけるバランスをきわめる。
それこそが唯一無二のディミトリ・ワイルだと、より多くの人に評価されることを願うと同時に、彼のような生き方が当たり前になる時代の到来を信じたいと思った。
text:momiji
Information
2022.10.02(Sat) Open 10:00 Start 11:30
雑食!!音楽好きのためのセッション
[会場] 東中野ALT_SPEAKER(東京都中野区東中野1-25-101F)
[料金] 観覧者¥1,100(+1D) 観覧者¥1,650(+1D)
[配信] ¥1,100(購入はこちら)
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