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【R08:STORY】世界一自由な音楽家・千野哲太

サックス片手に全国を旅する音楽家、千野哲太(ちの・てった)。ただ「音楽で生きていく」のではなく、「本当に好きな音楽で生きていく」ことを志す彼が辿ってきた道のりと、思い描く理想に迫った。

(https://www.tunecore.co.jp/artist/TETTA-CHINO)

納得できないことはしたくない

神奈川県出身の千野は、好奇心旺盛な子どもだった。小学生のころは野球に熱中し、プロ野球選手を夢見たこともある。サックスを始めたのは中学生になってからだ。

「プロ野球を観に行くのが好きで、応援団のラッパが『カッコいいな』と思ったんです。トランペットを吹きたくて吹奏楽部に入りました。でも入部してみたら、サックスの先輩が可愛くて。心変わりしました」と笑う千野。

幅広いジャンルの楽曲を吹奏楽にアレンジした楽譜およびCDのシリーズ『ニュー・サウンズ・イン・ブラス』第37集に収録されている『アメイジング・グレイス』を聴き、須川展也氏のサックス演奏に憧れ、コピーしていたという。

千野の母親がピアノを嗜んでいたこともあり、幼いころからクラシック音楽に触れて育っていた。自身も小学5年生の時にピアノを習い始めると、アンジェラ・アキをきっかけに、ポップスの音楽も聴くようになっていた。

「そのうちAKB48の大島優子さんを好きになって、彼女がエレキベースやってたんで、自分も欲しいってなって。ベースを始めたら楽しくなっちゃって」と千野は振り返る。他にもUVERworldやRADWIMPSなどの楽曲や、ジャズ、フュージョンといったジャンルにハマっていった。

「『音楽っていいな』と思ったんです。当時はピアノのコンクールに出たりもしていたし、どの楽器かとか、何をするかは分からないけど、とにかく『音楽で食っていこう』と決めました」。

だが、千野が部活の場で想いを語ると、否定的な意見が寄せられた。

「『そんなんじゃ死ぬよ?』『きびしいよ?』みたいな。でも僕は逆に、『お前が音楽業界の何を知ってるの?』って思って。『こんなとこにはいられないな』ってなって、部活を辞めました」。

それから約半年間、彼は友人とバンドを組み、ギターやベースに熱中する。

高校受験が近づいてくると、千野はまたしても葛藤した。

「勉強は好きでした。でも『高校に入るために勉強をする』こと、それ自体に意味があるわけじゃない『受験勉強』を頑張ることに納得がいかなくて。今思えば、ただのわがままですね」。

そんなとき、神奈川県の公立高校に一校だけ、音楽科があると知った。しかし、受験するには楽器を選ぶ必要がある。「ジャズやフュージョンを聴いていて『やっぱりサックスはいいな』と思っていたので、戻ってきました」。

進路を決めた千野は、中学3年の冬から本格的にサックスを習い始めた。無事に受験を乗り切り、高校へ合格したのちはクラシック音楽を勉強。誰よりも上手くなりたいと思い、朝から晩まで練習した。

その努力は実を結び、13年には、第16回ジュニア・サックスコンクールにて優勝。同時期、オーディションを通過して受講した浜松国際管楽器アカデミーにて、憧れの須川氏とも対面を果たした。

さらに人の紹介から機会を得て、パリ国立高等音楽院のサックス科教授であるクロード・ドゥラングル氏のレッスンを受けたことが大きな転機となった。当時の衝撃を、彼はこう振り返る。

「今の日本のサックス界は、ライトな層にクラシックサックスを広めるための活動というか、演奏スタイルが主流になっています。周りのプレイヤーたちもそうですし、僕はそうした音楽に馴染んでいました。

ドゥラングル先生に習った時、『正統派のクラシックの演奏』を初めて生で聴いて、それまで自分が良しとしてきたものは全て間違っていたんじゃないかと感じたくらいで。自分もやっぱりクラシックをやるべきなんじゃないか、これを勉強したい、と思いました」。

千野はクラシックを極めるために、何よりも『音楽で食べて行けるようになる』ために、東京藝術大学へ入学した。

プロへの失望と挫折と、捨てきれなかった情熱と

藝大の学生となった千野には、コンクールでの受賞歴なども相まって、様々な仕事が舞い込むようになった。

「デパートで演奏するとか、地方の学校へサックスを教えに行くとか。一年生の時点で、『食べていく分にはこれで十分いけるな』と思えるくらいのお仕事をさせていただきました」。

しかし、そうした『仕事』の現実は、かえって千野を失望させた。

「その時の僕のお客さんって、聴衆じゃなくて、クライアントなんですよ。彼らに好かれるために音楽やるみたいな。これは違うなって思って。僕はUVERworldとかRADWIMPSとかに憧れて、聴衆に何かを届けるために『音楽で生きて行こう』と志したんで」。

自分の周囲を見渡しても、同様の『仕事』をしている人間ばかりだった。

「クライアント相手に仕事して、それだけだと食っていけるかどうかの瀬戸際だからバイトして、さらに『レッスン』っていう大義名分を掲げて生徒を金蔓にしてる人が沢山いて。そんな『音楽家』をいつまでもやるんだって、『音楽業界で生きていく』ってそういうことなんだと思って、嫌になりましたね」。

千野は演奏活動を辞めた。大学も休みがちになり、代わりにアルバイトへ打ち込んだ。約一年間、ガソリンスタンドで洗車や整備の仕事に精を出した日々は、車が好きな彼にとって楽しいものだったという。

しかし、そんな千野をサックスの道に引き戻した人物がいる。サックス界の2大国際コンクールのひとつ、ジャン=マリー・ロンデックス国際サックスコンクールの第4回優勝者である松下洋(まつした・よう)だ。

「家が近くて、最寄り駅が同じということもあって、ずっとよくしてくれている先輩です。僕が高校でバリバリやってたことも、大学入って萎えたことも知ってて、気にかけてくださって。彼がやっている『TOKYO ROCK'N SAX』の活動に誘ってもらったんです」。

TOKYO ROCK'N SAX(東京ロックンサックス)は、15年6月に結成された、世界初の『サックスとドラムのみによるロックバンド』だ。

17年12月にZepp 東京でワンマンライブを開催し、18年7月には、クロアチアで開催された第18回ワールド・サックス・コングレスのクロージングコンサートに出演。19年も東京や名古屋をはじめとした日本各地で演奏するなど、精力的に活動している。

「松下さんは、『好きな音楽で食っていく為にはどうしたらいいか』を毎日考えながら音楽やってます。世界一になっても自分の力で活動している姿に感銘を受け、『僕も松下さんのようになりたい』と思いました」。

TOKYO ROCK'N SAXでの活動を通じて、音楽への情熱を取り戻していった千野。ちょうど同じころ、別件で演奏旅行へ誘われた。

「サックスの4人でコンサートやるから、大阪まで行かないか、って。行きます!って即答しました。その企画の収支はトントンだったんですけど、一円もお金を払わずに大阪行って帰ってこれたことに、また感動して」。

もともと旅行が好きで、車が好きな千野は、「こんな風に音楽をやって人生を送れたら最高だ」と思ったという。

早速、高校時代の友人を誘ってアンサンブルを結成すると、17年8月に演奏ツアーを行う計画を立てた。演奏場所は、4人の地元である横浜市と、山形県酒田市の二ヶ所を選んだ。

「酒田市には祖母の家があるので、帰省のために何度か足を運んでいて、素晴らしいホールがあることを知っていました。本当は大ホールを予約したかったんですが、最初からそれは無理なんで、小ホールを押さえました」。

とはいえ、酒田市民会館の『希望ホール』小ホールのキャパシティは100人。無名の音楽家、しかも学生の集団が、地方でそれだけ集客するのは絶望的である。

だが、それゆえに彼らは挑戦した。TwitterやFacebookでPRに努めるとともに、酒田市内にある小学校、中学校、高校へ手紙を送った。「校内で演奏させてもらえませんか」と依頼する内容だった。

「全部で40校くらいかな。そうしたら一校だけ返事が返ってきたんです。『20分くらいなら演奏していいよ』って」。

千野たちはその学校へ赴き、吹奏楽部の生徒や教師の前で演奏をした。反響は大きく、徐々に口コミが広まって、夜にはチケットを求める電話が鳴りやまない状況になった。

そして演奏会の当日、会場には、キャパシティを超える120人が来場した。

「嬉しかったです。最初の自主企画だったんですけど、ハマりますよね」。

自分の行くべき道を確信した千野は、大学4年生になるころにアルバイトを辞めた。演奏活動だけで生きて行こう、という決意の表れだった。

好きなことで、生きていく。

再び音楽の道を志した千野は、自主企画の演奏会やCD制作を精力的に行った。一年ほど経つと、生活を賄える程度には収入の目途が立ったという。

「でも、一生このスタイルでやってくのはキツいし、何万人も集めるようなコンサートもしてみたいし。活動のステージを変える必要があると思いました」。

そこで、18年5月に学生団体JAMCAを発足。『音大生が夢を持てる環境を作ること』を目標に掲げ、イベント企画から営業まで、自ら考えて動いた。しかし現在、JAMCAは事実上休止状態にある。

「JAMCAの活動は絶対に意義のあることだし、開催したイベントは多くの方に受け入れていただきました。ただ、興行という面では上手くいかない部分があって。悔しいですね。なんとかしてまたやりたい」と千野は語る。

「そのためには、僕にプレイヤーとしての実績が足りないと思いました。マイケル・ジャクソンの主催イベントだったら、みんな行くじゃないですか?」。

まずは自らがプレイヤーとして高みを目指すことを決めた彼は、19年夏に全国サマーツアー『令和元年、夏の冒険』を決行。47都道府県を巡り、各地でコンサートや路上演奏を行った。

「演奏はもちろん、地方の実情が見たかったんです。どこにどういうホールがあって、どのくらい集客ができているのか、とか」。

「日本に生まれたなら、47都道府県どこに住んでても、平等に生演奏を楽しむことのできる権利があるはずです。それがない状況ってのは、ミュージシャンが悪いんですよ。行かないから」と、彼は語気を強める。

「生のライブの価値を伝えていくのはミュージシャンの責任だと思います。でも地方に行くと、まずそれを楽しめる環境がない。ここを変えていきたいですね」。

20年3月に東京藝術大学を卒業する千野は、2月23日と24日に、卒業記念コンサートを予定している。

「僕は普通の藝大生よりも一年多く経験してるんですけど、それも踏まえて1日目は、感謝の気持ちと、今後への決意を込めたプログラムにしました。2日目は好きなことをやらせていただきます。これからの自分の活動に繋がる公演にしたいという想いを込めて『覚醒』というタイトルをつけました」。

千野には既に、卒業後の活動のビジョンがある。名付けて『全国音楽聖闘士(セイント)プロジェクト』だ。

「地方の活性化と、多様化する音楽活動の発展と、音楽教育の平等化。その三本柱を軸に活動していきます。

僕はまだ一線のプレイヤーではないですけど、藝大生として、世界トップレベルの演奏家と繋がってきました。彼らを地方に送り込みたいです。もちろん僕自身が行くのも好きだけど、パイプ役になるのも好きなんですよ」。

既に千野は、2周目の日本一周旅行を計画中だ。今度は半年から1年間くらいかけて、じっくりと各地を巡りたいと言う。

「音楽って、何かと一緒になることで、すごく発信力をもつじゃないですか。たとえば徳島とか、今夏に初めて行ってみたら、めっちゃご飯が美味しかったり、景色が綺麗だったり。行ってみないとわからないことを、音楽家として発信していきたいです」。

その手段として、彼はSNSをはじめとしたインターネットを活用している。

「僕、17Liveっていうライブ配信を毎日バリバリにやってるんです。おすすめLiverに選ばれるくらいガチでやってて。ネットとリアルを上手く繋げていきたいですね」。

あまりにもアクティブな千野に、50年後の自身の将来像を聞くと、「もう何もしていたくないなぁ」という答えが返ってきた。どれだけ壮大な夢を思い描いているのか、と期待していた編者は、正直拍子抜けしたが、続く言葉を聞いて納得した。

「僕はもうほんとにだるくて、生まれてきてからずっとだるくて、なるべく早く何もしないで生活したいんです。例えば大食い系のタレントとか、食べてるだけでコンテンツになってるじゃないですか。それはそれとしての苦労もあると思いますけど、生活のルーティン晒すと金入ってくるのも羨ましすぎて。はやくああなりたいので、今、がんばります」。

千野哲太が『千野哲太』として存在することが何よりも価値を持つ日が、いつか必ず来るだろうと思った。

text:Tsubasa Suzuki,Momiji edit:Momiji

INFORMATION

2020.02.23(Sun) open 18:45 / start 19:15
千野哲太記念サクソフォーンリサイタル2Days
「卒業」

[会場] 旭区民文化センターサンハート音楽ホール
[料金] 一般¥3,000/学生¥1,000(当日¥500増)
[プログラム]
 Desenclos/Prelude,Cadence et Final
 吉松隆/Fuzzy Bird Sonata
 Paganini/Violin Concerto no.1 D dur

2020.02.24(Mon) open 18:45 / start 19:15
千野哲太記念サクソフォーンリサイタル2Days
「覚醒」

[会場] 旭区民文化センターサンハート音楽ホール
[料金] 一般¥3,000/学生¥1,000(当日¥500増)

(https://www.tunecore.co.jp/artist/TETTA-CHINO)

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